〜閨〜
祝いの宴はしばらく続いた。卓の上に並んだ食べ物があらかた無くなり、雲間に見え隠れする月が天空高く上った頃、ようやくお開きとなった。セレナは国王アレクよりも先に下がるよう言いつけられ、席を辞す。
「では後ほど
閨で会おう」
席を立ったセレナに、アレクが何杯目かの杯を捧げ持ちながら言う。
その視線が――酔っている筈なのにどこまでも凍て付くような視線が――心の中まで染みるようで、セレナは何も応えず眼を伏せた。
「閨の儀式に臨む前に、もう一度お湯を使って頂きます」
『禁断の宮』へは戻されず、後宮の一室にセレナは連れてこられた。カーネリア国の女官達がセレナを取り囲み、婚儀のための衣装を手際よく剥ぎ取る。再び薄物一枚の姿にさせられた彼女を女官の一人が後宮の中の湯殿に案内した。
「これより先は一切トルメイン国の物は身につけられてはなりません。お衣装も
簪も、香でさえこのカーネリア国の物をお使い頂きます。そのために今から湯でお清め致します」
タンジアがするよりも丹念に体中くまなく洗い上げられ、祖国の香りは全て流されてしまった。濡れた巻き毛をカーネリア国の布で拭かれ、水気を含み身体の線にぴったり沿った薄物をカーネリア国の物に替えられ……そしてカーネリア国の香が焚き染められた衣装をその白い肌に掛けられた。
「閨にご案内致します」
手短に言うと、手燭を持った女官が先に立って歩き出した。セレナも後に続く。その背後に懐剣を持った女官が二人、セレナを護衛するように続いた。
後宮の建物にぐるりと取り囲まれるようにしてその部屋はあった。入口は一つで廊下にはいくつもの蝋燭が灯されている。入口を入ると、警護の男が二人、それに付き添ってきた女官が三人控えるための小部屋がある。そしてその更に奥には寝室の扉がセレナの入室を待っていた。
「中で既に王がお待ちです」
思いの外、支度に手間取ったのか、王の方が先に寝室に入ってしまったらしい。儀式に臨む際の作法やしきたりを女官から口伝えで聞き、再度身体を
検められる。不審な物を何も持っていない事が確認されて初めて、セレナは寝室の扉と向き合った。
静かに扉が開かれ、中に入るように促される。セレナは覚悟を決め、一足ずつ確かめるように歩を進めた。背後で扉の閉まるかすかな音が聞こえた。
室内は決して華美ではない重厚な装飾が施され、壁に据え付けられている剣掛には美しい
象嵌の剣が飾られていた。
ちら、とそれに目をやる。
――これで刺し違えることができたなら――
自分の中に湧き上がった考えを打ち消すように、剣から目をそらした。そんな事ができよう筈がない。自分のこの小さな身ひとつに祖国トルメインの行く末がかかっているのだ。
灯り窓から差し込む月光は、追いすがる雲を打ち払い凍て付くように鋭い。今夜は満月か……。
天蓋付きの寝台の端にアレクが座っている。腰から外された剣が枕もとに置かれていた。片足を立てて肘をつき、端正な美貌が自らの拳に捻じ曲げられるのにも構わず頬杖をついている。婚礼の儀式の時より緩やかな衣装を身に着けているが、一国の王らしい威厳は変わることなくその身体から滲み出ている。
セレナは負けじと背筋を伸ばした。アレクの前に進み出ると片膝をついて
頭を垂れる。それがこの国のしきたりだと教えられたから……。
「月光のもとで見るそなたも、なかなかに美しい。このような皇女を差し出さなければならなかったとは……国で待つ恋人もさぞ辛いことだろうな」
寝台に座ったまま端正な顔で見下ろし、まるで人の不運を楽しむように冷たく言い放つ。
「恋人がいようがいまいが、王には関係のない事。いたとしても……その者とて、カーネリア国に輿入れした私が再び国に戻れるなどとは思いますまい」
セレナは最後に見たジルクの顔――いつもは優しい彼が最初で最後、骨も折れよと言わんばかりにきつくセレナを抱きしめた時の諦めと決意の顔――を思い出しそうになるのをぐっとこらえた。別れの朝、お互いの運命を受け入れ、死なずに生きていくと誓ったのだ。あの丘で祖国に背を向けた時に、半身をもぎ取られるような思いをしながらも、きっぱりと思い切った筈だった。
「祖国を守るためだけに、私はここにいます。この身はカーネリア国王に差し出しても、心まではお渡ししません」
ゆっくりと顔をあげ、アレクの灰色にも見えるほの暗い影を帯びた瞳を正面から見据えると、拳をぎゅっと握り締めた。
「よかろう。良い心がけだ。それでこそ、一国の姫君」
アレクは口の端を僅かに歪めて挑戦的な笑みを浮かべた。そんな表情さえ、氷のように美しい。セレナの高飛車な口のききようを咎めもせず、その華奢な腕を掴んで引き寄せる。そのまま自分の隣に座らせた。
「無事に朝を迎えられたなら、定め通りトルメイン国にはお咎めなしの使者を出そう。国を救いたければ、間違ってもわたしの寝首をかこうなどとは考えないことだ」
言われずともわかっている。そんな事をすれば、たちまち部屋の外で待つ従者どもに捕らえられ、トルメイン国は攻め滅ぼされる。自害する事とて同じだ。反逆とみなされ、同じ結果を生む。自分に残された道は死なずに生き抜くこと、ただ一つ。
「わかっている、とでも言いたげな顔だな」
アレクはセレナが何も言い返さないのを承諾の意と受け取った。引き上げられた口元とは対照的に、その目は少しも笑っていない。真っ直ぐに射るような視線でセレナの双眸を捉えたまま、その華奢な身体を自分の胸へと導く。
セレナの小さな肩がビクン、と跳ねた。
怖い、とは思わない。トルメイン国を守る為に自分は定めに従うまで。皇女と生まれたからには、こういう事態も覚悟はして来た。そして自分が無事に今夜の
閨をつとめ上げて敵意の無い事を示せば、弟が王となって継承したトルメイン国は変わることなく続いていくのだ。
そう、変わることなく。父王や企てに加担した家臣らがこの世にいない事と、もうひとつ――今からこの寝台の上で自分に刻まれるであろう、アレクの刻印を除いては……。
腕の中の身体を組み敷こうと、アレクが重心を傾ける。その力に負けまいと、セレナは背筋を張り詰めて耐えていた。
――自ら望んで目の前の男のものになるのではない――
そんな精いっぱいの意思表示だった。だが、女の力ではそう長い間
抗い切れるものではない。セレナは糸の切れた操り人形のごとく、
仰け反るように後へと倒れこむ。
『ドサッ』
身体と寝台とがぶつかる鈍い音がして、肩口や腕のあたりに痛みが走った。
「……くっ」
小さな
呻き声がセレナの口唇から漏れる。目の前の王が、薄く笑ったような気がした。
痛みに歪められた美しい顔を容赦なく両手ではさむようにすると、アレクは乱暴に唇を重ねた。
セレナは屈辱に耐えながら、それでも頭の片隅にある冷静な部分がふと祝宴の際にアレクが言った言葉を反芻していた。
――見ず知らずと言うか。そなた、見覚えてはおらぬのだな――
この男は本当にあの少年なのだろうか。『拝謁』の折に見知った少年は、もっと優しかった。面影はあるのだが、表情が違うだけでこんなにも人の顔というのは違って見えるものなのか。今自分の身体の上で閨の儀式を進めるこの美しい氷のような男の顔と、遠い日に見知った少年の笑顔とがどうしても同じ人間のものとは思えなかった。
だが……。私を試すつもりなら試すがいい。こんな事で屈しはしない。残して来た母や弟王、それに愛しいジルクのためにも自分は国を守ってみせる。
「……っ」
前触れもなく襲う痛み。
「そのように力を入れるな。事が進まぬ」
間近から、およそ恋人同士の睦み合いとは縁遠い、冷たい瞳で見下ろされる。
これが愛しい人との最初の夜だったなら……。
そう考えた時、ふいにきつく瞑った瞼の裏に、思い出すまいとしていたジルクの顔が浮かび上がった。セレナの閉じた瞳から溢れた暖かい涙が、こめかみを伝って栗色の巻き毛の上にはらはらと零れていった。
暗い夜が終わり、城の建物も庭の木々も花々も明るい陽の光を浴びて輝きだす。息を潜めていた生き物たちが動き出す気配がする。
二人が眠る寝室にも、灯り窓から柔らかな朝日が差込んで、昨日と変わらぬ一日の始まりを告げる。
アレクは半身を起こし、隣で眠っているセレナの規則正しい寝息を確かめると、ゆっくりと髪に手を伸ばした。栗色のその柔らかい巻き毛を、剣の修行を積んだ男にしては細く長い指に絡めとる。指を離すと、艶のある髪はキラキラと朝日に光ってするりと解けた。乱れた一筋の髪がセレナの白い小さな美貌にかかる。けぶるように濃い睫毛が涙のためか濡れたように光っていた。
「美しい皇女も
政のためなら自ら意に染まぬ男のもとに嫁ぐ……か。国とはそんなに大切なものか」
小さく息を吐き、閉じられた瞳に向かって問いかける。再び栗色の巻き毛に手を伸ばしかけたが、思い直したようにその手を軽く握る。アレクはもう一度小さく息を吐くと、起き上がって乱れた衣装を整えはじめた。
傍らで聞こえる小さな衣擦れの音が、セレナを夢から引き戻す。
幸せな夢であったかどうか……。夢の舞台はトルメイン国の城内であった。懐かしい顔も揃っていたように思う。
夢の余韻に浸りながら、薄く目を開く。ぼんやりした視界に入った調度品が、見慣れたトルメイン国のものではないと気づき、セレナの顔が強張った。
肘をついて上体を起こす。寝台の脇に、身支度を整えるアレクの横顔があった。朝の光の中で見る彼も美しい。人間の身体から無駄なものを取り去り、必要なものだけを最高に美しく整えたらこうなるだろう、と思われる体躯。王族は概して見目形のよい娘を后に迎えてその血筋を芸術と呼べるまでに美しく昇華してきたが、その中でも彼は抜きん出ているように思える。
ただその端正な顔に浮かぶ表情は、柔らかな朝日の中でさえ、見ているこちらが凍えてしまうかと思われるほど冷たかった。
アレクは胸元を合わせようとしていた手を止めた。セレナが起き上がったのを目の端に認めると、衣装の背をずらし、その目の前に自らの背中を晒す。
「昨夜はさんざんな目に遭わせてくれたな」
アレクの腕や背中には、セレナが苦し紛れにつけた爪あとが残っていた。まだ新しいその傷口には、にじんだ血が乾いてこびりついている。
セレナは枕もとからアレクの剣をとって寝台からおりると、袖に包んで差し出しながら目を伏せた。
「失礼……いたしました。それはカーネリア国への反逆とみなされるのでしょうか」
気丈に言ったつもりでも語尾が震えている。カーネリア国の王に傷をつけてしまったのだ。お咎めを受けても何も申し開きできない。
「はっはっは……。閨の儀式でつけられた傷にまで口を挟む者はおらぬわ。それは無粋というものだ。却ってその者の首が飛ぼう」
男と女の事など何も知らない世間知らずの皇女の言葉を面白がるように、乾いた笑い声をたてる。
「これでそなたの国はお咎めなしだ。ご苦労であったな」
そこに愛など微塵もなかった、と言わんばかりの口調。彼にとっては、これも雑多な政務の一部であったのだろう。
「ご厚情、ありがとうございます」
セレナも出来うる限りの虚勢を張って、感情のこもらない声で言った。
アレクが部屋を出て行くと、張り詰めた糸が切れたようにセレナの目から暖かいものがこぼれた。泣くまいと思っても後から後から勝手にあふれてくる。
「ううっ……うっ……」
どうしようもなくなってセレナはその場にしゃがみ込む。膝の間に顔を埋めると自分の身体を抱きしめ、声を殺して泣いた。下腹にほんの少し力を入れただけでも、身体の芯に残った鈍い痛みが昨夜の儀式を鮮明に脳裏に蘇らせる。嗚咽を漏らすたびに己の身に刻みつけられたアレクの刻印を思い知らされるようだった。
どのくらいそうしていただろう。控えめな音と共に扉が開けられた。女官が三人、かすかな衣擦れの音をさせてセレナの脇をすり抜け、寝台へと向かう。二人分の重みで乱れた夜具の皺を伸ばし、その上に破瓜の印である赤い花のような染みを確認すると、満足げに頷いて寝台から剥ぎ取った。
「滞りなくお済みになられて、よろしゅうございましたね。ではタンジアを部屋に入れましょう」
三人のうち一番年上と思われる女官が柔和な笑みを浮かべて言った。
もう一度扉が開かれ、三人の女官が入ってきた時と同じようにかすかな衣擦れの音をさせて出て行くと、トルメイン国からついて来た唯一人の女官タンジアが今にも泣き出しそうな顔に精いっぱいの笑みを浮かべて入ってきた。
「皇女様、大丈夫でございますか?」
いたわるように優しく肩に触れる。
「大丈夫。こんな事ぐらいで屈したりしません。心は……自由ですもの」
セレナは無理に笑顔を作ると、自分に言い聞かせるように小さく呟いた。