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玻璃の橋板


〜二十二〜


 ここ『思政の宮』にある会議の間では、重臣達が苦虫を噛み潰したような顔で座っていた。文官に類される重臣は誰一人口を開こうともせず、目の前の二人の貴人をただ見つめるばかりである。
 一方、武官に類される重臣は、やはり同じように見つめながらも、その内の一人を値踏みするように眺め回していた。
「誰も意見を述べる気はないのか? ならばこれで承知したのだと理解していいのだな?」
 シエナの声が、部屋の中に響き渡る。
「あ……いや、しかし……」
 慌てた重臣の一人が、声を発する。だがそれも意味をなす言葉ではない。ただこの無謀とも言える決定を、少しでも先に延ばそうとしただけだということは、誰の耳にも明らかであった。他の者も苦い顔のまま、何も言えずにいる。やがて、コホンと小さな、いかにも作ったような咳が聞こえた。
「あー……」
 声を発したのは、初老の重臣である。豊かにたくわえた口ひげには白いものが混じり、痩せてはいるが筋肉質で堂々とした風体である。
「レミア様は、王室の血を繋ぐ大切な妃様なのですぞ。そのようなお方が……」
 その者はシエナの隣に立つレミアを見上げ、体に似合わぬ小さな声で遠慮がちに言った。
 今日のレミアは入念に髪を(くしけず)り、生来より赤い唇に、艶のある紅を差している。額には磨いた石をはめ込んだ飾り布を着け、それはまるで婚儀のあの日を思わせるようだった。
 レミアは隣に立つシエナに向かって、小さく頷いて見せる。シエナも同じく頷いて、それに応えた。
「わたしはシエナ様の妃としてこの国に輿入れして参りました」
 揃えた白い指先をたおやかに自分の胸に当て、レミアは重臣の一人一人を見回すように言った。
「ですがそれは、我が父王の策でもあったのです。わたしはこの国で死ぬ為に寄越されました。既に何度か、わたしは祖国の者に命を狙われています。おそらく父王は、わたしがこの国で死ぬことによって、戦の口実を得ようとしたのでしょう」
 会議の間から、ざわめきが起こる。この会議の間にいる半数以上が、視線をあちこちに巡らせながら口々に何かを呟いている。黙って聞いている者は、使者団が寄越された折に既にそのことを知らされていた者達であった。
 シエナの隣の席に座っていた宰相が、無表情のまま数回、大きく手を打ち合わせた。乾いた破裂音が会議の間に響く。
「皆さん、静かになされよ」
 低い声が騒ぐ声を(いさ)める。ほんの少しざわめきが納まったように思えた刹那、重臣の一人が口を開いた。
「……そ……れは本当ですか」
 見れば、居並ぶ重臣の中でも最も年若い者である。アーベルよりも少し年上のように見えるその者は、信じられないという面持ちで、宰相を見やる。
 宰相は年若い重臣に、ひた、と視線を据え、黙って頷いた。どれだけ言葉を重ねるよりも、彼の漆黒の瞳は雄弁だ。その色を見れば、それが紛れも無い事実であるのだとその場にいた誰もが納得する。そして葉ずれのように新たなざわめきが湧き起こった。
「レミア様の言葉はまだ終わっていない」
 再び有無を言わさぬ声で宰相が圧すると、それを機に潮が引くように静かになった。
「祖国リオドールだけではありません。このカーネリアもまた、わたしを必要とはしないでしょう。何故ならわたしは、子が産めないのです。すなわち、王室の血を繋ぐことはできません。父王はわたしがこのような身体(からだ)であることを知りながら、この国に寄越したのです。ですから……」
 重臣達が再びざわめこうとする。だが宰相がすっと視線を走らせると、皆口にしかけた言葉を飲み込んで妃の話に耳を傾けた。
「わたしを戦場(いくさば)に連れて行って下さい。リオドールの戦い方も、地形も、この身にしっかりと刻まれています。敵国の情報を知っておくことも、戦を有利に進めるためには必要かと思います。また、エルガ将軍にならって、護身の術も身に付けております。皆さんの足手まといになるようなことは致しません」
 会議の間がしんと静まり返る。
「そしてその見返りに、リオドールの妾妃を助けて欲しいとおっしゃるのですね。子のできない身体となった妾妃に、禍根の種が宿ることもないと……」
 先ほどの初老の重臣が、静かな声で言った。それきり会議の間はまた、静寂に包まれる。誰も何も口にすることなく、その胸の内で思い巡らせているようだ。
 シエナの(おとがい)が、つ……と、わずかに上げられた。
「私達はこれだけのことを、あなた方に打ち明けた。常ならば、王家の者がこのような事情を明かすことは無い。よって、これはそれだけ重大な事柄であると心得て欲しい。しっかりと考えて、返答されよ」
 よく通る声できっぱりと判断を迫る。
 何ひとつ動くものもない。その場にいる者達の(まと)う衣装から出たものか、細かな埃が、ただ日に透けて煌いているばかりだ。
「わたしは賛成ですぞ」
 ややあって、声が上がる。聞き慣れたそれは、エルガ将軍のものだった。
「一国の妃様にとって、自分が子のできぬ身体であることを白日のもとに晒すということが、どのようなことか……ここにうち揃われた方々はお解かりかな?」
 居並ぶ重臣を見渡す。
「他国から嫁がれた妃様とは、王室の血を繋ぐお方。だから大切にもされる。だが子を成すことができないのならば、この国にとって必要のない身。そう皆に知らしめるということは、その命、もはや誰にも護ってもらう(いわ)れはないと断じたということですぞ。それは(すなわ)ち……」
 ちらりとレミアに視線を寄越す。何もかも見通したように曇りのない瞳は、一瞬、視線だけで妃に頷いて見せる。
「自らの命と引き換えにしても、()の妾妃様をお助けしたいと(おお)せなのだと」
 エルガ将軍は妃から視線を外し、再び会議の間を見渡した。押し黙った重臣達の固い表情の上を滑る鋭い視線は、将軍の一語一語を皆の脳裏に刻み込む。
 将軍の言葉に、シエナの拳が一瞬、それと判らぬように強く握られる。認めたくない事実が目の前に突きつけられているのを、平静を装ってただ耐えているしかないのである。隣に立つレミアには、それが痛い程伝わって来た。
 偽りの輿入れが決まってから、何度も何度も諦めてきた命。覚悟はとうの昔に決まっていた。だがシエナを知った今、例え命を散らすことがあったとしても、最期の一瞬まで、自分は諦めることはしない。そうやって命を懸けるのは自分であるのに、レミアには(のこ)されるシエナのことが思いやられてならなかった。
「わたしはもはや、祖国に残す想いはありません。幾度も実の父である王に命を狙われて、既にリオドールはわたしの還る国ではなくなってしまった。わたしの生きる国がこのカーネリアであるならば、わたしが命を懸けて護るのも、このカーネリアなのです」
 そうして、シエナの命をも護るのだと、声にならない言葉でレミアは告げた。
 エルガ将軍が後を引き継ぐ。
「祖国によって命を狙われたのであれば、レミア様がカーネリアを裏切ることはないでしょうな。正直、この戦いに勝つ見込みは、五分五分よりも少しこちらに利が有るといったところ。我が軍にとっても、相手の情報は少しでも多い方が有り難い。地形、戦術、街の様子など、我々が外から偵察しているだけでは足りないものがありますからな。また女の身でありながら、レミア様の剣の腕は誠に素晴らしい。戦場に同行しても、何ら足手まといになるものではないと、わたしが保証しますぞ」
 将軍の声がやむと、重臣達の顔が一斉にレミアに向けられた。下を向いて考え込んでいた者も、顔を上げて、次代の王の正妃を見た。全ての重臣が、もはやレミアの出陣を拒んでいる(ふう)ではなかった。
「では、決定としよう。詳細は、わたしとエルガ将軍とで煮詰めることとする」
 それまで黙って聞いていた宰相が、重々しく口を開く。シエナも黙って頷いた。


 万に一つの可能性があるならば。
 後宮に囚われていても、いずれ秘密が露見するならば。
 戦場という、命のやり取りをする場に出向くこととなっても……万に一つ、最期を定められた、この偽りの婚姻からレミアが逃れる道があるならば。
 今はただ、それに縋るしか道はないのだと、自分に言い聞かせるシエナであった。


 女装束に身を包んだままでは戦場には行けない。レミアは短めの胴衣と、動きやすいように余裕を持たせた脚衣を身に付けていた。
 今日は夜もまだ明け切らぬというのに、やたらと鳥が騒がしくさえずっている。城の中で戦仕度に追われる人々の気配に、いつもとは違う何かを感じ取っているのだろうか。
「レミア様……」
 『妃』の戦装束の最後の飾り紐を結び終え、もはや何もすることがなくなってしまった女官アイラは、鏡越しにレミアを見つめ、そして目を伏せた。
「心配しなくてもいい。わたしの剣の腕はおまえも知っているだろう? 御前試合では、いつも良い成績を取っていたものだよ」
「試合と実戦とでは違います。そうやって何人もの武人が命を散らしたのを、私は知っています」
「……アイラ」
 泣くまいと瞳をきつく見開いて自分のことを心配してくれる女官に向かって、レミアはそっと彼女の名を呼んだ。
「わたしには、もはやリオドールに残した想いは無い。それに比べ、まだ向こうに家族のいるおまえには、辛い戦いとなるだろう」
 鏡越しに二人の視線が合った。
「国を出た時から、いずれこうなる事は覚悟しておりました」
 王族に仕える女官らしく、凜とした声でアイラが言う。
「今まで尽くしてくれて、ありがとう。わたし一人では、この国で半年も生きてはいられなかっただろう。おまえがいてくれたから、わたしの秘密は今まで守られた」
 鮮やかに、レミアは笑んだ。()ちる間際に一層美しく輝く星のように、はしばみ色の瞳が揺れて煌く。蜂蜜色の髪がふわりと風に舞って、()ちた。
「そんな……まるで、今生の別れのようではありませんか……」
 消え入りそうな声で、アイラが唇を噛む。輿入れより一年。あわやと思うことも何度かあった。その度に、秘密を護るため、命を懸ける覚悟で仕えて来たのだ。
「戦とは、そういうものだよ。還って来られるか否かは、運命の神のみが知っている」
 言葉に込めた想いは、それだけではないのだけれど。
 自分自身の想いを断ち切るように言い放つと、レミアは無駄の無い動きで鏡の前の椅子に座る。
「さあ、髪を結い上げてくれ」
 皇女の姿にするためにこの一年近く下ろしたままだった髪を、アイラが手際よく頭の高い位置で結う。鏡の中でそんな自分の様子をじっと見つめる顔……それは輿入れ前のラウナ皇子の姿だった。


 シエナが昼間から『妃』の自室を訪ねるのは、そう何度もあることではなかった。それでもその部屋に入れば、いつもレミアが微笑んで迎えてくれた。その部屋の主に似た、凜とした中にも艶やかな色を纏う空気は、シエナにとって心地良かった。
 けれども今日は、その同じ部屋がいつもと違うように見える。
 それはその部屋の主が、蜂蜜色の髪を頭上高く結い上げていたからなのかも知れない。
 シエナが入って来るのと入れ違いに、アイラが片膝を折って頭を垂れ、部屋を辞した。上質な布地の立てる衣擦れの音が、微かな泣き声のように響いて遠ざかる。
 シエナがレミアの秘密を知っていることを、アイラはまだ知らない。シエナの側の秘密を守るため、レミアがあえて言わなかったのである。
「ラウナ」
 妃付きの女官の姿が扉の向こうに消えると、シエナは目を細めてその名を呼んだ。
「それがこの国に来る前のあなたの姿……」
 襟の詰まった短めの胴衣に、動きをさまたげないよう余裕を持たせた脚衣。細身ではあるが均整のとれた体つきである。結い上げた蜂蜜色の髪が、流れ落ちる水のように背で揺れていた。
 凛々しいいでたちではあったが、いつもより濃い色目で引かれた(べに)のおかげで彼が『妃』であることは誰にも疑われないであろう。もとより中性的な顔立ち。加えて並の女人ですらため息を漏らす程の肌のきめ細かさも、レミアの秘密を護るのに一役買っている。また、襟の詰まった胴衣も、彼の喉の線をあからさまにしないための用心であった。
 この人が剣を手に舞ったらどんなに美しいだろうと、シエナは思った。
 シエナもまた、武具をつければいつでも戦に出られる装束である。体の線を消すために巻いた布があるとはいえ、その体つきは細くしなやかであった。
「こちらに、シエナ」
 レミアがそっと手招きする。引き寄せられるように二人は近付き、しばしの間、互いの身体を抱き締めあった。
「既に近習の者達は仕度を整えています」
 シエナがその顔を相手の胴衣に埋めたまま言った。
「ではわたし達も行かねばならないね」
 そう言いながらもレミアの腕は、なかなかシエナを手放そうとしない。
「シエナ……」
 低い声が、名を呼ぶ。シエナは胴衣に埋めていた顔を上げた。刹那、唇に暖かいものが触れる。
「レミ……」
 離れて行く瞳を、シエナは見つめた。そのはしばみの瞳が、ふと笑みの形になる。
「ああ、ついてしまった」
 レミアの指先が、シエナの唇を優しく(ぬぐ)った。濃い色目で引かれたレミアの紅が、シエナの唇に移ってしまったのだ。ふわりとカーネリアの(こう)が香り、シエナは再びその腕にきつく抱き締められる。
 ややあって、小さなため息と共にその縛めが解かれ、代わりに掌に温もりを感じた。
 扉を開く刹那、握り合っていた手をどちらからともなく解く。扉の向こう側でアイラが鎮痛な面持ちで待っていた。二人の姿を見留めると、片膝をついて頭を垂れる。
「それでは行ってきますね、アイラ」
 あくまでも、シエナと共にある時は妃として。
 レミアは二度と逢えないであろう女官に、万感の思いを込めて声を掛けた。


 城を出立して、どのくらい経ったのだろう。小国カルドラルはすぐ目の前であった。国土の広いカーネリアは、軍を率いて自国の中を移動するだけでも随分と時を要する。
 エルガ将軍や近衛の者達に囲まれるようにして、シエナとレミアはそれぞれの馬に騎乗していた。どちらとも栗毛の馬で、同じ母馬の腹から生まれた兄弟なのだと聞いた。シエナの脇にはアーベル、レミアの脇にはエルガ将軍が並んでいる。
 シエナの異母弟であるルベルも、今回の戦には同行していた。こちらはまた別の護衛が付き、このような場であっても二人が一緒にいることは許されなかった。
「お辛くはありませんか」
 レミアが皇子であることを知らないエルガ将軍が、馬を寄せ、気遣うように声を掛ける。
「大丈夫です」
 声色を使って短く応え、レミアはまた前を向いた。
 シエナに並ぶアーベルは、何も見なかったかのように唇を引き結び、黙って前を向いたままである。目の端でそれを窺うと、シエナはひとつ息をついた。
 レミアの事情を知っているアーベルは、エルガ将軍の気遣いを片腹痛く思っているのだろうか。漆黒の瞳はただ自分の進むべき道を見据えているだけで、そこからは何も窺うことはできない。
 お互いの間に何があったにせよ、今は戦場に向かう時である。個々の感情を捨て、国のために勝利を収めて還らねばならない。アーベルとはあれ以来、あまり顔を合わせていなかった。それでも今、近衛の長である彼は、シエナとレミアを護るためにぴったりと脇に寄り添っているのだった。
 そのアーベルにも内密にやらなければならないことが、シエナにはあった。レミアを誰にも疑われることなく逃がしてやらなければならないのである。
 命を繋ぐためには、それしか(すべ)は無い。この戦、生きてカーネリアに還れたとしても、レミアにとって、もはやそこは今までと変わらず生きて行ける場所ではないのだ。
 いずれレミア皇女とラウナ皇子の入れ替わりは、周囲の者の知るところとなろう。そうなる前に逃げるための、この戦が唯一の機会なのである。
 首を巡らせ、隣に並ぶレミアを見た。視線に気付き、レミアも見返す。お互いに微笑もうとして、しかしそれは笑みにはならなかった。


 あと少しでリオドール国というところで、陣を設けることとした。もう少しで日も暮れる。完全に視界を奪われてしまってから動くことは避けたかった。
 選んだ場所はカルドラル国の領地内であるが、この国は勿論それに異論を唱えられる立場にない。こちらにどのような思惑があるにせよ、カーネリア国はカルドラル国への加勢という大義名分を持っているのだ。
 見晴らしの良い小高い丘に、自然の地形を利用して陣が設けられた。眼下の遥か遠くにリオドールの領地が見渡せる。ここから見る限りでは、相手側はこちらの動きにまだ気付いていないようだった。
 自然にできた洞穴などを利用するのがカーネリアの陣の張り方である。外側には大仰な幕などは用いず、よほど近付かない限りそこに陣があるとは分からないようにする。シエナとレミアは、岩肌に穿たれた自然の岩屋を寝所とした。
 シエナはその中に敷かれた夜具代わりの布の上に腰を下ろした。今までの戦では感じたことのない類の疲れが身の内に降り積もっているのを感じる。
 結局ここまでの行程では、レミアを逃すことができなかった。アーベルやエルガ将軍の隙の無い護衛が、却ってそれを妨げていたのである。
「本格的な戦いになるまでは無理か」
 ひとりごちて、小さく息を吐いた。疲れが少しばかり息と共に出て行ったような気がする。傍らに座るレミアの手が伸ばされ、シエナの肩を抱いた。微笑みで応えたつもりだったが、瞼が重くなって頭が傾いた。それを受け留めたのは、優しい肩。包まれるような暖かさに、シエナの意識が沈んで行く。


――すぐ近くで、異国の歌を聴いたような気がした。