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玻璃の橋板


〜十四〜


 濃い蜂蜜色の髪の男は、二度と目の前に現れることはなかった。
 それだけで、『彼』は事の顛末を理解した。
――しくじったようだな――
 馬車が城門に近づく。カーネリア城は水量豊かな広い堀に囲まれ、石積みの高い城壁がその内をぐるりと取り囲んでいた。
 城の入口である城門は重厚な金属でできた厚いもので、大の男が十数人かかってやっと開くことができるものである。
――ここを攻めるのは、容易ではあるまい――
 『彼』は、他の人々と同じく馬車に揺られながら、剣呑な瞳の光を柔和な笑みの下に隠していた。


 正式な国事に使用される『正殿の宮』の一室で、シエナはエルガ将軍他、腕利きの武官達を前に座っていた。
「一昨日、後宮に刺客が現れた」
 しんと静まり返った中に、シエナの声が響く。
「幸いその者は討ち取ったが、私は傷を負ってしまった。他の者にはかすり傷だと知らせてあるが……腕に覚えのある者達の前で嘘はつくまい。私の傷は深く、薬師の強い薬によって、今ここにやっと立っていられる」
 武官達の視線が一様にシエナに注がれる。うつむいて聞いていた者も、ハッと顔を上げた。シエナは艶然と笑ってみせる。
「大事ない。私はカーネリアの神の庇護を受けている。そうたやすく命を取られはすまい。だが……」
 アーベル一人を除き、重臣達にすら告げていない事実。妃レミアこそが刺客に狙われたのだということを、シエナは今ここで初めて明かした。皆一様に驚いた表情を見せたが、それもすぐに真剣な面持ちの下に呑み込まれた。
 この者たちは皆、口も固く信頼のできる者ばかりである。決して口外はすまい。
「宰相の報告によると、今度の使者団の中に、不審な者が紛れ込んでいるとのことだ。そこで皆に頼みたい。謁見の際はもちろんだが、歌舞が供される際にはなお一層の警備を。どのような折にどのような手で襲ってくるのか、予測がつかないのだ。私はいつも妃の隣にいるが、傷を負っている今、充分には護り切れぬだろう。剣はもとより、槍、弓、すべての部隊をそれと知られぬように配置せよ。また……」
 シエナは武官の顔を一人一人確かめるかのように見回した。
「このことは、決して相手に気取られてはならぬ。表面上は友好状態にある両国。だがこちらが疑っているのだと知れれば、確たる証拠もない今、それも新たな火種となるであろう」
 一同、神妙な面持ちとなり、誰も口を挟むことなくそれを聞いていた。こちらが指示などしなくとも、武官達は絶妙の策と協力体勢を整え、その任務を遂行してくれるだろう。
「お使者殿がお着きになられました」
 ひと通り話が終わった頃、武官のはるか後方から、侍官が片膝をついてシエナに告げる。それに応じて黙って頷くと、視線をもとに戻した。
「全ては手抜かり無きよう。今回の結果如何によっては、()の国との戦となるやも知れぬ」
 シエナの言葉を合図に、武官達はそれぞれの持ち場へと散っていった。後にはエルガ将軍が残る。
 シエナは窓の外に眼を転じた。
――レミアの命を護り、国を護り通すことができるのか――
 こんなに逼迫(ひっぱく)した状況であるというのに、風が吹いて木々の枝を揺らし、鳥がその実をついばんでいる。背景となる空はどこまでも蒼く、雲は日の光を浴びて真っ白に輝いている。
 そこにはいつもと変わらぬ景色が続いていた。
「ゴルシェはよく働いていますか」
 先ほどまでの研ぎ澄まされた剣のような鋭い表情から一変し、シエナの表情が柔らかくなった。口調を改めてエルガ将軍に問いかける。この国の臣下の中では、宰相とエルガ将軍、そして師と仰ぐ学士にのみ、シエナは改まった口調で話しかけるのだ。それはひとえに、シエナがこの者達に重きをおいていることの表れであった。
 エルガ将軍は、シエナの剣の師である。国内随一の腕を持ち、戦いにおいていつも素晴らしい働きをみせる。
 宰相に対しても、胸の内にわだかまりはあるものの、彼の国政に対する判断力は、その職に相応しいものであると認めざるを得なかった。
「ゴルシェの指導のもと、弓兵は格段に力を伸ばしています。加えて彼が新しく考案した弓は、心得のないものでも簡単に扱えるようできていますな。わたしも一度引かせてもらいましたが、見事、的を射抜きましたぞ」
 エルガ将軍は、誇らしげに胸をわずかばかり反らせた。
 ゴルシェとは、いつか来るであろうリオドール国との戦いの為に、エルガ将軍が迎えた弓の名手である。(いにしえ)より弓に長けた彼の国との戦に備えるためには、剣だけでなく弓の部隊にも重きを置いておく必要がある。ペリエル国との戦の後、エルガ将軍が見出した男がゴルシェであった。第二の堀の外に建てられた官舎に住まわせ、カーネリア軍の弓兵を増強する役目を担わせている。
 シエナも何度かその者に会ったが、なかなかの使い手だった。
「弓部隊も準備に手抜かりなきよう、伝えて下さい」
 強い意志を秘めた眼差しで、将軍を見上げる。
「勿論。きたる戦いでは、弓が重要な役割を担うと思われますからな。今すぐにではなくとも……いずれ、その時が来ましょう」
 エルガ将軍は飄々とした中にも好戦的な表情を浮かべ、指先で豊かに蓄えた髭をひねった。


 そこから少しばかり離れた一室に、レミアはいた。
 後宮付きの兵士の固い警護に護られ、部屋の中ほどに置かれた椅子に座している。その顔には何の感情も表れておらず、ただ静かに座っていた。
 傍に控える女官アイラは、祖国の香りに触れるのが嬉しいのか、心なし高揚した面持ちだ。
「使者殿には、どなたが立たれたのでしょう。知った方でしたら良いですね」
 そう言って嬉しそうに衣装の裾を直すのを、レミアは黙って見下ろしていた。
「楽や歌舞も披露されるとのこと。今リオドールではどんな歌が流行っているのでしょう。私達の知っている歌も、歌って下さるのでしょうか」
 あの歌が一番好きだから、と微笑むアイラは、使者の本当の目的を知らない。それがレミアを殺めるためのものかも知れないとわかったなら、そんな顔はしていられないだろう。
 刺客が寄越された本当の理由も、彼女には知らされていなかった。
――知らないほうが幸せなこともある――
 無邪気に笑っていられることが、どんなに尊いことか。
 祖国を……生まれ育ったその地を、人を、信じていられることが、どんなに幸せなことか。
 還るべき地を失ったことを知り、今またその祖国から狙われているレミアにとって、アイラの屈託のない笑みは、苦く心に突き刺さった。
 そんなやるせない思いは、扉を叩く音に打ち消された。入り口に眼を向けると、シエナが女官ルチエラを伴って入って来る。
 アイラが後ずさるようにしてレミアの脇に控えると、片膝をついて頭を垂れた。
 癖のない真っ直ぐな黒髪をきっちり結い上げ、上質な繻子織の脚衣をつけている。細身の身体は女人にしては背が高く、脚衣から窺える腰から足にかけての線は、傍目から見れば立派な皇子のものだった。襟の詰まった上衣は、淡い草色の絹に金の刺繍が施されたもので、その上に長く裾を引く衣をつけている。肩飾りには焔のように赤い石が()め込まれ、窓から差し込む光にキラキラと輝いていた。
 透き通るようなきめの細かい白い肌に、夜を想わせる漆黒の髪がよく映える。遠く北の国に伝えられる、雪に棲む美しい魔性のようだとレミアは思った。
 きつく引き結んでさえいなければ、花弁のような唇が――色を消す為に白粉で塗りつぶしてもなお、桜色に色づく唇が、つい数刻前に交わした口付けを思い出させる。
――あなたをひとり置いて、逝くわけにはいかない――
 その想いを、胸の中で新たにする。彼女を……彼女の抱える秘密ごと、この手で護りたいと思った。


 『正殿の宮』の大広間で、使者との謁見が行われた。
 使者がカーネリアの礼にならって片膝をついて頭を垂れ、口上を述べる。それを一段高く造られた壇上で、シエナ皇子とレミア皇女が揃って受けた。
 上質な布地を張った柔らかい椅子に座ってはいるが、背もたれに背を預けると、傷が痛む。何も知らぬ重臣の手前、シエナはそれも気力で耐えた。
 カーネリア国王はこのところ病の為、臥せりがちである。名目上、レミア皇女への使者となっているので、病をおしての同席はしていなかった。
 部屋の後ろの方には、壁に寄り添うようにしてエルガ将軍が控えていた。口元に人の良さそうな笑みを湛えていたが、その眼光は鋭い。使者だけでなく、窓の外にも視線を走らせ、淀みなく辺りを窺っている。その窓の外には、警護の兵が、それと判らぬよう控えていた。
 使者に立った者はアイラも見知った顔らしく、レミアの脇に控えて頭を垂れながらもチラチラとそちらを見やる。使者も気付いて、口上の合間に微かな笑みを返した。
「ご苦労であった。リオドールの国王に、お気遣い有り難く受け取ったと申し上げてくれ」
 ひととおり使者の口上が終わると、シエナは形の良い唇を弓形に引き上げ、ほんの少しだけ目を細めた。その笑顔が心からのものではないことは、自分が一番良く分かっている。だがそれが、相手の心に忘れられない印象を残すものだということも、同時に心得ているのだ。
 案の定、シエナの笑みは、使者の言葉を失わせるに充分であった。口上の間は頭を垂れていたが、今初めて壇上の貴人を見ることが許されるのである。
 美しくあるが、毅然とした態度。好意をもって接するものはその懐深く包まれることを許すが、そうでない者は――例えそれを隠して近づいたとしても、決して無傷では還さぬという、無言の圧力をもった笑みだった。
「妾妃様はお元気であらせられますか?」
 レミアの言葉が使者に向けられた。
 妾妃とは、亡き異母姉(あね)の生母である。幼い頃に母を亡くしたレミア――ラウナ皇子は、異母姉レミアと共に妾妃のもとで育った。
 使者が我にかえったように、シエナから視線を外す。
「はい、皆様お変わりなく……」
 そう応じてレミアに視線を移し、それきり使者はまた、言葉を失った。初めて見る『皇女』の美貌に、次の言葉を見つけられないでいる。
 外務大臣として職務を遂行するその男の顔を、レミアは知らない。レミアが輿入れした後、その任に就いたのだという。おぼろに名だけは覚えていたものの、記憶の糸を手繰っても、見知った重臣の中にその顔を見つけることはできなかった。
 おそらくその前は、王族の顔を直接拝する地位にいなかったのだろう。ならば、異例の大抜擢である。
 レミアはふと、心に引っ掛かるものを感じた。


――この者は大丈夫のようだ――
 シエナはそう心の中で断じた。
 人柄の良さが、所作、言葉、表情、全てに滲み出ている。使者としての任務を遂行するには、うってつけの男のように思えた。
 相手の警戒心を毛の先ほども刺激しない、柔和で実直な印象。ただそれが、彼の職務である外務大臣としては、如何なものかとは思われたのであるが……。
 ふと眼を転じると、エルガ将軍からも安堵の色が感じられた。
――やはり楽師、あるいは演者か……――
 今、楽師達は別室に控えている。そこには先の武官も数人詰めている筈だ。そうやってこのカーネリアに滞在している間は、例え夜になって皆が寝静まってしまったとしても、常にそれと知られぬように見張りをつけることになっている。また、使者は別として、楽師や演者達は与えられた部屋から出てはならないことになっている。何か成そうとして、成せる状況ではない。
 事を起こすならば、各々が自由に動くことができ、且つ、皆の気が緩む時。三日後の、歌舞が供されるその時が、一番危険だと思われた。


 日が落ちて、カーネリア城に夜の闇が降りた。
 賓客を迎えるために建てられた『清蓮の宮』の中庭には、もてなしのための会場が造られている。円錐形に掘り下げられた一番下に、大きな平石で舞台となる土台が盛り上げられ、そこから階段状に観客席が伸びていた。
 その舞台の上に、物見小屋を模した飾りつけがされている。幕はまだ閉まっていて、その向こうから用意をする者達のざわめきが伝わってきた。
 今回は皇女レミアの慰問の他、リオドールとの友好を深めるという目的もある。城内で働く者とその家族に限ってではあったが、下々の者までがその上演を観ることができた。端の方から順に、身分の違いに応じて席が設けられていた。
 会場には松明(たいまつ)が焚かれ、物の影を妖しく揺らめかせている。歌舞の進行によってその灯りの量を加減するのだろう。リオドールの者が、その下に一名ずつ控えていた。
 シエナとレミアは、一番高い席に並んで座っていた。舞台からは遠く、貴人とその近習が座る座席のまわりには、石組みで囲いがされている。それを上質の天鵝絨(びろうど)の布地が包むように覆っていた。
 ここから舞台に立つ者の顔を見分けることは難しかったが、舞台の中央はもとより、袖までを広く見渡すことができた。
 すぐ前の席にエルガ将軍。そして後方の幕の陰に、ゴルシェが弓部隊所属の部下を数名引き連れて忍んでいた。
「ご心配めされるな。お妃様には指一本触れさせませぬゆえ」
 エルガ将軍が、後ろの席に向かって首だけを巡らせる。シエナは黙ってそれに頷いた。
 レミアに持たせる護り刀は、今までよりも少し長めのものを用意させた。修練を積んでいない女の力ならば、短めのものの方が扱い易い。だがレミアの本来の姿は皇子。少々重いものでも難なく扱えるだろう。刀身も長いものの方が、相手に届き易い。
 万が一、レミアが刺客と渡り合うことになれば、その剣筋から素性が知れるかも知れない。だが今は、その命をあらゆる手段で護ることの方が、大切だった。
 シエナ達の隣の一画が、にわかに騒がしくなった。第二皇子ルベル付きの女官達が入って来たのである。
 女官は第一皇子とその妃に黙礼すると、席の準備を始めた。どうやら少々、自分の宮を出るのが遅れたらしい。
 間もなく、ルベル皇子が数人の女官を従えて席についた。母親である妾妃キシナ譲りの薄い金の巻き毛が、夜目にも輝いて見えた。
 (よわい)十六。レミアよりも一つ年上である。体つきも、以前会った時よりも格段に皇子らしくなっていた。
 シエナと目が合うと、(こうべ)を垂れる。ルベル自身がシエナに対してどのような感情を抱いているのか、直接聞いたことはない。『正殿の宮』での儀式の時以外、ルベルには会っていないのである。その時でさえ、女官や侍官に遮られて、言葉を交わすことはできなかった。
 異母弟の出自を疑うのは、宰相他、限られたごくわずかな者だけだ。だがシエナが正妃腹であるのに対し、妾妃腹のルベルは、何かと肩身の狭い思いをしているらしい。それは、それぞれを主とする女官や侍官の間に、見えない軋轢(あつれき)を生じさせた。
 アーベルの姿はなかった。本来、近衛の長が、護るべき主の傍を離れることは許されない。だが彼は今、早急に調べなければならないことがあると言って、いつもよりも早めの朝議が終わるとすぐ、持ち場を離れていた。エルガ将軍やその他の武官に警護を任せていられる今なら、彼は自由に動くことができるのだ。


 舞台の様子を黙って見ていたレミアが、そっとシエナの袖を引いた。
 シエナがこちらに小首を傾けて耳を寄せる。人々のざわめきが、隣からの声もかき消してしまうようだ。
「この使者団、どうも引っ掛かるものを感じるのです」
 レミアは、謁見以来ずっと気になっていたことを告げた。今は近習が侍っているので、皇女の声色を使っている。
「それはどのようなことですかな?」
 告げた声が思いのほか大きかったらしく、前の席のエルガ将軍が半身を回してレミアに訊ねる。その表情はうまく読み取れなかったが、声には威厳が溢れ、今更思い違いであったなどと言い繕うことはできそうになかった。レミアは腹を括った。
「今度の使者に立った者を、わたしは見知ってはおりません。おそらくわたしがこの国に輿入れしてより後、外務大臣となったのだろうと思います。ですが……」
 レミアはここで言葉を切り、舞台の方を見やった。幕の向こうで演者が仕度に追われているようだ。
 使者の座る席は、エルガ将軍の前である。そこはまだ空席となっていて、会場のどこにも使者の姿はない。先ほどシエナに『舞台の様子を見て参ります』と言って席を立ったので、今はまだ舞台の辺りにいるのだろうと思われた。
「前任の外務大臣も歳をとっているとはいえ、まだ任を解かれる時期とは思えません。加えて、リオドールにおいて、昇進とは全て段階を踏まなければあり得ないもの。王族の顔を拝する立場になかった者が、外務大臣という要職に異例の大抜擢とは……裏に何かあるように思えてなりません」
 レミアの美貌が曇った。
「それは、リオドール国が我がカーネリア国に対して何らかの意図をもってそのような使者を差し向けた、ということですかな」
「おそらく」
 エルガ将軍の鋭い問いに、レミアは表情を曇らせたまま応じた。
 シエナは口を挟まなかった。
 エルガ将軍の洞察力がどの位この『皇女』を陥れる結果になるのか、予想がつかない。レミアの秘密を知るだけに、何かの折、言葉の端にそれを匂わすような事があってはならないと思ったからである。
「そのような事を、軽々しく口になさっても良いのですかな? 事は祖国の陰謀に関わることかも知れません。皇女様のお立場を、悪くするのではと思われますが」
 試すように言うと、エルガ将軍はレミアの顔を覗き込んだ。
 決して何も見逃すまいとするかのような視線。だがレミアも、真正面からそれを見据え、毅然とした態度で応じた。
「わたしの命が祖国の放った刺客によって狙われたは、周知の通り。何が起ころうとも、リオドールはわたしの還る国ではなくなってしまった。ならばここカーネリアで生きて行くしか、わたしに残された道はありません。そして……」
 ふと視線を外し、隣のシエナを窺う。指を伸ばし、エルガ将軍からは見えない袖の内で、シエナの手をそっと握った。
「わたしがもし、リオドールの者として何らかの罰を受けなければならないと言うのならば、わたしはそれに従いましょう。それで全ての罪があがなえるのなら。カーネリアの安寧の為に、リオドールの者として、逝く覚悟はできています」
――カーネリアの為に。
――それは、シエナの為に。
 たったひとつの生きる望みの為に、喜んで逝きましょうと……レミアは言葉にならない想いを、握る指先に込めた。


 どの位そうしていただろうか。
 会場の賑わいの中にあって、エルガ将軍もレミアも、そしてシエナも……三人の周りだけが、静かだった。
 背をぴんと伸ばし、正面きって将軍を見据えるレミアは、王族の威厳を湛えている。毅然としたその態度には、一振りの剣のような研ぎ澄まされたものが感じられた。シエナも黙って、それを感じている。握られた指先から、レミアの想いが注ぎ込まれるようだ。
 雄々しいと想った。
 このような(なり)をしていても――皇女の衣装を身に纏っていても、その心は今まで見知ったどの皇子よりも、皇子らしく清らかで気高い。強く触れれば壊れてしまいそうに見えながらも、『その時』が来たなら、自分の命をも投げ出して護りたいものを護るのだという強い意志を感じる。
「ふぉっふぉっ、はっはっは……」
 最初はくぐもった声で。次第にそれは大きく明朗になり、エルガ将軍はついに破顔した。
「見惚れましたぞ、レミア殿」
 将軍は腹の底に響くような声でそう言ってから、改めて気付いたかのように辺りをはばかる。
「それだけのお覚悟がおありとは。皇女にしておくのがもったいない程ですな。皇子として軍を率いられたなら、さぞかし軍は勢いを得るでしょう。いや、もったいない。後宮ばかりに引きこもっていないで、わが軍兵にその心根の端でもくれてやって欲しいぐらいですぞ」
 先ほどよりも少し声を落として、それでも将軍は嬉しそうに目の前の二人を見比べた。
 シエナ皇子と、レミア皇女と。
 二人共、真っ直ぐな瞳を持ち、その心根は凜として筋が通っている。王族らしい威厳も気品も持ち合わせながら、その裏には激しさも秘めている。
 似合いの夫婦だと、エルガ将軍は思った。
 子の無い将軍は、シエナを実の子のように愛しいと思ってきた。戦場に在っては、自分の身を顧みることなく勝利の為に先陣を切るシエナ。それを、アーベルと同じく心底心配しながら、将軍自ら身を挺して護ったことも数知れない。
 軍策を練れば、的確な兵の配置と鋭い戦法。今この時期にシエナが王族として生まれたは、カーネリアの神の思し召しだと思っていた。
 そのシエナが妃を迎え、妃もまたこのような素晴らしい資質の持ち主だとは。
 次代のカーネリアも安泰なのだと……将軍は、そこに確かな約束を見たような気がした。


 使者が席に戻ると、程なく舞台の幕が上がった。
 歌や舞、寸劇と、どれもリオドールの香りを漂わせたものである。レミアの胸がほんの少し、締め付けられた。
 もう二度と戻ることはできないのだ。
 父王や兄上に虐げられながら、それでも自分は生きていてもいいのだと信じていられた頃には。
 懐かしい歌に、幼い日々を想った。
 生まれてすぐに妾妃である母を亡くした自分は、異母姉と共にもう一人の妾妃に育てられた。幼い頃はそれがまことの母上だと思っていたのだが、口さがない女官達の噂話を耳にして、自分の母はもう常世の国に旅立ってしまったのだと知った。
 『何故?』と問う自分に、妾妃は悲しく微笑むだけで、何も語ってくれなかった。聞けば、亡くなった自分の母は妾妃の妹だと言う。後に母は、自害して果てたのだと……やはり女官の噂話で知ったのだけれど。
 答えの代わりに、いつも妾妃はこの歌を歌っていた。胸に響く、物悲しい歌だった。
「レミア?」
 隣に座るシエナが、そっとその様子を窺った。白い指先で優しく頬に触れられ、いつの間にか自分が物思いに沈んでいたのだと知る。
 唇を弓形に引き上げて、笑おうとした。だが……その唇は微かに歪んだけれど、瞳に刻まれた哀しみが勝って、笑みにはならなかった。
「歌には不思議な力があるのですよ。想いが溢れて自分ではどうしようもないこともあります」
 繕わず、心のままにある事も、時には必要なのだと、シエナは言った。そうあることができるならば、そうあるべきだと。
 楽器が鳴り響く中、人々は歌に酔いしれていた。物悲しい旋律とそれに乗せられた悲しい恋の物語に、すぐ前の席に座るエルガ将軍も心なし目を潤ませているようだ。
「祖国を思い出すのは、辛いですか?」
 問われて、レミアは首を横に振った。
 辛くはない。もはや憎んでもいない。ただ、ここにこうして在ることが運命(さだめ)だったのだと、レミアは思った。


 歌が終わり、歌い手が舞台の袖に下がった。同時に激しい音が鳴り響き、わらわらと別の演者が十数名、舞台の中央に躍り出る。その手には皆、張りぼての湾刀が握られており、顔は妖しげな顔立ちを刻んだ仮面で隠されていた。
 楽器が狂おしい程掻き鳴らされ、音が会場内にこだました。それに合わせて演者の剣が妖しく光る。
 それは素晴らしい剣舞だった。
 二人が組になったかと思えば、それが三人に増え、一人対大勢になって……次々に相手を変えながらも、それぞれの剣は少しも休むことなく回り続けている。
 それはまるで、玩具のように滑らかに動き――。
「……!」
 シエナの中で、何かが合致しようとしていた。