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玻璃の橋板


〜二十四〜


「父上……!」
 レミアはその人を呼んだ。暖をとる為かリオドール国王は暖炉で火を起こしたばかりらしく、薪を片手に持ったまま振り返った。
「ラウナ……」
 不意をつかれたように国王の眼が見開かれる。その瞳はレミアと同じ、はしばみ色だった。
 手にした薪を傍らに置き、リオドール国王はレミアに向き直った。
 暖炉では、新しい火がぱちぱちと音を立てて大きくなっていく。二人の間に静寂が落ちた。
「何をしておいでです、父上? リオドール軍の将たる国王が、このようなところで……」
 応えはない。代わりに、嫌なものでも見た、といった視線が寄越される。
「リオドール軍は、湖の向こうに逃げて行きましたが?」
 目を細め、皮肉めいた口調で、レミアは続けた。
「その物言い……すっかりカーネリアの人間に成り下がったと言わんばかりだな」
 初めて国王がまともに口をきいた。こちらを蔑んだような言葉はレミアの感情を逆撫でする。
「皇子を皇女と偽って輿入れさせた挙句、その皇子すら人の道に外れた手段を講じて亡き者にしようとする父上に言われたい言葉ではありませんね」
 毅然とした態度でレミアは国王を睨み付けた。そこには自分の運命を嘆き、絶望し、悲嘆にくれていた輿入れ前のラウナ皇子はいない。偽りの妃としてシエナと出会い、お互いの秘密を知り合った上で愛し合い、力を得た一人の青年がいた。
「偉くなったものよ」
 揶揄(やゆ)するように国王が笑う。動いた拍子に、少し足を引き摺った。
「まさか……怪我を負って、それで隠れておいでなのですか?」
 レミアの眉がひそめられる。
「怪我を負ったから戦線を離れて一人で隠れておいでとは……。王族とは決して臆してはいけないもの。民を護り、国を護る責務を負う。戦となれば、自らも戦場に赴き、決して逃げることは許されない。そうして皆を護る王だからこそ、民は信じ、ついて行く。それなのに……」
 レミアの剣が、暖炉の炎を映して妖しく煌いた。
「あなたは……そんなに小さかったのですか。そんなあなたに、わたしは怯えて、そして憧れて……あなたの愛情を欲していたのですか」
 滑稽だった。
 いざとなれば軍を捨て、自分の命だけを可愛がる。そんな父王に一時は忠誠を誓い、認めてもらおうと必死になっていた自分が、とても惨めだった。
「誰でも自分が可愛い。自分の命は惜しい。潔く戦場に散ったように見える者達も、死の間際には『死にたくない』と足掻いて逝くものよ。王だからと言って、特別に心が強いわけではない。わたしとて、死は怖いわ」
 吐き捨てるように告げられた言葉は、レミアを感傷から引き剥がす。
 寝台の上でシエナの全てをこの腕に抱き締めた時、彼女の身体にあった無数の傷を思った。そのどれもがシエナが戦場(いくさば)において命を懸けた証なのだ。それなのにシエナは、臆することなく新たな戦いに挑む。怖くない筈はないのに、だがそれでも戦場に 向かうのは、兵を信じ、自分を信じ、民や大切な人を護りたいと願ったからではないのか。
 自分も死を覚悟してここに来た。この命を懸けてでも、カーネリア軍を有利に導き、シエナを護りたいと願ったから……。死が怖くないわけではない。だがそれよりも、護りたいと思う気持ちの方が上回るのだ。
「誰だって死は怖い。それは認めましょう。骸を見れば、明日は我が身かと震える気持ちも分かります。ですが、将に打ち捨てられた軍はどうなるとお思いですか? そうやって自分ひとり安全な場所に隠れている間に、あなたは指揮する者を失った何千という兵の命を危険に晒しているのです。確かに有能な将は、あなたの他にもいるのかも知れない。ですが、王が陣頭にいるのといないのとでは、その覇気に歴然とした差が出るのですよ」
「わかったような口をきくな!」
 国王は叫ぶと同時に剣を抜いた。暖炉の炎が、赤く刀身を照らす。
 ふと、レミアの顔が泣き出しそうに歪んだ。
――確信したのだ。
 この父王に、自分は命を狙われ続けて来たことを。
 刺客に何度狙われても、心の奥底のどこかに潜む、その事実を信じたくないと思う気持ちを打ち消し切れないでいた。だが今、父王は何の躊躇いもなく、自分に剣を向けている。
 これが現実なのだ。
 レミアはひとつ、息を吸った。
「どうしてわたしの命を狙ったのです」
 心の中でざわめく波が痛くて、レミアは眼を瞑った。
「それほどまでにわたしが邪魔だったのならば、いっそ生まれた時に……何も知らない無垢な赤児の内に、殺してくれれば良かったものを!」
 カッと見開かれたはしばみ色の瞳が、自分と同じはしばみ色の瞳を見据えた。
 暖炉の火が、大きな音をたてて()ぜる。ガサリと音がして、くず折れた薪が火の中に落ちた。暖炉から弾き出された火の粉が、刹那、光って消える。
「最初は知らなかったのだ。だからわたしなりに慈しみもした。だが知ってしまった以上、わたしはおまえの命を手駒として使うことにしたのだ」
――何を?
 そう問いかける言葉は、リオドール国王の繰り出した剣先に遮られる。不意をつかれて、レミアの頬に赤が一筋走った。すんでのところで切っ先をかわし、飛び(すさ)る。
「つくづく意のままにならぬ奴よ。レミアの代わりにカーネリアに送り、刺客に討たせようとすれば、その裏をかいてカーネリア軍と共にここまで乗り込んで来る」
 ゆらり、とレミアの背が揺れる。
「……異母姉上(あねうえ)が輿入れ前に死ななかったら、あなたはわたしの時のように戦の口実を作るため、異母姉上も殺したのですか?」
レミア(あれ)は殺さぬ。誠の姻戚関係を結ぶことができれば、カーネリアの内に深く食い込むことができる。あれが死んで……わたしはおまえを身代わりに立てることを思いついた。厄介ごとを二つ、一時(いちどき)に消すためにな。おまえの秘密が露見する前に、おまえを亡き者にし、その責をカーネリアに押し付ける。亡骸は使者団がすぐさま引き取って還れば、おまえの秘密が漏れることは無い。さすれば近隣諸国にも戦を始める大義名分が立とうというもの。我が国に(くみ)する国もあったであろうに……この、いまいましい奴め」
 かつては父王と慕った人の顔を、レミアは凝視した。
 髪の色こそ違え、はしばみ色の瞳だけでも似ていて良かったと思ったこともあったのに……今はその瞳さえ全く違うもののように見える。
――あなたは、誰?――
 す……と音もなく、レミアの剣が国王に刃を向けた。眉根を寄せたまま、レミアは唇に薄い笑みを刷く。
 常世の国への案内人のように禍々(まがまが)しくも美しい笑みに心奪われかけた刹那、レミアの剣が国王の頭上に舞った。
 キンッと、澄んだ音が響いた。どちらの剣からか、刃がこぼれて辺りに散った。
 振り下ろされた剣を、国王の剣が下から防いでいる。固い果実を搾るようにその柄にじりじりと力が加えられ、国王と剣との間が徐々に狭まった。
「あなたは……父上ではない」
 息を乱すこともなく少しばかり眼を細めて、相手の耳元で睦言をささやくようにレミアは言った。
 ふっ……と、ほんの少しだけ剣を押す力を弱める。つられて国王の剣が微かに浮いた。剣の重みで手首を返し、僅かにできた身体との隙間に刃を差し込む。半身を引いて国王の刃をかわし、そのまま一気に横に薙いだ。
「ぐ……っ」
 国王の胸から、嫌な音が響く。それが肉を斬り骨を砕く音なのだと気付いた時には、レミアの剣は天井に向かって真一文字に振り上げられていた。紅い飛沫がその彼方に舞い散った。
「お別れを言いましょう、父上」
 その言葉は、リオドールの王に届いたのだろうか。剣を握り締めたまま背からくず折れてゆくその身体は、糸の切れた傀儡(くぐつ)のように床に倒れて動かなくなった。


 レミアは、足元の動かぬ身体に視線を落とした。振り上げていた切っ先がゆっくりと下げられる。前かがみになっていた背を真っ直ぐに伸ばし、身体の重みを支えていた膝を揃えた。革の長靴の(かかと)が揃うと、ひとつ大きな息が漏れた。それは再び吸い込む動作に続き、嗚咽へと変わる。そうしてレミアは、自分が泣いているのを知った。
 敬愛していた父の腕は、こんなに頼りなく細かったのだろうか。いつもその瞳で見護っていて欲しいと願ったはしばみ色は、今は焦点も合わぬまま、ただ宙を見上げている。優しい言葉を聞かせてくれることを切望したその唇は、自身の中から零れ落ちた(くれない)に濡れていた。
「は……」
 レミアは眼を瞑った。
「はは……は……」
 涙が伝った頬のまま、レミアの肩が小刻みに震えた。
「は……はははは……はーっはっは……っ!」
 声色も使わず、レミアは(わら)った。身体を前に屈し、後に反らせ、声を上げて哂い続けた。


 開け放った扉から、エルガ将軍が静かに姿を現した。それにも気付かず、レミアは哂い続けた。
「レミア様……」
 掛けられた声に、レミアは振り返った。
「わたしは父王を殺しました。わたし自身の、この手で。わたしは……わたしは……リオドールの王をこの手で(ほふ)ったのです」
 紅に濡れた自身の剣をこれみよがしに突き出す。
「人の命とは、なんとあっけないものでしょう。あれほどわたしを悩ませ、苦しめた父王が、この一太刀で動かなくなる。これでもうわたしは、わたしを縛るものから自由になったのです」
 饒舌ながら、その視点は落ち着かない。そうしてレミアは、不意に口をつぐんだ。
「……わたしは、父を(あやめ)たのです」
 力の抜けた手から、剣が滑って落ちた。澄んだ音が響く小屋の中、レミアはがくりと膝をつく。エルガ将軍は静かに歩み寄ると、その肩に手を置いた。
「レミア様……いえ、ラウナ様」
 穏やかな声で呼び掛ける。レミアが弾かれたように顔を上げた。
 将軍の顔を見上げ、声色を使わずにいたことを思い出す。青年になり切る前の蒼い声ではあったが、それは女人のものにしては低すぎた。
「やはり……そうでしたか」
 将軍はレミアを見下ろしたまま唇を歪める。だがそこには、敵意など微塵も感じられなかった。
「剣の遣い方や身のこなしなど、時折そうではないかと思うこともありました。シエナ様も無論ご存知なのでしょう?」
 寄越される問いに、偽り切れないと悟ったレミアは黙って頷く。
「ならばわたしは何も申しません。このことは、わたし一人の胸の内に留めましょう」
 将軍は床に落ちたレミアの剣を拾い上げた。
「もう戻らねば。シエナ様が心配なさっておいででしょう。じきに日も暮れます」
 自分の懐紙で剣についた血を拭い、柄をレミアに向けて差し出す。
「何故……ですか?」
 剣を受け取りながら、レミアは問うた。
「何故、何もおっしゃらないのですか? わたしはカーネリアを(たばか)って、皇子であるのに皇女としてシエナ様のもとに輿入れしました。これはカーネリアに対する重大な裏切りなのだと、何故責めないのですか」
 受け取った剣を鞘に納めることも忘れ、レミアは問うた。
 暖炉では主を失った火が赤々と燃えている。時折爆ぜるそれは、二人の頬を一層赤く照らし出した。
「どのような意図が働いてこのようなことになったのか……(まつりごと)のことは、一介の武人であるわたしには分かりません。ですがラウナ様。わたしにはこのような茶番が、あなた様のご意思だとは思えないのです。おそらくリオドール国王の思惑なのでしょう。そして今、父上である国王を、自らの手にかけられた。あなた様ご自身は、カーネリアが不利になるようなことは、何ひとつなさってはいらっしゃいません。むしろ……お辛かったのではないかと……」
 優しく包まれるようなその言葉に、レミアは胸の内が震えるのを感じた。
 辛くなかった筈がない。ずっと秘密を抱え、気の休まる時がなかった。シエナといるその時だけが、本来の自分に戻れる時間だった。
「カーネリアの民や臣下の者は、おそらくわたしとは意見を異にするでしょう。ですがわたしは、あなた様を信じておりますよ」
 肘を将軍の手に導かれ、レミアは立ち上がった。足元の床には紅い血溜まりがゆっくりと広がって行く。
「父の死を見て取り乱しました。……わたしは自分が恥ずかしい」
 ぽつり、と漏らす。
「それも仕方の無いことでしょう。人を(あや)めるということは、無念の内に散った命をその身の上に背負うこと。ましてやリオドール国王は、あなた様の父上です。例えどんなに正当な理由が有ったとしても、身近な者を手にかけるという事は、必ずや心に波風が立つものです」
「……わたしのした事は、正しい道であったと評されるようになるのでしょうか」
 ここに来る途中、ひとりごとのように放った問いを繰り返す。
「おそらく……いずれ時が経てば」
 全てを知った上で、変わらず、力強い声が返って来た。
 レミアは将軍の眼を真っ直ぐに見つめた。はしばみ色の瞳が赤々と揺らめく炎に照らされて、物言いたげに揺れた。
 けれどもそれは、一瞬のこと。
 長い睫毛を伏せて軽く眼を閉じ、唇に笑みを刻む。次にその(とばり)を開いた時には、レミアの瞳には毅然とした光が宿っていた。


 将軍に先に出るよう促され、レミアは小屋の扉越しに外を眺めた。茜色は空の半分を覆って広がり、その反対側の地平は迫り来る闇に隠れようとしていた。
 草の匂いが、踏みしめた足元から香ってくる。歩けばサクサクと、微かな音を立てた。
 木陰に隠してあった馬は、大人しく主の帰りを待っていた。体にたかった虫を追い払っているのか、尻尾を時折跳ね上げている。レミアはその首筋を、掌で軽く叩いた。
 遅れて将軍がレミアのもとに大股で歩いて来た。その腕には、ちょうど片腕が回るほどの丸い布包みを抱えている。布の下端に滲む鮮やかな紅の()みに、レミアはそれが父王の首であることを理解した。
 レミアの視線に気付いたのか、将軍がそれを視界から遠ざけるように鞍の反対側に結びつけた。
「これも武人の務めですからな」
 謝するでもなく、ただ淡々と将軍は言った。おそらく今までにも何度もそういったことをしてきたのだろう。戦とは、こういう場なのだという思いをレミアは改めて噛み締めていた。
――戦のない世にできるならば……――
 戦の手駒にされた自分を思う。国と国とが(いさか)うことなく、平穏無事な(まつりごと)を行うことができたなら。
 戦によって農地を荒らされることもなく、また男達が戦場に送られることもなく、女達がその陰で泣くこともなく……。国の民が毎年の収穫を喜ぶことができたなら。
 臆することなく戦の指揮をとるのが王族ならば、戦の(うれ)いなく民が暮らせるようにするのもまた、王族なのだ。
 レミアは馬上の人となった。
 愛するシエナとの別離は、もうすぐそこに迫っている。
 自分はもう見届けることは叶わないだろうけれど、人の心の痛みを知るシエナならば、そんな国を造ることもできるのだろうとレミアは思った。