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玻璃の橋板


〜八〜


 すっかり日も落ち、月も今夜はその身を細く削られて心細い風情である。
 禁断の宮の庭に、そぞろ歩く人影があった。蜂蜜色の髪を長く背に流し、頭に飾り布を留めつけている。
 カーネリア第一皇子シエナの妃、レミアだった。
 今夜は、シエナ皇子のお渡りはないと聞かされた。月に何日か、続けてそういったことがある。シエナにも事情があるのだからと、その巡りが月の満ち欠けとほぼ同じであることには、全く気付く様子もないレミアだった。
 今夜はシエナに会えない。
 胸の奥に、少しばかりの落胆の気持ちがあるのを、レミアは認めた。
 皇子であるシエナに、特別な恋愛の情を抱いているわけではない。そう自分に言い聞かせて来た。
 にも関わらず、時折見せるシエナの柔らかな笑みに、さざ波のようにざわめく己の心が恨めしかった。シエナから優しい言葉をかけられる度、そして大切に想っていると言われる度、この身がその言葉に相応しいものでないことが口惜しかった。
 身に(まと)う贅沢な衣装を剥いでしまえば、己もまた皇子なのだから。
「この女物の衣装というのも、まんざら馴染めないものでもないな」
 生来の口調でひとりごち、唇の端を皮肉に歪ませた。
 たっぷりと(ひだ)をとった衣装のおかげで、体の線が隠されている。このカーネリアに偽りの輿入れをしてより半年、そろそろ己の体の線も、少年のものから成人のそれに近づきつつある。だが贅沢な布地を思う存分使った王族の衣装のおかげで、それが傍目に感じられることはなかった。
 ただ、以前よりも声色が幾分大人びてきた。それは発声の仕方で補えるものではあったのだが……喉を反らせた時に現れる線は、女性のものではなくなっていた。
 それを隠すために、衣装には首の辺りが隠れるものを作らせ、なるべく人目にたたぬようにして来た。どうしても胸の開いたものを着なければならない時には、必ず首に薄手の飾り布を巻いた。
 思いも寄らないことではあったが、それは瞬く間に城内の女官の真似るところとなり、城外に暮らす下々の女達もこぞって首に飾り布を巻いた。美しいと噂に聞くレミア皇女にあやかろうというのだ。おかげでレミアの衣装を褒める事こそすれ、不審に思う者は誰もいない。その思わぬ効果に、レミアはほっと胸を撫で下ろしていたのだった。
 シエナが閨において、こちらの体に触れないと言ったことが、今更のように有り難く感じられる。共にやすんでも、あの皇子はいつもこちらに背を向けて眠るのだ。衣装を剥がれないまでも、薄手の夜着の上から抱き締められでもしたなら、今の自分では皇女であると偽ることは難しいように思われた。
 握った手を細い月にかざし、そっと指を開いた。
 その中に大切に包み込まれていた飾り紐が、頼りない光に浮き上がって見える。
 この禁断の宮で出会った、カルサのものだ。
 色糸を細い束にして細かくきっちりと編みこんだそれは、いつも閨においてシエナが身に付けている物と同じ造りだった。
 『影』であるカルサの、シエナにによく似た面差しを想う。
 報われない想いは、シエナからカルサへ。
 シエナ皇子ではなく、その『影』としてのカルサを想うことで、レミアは己の心と体の均衡を保つことができるのだった。
 シエナから大切にされる度、それに応えたくても応えることのできないもどかしさを、全てカルサへの想いにすり替えて来た。
――カルサに会いたい――
 皇子のお渡りがないと知った今夜、募るその一途な想いを胸に、後宮を抜け出て来た。皇子の妃であるレミアが後宮を抜け出すということは、そう簡単にできることではない。今日もまた、国王の具合が思わしくなく、女官や侍官はあちこち奔走している。後宮の警護が手薄になったところで、出会ったあの日より幾月か経った今、やっとレミアはこの禁断の宮に来ることができたのだった。
「今夜会えなければ……この先はいつになるか判らない」
 ため息が、知らず、唇から零れて言葉になった。
 今夜ここに、カルサが来るという確証はない。
 だが、万が一にも会えるかも知れないという高揚感が、レミアの背を押したのである。


 頭が少し重い。
 腹部に感じる鈍痛に、シエナは己の身の中途半端な立場を感じていた。
 まだ夜着には着替えず、寝台の上に仰向けになっている。手を頭の下で組み、頭上で揺れる飾り紐の房飾りを眺めていた。まだやすむ時刻には少々早いので、寝台を覆う天蓋は飾り紐で括ったままにしてある。そこから垂れ下がった房飾りの結いを眺めるのが、シエナの幼い頃からの癖であった。
 先程ルチエラが持って来た薬湯を飲んだおかげで、少しずつ楽になって来ている。このままあとしばらく大人しくしていれば、痛みは全て消えるのだろう。
 今夜は閨には渡らぬと、使いを出しておいた。今頃レミアは、後宮の自室でゆっくりやすんでいるのだろうと、シエナは思った。
 ルベル皇子の生母である妾妃キシナの件は、あれからアーベルが手筈を整えて『その時』を待っている。妾妃の母君には申し訳ないが、あの屋敷が人手に渡るその時を、シエナも心待ちにしているのだ。
 廊下が騒がしい。
 国王の具合があまり良くないのだと、ルチエラが言っていた。
 国王崩御の時も、また近いのかも知れない。
「時代が動く……」
 次は自分の御代か。それとも第二皇子ルベルの御代か。
 どちらにせよ、『その時』が来なければ動きようが無いのも事実であった。
 何故だかふと、レミアの顔が脳裏に浮かんだ。
 自分が輿入れした皇子が、実は皇女であったと知ったなら……あの美しい皇女は何と言ってこの身を(ののし)るのだろう。
 誇りを傷つけられたと泣くだろうか。それとも自国の威信を(おとし)めたと言って、拳でこの胸を叩くのだろうか。
 シエナは、やり切れない気持ちで瞳を閉じた。
 贖罪(しょくざい)の気持ちで『大切にします』と言う度に、哀しそうに微笑む彼女の顔が、瞼の裏に浮かんで……消えた。
 痛みが遠のいた。まこと、亡国ジェイドの流れを汲む薬師は素晴らしい術を持っている。
 シエナは瞼を持ち上げた。上向きに緩く曲線を描く睫毛が、黒曜石の瞳に影を落とす。
 寝台の上に上体を起こし、乱れた髪を自分で括り直した。
「は!」
 考えてばかりいても仕方ない。短く息をつくと、シエナは立ち上がった。
 こんな時は、生来の姿に戻りたいと思う。
 ならば行く先は決まっている。
 禁断の宮。あそこならば、髪をおろしても、女人(にょにん)らしい優美な曲線を描く脚を水にさらしても、誰にも見咎められることはない。
 シエナは回廊を渡り、人気の少なくなった筋からそっと、今は使われていない禁断の宮への道を辿った。


 宮への道すがら、誰もいないことを確かめて、シエナは頭上高く結い上げた髪の飾り紐を解いた。一刻も早く、あるがままの自分に戻りたかったのである。
 癖の無い漆黒の髪は、バサリと落ちて背を覆い、その白い(かんばせ)を縁取る。シエナは一瞬で、カルサと名乗ったあの日の女人になった。
 塀の破れをくぐり、噴水へと向かう。禁断の宮をぐるりと回りこみ、建物の裏手に出ると、茂みに隠されるようにして、それはあった。
 細かな水粒が生まれ、踊り、そして水面(みなも)に還っていく。月明かりの下で見るいつものそれも美しかったが、できることなら日の光のもとで見てみたい、とシエナは思っていた。日の光のもとでそれを見られる日――それはシエナが皇女としてここに来ることのできる日でもあった。
 今夜の月は、細く、はかない。
 天空に淡く生まれた光は、物の影を鮮明に映すことはなかった。
『ガサ』
 不意の物音に、シエナの足はその場に凍り付いた。続いて噴水の向こう側に、黒い影が身じろぎするのを見た。
 誰何(すいか)するべきか否か、シエナは逡巡した。
 既に、このような(なり)だ。頭上に結い上げている筈の髪も下ろしている。
 それでなくてもこのところ、面立ちが一層女人のまろやかさを帯びて来ているのだ。頭上高く髪を結い上げ、まなじりにきつく墨を入れている日中ならば良いのだが、墨を落とし、髪を下ろした姿は、どう繕っても皇女のそれでしかない。
 今、この姿で人の目に触れるということは、シエナが皇女であるとわざわざ露見させるようなものなのである。
 だがそれが、偽りの我が妃、レミアであったなら……。
 国王の病に気をとられ、今、後宮の警護は手薄になっている筈である。レミアがここに来ていないと断ずることはできない。
 今更髪を括ってしまえば、今度は、後宮に渡れぬシエナ皇子が何故ここにいるのだと、余計な詮索を受けるかも知れない。
 ためらいながら、剣だけは腰から外した。見事な象嵌のそれは、持ち主の身元が王族であるとの証である。いざとなればどのような敵も体術で凌げるという自負が、シエナに剣を外させたのだった。


「誰?」
 噴水のほとりに立った人影に向けて、レミアはそっと声をかけた。
 不審な者であればすぐに応じられるよう、隙のない足取りで近づきながら、はかない月明かりの下のその人を探る。
 淡い期待は不安へ、そしてそれは震える程の喜びへと変わる。
「カルサ!」
 待ち焦がれた人が、そこにいた。
「あなたは……」
「やっとお会いすることができました」
 早口で言い募り、レミアは握った手をそっとカルサの前に差し出した。
「あなたの物では?」
 指を開いて、月明かりにかざす。
 掌の上に、色糸を細い束にして細かくきっちりと編みこんだ飾り紐が乗っていた。
「あ」
 カルサが小さく声を上げた。
「あの日、あなたが行ってしまった後に落ちていたのです」
 レミアは自分の掌を傾け、カルサの開いた掌の上に飾り紐を落とした。音もたてずに落ちた飾り紐は、カルサの掌の上でしなやかにうねり、紐の先端の房が白い掌から零れて垂れた。
 今しがたまで自分の触れていたものが、今はカルサの手の中にあると思うと、それだけでレミアは心が高揚するのを感じた。


「あ……りがとうございます」
 シエナは掌の上の飾り紐に視線を落としたまま、小さな声で礼を言った。
 あの月夜の出会いの折、飾り紐を無くしたことは承知していた。だがそれをレミアが持っていたとは知らなかったのである。
 言ってから、カルサとしてあまりに礼を欠いていたかと思い直し、瞳をレミアに向ける。
 ちょうど同じ高さに、こちらを見返すはしばみ色の瞳があった。宝玉のように輝き、こちらの心の中にまで染み入って来るような錯覚を覚えた。
 綺麗だ、と思った。
 皇子として接している時には、このように輝く瞳を見たことはない。いつも苦しそうに、哀しそうに……それでも微笑んでいるのだけれど。
 つられるように、ふ、と唇を笑みの形に緩めると、シエナの黒曜石の瞳に柔和な色が宿った。
「今まで……」
 シエナは再び飾り紐に視線を落とした。
 このような女人の姿をしているからだろうか。意識せずとも声は透き通り、物腰さえ普段とは違っている。
 それはまるで生れ落ちた時より、ずっと女人として暮らして来た者のように自然であった。
 剣をとり、戦いに出、荒馬さえ乗りこなす自分が、まさかこのように変わることができようとは。
 一人でこの禁断の宮にいる時以上に、レミアに見られているというだけで、こんなにも自然に本来の姿に戻ることができようとは……シエナには大きな驚きだった。
 そしてこの心地よさ。
 自分を偽らなくて良いということが、こんなにも晴れやかな気持ちにさせてくれる。レミアに向けた笑みも、普段皇子として偽って暮らしているのが嘘のように、女人そのものの柔らかな笑みであった。
 同時に、失いたくないと想う。
 この人の前で、こうして自然なままでいられるこの時間を、失いたくはないと、強く願った。
「今までお持ちになっていて下さったのですね。ありがとうございました」
 そう言って片膝をついて頭を垂れようとするのを、レミアが押し留める。
「わたしはそのように敬って頂けるような者ではありません。わたしは……」
 見上げたレミアの瞳に、いつも閨で見せるあの哀しみが過ぎった。


「座りませんか」
 レミアはカルサを促すと、噴水の傍に並べて置かれた石に、自らも座った。
 磨かれた石は、人が座るのに調度良い高さに据えられている。かつては人質同然に連れて来られた近隣諸国の皇子や皇女が、ここに座って祖国に想いを馳せたのだろうか。
 人質。
 己の身も、同じようなものだとレミアは思った。だが決定的に違うのは、自分は父王が進んで差し出した人質だということだ。
 何のために?
『おまえは本物のレミアではないのだから、この先何があっても、リオドールは国益のみを優先する』
 出立の前に父王が言った。その言葉を噛み締める度に、何度も心に矢が刺さった。捨て駒にされたのだという思いが、苦く胸の中に広がった。
 苦しくて、シエナ皇子の言葉に縋った。大切にしてくれる、その手を離したくないと思った。だが、その皇子と結ばれることは、未来永劫ないであろう。離したくない手を、いつか離さなければならない時が来る。
 レミアは瞳を巡らせて、隣に座るカルサを窺い見た。
 この人とならば、結ばれることができる。だがそのためには、自分が本当は皇子であるのだと告げなければならない。
――万が一、男だと知られてしまったなら、リオドールからの助けは無いのだ――
 父王の放った言葉の矢が、また深くレミアの心を(えぐ)った。