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氷の楼閣


〜乱〜


 豊かな水をたたえてゆったりと流れる河。気ままな散歩を楽しむかのように蛇行したその河が、ひときわぐるりと大きく蛇行した内側に、こんもりとした森に守られて城の建物が見え隠れする。
 河をはさんだ対岸には黄金色の絨毯がひろがる。遠目には柔らかな毛織物にも似たそれは、頭を垂れた穀物が収穫の時期を待っている田畑だ。
 黄金色の絨毯の間を真っ直ぐに貫く一筋の道。この国への唯一の入口であるその道は、河にかかる大きな橋に続いている。
 近隣諸国の中でも、カーネリア国に次いで二番目の国力を誇るトルメイン国。緑豊かなこの国は、荘厳なつくりの城に住まう温和な王によって平和の内に治められていた。確かに、数日前までは。


 今、橋に続く道を、黄金色の絨毯の側から馬や大きさの違うさまざまな馬車を連ねたものものしい行列が進んで来る。行列は橋の手前まで来ると、そこで止まった。
 橋の反対側、城の方からも美しく飾られた馬車が馬に乗った従者達を従えて、時間をかけて進んでくる。河をはさんで橋の向こう側とこちら側に、明らかに違った様式で飾られた馬車が向かい合った。
 向こう側の行列の中から女官が二人進み出て橋を渡る。渡り切ったところでこちら側の馬車の中に向かって立ったまま深々と礼をした。
 こちら側の馬車の足下に台が置かれ、静かに扉が開けられる。
「皇女様、お手を」
 側仕えの従者が馬から降りて扉に向かって手を差し出す。中から白い華奢な手が現れて、差し出された手をとった。
 ふわり、と羽根が舞い降りるように馬車から降り立った皇女。十六歳という年齢にしては姿形こそ華奢で儚げであったが、その身体から滲み出る気品と高貴さは、まさに天女のようであった。それは皇女が(まと)う、輿入れのためにしつらえられた美しい衣装のせいばかりではない。
 橋の向こう側からも、賞賛にも似たため息が漏れた。
「皇女、セレナ様。カーネリア国よりお迎えにあがりました。こちらのお車にお乗換え下さいませ」
 女官の一人がセレナの後に回りこんで長い衣装の裾を持った。もう一人の女官が従者から彼女の手を引き継いで出立を促す。言葉こそ丁寧であったが、その内には有無を言わせぬ響きがあった。
 セレナは軽く頷き、歩き出そうと一歩、足を踏み出す。しかしそこで思い直したように動きを止めると、ゆっくりと首をめぐらせ、今まで住んでいた城を振り返った。
 ――さようなら、トルメイン国。さようなら、私の愛しい……――
 声にならない声を胸の中でこだまさせ、たった今も城の中から自分を見ているであろう人々に向かって呼びかけてみる。城内からこちらの顔など見える筈もないとわかっていたが、自分のできる精いっぱいの笑顔を作ると、さっと踵を返して向こう岸に向かって歩き始めた。


 これより数日前のトルメイン城内。
「重臣の中に不穏な動きがある」
 王の間の中ほどに置かれた猫足の椅子に身体を預けた父王。彼がふと漏らした言葉に、セレナは胸騒ぎを覚えた。
「それは王室に刃向かう……ということですか?」
 セレナの代わりに弟皇子であるサフィスが、胸のうちに湧き上がった不安を抑えきれないといった面持ちで尋ねた。利発なこの十四歳の弟皇子は、王族らしい気品を備えていたが、父王のような威厳を持つにはまだ幼かった。
「いや……我がトルメイン王室に、ではない。カーネリア国王室に対して刺客を放ったと……あくまで噂だ。憶測の域を出ないのだが」
 父王の顔には苦渋の表情が浮かんでいる。
 ここトルメイン国と国境をはさんで隣接するカーネリア国。強大な軍事力を誇り、近隣諸国の中では突出した国力を持っている。それに続くのがトルメイン国であったが、その差は歴然だった。
 表面上は各国は独自に国政を行っているが、その実、カーネリア国の顔色を窺わなければ何もできなかった。何かあればすぐにその軍事力をもって攻め入って来る。過去、どれだけの国がカーネリア国によって滅ぼされていったことか。それ程、かの国は危険で強大だったのだ。
 そのカーネリア国王室に刺客を放ったとは。
「先月崩御した国王に代わって王位についたのは、歳若い第二皇子だと聞く。第一皇子も去年亡くなっている。今を逃せばカーネリア王族の血を絶やす機会は無いとあせったのであろうが……。いずれにしろ、わたしの知らないところで事は進んでいるらしい。わたしも重臣を疑うような事は不用意に口に出せぬ。大事にならなければ良いが……」
 父王はまだ若さの残る精悍な顔を曇らせて深いため息をついた。


 それから数日の後、彼の不安はそのまま現実のものとなった。
 重臣の一部が放った刺客は、歳若い王を討つ前に捕らえられた。拷問の末に彼が口を割らせられたのは、彼をここに差し向けた者の名とトルメイン国王の関与について。だが、囚われの身となった刺客は国王の関与は神かけて無い、と苦しい息の下から訴え、息絶えた。
 この知らせは刺客の仲間である男よりトルメイン国にももたらされた。男が国に着いたのは国政会議の最中であったため、主だった重臣はみな会議の間に揃っていた。その中の一人が男の姿を認め、その側近くまで進むことを許す。男は進み出ると、その耳に何事かささやいた。みるみる青ざめる重臣。その様子を見て色めきたったのは一人や二人ではなかった。
 のちに、十三人の重臣がこの企てに加担していたことが露見した。


 カーネリア国とて、できるならトルメイン国と戦争になるのは避けたかった。軍事力では自国に劣るとはいえ、トルメイン国はそれに次ぐ国力を持っている。いざ戦いになれば、それ相応の深手を負うことは目に見えていた。
 そこで……。
 国王の関与は無かったとはいえ、カーネリア国への『乱』は重大な罪である。よって、国の象徴である国王と企てに関わった重臣どもの首をとりその息子であるサフィス皇子に王位を継承する事によって、トルメイン国の存続を認めたのだった。
 それともうひとつ。
 これを機にトルメイン国との姻戚関係を結ぶ事によって、今後このような事のないように、と考えたのだ。
 姻戚関係を結ぶ――すなわち、皇女セレナを差し出せと言ってきたのである。


 トルメイン国王らの処刑は、皮肉なほど穏やかな空の下で執り行われた。
 父王の亡骸に(すが)りながらも、セレナは気丈に涙をこらえていた。弟のサフィスも姉の傍らに立って拳を白くなるほど握り締めている。
 父王は逝った。次は自分達の番か。
 高貴な姉弟はすでに覚悟を決めていた。王族とはそんなもの。母は嫁いできた身であるが、自分達の身体の中には紛れもなく王室の血が受け継がれている。血筋を絶やすため、事が起これば真っ先に首を取られる事は幼い頃より承知していた。
 カーネリア国からの使者が父王の亡骸を確認する。続いて重臣の十三の亡骸も確認する。
 次に使者は、父王の亡骸の脇で涙をこらえる皇女に向き直ると、国民の前で携えていた書状を読み上げ始めた。
「これにより、ただ今よりトルメイン国王はサフィス皇子に継承されました。この上はカーネリア国と姻戚関係を結んで頂き、お咎めは無しという事に致します。この通達はカーネリア国王の恩情による沙汰であります。輿入れは五日後。皇女様にあらせられましてはこれより先、身辺の整理をなされてその日をお待ちになられますよう。なお、この通達に従わない場合は我が国への反逆とみなします。自害などなされぬよう、くれぐれも御身大切に」
 自らも死地に赴くのだ、と思っていたサフィスとセレナは目を見開いたまま言葉を失った。とりわけ、セレナは一点を見つめたままブルブルと震えている。
 父王を亡き者にした憎いカーネリア国に輿入れをさせられるとは。敵国の王のものになれというのか。
 あまりの事に自分を保てず、セレナは意識を失った。


 皇女セレナには恋人がいた。重臣の息子で、名をジルクという。彼はセレナより一つ年上の、優しく聡明な若者だった。その豊かな恵みを思わせる栗色の瞳で見つめられ、低く甘い声でささやかれると、セレナは無上の喜びを感じた。
 トルメイン国の掟には皇女は降嫁するまで恋人に肌を許してはならない、とある。掟に従い、ジルクは皇女であるセレナと唇を重ねることはあっても、それ以上を求めることはなかった。だが時折、息が苦しいほど抱きしめられたり、耳元でささやく彼の息が熱く、瞳が潤んでいるように見えるのも……本当は彼がそれ以上を望んでいるのを感じさせた。そしていつしかセレナも、彼のもとに降嫁できたら……と考えるようになっていた。
 父王はそんな二人の仲を認めていた。最近になって、セレナが十八歳になったら降嫁してもよい、という許しも出た。あと二年。セレナは幸福の絶頂にいた。
 それなのに……。
 身辺の整理とは、ジルクとの縁も切れ、と言っているのであろう。冷徹なカーネリア国王にとっては、愛し合う恋人を引き裂くことなど造作も無いのかも知れない。
 セレナに残された選択肢は二つ。カーネリア国王のものになるか、それとも国民を道連れにしてトルメイン国と共に滅ぶか。
 幼い頃から民を守るための王室だ、と教えられて来たセレナに後者を選ぶことはできない。父王が亡くなった今、弟が王となって継承したトルメイン国を守るために、セレナは決意を固めた。
 ――どんなことがあっても、私は国を守ってみせる――


 輿入れの朝。
 セレナは自室の脇にある謁見のための小部屋で、腰窓の前にたたずんでいた。
 こうしてこの窓から眺める景色は、数日前となんら変わらない。柔らかな陽光が差込み、眼下には木々の枝で羽根を休める鳥達の姿さえ認められた。
 背後でかすかな衣擦れの音がする。
「聞きましたか」
 セレナはこの小部屋に入ってきたであろう人物に語りかけた。
「父王様は残念なことでした」
 耳朶を打つ、低く甘い声。聞きなれた愛しいジルクの声。だが今日は、いつもと違ってとても遠くに聞こえた。
「皇女様のことも……」
 そこで言葉が途切れる。何かに怯えたのか、枝で休んでいた鳥が数羽、羽音を響かせて飛び立った。
「私の輿入れのことも聞きましたね」
 振り返ったら泣いてしまう。ジルクに縋りつき、その胸に顔を埋めて『一緒に逃げて』と言ってしまう。
 自分の弱い心を振り払うようにセレナは見開く瞳に力を込めた。木々の緑が眼に染みる。
「このトルメイン国を守るため、私はカーネリア国に嫁ぎます。あなたは……」
 一旦瞳を閉じて、カラカラになった喉を潤すように唾を飲み込んだ。
「あなたはこの国で生きて。決して……決して死なないで」
 衣擦れの音が近づく。セレナは背後から自分とは違う香が焚き染められた衣に包まれた。
「それが皇女様の望みなら……」
 ジルクの腕がセレナの胸の上で組まれる。
「皇女様も生きて下さい。決して死ぬ事なく……」
 腕に力がこもる。
「私が死んだら、この国は滅びるわ」
 軽く微笑んだつもりだったが、首を巡らせた先にジルクの栗色の悲しみ深い瞳を見つけると……セレナの表情が歪んだ。
 腕を伸ばし、ジルクの首に縋りつく。セレナを繋いでいた腕の力が一旦緩められる。彼女が向き合ってぴったりと身体を寄せると、再びセレナは抱きすくめられた。
 額に、瞼に、唇に、首筋に……彼の唇が押し付けられる。セレナの閉じられた瞳からは暖かいものが溢れてはとめどなく流れ落ちていた。
 この腕に抱かれ、彼のものになる日を夢見ていたのはつい数日前であったか。いまではそれも遠い日の事のように感じる。
「トルメイン国の掟にのっとり、何も致しません。ですが……今しばらくのご無礼をお許し下さい」
 自分を制するように短く息を吐くと、ジルクは大切なものを取られまいとする幼子のようにセレナを抱きしめ直した。
 腕に込められた力が除々に強まる。息が苦しい。骨がきしむ。
 だが、それさえも今のセレナにとっては嬉しくもあり、悲しくもあった。


 トルメイン国を発って、随分長い時間が過ぎた。出立は朝であったのに、今はもう夕日が周りの風景を赤く染め上げている。カーネリア国への行列はどの位進んだのだろう。
 今朝ジルクから受けた抱擁がまだこの身に残っているようで、セレナはそっと自分で自分の身体を抱いた。彼の残り香さえ染み付いているようだ。
 国境までくれば道の手入れも難しい。そこここに雑草が茂り、ただでさえ城下より狭い道は、いっそう狭く感じられた。剥き出しになった小石も、どけられることなく道のあちこちに散らばっている。なるべく平坦な道を選んで進んでいるとはいえ、馬車の車輪が道の凹凸に乗り上げる度、車中の女二人の身体が揺れた。
「気分がすぐれないようでしたら、止まってもらえるように頼みましょうか?」
 ゴトゴトと揺れる馬車の中で、トルメイン国からついて来た唯一人の女官、タンジアが心配そうにセレナの顔を覗き込む。小さい頃は遊び相手として、大きくなってからはお側付きの女官として共に過ごしてきた者だ。
「いえ、大丈夫よ。……あなたこそ随分顔色がすぐれないわ」
 セレナはいたわるような眼差しを向けると、言葉を切って下を向いた。
「ごめんなさいね。あなたにまで国を捨てさせることになって……」
 タンジアが、その言葉に驚いたようにセレナの白い手をとる。
「いいえ、いいえ。私には国に両親が揃っております。もう二度と会うことは叶わないでしょうが、お互いの無事を祈ることができます。それにひきかえ、皇女様は……」
 そこまで言うと、彼女は涙声になった。
「父王様を処刑され、悲しみも癒えぬ内に、唯一人敵国であるカーネリア国にお輿入れなさるなんて……」
 堪え切れずに流れ出る涙を衣装の袖で押さえる。
「敵国などと言ってはなりませんよ。カーネリア国の者に聞かれたら、お咎めを受けます。それに不本意ではあるけれど、戻るべき道を閉ざされた私達にとっては第二の祖国となるのですからね」
 カーネリア国を祖国と思える日が来るとは思えない。だがセレナはそれでも一国の皇女らしく、小さな声で諭した。
「私はカーネリア国王のもとに嫁ぎます。これはもう定められたこと……。あなたはカーネリア国で自分の意志でよい人を見つけて幸せになって下さいね」
 セレナがそっと肩に手を掛けると、タンジアは頷いて言葉も無く泣き伏すばかりだった。
 不意に馬車の揺れが止まる。間もなく静かに目の前の扉が開いた。
「ここから先は山に遮られて見えなくなります。これが最後となりましょうから、トルメイン城をよくご覧なさいませ」
 車中で顔を見合わせる二人に向かって先程の女官が語りかける。続いて馬車の足元に台が置かれた。
 タンジアが先に降り、手をとってセレナを降ろす。『乱』が起こってよりこのかた、満足に眠り、食事を摂る事ができた日は無かったのだろう。ここ数日の内に皇女の華奢だった手は、いっそう儚げに感じられた。
 セレナはタンジアの手を離し、数歩、歩み出る。小高い丘のようになったここからは、トルメイン国が一望のもとに見渡せた。
 今はもう森の一部のようになって定かには見えないが、今朝まで自分がいた城。その森を抱くようにゆったりと蛇行して流れる河。城の背後に続く城下町。その終わりを示すように高い山が町の背後を切り取っている。
 夕日にキラキラと輝くその地は、もう戻れない愛しい祖国だった。
 カーネリア国の従者も気を遣ってか、側近くに侍ることなく皇女を遠巻きにしている。だが、逃げ出すような気配があれば直ちに捕らえられるよう、身構えているようだった。
「逃げなどしないものを」
 セレナは小さくつぶやく。
 そう、逃げられはしないのだ。これは国と国との対等な輿入れではない。自分は国を守るためにカーネリア国王のもとに嫁ぐのだ。父王が処刑され、弟が王位を継承したトルメイン国を守るために……。
 先月崩御したカーネリア国王に代わって王位についた現国王は、セレナよりも一つ年上の美しいが非情な男だと聞く。カーネリア国の王は代々みな氷のように冷たく無慈悲なのだ、とも。そんな男のもとに嫁いで無事に生き長らえられるとは思えない。まして二人の間に愛など無い、人質同然の輿入れなのだから。
 もとより命を投げ出す覚悟はできていた。『乱』が起こり、それが失敗して父王や企てに加担した家臣達が処刑されると決まった時、自分たち王族の命も無いものと思っていた。
「この命、欲しいと言うなら取るがいい」
 だが、自分では死を選ぶ事はしない。ジルクと共にあの小部屋で、死なずに生きると誓ったのだから。
 二度と戻る事の無いであろう懐かしい景色をその眼に焼き付け、セレナは静かに祖国トルメインに背を向けた。