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玻璃の橋板


〜十九〜


 後宮の兵は、みな去勢された者ばかりである。国王や皇子の妃が住まう宮に出入りする者は、次代の王となる血筋に一点の曇りもなきよう、その種を絶たれるのである。
 その代わり、その後の豊かな暮らしを約束され、官位も並みの兵士の比ではない。家庭を築く気持ちの無い者にとっては、それはそれで良い一生を送れる職であった。


 扉を叩く音に、レミアは顔を上げた。
 この時間、女官アイラは昼餉の後の束の間の休息を、女官の詰め所で過すのが日課となっていた。少しは気の合う者もいるらしい。このカーネリアに来てよりこちら、彼女は彼女なりにこの国に受け入れられているようだ。
「どなた?」
 レミアは自ら扉の前に立ち、訪れた者を誰何(すいか)した。
「わたしです」
 数瞬の間があき、扉の向こう側から低い声が聞こえた。その声には聞き覚えがあったが、ここは警護の固い後宮である。まさかと思いつつも、その人の名を呼んでみた。
「アーベル殿?」
 そう言えば刺客騒ぎの時にも、人知れず彼は閨に現れた。近衛の長である彼ならば、どのような警護であっても、それをくぐって忍び込むことさえ容易にできるのかも知れない。
 だがそれは、人に知れれば重大な謀叛としてとられかねない。後宮に忍び込んで妃と通じ、自分の種を王位に据えようとした者の末路は、断首台の露と消えるか、もしそれを免れても全てを奪い取られて国を追われ、まっとうな人の暮らしなど望むべくもない一生となる。どのような意図で彼がここを訪れたかは知らぬが、とにかく人に見られぬ内に中に入れるため、レミアは自室の扉を開いた。
「入れては頂けないかと思っておりました」
 滑るように部屋の中に身を投じたアーベルは、驚いたような視線を投げかけるレミアを正面から見据えた。
「これであなたもわたしと同罪。男を部屋に引き入れた妃の末路は、男と共に国外追放か、断首か……」
 少しばかり上目づかいに挑むような視線を投げかけ、アーベルは薄く笑った。
「あなたに他意はないと信じています」
 アーベルの視線を正面から受け止め、レミアは静かに言った。
「他意……」
 レミアの言葉を反芻(はんすう)し、アーベルはまたも薄く笑う。ほの暗い感情が、彼を支配していた。
「このままわたしが、皆に見られるのも構わず堂々とこの部屋から出て行ったら、どうなさいますか? わたしと共に断首となるか、それともみっともなく弁明をするか……」
 くっくっと、アーベルの喉が鳴る。
「わたしは何も申し開きはしません。そんなことをするくらいなら、最初からあなたを部屋には入れなかったでしょう」
 (わら)うアーベルを静かに見据えたまま、レミアは言った。
「その落ち着きぶり。シエナ様があなたを愛していると言った意味が、わたしにも判りました。大層なお覚悟をお持ちのようですね」
 吐き出すようにいうと、アーベルは一旦瞳を閉じ、脇へと視線を投じた。
 シエナの名を持ち出され、レミアは少しばかり苛立ちを覚えた。だがすぐに重大なことに気付く。
「……シエナ様が、何と?」
――ダンッ!
 問うた言葉に返答はなく、その代わりに強い衝撃が背中を襲った。
 気付けばレミアはアーベルに胸倉を掴まれていた。身体を反転させられ、今アーベルが入って来た扉に背中を押し付けられている。
 それは、近衛の長が、妃と接する時の態度ではなかった。
 すぐ目の前に、憎悪に燃えた漆黒の瞳がある。
「シエナ様は、あなたを愛していると言った」
 近衛の長でシエナの従兄でもあるアーベルは、皇子とされているシエナが実は皇女であることを知っている。その彼が、シエナが愛しているのは妃であるこの自分なのだと言った。
 レミアの眉根が寄せられ、研ぎ澄まされた刃のような光がそのはしばみ色の瞳に宿る。
「このカーネリアを謀ったは、どのような意図からだ」
 一層低い声で、アーベルが問うた。掴まれた胸倉が、更に締め上げられる。
「リオドール国王に、何と言い含められて来た? ラウナ皇子」
――ラウナ、と。
「何故、その名を?」
 締め上げられた衣装が首筋を圧迫する。息もろくにできないまま、レミアは問うた。
 目の前の漆黒の瞳が、笑みの形に細められたように見えた。それを見留めるのと引き換えに、意識が堕ちて行く。膝の力が抜け、くず折れた。
 ふいに締め上げる力が緩められ、新しい空気がレミアの肺を満たす。レミアは少しばかり咳き込んで喉に手をあてがい、床に膝をついたままアーベルを見上げた。
 何者にも染まらぬ漆黒の瞳で、アーベルはこちらを見下ろしていた。その冷徹な美貌は、何の感情も伝えて来ない。それが、彼がこの上なく怒っている顔なのだと、レミアはおぼろに理解した。
「墓に眠っていたのは、本物のレミア皇女。ならばここにいるのは、瓜二つと評判のラウナ皇子。……違うか?」
 シエナとよく似た面差しには、憎悪の炎が静かに燃え盛っていた。
「男の身でありながらこのカーネリアに偽りの輿入れをしたは、何の目的があったのだ?」
 静かな声だが、有無を云わさぬ口調で問う。
「わたしは何も知らされていない。本当に、何も」
 大きく息を吸い、立ち上がる。そうして真っ直ぐに漆黒の瞳を見据えると、レミアは凜とした声で言った。
「わたしの命でこの罪があがなえ、カーネリアの安寧を護れるのなら、喜んで差し出そう。だが信じて欲しい。わたしは決して何かの意図を持って事を成す為にここに来たのではない、と」
 皇子の声で。
 凜と響くその声は、レミアの言ったことが本当であると、思わず信じたくなるほど真っ直ぐだ。
「……それがあなたの、本当の声か」
 そうやって発せられた言葉は、アーベルの心にも響いた。憑き物が堕ちたように、漆黒の瞳から剣呑な色が失せる。
「あなたは、シエナ様を愛しているのですか」
 近衛の長として、『妃』に対する礼を欠くことのない態度で問うた。
「愛している。シエナ様が願うならば、わたしはその為にどんなことをしてでも生き抜く覚悟でいる。彼女を一人置いて、逝くわけにはいかないから……それが例え、わたしの良しとしない手段であっても」
 エルガ将軍の言葉は、レミアの中に深く息づいていた。何度も消化され、反芻され、それはレミア自身のものとなって身体に染み込んでいる。
「そうですか」
 アーベルの漆黒の瞳は、小さく笑ったのかも知れない。それを見留める間もなく、彼は窓から身を翻した。それはあまりにも唐突で、気付いた時には彼の姿はもう何処にも無かった。
 レミアは窓際に歩み寄り、外を眺めてみる。そこにもアーベルの姿を見つけることはできなかった。ただ、穏やかな昼下がりの風が、木の葉を揺らしていた。
 戻って来た静けさの中にいると、つい今しがたのことは夢ではなかったかと思えるほどである。
 だが咳き込んで痛めた喉の違和感と打ち付けられた背中の痛みとが、それが現実のものであると告げていた。


 あと何回、こんな夜を迎えることができるのだろう。
「ご苦労だったね」
 シエナは女官ルチエラが戻って来たのに気付くと、鏡越しに声を掛けた。
 先触れとして閨に渡り、彼女は今帰って来た。じきに仕度を整え、自分も閨に渡る。
 国王の妾妃キシナの生母の容態は悪くなる一方である。奇跡的に一時は持ち直したが、もう回復の見込みはないのだと、つい先ほどアーベルから聞かされたばかりであった。
 既に大きな運命の歯車の中に組み込まれてしまっている自分達ではあるが、その歯車の一つが音を立てて向きを変え、新たなからくりを見せようとしているかのように思えた。
 あれからアーベルは変わりない態度でシエナに仕えていた。以前よりもシエナのもとに参じる回数が減ったのは、仕方のないことなのかも知れない。時折見せる苦しげな様子は、シエナを想い切れずにいる証なのだろう。時折小さく吐く息も、伏目勝ちな漆黒の瞳も……今まではそれとは知らずにいたシエナだったが、彼の苦悩の現れなのだと理解できた。
 だが今更、レミアへの想いを断ち切ることは、シエナにはできなかった。今はただ、レミアと共に在る時間が少しでも長いものであるようにと、カーネリアの神に願うばかりであった。
「私に皇女の衣装は似合うと思うか?」
 鏡越しにこちらに近付いて来るルチエラの姿を捉え、シエナは戯言のように言った。
 今(まと)う衣装は、一国の皇子のものである。胸を露わにする貴婦人の衣装ではなく、襟の詰まった胴衣に、あまり飾りのない脚衣を身に着けていた。
「お(ぐし)を下ろせば、よくお似合いになると思いますわ」
 ルチエラが優しく微笑んだ。
 ほっこりと包まれるような優しい笑みに、シエナは唇を弓形に引き上げて見せる。
 髪を下ろして、胸の開いた衣装を身に着けても、その姿をレミアが見ることはないだろう。自分が皇女として披露目する時、彼の命は既にこの世のものではないかも知れないのだから。
「そうだね……その時は、今までできなかった分も美しく飾っておくれ」
 肩におかれたルチエラの手に自分の手を重ね、シエナは寂しく笑った。


 既に先に閨に入っていたレミアは、寝台に腰を掛けてこちらを見ていた。女官が一通りの手順を終えて扉を閉めると、おもむろに立ち上がってこちらに歩み寄る。
「先触れがあってから、あなたが来るのを待ち焦がれていた」
 それはほんの半刻も経たない内であっただろう。だが恋うる人を待つ時間は、千秋の思いである。それはシエナにとっても同じであった。
「逢いたかった」
 柔らかく抱き締められ、シエナはその背に自分の手を回した。蜂蜜色の髪が視界を黄金に染め、レミアの使う香が鼻腔をくすぐる。そっと眼を閉じると、この世の中に二人きりでいるように感じた。
 腰に剣を()いたままだったのに気付き、シエナは彼の背に回していた腕を外した。
 だがレミアは腕を解くこともせず、却って一層強く抱き締める。息が詰まりそうになりながら、それでもシエナは嬉しかった。
「剣を着けたままでは、危なくて眠れない」
 シエナは抱き締められたまま、小さく笑った。
 言葉ではたしなめながらも、その手は再びレミアの背に添えられる。そうやって長い間、二人は互いの身体を抱き締めあった。
「何があった?」
 いつまでも腕の中の身体を開放しようとしないレミアに、シエナはふと言い知れない何かを感じた。レミアの身体から肩を浮かせ、間近で彼の顔を覗き込む。
「彼は……あなたを愛しているのだね」
 離れていく身体を繋ぎとめるようにシエナを引き寄せ、再び強く抱き締めながら、レミアは言った。
「彼……誰?」
 だが何を言われたのか、シエナには判らなかった。
 それがアーベルを指すのだとは、彼がレミアの部屋を訪れたことすら知らないシエナには、推し量ってみても全く思い当たらなかった。
「シエナ……」
 『様』と敬うことなく、この日初めてレミアはシエナを名のみで呼んだ。
「シエナ、シエナ……」
 何度も繰り返し、その名を呼ぶ。レミアは腕の中で息づくこの温もりを、手放し難く感じていた。
 自分が恋しているだけだと思っていたあの日。シエナがカルサであることを知りもせず、恋心を募らせていた。
 シエナが皇女であることを知り、恋は愛に変わった。
 腕の中に包み込めば、抱き締め返してくれる温もり。やさしい手を、腕を、決して離すまいと思った。
 祖国に命を狙われ、それでも彼女の為に生きると誓った。どんなことがあっても、彼女を一人残したまま、逝きはしないと。
 今日アーベルに詰め寄られ、シエナを愛していると告げた。そうして、こちらに静かな憎悪の眼を向ける彼もまた、シエナを愛しているのだと感じた。
 自分がこの国に来る前からずっと、誰よりも彼女の傍近くにいたアーベル。その彼が向ける想いの深さに、自分は太刀打ちできるのだろうか。
 それは初めて知る、嫉妬の感情だった。
 失いたくない。
 たとえこの身が儚くなってしまっても、ずっとその心の中に留めておいて欲しい。
 こちらも命を懸けてシエナを愛している。「愛している」と、彼女も抱き締め返してくれる。だがそれだけでは足りない何か……もっと深い所で繋がっていたいという想いが、随分前から自分の中にあることに気付いてしまっていた。
 アーベルの想いを知り、自分でその感情にかけていた枷が、熱に触れた氷のように溶けていく。
「シエナ」
 もう一度、名を呼ぶ。
「……愛している」
 腕の中の身体が、微かに身じろぎした。
 証が欲しい。愛し、愛されているという、証が。
 それを願うのは、いけないことのような気がしていた。生き抜くと告げる度、心の奥底で、それは無理な想いであることを痛い程に感じていたのだから。彼女を一人残し、いつか逝くであろう自分が、愛の証を求めるのは傲慢であると思っていた。
 だから……。
 閨代わりとした自分の部屋で、最初にその願いを意識した時から、夜中にこっそり寝台を抜け出して、一人、長椅子に寝ていた。閨でしか、二人の逢瀬は無い。だが隣に眠るシエナの寝息を聞くだけで、劣情に支配されそうになる自分を、レミアは持て余していたのである。
 それなのに。
 アーベルもまたシエナを愛しているのだと気付いた途端、どうしても……。
「愛していると……言葉だけでは足りない」
 ほんの少しだけ、身体を離した。黒曜石の瞳が、驚いてこちらを見上げている。
「証が欲しい……シエナ」
 強くその肩を抱き、口付けた。


 かつて一度たりとも、彼の中にそんな色を見たことはなかった。
 熱に浮かされたようにこちらを見つめる瞳は扇情的で、その眼差しにシエナは自分の身体の奥底にある何かが呼び覚まされるような感覚を感じてとまどった。
「証……?」
 長い口付けが終わると、するりと剣が腰から外される。
 いつの間にか二人は寝台の近くにいた。枕元に剣を置くと、レミアは再びシエナの唇に口付けを落とした。それは次第に唇を外れて首筋へと下りる。
 身体に圧し掛かる重みに耐えかね、シエナは寝台の上に倒れ込んだ。ぶつけるかと思った肩先は、レミアの腕で優しく護られる。なおも首筋に触れる唇の感触に、シエナの肌に甘い痺れが走った。
 使者を送り出した日、アーベルから受けた口付けが、肌の上に蘇る。今首筋を這う唇は、レミアのもの。それはシエナに、まだ踏み入れたことのない世界を見せようとしていた。
「レミ……!」
 強く押し返そうとして顔を上げ、切なげに見下ろすレミアのはしばみ色の瞳に捉えられた。請うような視線に絡め取られ、身動きができなくなる。
「いけない事だと、わかってはいる。こうすることで、あなたを苦しめてしまうことも……。でもあなたを欲しいと思う気持ちは、もう自分でもどうにもならない。愛しいと想う心が、わたしの自制心を壊してしまうから」
 レミアの指が胴衣の上を滑り、襟を開かれる。そこにも熱い唇が押し付けられた。
「わたしを忘れないで欲しい。レミアという名でこの国に来たわたしが、あなたを愛したことを……その身体に刻み付けて、決して忘れないでいて欲しい」
 寄越される真摯(しんし)な眼差しに、シエナの(すく)んでいた心が溶かされる。
 未知の甘さに踏み込む怖れから固く身を護るように縮められていたシエナの腕が、ゆるりと(ほど)けて愛しい人の身体に回された。


 ――その夜。
 偽りから始まった恋は、偽りでない愛になった。
 偽りの夫婦は一年近い時間(とき)を経て契りを結び、偽りでない夫婦となった。
 刹那は永久(とわ)に。
 それがすぐそこに迫っている別離の始まりだとは知らずに、二人はただこの瞬間の愛を確かめ合った。