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玻璃の橋板


〜九〜


 水音が辺りに響く。
 噴水はカーネリア国の豊かな水量を讃えるがごとく、次から次へと水粒を噴き上げている。心地よい水音に、レミアはしばし口をつぐんだ。
 揺れる水面に、小さな粒が溶けていく。故郷に還る水の粒が、歓喜の声を上げているように聞こえた。
「ふ……」
 レミアの唇が、苦しげに歪められた。
 自分が祖国リオドールの土を踏むことは、もうあるまい。
 おそらく父王は、この国でレミア――ラウナ皇子の命が潰えても、それはそれで良いと思っているのであろう。
 いや、むしろ、願っているのかも知れなかった。だからこのような道理に合わぬ縁談を進めたのだ。
 偽りの輿入れをした頃は、生きることに無我夢中でそんな簡単なことにも気づかなかった。だが今となっては、そう考えた方が合点がいく。
 もはや自分には還るべき国はないのだと改めて思い知り……知らず目頭が熱くなった。


「どうなさいました?」
 覗き込むようにして、シエナは問うた。
 黙ってしまったレミアの息遣いが、押し殺した嗚咽に聞こえたからである。
 応えを待つ間、手の中の飾り紐を握り締めた。体には触れぬと、皇子の姿である時に約束した。だからカルサとして傍にいる今も、その背に手を添えることが躊躇(ためら)われたのだ。
 シエナはせめてその代わりにと、レミアから受け取った飾り紐を、自らの膝の上でいたわるように優しく、だがしっかりと握り締めた。
 添うことのできなかった、好いた人を思い出しているのだろうか。閨においていつも美しく、気高くあるレミアからは、考えられない姿であった。


 レミアの喉が、ひく、と脈うった。息を乱さぬよう……カルサに気取られぬよう、レミアはゆっくり息を吐いた。
 愛しく思っている人が、すぐ傍にいる。報われない想いの転じた姿であったとしても、今この瞬間、カルサを心から愛しいと想っているのは、紛れも無い事実であった。
 自分には時間がない。少年のものであった体の線は、すでに成人のものに近づきつつある。あと一年もしない内に、偽りの皇女であることは露見するに違いない。
 薄い玻璃の橋板を踏むような暮らしが、この先何事もなく続くとは思われなかった。
 玻璃の橋板を透かして、真っ暗な闇が自分を呑み込もうと足元で待ち構えているのが見える。踏み下ろす足の位置を間違えれば、薄い玻璃は途端に割れて、深い奈落へと落ちて行くに違いない。
 どうせこの国で(つい)える命ならば、愛しい人に偽りの姿を見せたまま逝くのは嫌だった。せめて募る想いだけは伝えて、そして逝きたい。
 だが……。
 カルサはシエナの『影』。この人に秘密が露見すればすなわちシエナの知るところとなろう。
「わたしは……」
 重い口を開いて、それだけの言葉をしぼり出した。だがその後が続かない。何を言いたかったのか、何を言ってはいけないのか、気持ちが波立って、考えがまとまらなかった。
 躊躇いがちに、カルサの手が伸ばされた。自らの膝の上で握り締めた拳に、そっと添えられる。白くしなやかな指が、吸い付くようにしっとりと、レミアの手を包み込んだ。
 レミアは添えられた手をじっと見つめ、その手首から腕を辿って視線を巡らせた。肩先に辿り付いたところで上に転じると、黒曜石の瞳が心配げにこちらを窺っている。
 レミアは深く息を吸った。
「『あなたを大切にします』と……」


 すぐ目の前で、はしばみ色の瞳が揺れていた。
「言っては下さいませんか。あなたのその声で、『大切にします』と」
 シエナは我が耳を疑った。
 いつも皇子として、レミアに告げる言葉。贖罪の気持ちで口にするその言葉を、今カルサとして言ってくれと言うのか。
 シエナの背が僅かに硬直する。秘密が露見したのか。だが、そうではないらしいことはすぐに見てとれた。
 その瞳には、疑いの色はない。ただ、苦渋の色だけが浮かんでいる。
 シエナは唇を開いた。
 レミアが何を苦しんでいるのか。自分には判らないけれど、今この妃が欲している言葉はそれなのだ。シエナの唇が微かに震えた。
「『あなたを大切にします』」
 何も飾らず、碑文をなぞるように、ただそう言った。
 自分を見つめる瞳が、一瞬凍りついたように見開かれ、そしてゆるゆると水面に揺れた。
「あなたを、大切にします」
 今度は優しく。人の言葉として、感情を込めて言った。皇子としてレミアの前に立つ時の、あの威厳は見せなかったけれど、女人らしく柔らかく包み込むように、シエナは言った。
 目の前の、レミアの唇が小さくわなないた。寄せられた眉根の下で、睫毛が伏せられる。はずみで幾粒かの雫が零れた。
 ――玻璃の珠のようだ――
 はかない月明かりに照らされて、レミアの涙は、強く触れれば壊れてしまう玻璃の珠のように煌いて零れた。


 カルサの口から、願っていた言葉を聞いた。そんなつもりは無かったけれど、知らず涙が零れた。
 心配そうに覗き込むカルサの息遣いが間近で聞こえる。
 一層、想いが降り積もった。
――次にカルサに逢えるのは、いつになるのか――
 何故だか、偽りの時間(とき)はもう長くないように思えた。すぐそこに奈落が口を開けて待っている。
――もう偽れない――
 最期の時を決意して、レミアは顔を上げた。
 それでもカルサの瞳を真っ直ぐに見る勇気が出ず、その白い頬で視線を留める。震える唇を弓形にゆっくりと引き上げた。
 悲壮な微笑み。
 決意をその背に秘めた笑みは、壮絶で美しかった。


「ラウナと……呼んで下さいませんか」
 レミアの声は張り詰めていた。シエナの胸の奥で、何かがカチリと音を立てた。
――ラウナ……?――
 ペリエル国との戦の折、リオドール国に通行許可を願い出た。その際、あの上辺ばかり取り繕った非情な王と共に、皇子が二人、列席していたはずだ。
 名は……名は、何と言ったか。
 第一皇子の隣に座る、第二皇子の顔。
 今、目の前で微笑むレミアの顔。
 シエナの中で、二人の顔が重なった。
「……っ!」
『こちらが第一皇子ルバト。そしてこちらが第二皇子、ラウナです』


 ***


 闇は全てを隠す。隠された中で、それでも(はかりごと)は、静かに、着実に進められてゆく。
 欺かれたのは、国。
 敵国を、そして自国をも欺いて、謀は進行する。
 闇に放たれた刺客が、焔の国へと馬を繰っていた。
 ――着々と。
 ――事は、進行する。


 ***


 息を呑み、瞠目したままのカルサを見て、レミアは目を伏せ、小さく嘆息した。
「この名を……」
 ややあって決意したように長い睫毛の(とばり)を開く。
「……やはり、御存知だったようですね」
 レミアはゆっくりと視線を移し、正面からカルサの瞳を見据えた。


 斬るべきか。
 ――何の(とが)で?――
 知らず、腰の剣に手をやろうとして、そう言えば庭の入り口に置いて来たのだと思い当たった。シエナはほっと息をつくと、手を元の位置に戻す。
――剣を置いて来て良かった――
 こんな時にまで、自分はこんなにも皇子なのだと、シエナは腹の中で自分を(わら)った。
「ラウナとは……リオドール国第二皇子、ラウナ様のことでは?」
 シエナの問いに、レミアは黙って頷いた。
 夜風がひゅう、と()いて、シエナの背に流した髪を一房すくい上げた。ひとしきり風に舞ったそれは、シエナの頬に無造作にまとわりつく。レミアが手を伸ばしてそれを払おうとし……だが途中まで伸ばされた指は、シエナの頬に届くことはなかった。
「告げますか? シエナ皇子に」
 掌の中に折り込んだ指をゆっくりと自らの膝に戻し、レミアはカルサであると信じる相手の黒曜石の瞳をじっと見つめた。シエナも寄越されるはしばみ色のまなざしを受け止めたまま、何も言わなかった。
「わたしがレミア皇女ではなく、本当はラウナであったと……リオドール国第二皇子、ラウナであったと、あなたは告げますか?」
 見つめた瞳はそのままに、レミアはまた涙の乾ききらない頬に微笑みすら浮かべてシエナに問うた。
「わたしの命は、もう永くはないでしょう。わたしの体の線は、既に成人のそれに変わりつつあります。この先いくら女人の衣装で誤魔化そうとも、そういつまでも周りの目を偽り続けられるとは、到底思えません。わたしには時間がないのです」
 ふと、レミアは言葉を切った。
 蜂蜜色の長い髪が、夜風に弄ばれてシエナの漆黒のそれに絡む。
 小さく笑ってレミアはそれをほどいた。
「事が露見すれば、リオドールからの助けもありません。わたし個人の謀反と……。おそらく、我が父王はわたしを見殺しにするでしょう。それでも……」
 レミアの指が自らの髪より解かれ、優雅な所作で膝の上に乗せられる。見つめ返す瞳は美しいはしばみ色のままで、だが凜とした皇子らしさを湛えていた。
「それでもわたしは、あなたと一緒にいたかった。あなたに逢いたかった。あなたに本当のわたしを知って欲しかった。わたしが妃などではなく、本当はあなたを恋うる、ただひとりの男として此処にいることを」


 見つめられて、シエナの鼓動が大きくなる。
 目の前のレミアは、自分の見知っているレミアではなかった。
 リオドール国第二皇子、ラウナ。リオドールの王と第一皇子ががっしりとした体格で顔もよく似ているのに対して、第一皇子ルバトの横に座っていた彼の国の第二皇子は、歳が若いせいか華奢に見えた。
 透けるように白い肌は女人のそれと比べても遜色なく、艶やかな衣装を纏えば舞姫にさえ化けることができるかと思えた。
 だがはしばみ色の瞳は理知的な光を湛え、非情な父王やそれに似ている第一皇子とは対照的に、この者が王になったなら彼の国との国交も穏やかに進むであろうと思われた……。
「今日を逃せば、次はいつ逢えるのか、それすら定かではありません。その間に秘密が露見しないという保証はない。わたしは……わたしはあなたに偽りの姿を見せたままで、逝きたくはなかった」
 寄越される眼差しは真摯(しんし)で、零れる言葉も驚くほど穏やかだった。
――ただ……。
 ただ、この逢瀬に再びの機会はないのだと、細い月が無情に二人を照らしていた。