〜入城〜
カーネリア国の領土は広い。輿入れの行列は国境を越えてからカーネリア城に到着するまで、たっぷり三日を要した。
城下は活気に溢れ、そこに暮らす人々は髪の色も瞳の色も、みな様々だった。金色の髪に蒼眼の女。黒い髪に黒い瞳の子供。茶色い髪に緑の眼を持つ男……。それはカーネリア国の数々の侵略と統合の歴史を映していた。
セレナの生まれたトルメイン国が茶色い瞳に茶色の巻き毛が一般的であったのに対して、カーネリア国のそれは、何種類もの顔料をぶちまけたように色とりどりであった。
――まぶしい――
セレナは馬車の覗き窓から垣間見える城下の様子に、思わず眼を細めた。
人々が生き生きと暮らしている。飾り職人の店も、食べ物屋の店先も、値段の交渉をしているのか店主と客とが声高に話し合っては大きな笑い声を立てている。輿入れの行列が進むとそこだけは水を打ったように静かになるが、馬車が通り過ぎた後方には、またざわめきが戻っていた。
一行は人々の喧騒を切り取りながら、静かに城門へと進んでいった。
カーネリア城は外側を水量豊かな広い堀に囲まれ、石積みの高い城壁がその内をぐるりと取り囲んでいる。軍事力を頼みにしている国らしく、この城を攻め落とすのは容易ではなかろう。
城の入口である城門は重厚な金属でできた厚いもので、大の男が十数人かかってやっと開くことができるものだった。
これより六年前。
十歳だったセレナは、この城門をくぐった事がある。
近隣諸国では習わしとして、王族の子供が十歳の誕生日を迎えるとカーネリア国で一年間暮らす。それは『拝謁』と称する行事で、強大なカーネリア国が他の国々の反乱を抑えるための、早く言えば人質だった。
カーネリア国に子供がいる間、各国がこの国に手出しできないようにする事はもちろん、そうやって各国の皇子・皇女の顔を覚え、いざ反乱が起こった際には見まごうことなくその国の王族の血を根絶やしにできるのだ。
あまりに子供では成長と共に顔かたちが変わってしまう。反対にあまり成長してからでは、カーネリア国の王族の首をとられるかも知れない。そこで、十歳という年齢が定められているのだった。
各国からやってきた客人は専用の『禁断の宮』で暮らす。ここにいる間も皇子・皇女には個室が与えられたし、女官たちのための部屋も用意されている。自国の生活より少々行動範囲を制限される他は、さほど不自由は感じられなかった。どこの王族でも、皇子・皇女はあまり城内から出たりしないものだ。
側近くで仕える女官がことあるごとに不憫がるのを聞いて自分が囚われの身であることを意識する位で、王族といえども順応の早い子供はすぐに慣れてしまった。
セレナも十歳の誕生日を迎えると、ごく少数の女官を従えてカーネリア国に入った。
自国にいる時と同じように教育も受けられたし、自由に使える時間もあった。十歳といえば、多少の女の子らしい恥じらいはあるものの、遊びたい盛りである。女官の目を盗んでは、こっそり城内を探索して遊んだ。
あの頃は血で血を洗う戦いや侵略、国と国との
鬩ぎ合いなど、自分には直接関わりのない事だと思っていた。短い間ではあったが、自分の住むカーネリア城内を敵国の地として意識した事もなかった。
それが今となっては……。
城門をくぐる刹那、セレナは瞳を閉じて深く息を吸い、そして吐いた。背後で厚い金属の扉が閉まる。かんぬきを下ろす重い音に、もう後戻りできない自分を嫌というほど思い知らされていた。
「こちらで婚儀が始まるまでお待ち頂きます。お疲れでしょうから、湯をお使いになってから一休みなさいませ」
行列に付き添って来たカーネリア国の女官が、六年前と同じ『禁断の宮』の一室にセレナとタンジアを案内する。
「『禁断の宮』へ通すとは……。間もなく王妃となられるお方に、なんという無礼な振る舞いでしょう」
タンジアは目を潤ませて憤ったが、セレナは淡々と祖国トルメインから纏ってきた輿入れのための美しい衣装を脱ぎ、床に散らした。上質の絹織物が様々な色模様を石の床に描き出す。その真中に立つセレナは薄物一枚の姿になってもやはり神々しいほどに美しかった。
「心に波風を立ててもこの処遇が変わるとは思えません。変わらないならば受け入れるしかないでしょう」
十六歳の華奢な身体一つにあまりに重い定めを負った皇女の顔は、この数日の間に
臈たけた表情を湛えるようになっていた。身に纏った薄物を通して白く透けるような肌が思いのほか豊かな曲線を描く。
こんな処遇を受けてもなお気高くたおやかな皇女の姿に、タンジアは替えの衣装を用意しながらも目の前が滲んでくるのを感じていた。
広い湯殿の中ほどにある石造りの湯船には、程よい暖かさの湯が張られ、その
水面には色とりどりの見たことも無い花々が散らされていた。
王族の身体を洗うのは側仕えの女官の仕事である。薄物一枚の姿で中に入ったセレナは、タンジアに身体を洗わせ、香りのよい湯船につかった。
湯の中で身に纏った薄物がゆらゆらと揺らめく。その裾から覗く白い肢体は華奢であるが、水面に浮かぶ花々を通して見るとなぜだかなまめかしい。
婚儀は日が西に傾きかけた頃より始められる。その席で初めて国王と会うことになろう。父王を亡き者にしたカーネリア国王。歳若いが、冷徹な王だと聞く。婚儀が終わり祝宴を済ませたら、その王がこの身を抱くのだ。
――身震いがした。
触れられたくない。この身体に、指一本でも。
この身体を抱いて良いのはジルクだけだ。ジルクにこそ抱いて欲しかったのに。
セレナの瞳から零れ落ちた涙が……水面に波紋を描いて湯に溶けていった。
祖国トルメインより持ち込んだ婚儀用の衣装は、カーネリア国の女官達の手によって隅々まで調べられた。王に害を成すものを忍ばせていないか、また、自害するための薬など隠し持っていないかを念入りに調べ上げられる。
調べが済むまで、二人は少し離れてその様子を見守っていた。
「こんなに疑心暗鬼になっているとは……。これだけ国王の命を狙う者が多いという証ですね」
タンジアはその瞳に哀れみの色さえ浮かべて小さな声で呟く。
「それも仕方ないかも知れません。この国はそうやって続いてきたのだ、と父王から聞きました」
一通り調べが済むと、その美しい織物でできた衣装はセレナの手元に返された。
「お召し替えが済みましたら、婚儀の間にご案内致します」
そう言い置いて、カーネリア国の女官達は次の間に控えた。
タンジアは衣装を手に取り、セレナの身を飾っていく。紐を結び、飾り布を留めつけ、宝飾品をつけた。
「皇女様の用意が整いました」
彼女は次の間に向かって声を掛けた。
婚儀の間に案内しようと女官達が部屋に入る。が、セレナの姿を見ると、その足はその場に釘付けとなった。
息を呑む気配がする。天女か女神か。
白い小さな美貌にかかる栗色の巻き毛。同じく栗色の瞳が深い憂いを含んで揺れている。上質の絹の衣装がゆるやかな襞を形作り、柔らかく皇女の身体の線を覆う。白い肌をぎりぎりまで晒した胸元に宝飾品がその光を映していた。
「こ……ちらでございます」
女官達は、しばし見とれてしまった自分を恥じるように眼をそらすと、先に立って歩き始めた。
セレナもその背中に導かれるように進む。タンジアもその後に続こうとした。
「トルメイン国の女官様は、
閨の儀式が滞りなくお済みになられるまで、こちらでお待ち下さい」
一番年上と思われる女官が滑るようにスッと進み出て行く手を遮る。タンジアは言葉も無く皇女セレナの後姿を見送った。
婚儀の間は『禁断の宮』から広い中庭を回廊に沿って進み、迷路のようにいくつかの部屋を通った先にあった。
高い天井には、抑えた色調で一面に模様が描かれている。壁は漆喰に緻密な彫刻が施されもので、上のほうには透かし彫りになった天窓がはめ込まれていた。
入口から入って真っ直ぐ進んだ先に、祭壇がしつらえてあった。蝋燭が灯されている。天窓からの僅かな光しか差し込まないこの部屋の中では、蝋燭の揺れる灯りに周りの物の影も揺らいで見えた。
セレナは、その祭壇の前に人影を見つけた。肩から流れる衣の裾を長く引いた背の高い男。彼女の背筋に緊張が走った。
――カーネリア国王!
先触れの女官が皇女の到着を告げると、その男はゆっくりと振り返った。
お互いの声が届く距離まで進むと、セレナは震える心を叱咤しながら深く礼をした。
「そなたがトルメイン皇女、セレナか」
太い弦を爪弾くような、低いけれど良く響く声。
「はい」
セレナは短く返事をすると、彼の隣に立った。
年老いた神官が、この国の教えにのっとって儀式を進める。二人の手を重ね、その上から聖なる水を注いだ。水は先に国王の手を濡らし、次に皇女の手を濡らしてから大振りの銀の杯に集められる。神官はそれを捧げ持ち、祭壇の上に置く。手を重ねたまま、二人は誓いの言葉を唱和し、婚儀は滞りなく終わった。
続く祝宴は、婚儀の間の隣の大広間で行われた。
明るくにぎやかな宴の席についたセレナは自分の隣に座る王を見るのが恐ろしく、ずっと目を伏せていた。婚儀の間はほの暗かったので、顔立ちまではよく見えなかったのだ。
顔を見てしまえば、父王の恨みや恋人と引き裂かれた恨みをぶつけてしまうかも知れない。そうなったらトルメイン国はどうなるか……。
火を見るより明らかだった。
「そなたは食事をしないのか」
ふいに掛けられた言葉に、セレナは思わずその声の主を見てしまった。
緑がかった茶色の髪。灰色にも見える影を落とした瞳。すっと通った鼻梁の下には丁度良い薄さの唇。何もかもが均整がとれていて、美しい男神のようだった。
自分より一つ年上の若い王だとは聞いていたが、まさかこのように美しい王だとは。
――これが父王を亡き者にした憎い王――
目の前の若い男が、指先ひとつで近隣諸国を滅ぼす国の王だとは、にわかに信じられなかった。
それにこの面差し……。
『拝謁』の折、セレナは女官たちの目を盗んでは、こっそり城内を探索していた。
『禁断の宮』より外に出ることは叶わなかったが、庭に降りて来る小鳥を見たり、小動物が走り回ったりするのを見るのが楽しみだった。
セレナがこの国にいる間、他の国からは皇子も皇女も来てはいなかった。『禁断の宮』全体が彼女の遊び場だったのである。
だが、いつの間にやら同じ年頃の少年がこの庭に遊びに来るようになっていた。よく笑い、快活で利発な少年だった。よく物を知っていて、セレナにいろいろ教えてくれたのだ。
塀の破れ、警護の手薄なところ。少年はそれらをよく知っていて、そこから忍び込んでくる。
城内に住まう重臣の息子だと思っていたが……。
ふと少年の顔が王の顔と重なり、そして消えていった。
目の前の王は笑わない。整った美しい顔も氷のように冷たく感じる。それに冷徹なカーネリア国王が、あのよく笑う利発な少年の筈が無い。そもそもカーネリア国の重臣は、宴に出席している顔をずっと眺め回してみてもどことなく似ている気がする。姻戚関係を結びつづけた結果がこれなのであろう。中には臣下に降嫁した皇女もいたかも知れない。
セレナは自分の内で、さきほどの考えを打ち消した。
「そなたは何をしにこの国へ参ったのだ」
ふいに低い声がセレナの耳朶を打った。
何をしに? そんな事は決まっている。
「国を守るために」
きっぱりと言い切ると、セレナはその眼に凛とした意志を秘めて国王に向き直る。
「国を守るためにそなたは何をする」
再び国王が問うた。
「国王のもとに嫁いで来ましたが……他に何をせよと仰せです?」
しばしの間、二人は言葉も無くお互いの双眸を睨みつけるように見据えた。
「わたしの名はアレクだ」
そう言って、国王アレクは家臣達が宴の酒に酔いしれる様に視線を移した。
セレナは彼の視線が自分から外され、ホッと小さく息を吐いた。心の内まで凍えてしまいそうな瞳。やはり彼は冷徹で無慈悲な王なのだ。
突然、目の前に酒の注がれた杯が差し出された。
「飲むがいい。これより先は正気ではつとまらんぞ」
アレクがもう一方の手に持った杯をあおる。
「宴が終わったら、
閨の儀式がある。好きでもない男に抱かれるのは本意ではないだろう」
セレナはカッと顔が熱くなるのを感じた。そのような言葉を当の本人から聞くとは思ってもみなかった。
「ではいただきます。好きでもない、見ず知らずの男のものになるのは……私とて、あまり気味の良いものではありませんもの」
杯を手に取ると、一気に流し込んだ。口の中が辛く痺れる感じがする。強い酒気に思わずむせてしまった。しばらくして咳が治まり肩で息をすると、空になったそれを卓の上に戻した。
「見ず知らずと言うか。そなた、見覚えてはおらぬのだな」
アレクは口の端を引き上げ、値踏みするようにセレナを見る。
「トルメイン皇女が『拝謁』に来た時、他の国の客人はいなかった。あの塀の破れは……まだ残っているのであろうな」
そう言って皮肉な笑みを浮かべる国王の眼は――少しも笑っていなかった。