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彼の気持ち


〜振り向いて 二〜


 翌日。すがすがしい気分で朝を迎えた僕は、いつもより早く起きて一階のダイニング・キッチンに降りた。
「あら。早いのね、聖夜」
 母さんが朝食の支度をしながら振り向く。
「ん。なんだか気分が良くて」
 昨日の事を思い出すだけで、つい顔がゆるんでしまう。今日はいつものポーカーフェイスなんてできないかも知れない。直哉には昨日の事はまだ言ってない。聞いたら驚くだろうな。
 そうだ。確か今日は剣道部の朝練は無いはずだ。時間を合わせれば、一緒の電車に乗ることができる。いや、少し早めに出て、桐生さんの乗る駅で待っていよう。
 そう考えた途端、僕は食べかけの朝食もそこそこに、家を飛び出した。


 僕の乗る駅から桐生さんの乗る駅までは一駅だ。彼女はまだ乗っては来ないだろう。次の駅に着くと僕は通勤や通学の人たちで混雑した車内を後にした。
 降りてから、二本の電車を見送った。構内に次の電車の到着を告げるアナウンスが流れる。おかしい。この電車を逃すと、始業時間ぎりぎりになってしまう。この時間にホームにいないって事は、今日は休みなのか? ……そう考えた時。
「うわーっ、遅刻だぁっ!」
 聞き覚えのある声とともに駅の階段を駆け上って来る音がした。桐生さんの姿が階段の下から現れた時、無情にもドアは閉まる。駅のホームに座り込む彼女が見えた。僕には気づいていないようだ。桐生さんはベンチに座ると、学生鞄の中からお弁当箱を取り出した。彼女らしい。僕は笑いをこらえて彼女の前に立った。
「おはよう、桐生さん」


 彼女が顔を上げると、僕は我慢し切れなくなって、とうとう笑い出してしまった。
「女の子も早弁なんてするんだな」
「あ……。おはよう」
 桐生さんは照れたように言う。
「隣、いい?」
 彼女の返事も待たずに、僕は隣に座った。
「これは早弁じゃないの。朝ごはん」
 ちょっとぶーたれたように言った後、桐生さんはふと僕の顔を見上げた。
「今日はどうしたの? 葛西くんの乗る電車、直通でしょ? こんなところで降りなくてもいいんじゃない?」
「今日も桐生さんたち剣道部の朝練ないだろ。時間合わせて待ってたんだ」
「弓道部の朝練は?」
「ウチの朝練は自主トレみたいなモンだから。今日も休み」
「いいのかなぁ?」
 桐生さんはちょっとおちょくるように言った。
 良かった。自然に話しができる。彼女も全然構えていないようだ。
「それにしても桐生さんって、いつも走ってるんだね」
 思い出して、ふいにまた笑いがこみ上げた。
「いつも……ってワケじゃないよ。たまたまよ、たまたま」
 近くの踏み切りの警報機が鳴り出し、ホームに次の電車の到着を告げるアナウンスが流れる。程なく滑り込んで来た電車に僕たちは乗り込んだ。


 学校への道のり。遅い時刻だからなのか、同じ高校の生徒はあまりいない。後ろから自転車の近づく音が聞こえてきた。自転車に乗った生徒が、追い抜きざまに僕たちを振返る。
「あれー? 葛西! なんで桐生と一緒なんだぁ?」
 直哉だった。ありゃ。見つかっちまった。
「見りゃわかるだろ? そういうこと」
 僕はちょっと意地悪く笑った。
「そ? ……ういうこと……?」
 直哉は僕と彼女を見比べ、眼をみはる。案の定びっくりしているようだ。口をパクパクさせている。後で追及されるんだろうな。
「そ。そういうことだ」
 僕はヤツの背中を『ポンッ』と叩いてやった。


 やっぱり一時限目が終わると直哉は教室にやって来た。
「葛西、おまえ……」
「あー、わかった。外出ろ。外」
 言いかける直哉を制して、教室の外に出る。階段の脇の人の来ない所まで直哉を引っ張って行った。
「桐生にコクったのか?」
 興味半分、やっかみ半分の面持ちで直哉がまくしたてる。
「まあな。成り行き上、そういう事になっちまった」
 僕はポリポリと頭を掻いた。
「で、一緒に登校して来たってコトはOKだったのか?」
「とりあえず」
 昨日の桐生さんとのやりとりを思い出し、僕は思わずため息をついた。
「OKはもらったんだけどさ。やっぱり僕の事なんて眼中になかったみたいだ」
 言ってから、ちょっと悲しくなった。直哉が僕の背中を『ばしぃっ』と叩く。
「いーじゃねぇか。オレなんて名倉に即攻で断られたんだぞ」
「……痛ってぇな。思いっきり叩くなよ」
 僕は思わず咳き込んだ。
「オレももう一回チャレンジしてみっかな」
 拳を握り締めて直哉が言う。その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
「おまえ、タフだな」
 僕はあきれた。
「おぅよ。オマエだけ幸せなんてズルいじゃねーか」
 そのままダダーッと走って行こうとする。
「おい。何するつもりだ?」
 とっさにヤツの学生服の裾を掴んだら、直哉は勢いあまって後ろにひっくり返った。上履きのスリッパがぬげてポーンときれいな放物線を描く。あっ。ヤベ……。あわててヤツの顔を覗き込む。直哉は怒りもせず、そのまま上体だけ起こした。
「とにかく彼女と話す。友達からスタートだ」
 ニッと笑って親指を立てて見せた。


 三限目は選択授業だ。桐生さんと僕は美術、名倉さんと直哉は音楽をとっている。隣のクラスと合同でそれぞれの選択した授業を受けるんだ。
 放課になると、名倉さんが桐生さんのところにすっ飛んで来た。ははん。直哉が何か言ったな。時々『葛西くん』と僕の名前が出てくるのが聞き取れる。やっぱりね。僕はポーカーフェイスを装いながら耳だけダンボにして、彼女たちの話を聞こうとした。んー。ここからじゃ、よく聞こえない。
 僕の席は窓際、桐生さんの席は教室の中程だ。二人はひそひそ声で話しているのでムリだな。その内に名倉さんの迫力に押されて桐生さんが後ずさった。そこでタイミング良く予鈴のチャイム。みんなそれぞれの席に座る。
 ふいに桐生さんがこちらに顔を向け、視線が絡まった。彼女は『にっ』と口の端をあげて作り笑いをする。その顔がかわいくて、彼女らしくて、僕は笑いをこらえるのに苦労した。


「はあーっ」
 弓道場の片隅で直哉がため息をついた。
「どうしたんだ?」
 僕はヤツの顔を覗き込む。
「まーた玉砕しちまったぜ」
 直哉は固めをつむってウィンクすると、乾いた笑い声をたてた。
「オマエ、僕と桐生さんの事、名倉さんに言っただろ」
 僕はしれっとした眼で直哉を見る。
「あ。バレた?」
 バツが悪そうに直哉は頭を掻いた。
「別にいーけどさ」
 ヤツの顔がホントにすまなさそうで、つい僕は笑ってしまった。


 今日の稽古も随分遅くなってしまった。その上、顧問の足立に少し残って稽古するように言われたので、僕が部室を出たのは地面に映る影が随分長くなってからだった。
 この時期、三年生の先輩はもう部には出てこない。二年生のうちで、なぜだか僕が次の部長に選ばれてしまった。部室の鍵を預かるのは部長の務め。人気(ひとけ)が無くなった部室まわりを点検して、僕は鍵をかけた。


 校庭の向こうの方、校門の近くに目をやると、背の高い女子と背の低い女子が連れ立って歩いているのが見えた。ひょっとして……。桐生さんじゃないか? 僕はその人影に追いつこうと走った。さんざん稽古した後だったんで、なんだか前に進まない。人影がはっきりそうだとわかった時、彼女達は校門を出るところだった。
「桐生さーん」
 随分距離があったけど、僕は呼んでみた。声が聞こえたらしい。彼女達が振り返る。僕は息を切らしながら彼女達に追いついた。
「一緒に帰ろ……。桐生さん」
 情けない。息が随分あがっている。
 桐生さんは一歩引いて笑顔を作り、名倉さんの腕をつかんだ。
「今から私たち、コンビニ・アイスするの」
 苦笑しながら名倉さんが優しくその腕を解く。
「葛西くんと帰んなよ。アイスは今度にしよ。悠真のオ・ゴ・リでね」
 人差し指を立て『オゴリ』のところを一語一語区切って言う。そして手を振ると、名倉さんは走って行ってしまった。
「僕、なんかジャマしたみたい?」
 僕は心配になって桐生さんの顔を覗き込む。
「そんなことないけど」
 彼女はちらっと僕を見上げた。
「女の友情の証、コンビニ・アイスが遠くなった」


 桐生さんが暖かい物でも飲みたいと言うので、僕達は駅近くのショッピング・モールにある喫茶店に入った。
「あー、あったかーい」
 彼女はホット・ミルクを一口飲んで幸せそうな声を出す。
「部活で汗かくでしょ。その後に着替えても体冷えちゃっててねぇ」
 そう言って僕に向かって目配せした。
「でも名倉さんとコンビニ・アイスするつもりだったんだろ」
 女の子の考えることはわからない。寒くてもアイスは良いんだろうか? 僕は多分不思議そうな顔をしていたのだろう。彼女は小さく微笑んだ。
「コンビニの中って、半端じゃなくあったかいからね。暖かいトコで冷たい物食べるのもいいんだな、コレが」
 学校近くのコンビニは中で飲食ができるようになっている。僕はあんまり利用した事がないけど。ふと彼女のホット・ミルクに目が留まった。
「ふーん。で、桐生さんミルク好きなの?」
「ホントは大嫌い。でも背が伸びるかな、と思って」
「嫌いなのに飲むんだ?」
 そんな所が彼女らしくて、僕はつい笑ってしまった。
「背の高い人には、低い人の気持ちなんてわかんないよ」
桐生さんの頬がふくらむ。彼女は僕より頭2つ分背が低い。小さい方がかわいいのに。
「背高くても苦労するんだよ。ウチ古いからさ、鴨居(かもい)が低くて。いちいちお辞儀して通らなきゃ、頭ぶつけそうになるんだ」
 いや。ホントは時々ぶつけてるんだけど。桐生さんがミルクを吹きそうになる。
「あ。今、変なコト考えただろ」
 僕は彼女を見て照れ笑いした。


「昨日さ、葛西くんが作ったキッカケ私が全部蹴散らした、って言っていたけど、どんなことしたの?」
 桐生さんが唐突に話を切り出した。ちょっといたずらを楽しむような笑みを浮かべて。
 僕は飲みかけていたコーヒーを危うく吹くところだった。
 げ。覚えてたの?
「な……なんで今頃そんなこと聞くの」
 僕は少なからずうろたえた。
「いやー、男の子ってどんなこと考えるのかなぁ、と思って」
 彼女はテーブルに頬杖をついて僕を見上げる。そのくるくる動く瞳に見つめられて、僕は観念した。
「うん……と。桐生さんの机の上に僕のネーム入りのシャープ置いておいたり、下駄箱で一緒になるように部活の時間合わせたり……」
 彼女は興味しんしんって顔してる。
「僕のシャープは戻って来なかった。下駄箱で会っても始業時間ぎりぎりで、桐生さん走ってばかりいたし」
 僕は思い出して、ため息をついた。
「ありゃ。Sってネームの、あれ葛西くんのシャープだったんだ。そっかー。『聖夜』のSね。沢田のSじゃないんだ。てっきり斜め前の沢田くんのだと思ってあげちゃったよ」
 はいはい。そうです。その通り。
「はい。次の放課に見つけて愕然としました。沢田ってネームとか気にするヤツじゃないし。まだ使ってんじゃないかな。あいつ」
 僕はコーヒーを一口飲んだ。


「でもさ。そんなにする程、私のどこが気に入ったわけ?」
 少しの間があって桐生さんが尋ねる。彼女の表情は真剣だ。
 僕は飲みかけのカップを下に置いた。彼女が落としたミニ・タオルのこと、ちゃんと言わなくちゃ。
「一年生のころ部活の休憩中に桐生さんを見かけたとき、同じ弓道部なのかと思ったんだ。剣道着と弓道着は似てるからね。遠くからだったから見間違えた。桐生さんが行った後にミニタオルが落ちててさ。渡そうと思ったんだけど、同じ弓道部に君はいなかった。剣道部だってわかった時は、もう時間経っててさ。ミニタオルはそのまま渡しそびれちゃったけど、桐生さんのこと気になって見てたらいつの間にか好きになってた」
「そのミニタオルはどうしたの?」
 桐生さんのミニ・タオルは、まだ引き出しに入ったままだ。
「大事にしまってある」
「ははは……。葛西くんにあげるよ、そのミニタオル」
 彼女は照れたように笑った。そして小声で言う。
「まさか、頬擦りとか匂い嗅いだりとかしてないよね」
 上目遣いに僕を見上げた。
「そんな変態チックなことはしてないよ」
 思わず僕は笑ってしまった。
「そ。よかった」
 彼女も笑いながら、もう冷めかけたホット・ミルクに口をつけた。


「そろそろ行く?」
 二人の前の飲み物が空になり、ウェイトレスが二度目の水をついで行った後、僕はレシートを持って立ち上がった。
「うん」
 桐生さんも遅れて立ち上がり、後に続く。
 レジで支払いをしようとしたら、彼女が僕の学生服の脇をつんつんと引っ張った。
「私の分いくら?」
 鞄から財布を出そうとする彼女を笑って制止した。
「僕が払うからいいよ。こういう時は男に恥をかかせないの」
「いいの? ……じゃ、ごちそうさま」
 彼女は笑顔になると、軽く頭を下げた。


 ちょっと寄り道をしていたら、会社から帰る人たちと電車が一緒になってしまった。座席は埋まっていたので僕達はあまり中に進めず、出入り口付近に向き合って立っていた。
「今度の球技大会、葛西くんは何に出るの?」
 他愛も無い話のついでに、ドアの外を眺めながら桐生さんが言った。
「僕はバスケ」
 中学の頃バスケ部だったし。
「そっかー。背高いから適役だよね」
「桐生さんはテニスだろ」
 テニスの種目にテニス部と卓球部は出場できないことになっている。普段長い物を振り回しているからと、剣道部の二人が推薦されたのを覚えている。
「あれ。良く知ってるんだね」
「そりゃあ、好きな人のコトだから」
 さらっと言ったつもりだったけど、心臓が少しドクンとした。


「葛西くんって、コロンつけてる?」
 途切れた話を繋ぐように桐生さんが僕を見上げた。
「つけてるよ。部活で汗かくからね。身だしなみ」
 高校に入ってから急に男臭くなったのが気になって、僕はコロンをつけるようになっていた。
「ふーん。私はつけてないけどな」
「女の子はいいんだよ。男は『男くさい』っていうぐらいだからね」
 男子の部室の匂いといったら! いやなモン思い出しちゃったよ。思わず僕は鼻をつまんだ。
 桐生さんは何かを考えていたが……。
「ねぇ、私くさくない?」
 唐突に僕の顔を見上げた。ふいを突かれて、一瞬何を聞かれたのかわからなかった。彼女の言葉の意味が理解できた時、思わず僕は笑い出した。
「いいなあ。そういう自然体のところ」
「どういうこと?」
 彼女は僕が笑っているのが気に障ったのか、ちょっとぶーたれた声で聞き返す。
 僕は目尻に溜まった涙を拭きながら言った。
「僕が桐生さんを好きなワケ。自分を飾らないから。普通女の子って男に向かって『私くさい?』なんて聞かないよ」
 また笑いがこみ上げて来た。ひとしきり笑った後、彼女が何か考え込んでいるのに気づいた。あれ? 怒らせたかな。
 彼女の降りる駅名を告げるアナウンスが流れる。まずい。
「どうした?」
 僕は桐生さんの顔を覗き込んだ。怒っているんじゃなさそうだ。何か……困っている?
 小さな音をたてて、電車のドアが開く。
「ん……。じゃね」
 そのまま行ってしまおうとする彼女の手を捕まえ、引き寄せた。
「ちょっ……電車出ちゃう」
 電車なんて次の駅で降りればいい。僕は静かに言った。
「いいから。ちゃんと話、して」
 ドアが閉まる。
 桐生さんは観念して僕を見上げた。そしていったん視線を外し、ひとつ深呼吸をして言った。
「私は葛西くんを男として見ていないんだと思う」
 うん。そんなことは……。
「そんなコトわかってるよ」
 諦めでもない、静かな感情が僕を包んでいた。電車がまた静かに動き出す。
「好きだって一方的に告白したのは僕の勝手。気持ちに答えられないからって、桐生さんが落ち込むことは無いよ」
 今はただ、こうやって話ができるだけでも夢みたいなんだ。
「一年半待ったんだから。あせってないよ。僕のこと嫌い……っていうなら別だけど」
「そんなこと、無い!」
 強い調子で彼女が否定した。僕はホッとして続ける。
「ありがと。今は愛情じゃなくても友情くらいは感じてくれてる?」
「うん。友情感じてる」
 ブンブンと首を縦に振って彼女は答えた。彼女の言葉は魔法の言葉。僕の心はまた温かくなった。
「じゃあ、すごい進歩だ。それだけでも僕は嬉しいよ」
 ドアのガラスの部分から差し込む斜陽を見ながら、僕は笑った。