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玻璃の橋板


〜二十九〜


「彼に、逢いたいのでしょう」
 シエナの自室にいるのは、アーベルとシエナの二人だけである。公な婚約の披露目まで日が無い今、二人がひとつ部屋に居るのは自然なことと、周りの眼には映った。
 相変わらず、シエナの心は冷たく凍えたままだったけれど。
 許しを得てシエナの向かいの椅子にかけたアーベルが、彼女の顔を覗き込んだ。
「報せをお聞きになってから、ずっとそんな顔ばかりしていらっしゃる」
 ラウナが生きていると聞いてから、一層沈みがちなシエナを気遣う。戦から還ってよりこちら、ずっと塞ぎがちではあったものの、最近はより一層口数が減ったように思える。それはリオドールに居るというラウナ皇子のことが、常に心の中にあるからなのかも知れなかった。
「逢いたくないと言えば、嘘になる」
 遠くを見つめるような眼で、シエナは応えた。その瞳は、遥かリオドールの地に向けられているのだろうか。
「……正直な方だ」
 アーベルが、ふっと微笑んだ。
「わたしの気持ちの入り込む隙間など、寸分たりともありはしない」
 それは判っていたことだけれど、戯言のように言ってみる。口にしてしまってから、その言葉は小さな棘となって、アーベルに返って来た。
 逝ってしまった彼への気持ちごと、シエナを護ると言った。その気持ちに偽りはない。けれど、彼は生きていた。生きて、リオドールの国に居る。
 逢いたいと、シエナの心は乱れているのだろう。
 だが、カーネリアに輿入れしたのはレミア皇女だ。ラウナ皇子ではない。姻戚関係も白紙に戻されてしまった今、第二皇子ラウナが戻って来たからといって、カーネリアの女王が逢いに行ける道理がなかった。
 口数の減ったシエナは、見ていて痛々しかった。
「……すまない」
 アーベルの眼から逃れるように視線を外すと、シエナは小さな声で呟いた。
 逢いたいと願う、ラウナを想った。
 今頃はリオドールの城の中で、新王に頼られながら、的確な政をしようとしているに違いない。シエナが治めるカーネリアに、(あだ)なすつもりは決してないのだろう。だがリオドールの国益を優先させれば、いずれそうなることは明白であった。
 唇に、哀しい笑みが浮かぶ。
 女王として、この国を護らねばならない。後々の禍根の芽は、小さい内に摘んでしまわねばならないだろう。
 その為に自分ができること……。
 シエナはアーベルに視線を戻した。自分と同じ黒曜石の瞳は、まるでその視線が還ってくることを確信していたかのように、まだこちらを見つめている。
 その瞳を、シエナはしっかりと捉えた。
「ラウナに逢いたいとは思う。だが私が考えているのは、そのような甘いものではない。リオドールに彼が居るとなると、厄介なことになるのだ」
 シエナは己の危惧をアーベルに打ち明けた。


 シエナの危惧は、アーベルが使者として立つことによってすぐに宰相にもたらされた。取り急ぎ、宰相が長い回廊を渡ってシエナの自室に走って来る。行き交う侍官や女官は、その慌てぶりに、驚いて道を空けた。
「シエナ様!」
 上がったままの息を整えることもせず、宰相は女官ルチエラの案内もそこそこに、部屋に飛び込んで来た。
「失礼を!」
「宰相殿……」
 臣の長たるこの人がこうして来たということは、腹を括らなければならないということだ。もう既に、自分一人の胸の内で考えているだけの事柄ではなくなってしまった。
 シエナは、黒曜石の瞳に哀しみを湛えながらも、毅然とした態度でそれを迎えた。
「ラウナ皇子が戻ったことによって、リオドールに不穏な動きが出るやも知れぬと、そうおっしゃられますか」
 宰相が、とまどったようにシエナを見た。シエナはそれに頷き返す。
「ええ。トルメイン国の仲介によって約定を結んだは、一年余り前。リオドールも国政に翳りが見え、もはやカーネリアの行く手を遮る物なしと思ったのですが……そうは行かなかったようですね」
 寄越される宰相の視線を受け止め、シエナは静かに言った。宰相の表情が厳しいものに変わる。
「まさか……あのラウナ皇子が、カーネリアの行く手に差す『翳り』となろうとは」
 うめくような宰相の言葉に、シエナは哀しい瞳のまま眉根を寄せる。
 逃げて欲しいと願ったのは、彼に生きていて欲しかったからだ。どこか遠い国に落ち延びて、国政とは関わりのない場所で、静かに生きて行って欲しいと。
 願いは破れ、ラウナはその身を王室に戻された。そうとなれば、話は別である。
「彼の素質は、傍にいた私が最も良く知っています。何事にも真摯に取り組み、上達も速い。また真っ直ぐな心根と優れた容姿は、人心を掌握するのに余りあります。その彼が、新王の意のままに操られるのだとしたら……芽の出ない内に彼を潰すしか、カーネリアの安寧を護る道はありません」
 いつの間にか、頬に涙が伝っていた。人前でラウナのために涙を見せるのは初めてである。
「私は……わた……し、は……」
 強いように見えても、シエナの心はもう疲弊しきっていた。どうにか保っていられた平常心は、()けきった(ろう)に沈む直前の蝋燭(ろうそく)の炎のように、揺れて消えようとしている。
「ラウナ皇子を亡き者に……ですか」
 宰相が口にすることで、それは確かな決め事となったように、シエナには思えた。
「それしか道は……ないでしょう」
 シエナは握る拳に力を込めた。かつてはその命を護ろうと懸命になっていたというのに、今度はその命を取ろうというのか。
「政とは……国を護るということは、こういうことなのですね」
 眉根を寄せたまま、顔を俯けた。
「己の想いなどには関係なく、国を護り、民を護り、カーネリアの全てを護って……!」
 強く、眼を瞑る。
「そして私は、こんな心のままで生きて行かねばならないのだと……?」
 瞑った眼をカッと見開き、宰相を見た。睨むような視線は徐々に萎え、縋るようなものへと変わる。そしてそれさえも力尽き、やがて床に落ちた。
「すみません……取り乱しました。何か良い策を……」
 床に視線を落としたまま、シエナは短く、だが毅然とした声ではっきりとそう言った。
 宰相はそんなシエナの様子を、黙って見守っていた。やがて大きく頷き、口を開く。
「戦とするには、先の約定が邪魔ですな。刺客を放つにしても……これはあまり潔いものではない。せめてラウナ皇子の面目が立つようなものでなくては」
 腕組みをして、宰相はそれきり黙りこんでしまった。
 静寂が部屋に落ちた。それはどのくらいのものだったのか。やがて宰相は、諦めたように小さなため息をついた。
「わたし達で考えていても埒があきません。エルガ将軍とも相談して、最も良い方法を考えましょう」
 お疲れでしょうから、シエナ様はもうお(やす)み下さいと言い置いて、宰相は部屋を辞そうと歩き出した。
 扉を前に、宰相は気遣うようにシエナを振り返った。失ったと諦めていた人が生きていると知った喜び。それを噛み締める(いとま)もなく、その命を取らねばならないと告げた、我が国の女王。
 再び失うことに耐え切れず、それでも国の為に懸命に耐えようとしている背中がそこに在った。
「シエナ様」
 宰相は女王の名を呼んだ。
「……立派な女王になられましたな」
 それは賛辞であったけれど。
 傷ついたシエナの心には、嫌悪すべきことであるかのように響いたのだった。


 リオドール城の庭には、カーネリアのような豊かな水の流れがない。流れの少ない水はあちこちで淀み、しばらく経てば濁って底が見えなくなってしまう。
 庭を歩きながら、ラウナ皇子は苦い笑みを、その唇に刻んだ。
 この淀んだ水の色は、まるで今の自分のようではないか。
 リオドール城に呼び寄せられ、新王のもと、政にも関与するようになった。ひと月足らずの間に、ラウナはその才を認められるようになっていた。もともとは先王に認められたくて精進していた身である。少しのきっかけさえ有れば、それは大輪の花のように開花しようというもの。以前は先王に疎まれて、政の場から遠ざけられていただけのことである。
 あれ程気弱になっていた新王は、ラウナの才を知るや、また以前のような国の勢いを取り戻そうと、よからぬ事を考え始めたらしい。小国カルドラルの領地について、密かに調べさせているふしがある。それはかつて結んだカーネリア国との約定に反するものだ。
 ラウナにはその断片しか知らされない。ある小さな事柄について意見を求められるのみだ。異母兄は、やはり自分を完全には信頼していないのだろう。政の全てに関わることは、まだ許されていなかった。意見を求められた事柄について、最初は何の事か分からなかったが、総じて考えてみれば、おのずと答えは出た。
 いずれは、カーネリアへ。新王は、そう考えているに違いない。
 だが臣の身であるラウナには、知らされてもいない事実を勝手に推測して、新王に迫ることはできなかった。
 カーネリアで女王となったシエナを想った。
 彼女は今、どうしているだろうか。変わらず、自分を愛してくれているのだろうか。この身が生きて、城に戻されたのだと知って、何と思っただろう。
 シエナを想えば、愛しさに胸が苦しくなる。
 せめて、彼の国に害が及ぶことだけは無いように。
 自分の才が、その手助けとなってしまうのならば、いっそのこと……。
 シエナの為に生きると言った。だが彼女の為に、この命、差し出すことも厭わない。
 一度は死んだとされた身である。シエナの下す(めい)のもとであれば、いつでもまた逝く覚悟はできていた。


 シエナとアーベルの婚約の披露目まで、残すところあと十日を切っていた。
「お辛いのですね」
 父である宰相から、あの日のシエナの取り乱しようを聞いた。すぐに駆け付けて傍にいたい気持ちに駆られたが、そんなことをしても何の慰めにもならないと、自重した。
 自分が傍にいれば、ますますシエナは傷つくだろう。それぐらいのことを、理解できないアーベルではなかった。
 それでもやはり、一人にはしておけないと思う。そう思うから、こうしてのこのことシエナの自室まで足を運んでしまうのだ。
「私は彼に、必ず護ると誓った。カーネリア国内にいる間、必ずその身を護ってみせると。だがこの国を出た途端、今度は私自身がその命を取ろうとするのか……」
 誰に聞かせるわけでもなく、シエナは言った。
「シエナ様……」
 独り言のように呟いた声を、アーベルが受け止める。傷ついたその身体を引き寄せようと手を伸ばしかけ、だがその指は躊躇(ためら)うように握りこまれてシエナに触れることはなかった。
 アーベルは、シエナから視線を引き剥がす。愛しい人をずっと見ていたかったが、苦しむ姿を見るのは辛い。
 窓の外に眼を転じた。緑濃い木の葉が、今はねっとりとした闇に沈んでいる。大気さえも息をひそめ、動くことを躊躇っているようだ。
 自分ならば、どうするだろう。シエナと共に生き、シエナに護ると告げられて、そしてこの国を出て……。今度は反対に、彼女によってこの命を取られようとしていることを知ったなら。
 眼の前の、哀しみに押しつぶされそうになっている、愛しい人を見つめる。
――こうやって、自分のために苦しんでくれていることを知ったなら――
 自分は……。
 それだけで、もう良いと思える。
 離れていても、これ程までに自分を想ってくれたのなら、それだけで幸せな気持ちのまま逝けそうな気がする。
 そして、できるならば……。
 できるなら、彼女自身の手に掛かって逝きたいと思うだろう。
 淀んでいた大気が動き、ふわりと風が舞う。その風に導かれるように、アーベルは手を伸ばした。
 伸ばした指先で、あの戦以来初めて、何の念にも囚われずにシエナに触れた。そのままその身体を優しく抱き締め、彼女の使う(こう)を叶う限り胸一杯に吸い込んで眼を瞑る。そして言った。
「彼は、あなたの手に掛かることを、願っているのかも知れません」
 アーベルは、眼を瞑ったまま微笑んだ。それはまるで自分がその手にかかるかのように哀しみに彩られてはいたが、何もかもを内に呑み込んで笑んだように見えた。
 シエナはアーベルの言葉を、触れ合う身体を通して直に聞いた。その響きは、直接心に染み込んで来る。記憶の底から、何かが呼び覚まされるようだ。そうしてシエナは、あの日を思い出した。
『あなたが魔性だったなら良かったのに。あなたの手にかかって逝けるなら、どんなに幸せか』
 それは、戦になると告げた夜、閨においてラウナが言った言葉だ。シエナの髪の結いを解き、遠い北国の雪に棲む、美しい魔性のようだと言った。魔性に魅入られた者は眠るように生命を落とすという言い伝えを告げた後、ラウナは言ったのだ。
 シエナの手にかかって逝きたい、と。
「……そうなのかも知れない」
 彼がまだ、自分を愛してくれているのなら。
 そう思っていると、信じても良いような気がした。


 今日の会議の議題は、婚約の披露目についてであった。式の次第をどのようにするか、最終的な打ち合わせがされるのである。
 シエナの隣の席にはいつも宰相や将軍などの高位の臣が着くのだが、今日はアーベルが座っていた。
 アーベルの位が近衛の長であるとは言っても、臣の中にはまだまだ位の高い者がいる。それを押し退けてここに座るということは、シエナの伴侶、つまりは女王を支えて共に国の表に立つ、王婿(おうせい)とみなされてのことであった。
 慣れぬ高い席に、アーベルはいつもより緊張しているように見える。シエナはそれを見て取り、軽く頷いて見せた。
 昨晩、アーベルが言ってくれた言葉。
 そのお陰で、自分は大切なことを思い出すことができた。
 感謝している。
 その気持ちは、ずっと以前――シエナがまだ、レミアと名を変えたラウナ皇子を愛する以前に寄せていた、アーベルへの信頼を取り戻したかのようでもあった。
「では、この案件については、これで決定とする」
 宰相が、婚約の披露目についての議題を締めくくった。
「次の議題は、リオドール国のラウナ皇子について」
 続く案件を告げる宰相の声は重い。それを耳にするや、シエナが一瞬、身を固くした。隣に座るアーベルは、それを見逃さなかった。
 武官であるアーベルは、物の気配を敏感に感じ取ることができる。シエナの呼吸がほんの少し乱れたのでさえ、手に取るように感じることができた。
「皆も知っての通り、リオドール国のラウナ皇子が、生きて還って来たという報せがあった。彼は一国の主とするにはとても良い人物であるが、あの新王のもとで臣となれば 、この国にとって憂慮すべき事態を招くやも知れぬ。そこで……」
 宰相の話は、続いている。アーベルは、見るともなしに式次第の案件が書かれた紙に視線を落とした。
 あと数日の内に、自分はシエナと添うことを約束される。その心の全てを手に入れることはできないだろうけれど、その髪に触れ、身体を抱き締め、愛していると告げることを許される。
 だがそうやって、どれだけ愛していると告げても、シエナの心は自らがその手に掛けたラウナ皇子を想うのだろう。
 戦で敵の誰かの手に掛かるのではない。自らが指揮し、自らが決めた方法で、ラウナは命を落とすのだ。それはシエナが常世の国に旅立つまで、ずっと心の中の大半を占めるのに違いない。
 生きている時よりも、一層鮮やかに。
 そうして自分は、そんなシエナをずっと愛し続けるのだと……。
――耐えられるのだろうか。
 いつか自分は、シエナの心の全てを手に入れたいと思ってしまうのではないだろうか。思えば、それは願いになる。願いはやがて、切望へと変わるだろう。
 嫉妬というどす黒い感情を抑え切れずに、自分は何をした?
 また同じ(てつ)を踏んでしまうのではないだろうか……。
 披露目の式次第の文字を見透かすようにして、その奥底に、自分とシエナが並んで立っているのが見えた。それは徐々に揺らいで行き、漆黒の自分が、(まばゆ)い黄金色のラウナ皇子の姿に変わる。シエナは幸せそうに微笑んで、二人は互いを見つめ、口付けを交わす……。
 アーベルの頭の中に、ある考えが稲妻のように閃いた。
「……!」
 前触れもなく、唐突に落ちて来た考えに、アーベルは自分の背がびくりと動いたのを感じた。会議の間を見渡す。先ほどと変わらず、宰相がラウナの案件について話を進めている。瞳だけを巡らせてそっと隣を窺えば、シエナは鎮痛な面持ちで、それを聞いていた。
 ふと、昨夜胸一杯に吸い込んだ、シエナの香りを思い出した。
 甘く、切ない香り。
 思い返せば、そうやってシエナの香りを意識したことは、今まであまりなかったように思う。シエナを愛していることを意識してからは、自分を律し続けて来た。無垢な心で彼女の近くに居たことは、無かったと言っても良いだろう。
 昨晩、彼女の香りは甘く、切なかった。
 ラウナ皇子は、何度となくその香りを感じたのだろう。見つめ合い、(いだ)き合い、そして……。
 シエナが本来居るべき場所。
 ラウナ皇子の傍らこそが、シエナの生きる場所なのだと、この時アーベルは悟った。


 それは、シエナを今の地獄から救い出す、唯一の道である。
 だがそれを知らせてしまえば、せっかく舞い込んで来たシエナとの婚姻の機会を、自ら潰すことになるのだ。長きに渡って募らせて来た想い。どんな形であれ、それが成就する日も近いというのに。
 けれど、このままでは……。
 ラウナを廃せば、シエナの心は今度こそ本当に壊れてしまうだろう。誰かに命を取られるわけではない。シエナ自身が彼の命を取ることとなるのだ。どんな綺麗な言葉で自分を納得させようとも、それは彼女の心の傷となろう。
 宰相の話は、まだ続いていた。対応策を考えるのに、苦慮している様子が窺える。
 アーベルは意を決し、深く息を吸い込んだ。
「お話の途中ですが」
 突然口をはさんだアーベルに、会議の間にはざわめきが走った。いくら話しているのが父である宰相であったのだとしても、ここは公の席である。臣の長たる宰相の話の腰を一介の武官が折って良いわけはない。
 非難の意を含んだ皆の眼が、一様にアーベルに向けられた。
 それを一身に受け、アーベルはそれでも胸を張り、凜とした瞳で皆を見返した。
「何故、取り除くことばかりをお考えになるのです? シエナ様とラウナ皇子。このお二人の婚姻をお考えになってはいかがですか」
 静かに、だが確固たる信念を持って告げる。会議の間が、水を打ったように静まり返った。
 考えてもみない事だった。
 二度も、リオドールからシエナの『伴侶』を得ようとは。
 とりわけ、一度目の婚姻の全ての事情を知っている宰相とエルガ将軍、そしてシエナの驚きは、推し量るに余りあった。
「それ程優れた人材ならば、無理に廃そうなどとは考えず、カーネリアに取り込んでしまえば良いと思われませんか?」
 アーベルの眼が、皆を見渡した。
 ラウナ皇子の才を潰すのではなく、上手くこのカーネリアに取り込むことができたなら。そうすれば、リオドールとの国力の差は、また一段と違うものになろう。
 正直、戦でもなく、刺客を放つのでもなく、ラウナ皇子を亡き者にすることは、難しい話であった。これを婚儀という形で『盗る』のであれば、少なくとも彼を亡き者にするよりも上手くいくかも知れない。
 会議の間が、つい今しがたまでとは違った色にざわめいた。それは徐々に波が寄せるように大きくなっていき、ついには誰が何を言っているのかすら判らない程の音量となる。既にアーベルの方を向いている者はおらず、宰相すらもその隣のエルガ将軍と額をつき合わせて何事かを囁きあっていた。
「アーベル、良いのか?」
 その喧騒の中、ひどく驚いた面持ちで、シエナが問うた。その声は小さく、隣にいるアーベルにしか届かなかったけれど。
「良いのか、とは?」
 アーベルは、全てを悟ったように訊き返す。
「ラウナを私の伴侶とするということは、おまえとの……」
「わたしとの婚儀は無かったことにすることだ、とおっしゃるのでしょう?」
 シエナの言葉を遮って念を押すように言うと、アーベルは諦めとも安堵ともとれるため息をついた。
「それで良いのです。シエナ様も辛い思いをなさらなくて済む。またわたしも、ようやく自責の念から逃れることができるのです」
「自責の念……おまえは、まだ……」
 シエナが気遣うようにアーベルを見た。
「すまない、アーベル。私は自分の気持ちにばかり囚われて、見護ってくれるおまえの気持ちなど、考えてはいなかった」
 そうさせたのは、この自分なのに。伸ばす手を躊躇わせてしまったのは、自分への想い故のことだったのに。自分ばかりが哀しみを背負っているような顔をして、シエナは漆黒の従兄に、随分酷いことをしてきたのだと悟った。
「いいえ、シエナ様。わたしは逃げるのですよ」
 アーベルは、ふと、唇に笑みを刷く。
「あなた自身の手に掛かってラウナ皇子が逝ってしまえば、あなたはもう彼を忘れることはできません。わたしはあなたを愛しています。共に夫婦として在れば、いつかはあなたの心を手に入れたいと、想ってしまうでしょう。決して得られることのない想いを得たいと願って苦しむのは、もう嫌なのです。それならば、最初から何も手に入れない方が良い」
 シエナの手が、躊躇うようにアーベルに伸ばされる。笑んだまま一瞬早く自らの掌でそれを制し、アーベルは会議の間の皆に眼を向けた。ガタリと椅子をひき、立ち上がる。その場の誰もが口をつぐみ、毅然と立つ近衛の長を見上げた。
「時期は、今。リオドールがまだ国力を盛り返さぬ内に、ラウナ皇子を寄越すように通達するのです。今であれば、万が一戦になったとしても、我が国が圧勝するでしょう。リオドールはそれを怖れて、彼を差し出すと思われます」
 アーベルの言葉は、自信に満ち溢れていた。聞いていた宰相が、満足げに大きく頷く。宰相の様子を視界の端で見留め、アーベルは更に確信を持って皆に告げた。
「ラウナ皇子をこちらに寄越すならば、今後カーネリア国はリオドール国を護ることを約束すると言うのです。今はまだ、ラウナ皇子の才について、新王は全てを把握したとは言えないでしょう。彼を確実には信頼していないかも知れません。ならば、大国カーネリアの(なが)の庇護を約束された方が、リオドールにとって利があるというもの」
 アーベルの策は、その自信に満ち溢れた物言いも手伝って、必ず遂げることができそうに思えた。
 静かに椅子にかけると、アーベルは誰にも気取られぬよう、小さく息を吐いた。
「……如何ですかな」
 息子の策を後押しする形で、宰相が皆を促す。会議の間の誰もが、その意見に異を唱えることは無かった。
 ひとつ、ふたつ、手を打ち合わせる音が響く。その音は次第に集まって大きくなり、遂には割れんばかりの拍手が会議の間にこだました。
 シエナは、隣に座るアーベルを見上げた。前を向く黒曜石の瞳は、全ての色を塗り替え凌駕する黒に沈み、何も窺わせない。
「アーベル……有難う」
 見返してはもらえない瞳に向かって、シエナはそっと告げた。
 囚われていた想いから、解放してくれた。最愛の人を廃さなくとも、カーネリアを護る(すべ)があることを教えてくれた。
 逃げたのだ、などと口では言うけれど、それでもやはり自分を護ってくれたのだと思う。
 アーベルからの返事は無かったけれど。
 それでもシエナは、心の中で何度もその言葉を繰り返した。