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玻璃の橋板


〜七〜


 部屋には明るい日が満ちていた。
 窓辺の飾り布も、その日差しを受けて眠たげに柔らかく風にそよぐ午後。
 穏やかな部屋の様子にはそぐわない表情の二人が、窓辺に置かれた卓を挟んで向き合っていた。
「昨夜はどちらにおいででした?」
 アーベルの言葉には、棘があった。
「どちらへとは無粋な。閨に決まっている」
 寄越される視線を同じ色の瞳で受け止めたまま、シエナはさらりとかわした。
「おまえが気にしている、あの正妃のところで私は休んでいた。後宮も、行き慣れてしまえばなかなか居心地の良いところだよ」
 本心ではないのに、シエナはそう言って薄く笑った。
 閨では、今でもろくに眠れぬ日々が続いている。皮肉なことに、月のものが来るその間だけが、自分の宮で休める唯一の期間なのである。
 少し痩せただろうか。
 椅子の背もたれに背を預け、足を優雅に組んでいる。その膝の上で組み合わされた白い指先が、いっそう華奢に見える。
 アーベルと二人だけで自室にいるという安堵の気持ちからだろう。胴衣の襟をくつろげて、普段は決して見せることのない線の細い首筋に、後れ毛が絡むのを許している。
 昼餉の後の、つかの間の休息。シエナもアーベルも、各々の仕事を終え、私用に使える時間である。
 シエナのいでたちは、簡素な稽古着である。先立っての戦いの後、エルガ将軍に見出された弓の名手が、昨日カーネリア城に到着したと聞いた。第二の堀の外に建てられた官舎に住まわせ、これより先、カーネリア軍の弓兵を増強する役目を担わせる。まずはシエナがその者の力量を量ろうと、稽古をつけてもらうつもりだったのだ。
 リオドールを祖国に持つ正妃を迎えたとはいえ、自分の秘密が暴露されれば戦は避けられまい。遠からずその日は来るであろう。
 (いにしえ)より弓に長けた()の国との戦に備えるためには、剣だけでなく弓の部隊にも重きを置いておく必要がある。その上で兵をどう動かすか。軍策を練るのに、戦う道具の良いも悪いも、深く知っておかねばならない。そのためにはまず、名手と言われる者の力量を知り、その教えを推し量り、兵の動きを推察する必要がある。そう思ってのことであった。
 久しぶりに稽古着に身を包み、脚衣の裾を絞り終えた所に、アーベルが険しい表情で入って来たのだ。
「閨へ行かれる、その前です」
 シエナの皮肉を少しも気にかけない様子で、アーベルは一層静かな瞳で彼女を見つめたままである。口調もいつものように静かなものであったが、有無を言わさぬ威圧感があった。
 シエナを心配してのことだというのは、痛いほど伝わってくる。近衛の者が、いざという時に主を護れなくては話にならない。傍らにあってこそ、護れるのだ。だからと言って、アーベルの側にもこなさなければならない所用はある。一日中傍にいるわけにはいかないのだ。だからシエナはいつもその所在を、近衛の長である彼にだけは明らかにしておくよう、きつく言い含められていた。だが昨夜それを、シエナは破ったのだ。
「別に大した事はしていない」
 シエナは、ふい、と横を向いた。頭上高く結いあげられた漆黒の髪がふわりと風に舞い、頬に乱れかかった。もともと色の白いシエナだったが、今はその顔色も一層色が抜けて見える。
 アーベルの眼差しが、瞳を外れてシエナの陶器のような頬に突き刺さった。
 シエナは瞳の端で、自分を見つめるアーベルの様子を窺った。
 この美しい近衛の長は、『影』が務まるほど自分に面差しが似ている。他にも何人か『影』として仕える者はいるのだが、その中でも彼は抜きん出ているように思えた。
 黒曜石の瞳も漆黒の髪も、まるで双子として一緒にこの世に産まれ、幼い内に亡くなった皇子が齢を重ねてここにいるようである。
 ある時シエナは体調を崩し、どうしても公務にたずさわれない事があった。正装に身を包んだ彼を遠目から見たのは、それで何度目であっただろうか。その時の彼は、シエナ自身でさえ、己の姿を見ているのかと見まごう程であった。魔術使いが占いに使う玻璃の珠。その透明な珠の内に映った自分の姿を覗きこんでいるような錯覚さえ覚えたのである。
 カーネリアの王族の顔は、民には知られていない。臣下の者達でさえ、側近くに仕えることができるのは、ごく限られた者達のみだ。
 アーベルが物見台にあがり、高みから城の庭に集まる皆に手を振ったとて、誰もそれが皇子でないなどとは、露ほども疑わないであろう。
――アーベルが皇子であったなら良かったのに――
 自分の『影』として人前に立つ彼を見る度、また、彼の一見穏やかな内にも厳しいものを感じさせる所作に触れる度、いつも決まって心の奥に叶わぬ願いが頭をもたげる。
 戯言のようにつくろって、この胸の内を明かせば、アーベルはまた『血を穢すことになりますゆえ』と一蹴するのであろう。それでもそう願わずにいられない自分の心も、またそんな自分の置かれた境遇も、情け無い事とは思うのだが。
 願いは憧れへ。
 憧れは淡い想いへ。
 幼い頃より自分の『影』として近くにあったアーベル。いつも頼りにし、その背を追っていたような気がする。だが最近の彼は不可解な表情で、後を追うシエナを振り返る。そして寄越される静かな眼差し。風の無い湖面のような瞳の中に見え隠れする、饒舌に何かを物語るかのような色は、シエナの心の奥底をザワリと撫でさする。梳られ、整えられた髪の流れを逆さに撫で付けられる思いに、彼女の中にも新しい何かが生まれてくるのを感じるのだ。
 それは単なる不快感とは違って、シエナを浮き立たせる物のようでもあり、また奈落に落としめる物のようでもある。
 そんな掴み所の無い感情に、彼女はとまどいを覚えていた。
 窺う瞳の端に映ったアーベルが、ひとつ小さく息を吐いた。
「急にお話しておきたい事ができましたのでこちらに参りましたら、まだ閨へお渡りになる時刻でもないのに、部屋はもぬけの殻。あちこち探し回っている内に、お渡りの時刻となってしまいました」
 シエナの横顔に向かって、アーベルは変わらぬ声で言った。


 しばらくの間、沈黙が部屋を支配した。
 シエナの表情は、機嫌を損ねて押し黙っているようにも見えたが、よく見れば物思いに耽っているようでもある。一文字に引き結ばれた唇が、心なし白く色が変わって見える。
 自分が主と戴く従妹のそんな些細な仕草が痛々しく、またそれさえも愛おしいと思ってしまって……アーベルは変わらぬ表情の下で自分自身を律した。
「おそらくその時刻、私はエルガ将軍を探していた。結局見つからずじまいだったけれどね」
 一旦軽く瞼を閉じ、己の中で余裕を取り戻したのを確認するかのように一息つくと、シエナはまた首を巡らせアーベルにその顔を向けた。
「昨夜エルガ将軍と話を致しました。彼はシエナ様の行き先を知らないようでしたが?」
 アーベルは石のような表情を作り、胸の内を()ぎった想いに蓋をする。……慣れたことだ。いつもそうやって、自分自身に(かせ)を課してきた。
 だが押し殺した感情は、出口を与えてやらねば自らその枷を砕く。小さなひび割れから漏れ出した感情が、彼に少しばかり意地の悪い言い方をさせた。
 言ってしまってから、アーベルはシエナの瞳の奥を探った。
「そう? 会えなかったのだから、それも仕方ないだろうね」
 シエナは彼の言いようを少しも気に留めていないかのように、眉根をあげた。
 唇には軽く笑みを刷き、白い陶器の頬を僅かに緩ませて、黒曜石の瞳でこちらの瞳を探るようにじっと見つめる。
 臣下の者を確実にその人柄に心酔させるべく、シエナがおのずと身に付けた仕草であった。
 理性の鎧を着ているアーベルだが、その笑みに気持ちが蕩かされてしまう。
 自分の主は、もし皇女として育つことが許されていたならば、どれ程魅力的な女性になっていただろう。
 頭ではそれが自分自身を守るため、彼女が意せずして作った所作だと判ってはいても、心は勝手にその次を求めてしまう。
 いつも自分に向けられるものが、その笑みであって欲しい。
 今よりも側近くで、その吐息を感じたい。
 花弁のような唇から零れる言葉が、もっと甘いものであって欲しい。
「……そういう事にしておきましょう」
 高鳴る胸の鼓動を封じ込めるようにして、アーベルは傍目には判らぬ程の(かす)かなため息とともに、言葉を吐き出した。


 お互いがお互いの中に、目隠しで歩くようなもどかしさと、網に絡め取られてしまったようなぎこちなさとを感じていた。
 ふと、二人の口が重くなる。
 シエナの頬から、笑みが消えた。
 アーベルの瞼から、力を失せた。
 合わせていた視線を、どちらからともなく外した。
 緊張が、ふっと軽くなる。肩から背中にかけての筋から、力が抜けるのを感じた。
 瞳にはそれ程の力があるものか。
 寄越される視線に、自分でもそれと知らない内に、心の中に重たい(よろい)を着込んでいたのだ。
 それに気付き、それぞれがその心の中で、苦い笑みを噛んだ。
 どうしていつもこうなのだろう。この頃は、会えば必ず気まずさが残る。公務であるのに、その先にある筈の、お互いの心を探りあっている。
 何も惑わずにいられた、幼い頃には戻れない。それは判っている。
 だがもし、宰相の策がなければ、今頃シエナは皇女として育ち、アーベルはその婚儀の相手として第一候補に名が挙がるはずであった。
 そうであったなら、今二人が抱えるもどかしさも違和感も、大人達は惹かれ合う者同士の淡い葛藤だと笑って言うだろう。
 そんな微笑ましい風景も、全てあの日に打ち消されてしまった。
 第二皇子、ルベルが生を受けた、あの日に。


 時を告げる鐘が、正殿の宮の塔の上で鳴り響いた。
 それはさほど大きくはないものであったが、シエナの肩がぎくりと小さく跳ね上がった。
「……で……急な話とは? 閨に渡る前のこの慌しい時刻にどうしても伝えたい事とは……何か良い話でもあったか?」
 取り繕うように、彼女は足を組み直した。絡めた指をほどいて、首筋に遊ぶ後れ毛を指先に巻き取る。癖の無い髪は、さらりと外れてまた首筋にまとわりついた。
「ルベル様の母君に関する事でございます」
「妾妃キシナ様の?」
「はい。そのご生家が、遠からず取り壊しになるようです」
 異母弟ルベルを産んですぐ、妾妃キシナは亡くなったと聞く。物心つく前の話であるし、シエナにとっては馴染みの薄い人であった。
「それは、何故?」
 その後の噂も耳に入って来ない。
 生家の様子も、ルベルのところにはその消息が伝えられているのかも知れない。だが直に関わりの無いシエナには、知る由も無かった。
「もともとご生家は、貴族と言ってもあまり格の高くないお家柄。一人娘のキシナ様が後宮にお入りになられたことで、一時は繁栄するかのように思われましたが……キシナ様亡き後衰退の一途を辿り、今では母君が数人の下仕えの者と住んでおられるだけなのだそうです。その母君も、病の床に伏しておられるとのこと」
 先ほどまでの葛藤が嘘であるかのように、アーベルは近衛の長らしく振舞っていた。伸ばした背が、一層彼を凛々しく見せる。胸に並んだ房飾りが、まばゆい金に光って風に揺れた。
「それで?」
 先を促すシエナもまた、王族らしい威厳を取り戻していた。くつろげた襟元からのぞく線の細い首筋をのぞいては、本当の姿は皇女であることなど微塵も感じさせない程、全てが一国の皇子らしく雄々しく見えた。
 これは転機だ。彼女の五感がそう感じていた。確信があるわけではないが、何かが変わる。彼女の全ての感覚が、そう叫んでいた。
 それは想いに後押しされた、勝手な望みだったのかも知れない。だが彼女は自分を信じたいと思った。
「母君はもうあまり長くないとの薬師の診立てです。ご本人も承知されているとの事で、母君が亡くなられた後、屋敷を人手に渡すことが先ごろ決められたそうなのです」
「誰かが買い上げるというのか?」
「はい。ろくに手入れもできず老朽化した屋敷を取り壊し、その跡地に新しく自分の屋敷を造っても良いという許可を前提に、妾妃様の母君に莫大な対価を支払った者がおります」
 落ちぶれた貴族の屋敷を買い上げて別邸を建てる貴族は少なくない。貴族といえどもその力は常に安定しているわけではなく、家名を守るということは並大抵でない労力を要する。怠れば滅び、精進すれば栄える。それはまるで小さな国の勢力図のようであった。栄枯盛衰、それもまた人の世の理なのである。
「その者と、話をつけて参りました」
 アーベルは、声を潜めた。
「引き渡されてから取り壊しまでの間、中の物に一切手を触れてはならないと、申し伝えました。取り壊しは、わたしの配下の者が、身分を偽って行います」
「その間に、中を調べるつもりなのだな?」
「はい。表立って王室の名を出すわけには参りませんので、わたしの遠縁の者の名を使いまして」
「何か……出て来ると思うか?」
「それは判りません。ですが、出て来ないとも限りませぬゆえ」
 妾妃が警護の固い後宮に入ってから他の者と通じたとは、到底考えられない。ならばそれ以前、一介の貴族の娘であった頃に、何がしかの事があったのだと考える方が妥当であろう。
 もし、そうであるならば。
 もし、カーネリア国第二皇子ルベルが、王の子でないならば。
 知り得た事実をもとに、新たな策を考えなくてはなるまい。それはすなわち、シエナが女王となってこの国に君臨するということなのである。
 その後のリオドール国との交渉、重臣達への釈明、民への宣下と国内の安寧を計ること……やらねばならない事は、両の指を手折っても足りない。
 ……何も無いかも知れない。だが、何かあるかも知れない。生家を調べてその秘密が判るかどうか……それは、賭けであった。
「ほんの些細な手掛かりでも、見逃しは致しません。壁の傷、天井の石飾りの裏、床の敷石の下……くまなく調べ、慎重に取り壊しを行います」
 アーベルが深く頭を垂れた。腰を折ったはずみで、脇に振り分けた剣の鞘が、椅子の背に当って小さな音をたてた。
「思い出も何もかも、屋敷と共に壊れてしまう、か……。子孫がおらぬというのは、悲しいことだね」
 シエナは風に誘われ、ふと窓辺に目をやった。窓辺の飾り布は緩やかに風に揺られ、その下に縫い留められた房飾りは音も無くしなやかにそれに従っている。
 穏やかな昼下がりであるが、これも繋ぐ王族の血筋があってこそのもの。ルベル皇子の素性は未だ知れず、己も正妃を迎えたものの、同じ女同士であるならば、睦み合うことなど到底叶わない。まして世継ぎを成すなどと、事情を知る者にとっては片腹痛い話であろう。
 カーネリアの世継ぎが産まれにくいのも、今に始まったことではない。妃の腹に命が芽生える事は少なく、また、折角宿った命も、月を待たずして流れてしまうことがよくあるのだ。
 できるだけ早急に事を明らかにして、本当の伴侶を見つけなければならない。そうしなければ、護られるべき神の血筋を失ったこの国は、本当に潰えてしまうだろう。
 そのためにも……。
 この転機を無駄にするわけにはいかない。
「キシナ様があまりに不憫でしたゆえ、養子の話も全て、母君は断ってしまわれたそうです。譲るべき子孫がないので、屋敷を取り壊しても誰も嘆く者はおりません」
 アーベルの低い声が、シエナの耳朶を打った。
 正統な伴侶を、と考えていたところへ響く声に、シエナは己の鼓動が少し早くなったのを感じた。
 だが、すぐにその考えを打ち消す。
 自分の側近くに仕える、歳の近い男はアーベルだけ。だからそのように考えてしまうのだ。先に彼に取り縋った時も、冷たく引き剥がされてしまったではないか。この従兄にとって、自分は主以外の何者でもないのだと……シエナは腹の中で己を笑った。
「妾妃様は、ルベル皇子を産んですぐ、誰もいない自室でひっそりと亡くなったと聞いている。何か落ち度でもあったのではないかと、厳しい詮議がされたそうだね」
 シエナは女官ルチエラから聞いていた、妾妃の臨終の様子を思い浮かべた。
 ひっそりと一人で亡くなった妾妃。その胸の内は、どのようなものだったのであろうか。出産直後であったというのに、仕える者達全てを部屋から下がらせ、一人で何を思って逝ってしまったのか。ルチエラの聞いた、妾妃の懺悔。たった一言、『あのような御子を』と、自らの産んだ皇子を指して言った言葉。
 思えば、彼女の抱えていた想いが、全ての始まりであった。彼女が抱えて逝ってしまった秘密が、その後のシエナの人生の、あるべき姿を変えてしまったのだ。
「何を悔いておられたのだ、妾妃?」
 もうすぐ手が届くかも知れないその秘密を想い、シエナの胸の内がまた、ザワリと波立つのだった。