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玻璃の橋板


〜五〜


 リオドールという国は、辺境の小国であったものを、現国王が一代でここまで大きくしたのである。武力を頼みに、随分と非情な事もしたという。事実、この現リオドール国王は、人の心など顧みない男であった。
 だが、表立って異を唱える者はいない。そんなことをすれば即刻、その者の首は飛ぶであろう。否、首が飛ぶのなら、まだ良いかも知れない。ただ一片の矜持(きょうじ)すら保つことを許されず、人として扱ってもらえるのかどうかさえ怪しいのである。
 国王が信じるのは、自分一人のみ。
 事情を知る臣下の者達は、国の行く末に一抹の不安を抱きながらも、ただ黙って仕えるしかなかった。


「閨の儀式は滞りなく済んだようだな」
 傍らに控える宰相に向かって隙のない視線を送りながら、リオドール国王は言った。
「はい、そのようでございます」
 宰相はかしこまって頭を下げる。
「アレは息災か」
 国王が訊ねた。
 アレというのは勿論、レミアとしてカーネリア国に送り込んだ、ラウナ皇子のことである。言葉だけを捉えれば、大変な役目を負って敵国に入った息子を案じているようにも聞こえる。だが国王の真意は、そんなところには無かった。
「ラウナ様を迎えてより、カーネリア国はますます護りを固くしております。こちらの動きを警戒してのことかと存じますが……ラウナ様は後宮にお入りになったきり、何の噂も届かないところを見れば、無事にお過ごしなのでしょう」
「ふ……。無事に、か。まあよい」
 宰相の言葉に、国王は何かを思い出すかのように眼を瞑った。
「秘密が露見したなら、それまで。アレにはそう申し渡してある。あれで(さか)しいところもあるから、そう易々と秘密を握られることもあるまい。どこまで持ち堪えることができるのか、見物(みもの)だな」
 国王の口元が、嘲笑の形に歪んだ。
「見物だなどと……秘密が露見すれば、リオドールにとって不利になりましょう。ここは何としても、ラウナ様には持ち堪えて頂かないと」
「案ずるな。ラウナがしくじったとて、次の手は打ってある。皇子であると判ってしまっても、それはそれで使い道はあるのだ」
 ほの暗い影が、国王の瞳に宿る。それを間近で見る宰相は、腹の奥底から冷え冷えとしたものが這い登ってくるのを感じていた。


 風が、さやさやと渡って行く。
 部屋の中を、芳しい花の薫りが満たした。
「それは一体、どういう事なのですか?」
 片膝をついたまま、シエナを見上げる瞳。
 その漆黒の瞳の中に映る、己の姿を見つめ返しながら、シエナは目を細めた。
「どうもこうも無い。ただ、それだけだ」
 腰掛けた椅子の背もたれに身体を預け、大儀そうな所作で足を組む。
 婚儀を終えてより、ひと月。お互いの対面を保つため、毎晩のようにレミアを閨に渡らせている。閨の身代わりを務めていないアーベルには、それが茶番なのだと見透かされてはいるのだが。
 寝台の隣に添う皇女の気配に敏感になり、あまりよく眠れていないせいか、いつもは身軽な筈の身体が重い。
 浮かせた方の(かかと)が外れ、短靴がカラリと音をたてて落ちた。
 アーベルはそれを見留め、辺りを見回す。内密の話を、というので、女官は全て下がらせてあった。今この部屋にいるのは、シエナとアーベルの二人だけである。
「これは少し、大きいようですね。ルチエラに言ってもう少し小さい物を用意させましょう」
 上質の革をなめして作られたそれを拾い上げ、「失礼を」と言ってシエナの前に進み出る。靴の中に丁寧に足を入れさせ、アーベルは再び後に下がった。
「幼い頃は、いつもこうして私の世話を焼いてくれたのにね」
 まだ足に残る、大きな手の温もりの余韻を感じながら、シエナは独り言のように呟いた。
「あの頃は、思慮に欠けておりましたゆえ」
 一層かしこまって、アーベルは頭を垂れる。
 そんな様子を背もたれに身体を預けたまま眺め、シエナは一旦寂し気な様子で眼を伏せると、壁の向こうを見透かすように眼を転じた。
「ところで……」
 アーベルが、その瞳をまた、シエナに向ける。
「先ほどの事……わたしにはまだ納得がいきません」
 眼差しが、鋭いものになる。何かを訝っているような、そんな瞳。
 近衛(このえ)の長として、そしてシエナの『影』として仕える彼にとってみれば、その懸念ももっともな物だった。
「今宵もおまえの役目は無い、と言ったまで。何がおかしい?」
 シエナは彼の視線を受け止めることなく、遠くを眺めるような瞳で壁を見つめたままである。傍らの卓に重そうに肘を乗せ、頬杖をついた。
「過日は皇女のお体の具合が優れない様子でしたので、無理もないことと納得致しました。ですが……ひと月も経った今宵も、というのは」
「今宵だけではない。これから先も、役目は無しだ」
 アーベルの言葉が終わらぬ内に、シエナは言い募った。
 一瞬、アーベルが言葉を失う。
「……なんと、おっしゃいました?」
 ややあって、アーベルの唇がゆっくりと一語一語を紡ぐ。その様子があまりにも芝居がかって聞こえたので、シエナは思わず視線を戻した。
「何故なのです。一国の皇女が輿入れをしたからには、たとえお飾りであっても、一度は閨の儀式をしてこそ正妃として認められるというもの。それをしないというのは……」
 探るような瞳で、シエナを見つめる。寄越されたきつい視線を、シエナはその黒曜石の瞳で受け止めた。その場に釘付けにされてしまいそうな心を、無理やり引き剥がす。小さく、息をついた。
「それこそ、好都合ではないか。こちらにも、皇女と肌を合わせられない事情がある。あちらからそう言って来たのなら、尚のこと都合が良いだろう」
 頬杖を外し、シエナは背を伸ばす。アーベルの視線に負けぬよう、胸を張った。顎先を上げ、眼を細める。
「シエナ様は、それで良いのだと……?」
 アーベルは、剣呑な声色でシエナに問うた。何事にも落ち着き払って対処する彼にしては珍しく、感情をあらわにした様子でシエナに食い下がる。
「そんなにあの皇女を抱きたいのか」
 眉をひそめ、苛立たしげにシエナは言い放った。
「何を……?」
 わけが判らないという様子で、アーベルが聞き返す。二人の間に、花の薫りの風が渡って行った。


 シエナの指が、す、と口元に運ばれる。軽く曲げた指先を、唇に押し付ける。強く押されて、花弁のような唇が白く色を失った。
「美しい皇女だった。アーベルも見ただろう? だが閨で見る皇女は、その何倍も美しかった。そんな皇女だから、私の『影』としてでも抱きたいのだろう」
 思い出せば、重ねられた唇が今も熱い。相手は皇女であるのに、その視線に射止められ、指一本動かせなかった自分。
 赤い唇と、はしばみ色の瞳。
 唇を割られ、無理やりに飲まされた薬の味と、レミア皇女の纏う異国の薫りが、官能を伴って蘇る。
『ご厚情、ありがとうございます』
 そう言って、妖艶に微笑み掛けたあの花のような(かんばせ)を思い出し、シエナは自分の中にまた新たな熱が生まれるのを感じた。
「違います。決してそんな」
 感情を抑えた声で、アーベルは言った。黒髪が花の風に弄ばれ、頬に乱れかかった。
「何が違う。この私でさえ、翻弄されたのだ。女の私でさえ! 事を成すのに、好いた女でなくても良い、とおまえは言った。それが美しい女なら、しめたもの。そう思ったんだろう?」
 自分の中の熱さを意識せぬよう、シエナはなおも言い募った。次第に言葉の端々に棘が混じる。何に対して感情を昂ぶらせているのか。
 ただ眼の前で静かに否定するアーベルの、その心が見えなくて、シエナは苛立った。
「情け無い……」
 アーベルの静かな声がシエナの耳朶を打つ。
「何を?」
「情け無い、と申し上げました」
 ふと眼をやれば、ただ静かに自分を見つめ返す彼がいる。
「……そうだな」
 彼が自分のことを情け無いと言ったのではないことぐらい、判っている。だがシエナはそれを我が身の情け無さに重ねた。
「情け無い。そうだ、情け無い。私は何故、こんな格好をして、ここにいる? 何故、皇子の形をして、正妃まで迎えなければならなかった? 全て、おまえの父、宰相のせいではないか! 私は女だ。心の中も身体も、こんなにも、女だ。なのに、何故……」
 ガタリと音をたて、シエナは椅子から立ち上がった。その頬に、熱い雫が伝う。
 この入れ替わりの策を提言した宰相の前では意地でも感情を抑えているシエナだった。だがその息子であるアーベルの前では、抑え切れずにあらわになってしまう。
 アーベルは、興奮したシエナを抱き寄せた。シエナも並みの男がする修練は、およそ一通り積んでいる。砂糖菓子をつまんで笑いさざめいているだけの皇女とは違って、力もあった。
 だが、そんな力も、共に同じ修練を積んだアーベルの前では、女のそれでしか無かった。腕の中で抗っていた身体は、次第に抵抗をやめ、大人しくなった。
「出すぎた真似を致しました。お許し下さい」
 アーベルは腕の縛めを解き、閉じ込められていた身体を開放しようとする。不意にその背に、シエナの腕が回された。
「……シエナ様?」
「どうして……」
 腕は一層強く絡み付き、白い指先が彼の胴衣の布地に食い込んだ。
「どうして昔のように、私が泣き止むまで抱き締めていてくれない? どうしてすぐ、離れて行こうとする? 私が皇子として、次代の王として立太子の儀を控えているからなのか? 女であるのに、正妃を迎えたからなのか? 何故昔のように、兄妹同様に接してくれないのだ?」
 女であるのに皇子である事を強いられ、何一つ信じられなくなってしまった自分。その心を溶かしたのは、女官ルチエラの優しさと、歳の近いアーベルの包容力だった。
 母のように、また姉のように接してくれるルチエラと、皆を欺き続けなければならないこの身の辛さを判ってくれたアーベルがいたからこそ、自分は今までやって来られたのだ。
 自分の『影』として仕える彼に、そうありたいと願う自分の姿を重ねた。いつしかその想いは、淡い憧れとなってシエナの心に根付いていた。
 なのに、そのアーベルが、このところよそよそしい仕草で自分を遠ざける。
 たとえ兄妹のようでもよい、共に長くいたい――そんな願いに気付かぬふりをする。
 遠ざけられるなら、近づかぬようにしよう――そう自分を戒めようとした。だが、彼が『影』として自分に仕える限り、近づかぬわけにはいかなかった。
 こんな境遇の者の相手となるのには、もううんざりしているのだろうか。
 その心の全てで理解し、受け留めてくれる者がいなければ、重荷を背負った自分の居場所はなくなってしまう。
 次代の王である自分の居場所は有るが、シエナ自身としての自分の居場所は無くなってしまう。
 アーベルが『影』としてでもレミア皇女との閨を望んでいるのは、レミアに心奪われたからではないのか。
 レミアに想いを寄せ、自分のことなどどうでも良くなってしまったのではないか。
 その心の中で、自分の占める度合いが削られてしまったのではないかと、シエナは怖れた。
「シエナ様」
 アーベルの手が、シエナの肩に置かれた。腕に力を込め、(すが)り付く身体を無理やりに引き剥がす。
 シエナの指が、頼りなげに宙をさまよった。
「シエナ様が女であるのと同じように……わたしも男であると、気付いてしまったからなのですよ」
 そう告げたアーベルの頬は、無理やり作った笑みに歪んでいた。


 ――距離を置こうと思った。
 ――距離を置けば、いつか忘れられる日が来ると思った。
 ――自分は臣下として仕え、かの人は王として君臨する。
 ――父を恨んだ。
 ――かの人に女であることを捨てさせた、父を恨んだ。
 ――皇子である筈のかの人と、男である自分が結ばれるわけにはいかない。
 ――ならば……。
 ――国を護るため、自分の心に気付かぬふりをした。
 ――こんなにも、望んでいるのに。
 ――こんなにも……恋しいと想っているのに。


 アーベルは、シエナの部屋を辞して帰る途中、回廊の中程で足を止めた。
 縋り付かれた背が、熱い。
 間近で聞いた吐息が、切なく胸を焦がす。
 どれだけ皇子らしく振舞おうと、長く一緒にいる自分の眼から見れば、シエナは紛れも無く女性だった。
 天窓を見上げれば、透かして彫られた天の馬が、今まさに空を駆け出さんとしている様子が眼に映った。
 心は天馬のように、自由である筈なのに。
 王族に生まれたばかりに、シエナはたくさんの枷をはめられて、もがいている。
 昔から王室とは、こういうものだったのか。天窓に彫り込まれた天の馬に乗って、古代の王族も自由になりたいと望んでいたのか。
 シエナの重荷を、一緒に受け止めてやりたい。だが、シエナを女性として見ている自分自身に気付くと、少しでも一緒にいる時間を減らさねば、と思ってしまう。
 これ以上、シエナを恋しいと想う前に。
 激情に駆られ、取り返しのつかない事をしでかしてしまう前に。
 無邪気な子供の頃は、『影』として仕えることが、嬉しかった。シエナと長く一緒にいられる役目を仰せつかり、ただ嬉しかった。だが今は、それも苦しい。
 幼い頃を振り返り、思慮に欠けていたと一蹴することで、自分の心に鉄の枷を課した。
 想いを悟られぬよう、感情を顕にすることも無くなった。
 第二皇子の出自は、未だ明らかにならない。それがいつ判るのかも、定かでは無い。
 シエナの秘密を知る者が少ないこともあって、なかなか表立って探りを入れるわけにはいかなかった。
 晴れて女王として披露目できるまで、シエナを女性として見る事は決してあってはならない。それは、いつ終わるとも知れない、茨の道であった。
『情け無い……』
 そんなにレミア皇女を抱きたいのかと問われ、情けなく思った。シエナの口から、そのような言葉は聞きたくなかった。
 役目だから、訊ねたのだ。国を思うからこそ、訝ったのだ。
 それなのに。
 自分が、抱きたいと思うのは……。
 唯一、この腕の中に閉じ込めてしまいたいと思うのは……。
 空駆ける天の馬から、眼を逸らす。溢れそうな想いを再び封じ込め、アーベルは重い足を引きずって近衛の詰め所に向かった。


 夜空に月が出ていた。
 中空に引き絞った弓のようにかかる月は、冴え冴えと明るかった。
『チャプン』
 誰もいない筈の宮の庭に、水音が響く。
 ここは何代か昔、近隣諸国の皇子・皇女達を半ば人質のようにして留めるための『禁断の宮』と呼ばれる場所であった。
 時は移ろい、カーネリアが以前のような力を失って久しい。
 今ではそのような儀式は、行われていなかった。以来、ずっと使われずにいる宮である。
 手入れの者が入る以外、人の気配はない。夜ともなれば、なおのことである。
『チャプ……』
 茂みに囲まれるようにして小さな噴水があった。
 白い石造りの彫像から水が噴き出し、まわりの水面に小さな波紋を広げていく。月の光を受けてきらきらと輝く水粒は、美しく磨かれた玻璃の珠のようであった。
 それを見下ろす人影。真っ直ぐな黒髪を頭上高く束ね、水粒の行方を眼で追っている。
 シエナだった。
 シエナは噴水の縁に腰掛け、足先を浸している。ひんやりとした水の感触が心地良い。
 辺りに人の気配が無いことを確かめ、脚衣を脱ぐ。長めの胴衣の下からのぞく足は、すんなりと伸びて、女性らしいなめらかな曲線を描いていた。
 束ねていた髪の飾紐を解く。はらりと零れた髪は、その背を豊かに覆った。
 胸に巻き付けていた窮屈な布も外す。今のシエナは、どこから見ても、皇子には見えなかった。眼差しさえ、優美である。零れる水粒を追う指先も、たおやかに風にそよいでいるようだ。
 シエナは大きく息を吸い込み、深く吐き出した。
 昼の間、どうしても皇子であることが辛くなると、シエナは夜を待ってここに来た。
 最初にここを見つけたのは、偶然だった。塀の破れを見つけ、悪戯心で忍び込んだのだ。広い城内の中に、こんな場所があることをシエナは知らなかった。
 『拝謁の儀』も行われなくなった今、ここに用のある者はいない。他にもたくさんの宮があるので、さしてここを他に使い回す必要もなかった。
 誰も来ないことが判り、ここはシエナの隠れ場所となった。
 昼中は誰かに見られないとも限らない。日が沈み、夜の闇が訪れてから、シエナはこっそり自分の宮を抜け出して、ここに来るのだった。
『シエナ様が女であるのと同じように……わたしも男であると、気付いてしまったからなのですよ』
 アーベルの言葉が胸に蘇る。
 何を言いたかったのか……おぼろにはわかっても、はっきりと認めることはシエナには難しかった。
 自分に向けられた感情が、兄妹以上のものであると気付くには、シエナはあまりにも女であることを殺し過ぎていた。女として見られることのないよう、いつもそのことばかりに心を砕いていたのだ。よもや他の者の眼に自分が女として映っていようとは、考えもしなかったのである。
『ザ……』
 噴水の噴出し口から零れる水の珠を、両手で受け止める。胴衣の胸が濡れて、その下の肌が透けた。
 喉を反らせて、月を仰ぎ見る。濡れた前髪から滴る水滴が、シエナの頬を流れた。


「アイラ、少し待っていて」
 レミアは熱い息を吐くばかりの女官の額を、水に濡らした手巾で拭ってやった。
 長旅と、それに続く暮らしの疲れが出たのだろう。女官アイラがひどい熱を出した。リオドールから持参した薬を飲ませてみたが、一向に熱が下がる様子はない。思い余って、国王付きの薬師に相談した。
 後宮付きの女官や侍官の中にも、身体の具合が思わしくない者が何名かいる。流行り病かも知れなかった。
 薬師のおかげで、アイラに飲ませる薬湯は、何とか用意できた。だがこれは、借り受けたもの。湿気ると効力が薄れるという薬で、特別な入れ物に入れてあった。煎じるのに随分と時間のかかる薬である。小分けにすることもできないと言うので、後で返すという約束で、入れ物ごと借り受けたのだった。
 あいにく、後宮に詰めている筈の他の女官も侍官も、見当たらない。ただでさえ病で勤めを辞す者が多い上に、そう言えば先程、国王の具合があまり芳しくないのだと女官達が騒いでいるのを耳にした。薬師も呼ばれて、慌しく行ってしまった。
 アイラに薬湯を飲ませ、いざ薬を返す段になって、レミアは後宮に誰もいないのに気が付いた。
「すぐ戻るから」
 レミアは、次の間の寝台の上に力なく伏すアイラの頬をそっと撫でた。音を立てないように扉を開け、外に出る。正殿の宮に向かおうと、薬の入れ物を抱えて小走りに駆け出した。
 本来なら、王や皇子の妃が後宮を抜け出すなどということはあってはならない。だが、薬を返すことしか頭に無いレミアは、そんな掟をも忘れてしまっていた。


それは神の悪戯だったのか。
偽りの誓いを立てた二人への、神の罰だったのか……。


 しばらく走ったが、一向に正殿の宮に辿りつかない。滑り落ちそうになる薬の入れ物を抱えなおしたところで、レミアは自分が間違った道を来てしまった事を悟った。
――誰かに訊ねなければ――
 レミアは辺りを見回した。
 小さな音が聞こえた。
 誰かいるのかと、レミアはそちらに向かって歩き出した。
 月が明るい。足元はちゃんと見えている。
 だが誰も通らぬ庭先というのは、冷たく人を拒絶しているようで威圧感を覚える。その背後に建つ宮も、灯りの入った窓は一つも無く、ほの暗い影絵のように沈んでいた。
 水音がした。
――こんな夜中に、誰が――
 レミアはいぶかりながらも、塀の破れをくぐった。
 茂みに髪が絡み付いて、飾り布が落ちそうになる。指先に掻き傷を作りながら、レミアはそれを解いた。


 シエナは、ほうっ、と息を吐いた。月の光に、己の身も溶けてしまいそうな気がする。本来の自分であることが、こんなに心地良いものだとは、先ごろまで知らなかった。
 ここは、自分が自分に戻れる場所。アーベルにもこの宮の事は話していない。言えばきっと、来ることを禁じられてしまうだろう。
 この場所を、失いたくなかった。
『ガサ……』
 不意に、葉擦れの音がした。
 シエナの背が、緊張に凍りつく。
 脚衣をつけていない。すらりと伸びた足は、女のそれと、一目で見て取れる。
 胴衣も濡れている。胸に巻く布も、今はつけていない。
 髪を束ねていた飾紐は、どこに行ったのか。探しても焦るばかりで、一向に見つけ出すことはできなかった。
 足音が近づく。
 シエナは噴水の陰に身を隠した。
「誰かいるのですか」
 その声を聞いた。
 シエナも良く知っている声だった。
――レミア……!――
 知られてはならない。絶対に、知られてはならない相手だった。
「そこにいるのでしょう? 影が……あなたの影が、水面(みなも)に映っていますよ」


 声を掛けたのは、いざとなれば男の力でなんとでもなると思ったからである。こんな(なり)をしていても、中身は皇子として修練を積んだ者である。並みの男には負けぬ。
「訊ねたいことがあります。あなたに害をなす者ではありません」
 レミアは噴水の陰に身を寄せる者に、声を掛けた。
 相手の警戒心を煽らぬよう、ゆっくりと進む。
「慣れない城内で迷ってしまいました。正殿の宮への道を訊ねたいのです」
 言いながら、ぐるりと回りこむ。噴水の陰に身を隠していた者の背が、一足ごとにはっきりと見えてきた。
 濡れた衣装。その背に零れる黒髪は、艶やかで豊かである。胴衣の下からのぞく足は、滑らかな曲線を描く女性のものであることが知れる。
 レミアは、なおも歩を進めた。薬の入れ物が割れてしまわないように、そっと下に置いた。
 相手は手で顔を覆っている。俯いたその頬に、漆黒の髪が濡れて張り付いていた。
「手を……」
 レミアは相手の手首を掴んだ。掴んだ手の中の冷たさに、自分のしたことの意味を探る。
 いけないと思いながら、それに反して己の指先が力を緩めることは無かった。
 その髪の色に……よく見知った人を想った。
 両の手首を各々の手で握り、ゆっくりと下ろさせる。相手は抗い、腕に力を込める。だがすぐに諦めて、大人しくそれに従った。
 白い頬。黒曜石の瞳が、伏目がちにさまよっている。小さく開かれた唇が、噴水から零れる飛沫に濡れて、赤く光った。
 顔を背けたその下に、白い喉が続いていた。濡れて透ける胴衣が、肩に張り付いている。露わになった胸の線が、呼吸に合わせてなまめかしく上下していた。


 ……二人を、弓の月が照らしていた。