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氷の楼閣


〜玉座〜


――この手に光るのは美しい象嵌の剣
  この一突きで隣で眠る国王の命は無い
  心臓の上に狙いをつけ、力を込めた……
  赤い染みが夜具に広がる
  私の手も朱に染まった――

――遠くで祖国トルメインを攻めよとの声が聞こえる
  己の心に負け、カーネリア国王を殺めたから……
  国を救おうと、耐えてこの身まで差し出したというのに
  母も弟もジルクも、そしてトルメインの民をも裏切って
  ああ、とりかえしのつかない事をしてしまった――



『ビクン』
 体が突っ張ったようになって、セレナは寝台の上で目を覚ました。
「夢だった……」
 深く安堵の息をつく。寝台の上にはセレナ一人。閨の儀式より十日、あれ以来国王アレクのお渡りは無かった。
 額には、じっとりと汗が滲んでいる。
 ―― 一人で良かった――
 彼女は目を瞑り、もう一度深く息を吐いた。


 セレナには、後宮の一番奥の広い部屋が与えられた。国王と一緒でない日は、閨ではなく自室で休む事になっている。
 一連の儀式を終えて正室となったセレナには、側仕えの女官タンジア、それに雑用をこなすためのカーネリア国の女官が数人と力仕事を担う従者が数人つけられた。着替えや入浴など、身の回りの世話は主にタンジアに任されている。
 贅を尽くした広い後宮には、人の気配の無い空き部屋がいくつもある。その昔はたくさんの側室を侍らせた王もいたのだろう。
 まだ若いせいなのか、現国王には側室がいない。こんなに広い後宮であったのに、正室であるセレナとそのお付きの者の他は誰も住んでいなかった。


 その静かな後宮の自室で、セレナは寝台の上に身を起こした。頭が重い。あんな夢を見たせいだろうか。
 夢は正直だ。祖国のためと割り切っている筈なのに、心の奥底では国王アレクを殺めたいと思っている。だがそんな事をすれば、祖国トルメインなどすぐにでも攻め滅ぼされてしまうだろう。
 ――わかっている。わかっているのに私の心は恨みでいっぱいだ――
 いつか閨において、隣で眠る国王をその手にかけるのでは……とセレナは自分自身が恐ろしくなった。
「皇女様、お目覚めですか」
 柔らかく優しい声が聞こえる。顔をあげると、タンジアがつとめて明るい笑顔を作り、水を満たした洗面用の鉢を抱えて入って来るところだった。
「私はもう皇女ではないわ」
 セレナは苦笑した。
 トルメイン国皇女はもういないのだ。ここにいるのはカーネリア国王妃。
「申し訳ありません、王妃様。お水をお持ちしました」
 タンジアの顔にふと寂しそうな影がよぎったが……それはすぐ、笑みの下に打ち消された。
 腰窓から明るい朝の光が差し込んでいる。風があるのか、木の枝がさわさわと揺れながら、その影を部屋の中に落としている。鳥のさえずりも聞こえる。こんなにも穏やかな朝なのに……ここはトルメイン国ではないのだ。
 ――しっかりせねば――
洗面を終え手巾を顔に当てたまま、セレナは自分を律した。


 王が政を取り仕切る『思政の宮』。
 その一室で歳若い国王アレクは次から次に差し出される書状に目を通していた。
 署名するために手にした羽根飾りの付いた筆を休め、ふと顔を上げる。
 前国王であった父が崩御なされてから、毎日毎日同じことの繰り返し。
 書状に目を通し署名をする。それはもう重臣会議で決定された事案だ。王の署名など形式的なものでしかない。
 会議とて同じだ。王の意見になど誰も耳を貸さぬ。ただそこに座っていれば良いのだ。全ては重臣達が取り仕切る。
 異母兄皇子、ベリルが王となっていたならどうなっていただろう。やはりこうしてただ署名し、会議の席に座っている毎日だっただろうか。
 兄は聡明であった。この国の政にも進んで関わりたいと望み……そして死んだ。表向きは病死であったが……。
 聡明であったが故に、重臣の反感を買ったのだ。側室であった我が母の縁者の口車に乗った重臣に毒を盛られて。
 王はお飾りでよい。血筋さえ繋げばそれでよい、政に口出しなどするな。……そういう事か。
 書状を差し出す侍官が訝しげに王の様子を伺う。アレクはその者を一瞥した。侍官はとまどったように目を伏せる。それを目の端で認めるとアレクは書状の隅に己の印を刻んだ。
 ――閨の儀式より十日。そろそろ後宮にも渡らねばなるまい――
 恨みを隠し切れずに自分を()めつける高貴な白い美貌を思い返し、アレクは再び筆を休める。
 あの皇女は祖国を守るためにわたしのもとに嫁いで来た。自分の命と引き換えにしてでも国を守るつもりで。
「は……!」
 アレクの喉の奥から乾いた嘲笑が吐き出された。
 国などどれほどの価値がある? 人の命をかけてまでも守るべきものなのか? 我が国の重臣どもも、妃となったあの皇女も……みんな同じだ。
 兄もエメリアも、国のために死んだ。
 ――エメリア……!


 カーネリア国の王族の男は、十三歳になると一人前と認められ、お飾りとはいえ、政にも参加できるように位を授けられる。
 『戴位の儀』を済ませたその夜には一人前の男子として初めて、選ばれた娘と一つ寝台の上に寝ることが許される。
 アレクの添い伏し役に選ばれたのは、二つ年上のエメリアという名の娘。重臣の娘であった。
 初めての事にとまどう幼いアレクに、ただ優しい笑顔を向け、そっと手を繋いでくれた。二人はただそうして手を繋いだまま眠っただけだった。
 いつしか時が来たらエメリアを正室に迎えて兄皇子とともにこの国を盛り立てて行くのだと……ただ純粋にそう思っていたのはつい一年前までのことであった。
 アレクが十六になるかならぬかで兄皇子が亡くなり、エメリアも城を去った。消息を尋ねようと彼女の父である重臣を探したが、その姿も城中に無い。
 思い余って屋敷を訪ね、そこでアレクは知ってしまった。兄の死が病死でなかったこと、(はかりごと)を止めようとした彼女の父が失脚させられたこと、そしてエメリアも城を下がり、失意の内に父娘ともども病を得て亡くなったこと……。
 希望に燃えた若い皇子が心を閉ざしたとて不思議ではなかろう。再び城門をくぐったアレクは、以前のようによく笑う快活な少年ではなくなっていた。


 侍官や女官に守られた閨の中。寝台の端にセレナは座っていた。
 十日ぶりに王のお渡りがあるという。またあの王に触れられるのかと思うと、セレナは肌が粟立つのを感じた。
 今日は王のお渡りを告げる先触れからすぐに支度を始めたためか、先日のように王の方が先に閨に入ることは無かった。
 これから先、何度こんな事があるのだろう。その度に生き地獄のような屈辱を味わわなければならない。いっそ、この命を絶つ事ができたなら……。
 馬鹿な考えだ。できるものなら、とっくにそうしている。自分の命は祖国と引き換えにしたのだから。
 扉が開き、国王アレクが入って来る。
 美しいが冷徹な王。感情はどこに置いてあるのだろう。
「待たせたな」
 セレナが寝台から降り、片膝をついて頭を垂れると、アレクは代わりに寝台の端に座った。
「いいえ」
 セレナがその小さな美貌を上げる。
「体の方は大丈夫か。トルメイン国の掟では王族の女は婚礼まで肌を許さぬというが……本当だったのだな」
 何も答えずセレナは目の前の男の顔を睨みつけた。この男のためにトルメインの掟を守ってきたのではない。
「大事なければそれでよい。今夜はそなたには触れぬ」
 セレナの視線をものともせずに、アレクは寝台に横になった。
「そなたも休むといい。世継ぎを産む大切な体だからな」
 腰から護身用の剣を外し、枕元に置く。
「私は子を成すつもりはありません」
 セレナは寝台の上に上がり、アレクの顔を見下ろした。
「そなたに選ぶ権利はない。世継ぎがなければ重臣どもが騒ぐであろう」
 セレナの視線を真正面から受け止める。
「では私を閨に招くのはおやめになって、もっと気に入った娘を側室に迎えれば良いではありませんか」
「わたしは側室はとらぬ。とすれば正室であるそなたが我がカーネリア国の世継ぎを産むより他あるまいな」
 セレナの言葉を鼻で笑うと、アレクは寝転んだままごろり、と横向きになった。
「私は世継ぎを産むための道具だ、と?」
 アレクと向き合う形で寝台に横になる。目の前に美しい王の顔があった。
「わたしとて同じだ。そなたが子を宿し育むための器なら、王などその血筋を繋ぐだけの種に過ぎぬ」
 アレクの美貌にちらり、と影が走った……ように見えた。
「この国が滅ぶのは構わんが、わたしが滅ぼした最後の王だと……後世に語り継がれるのは、あまり気持ちのいいものではないのでな」
「自分の国が滅びてもいいとおっしゃるのですか」
「ああ、構わん。人の命より国の方が大切だと……そんなのは幻想だ」
 二人の間に沈黙が訪れた。壁の燭台に灯された蝋燭が『ジジ……』と音を立てる。


「わたしの兄皇子のことは知っているか」
 自らの腕を枕にしながら、アレクが口を開いた。
「死因はなんだったと聞いている?」
「病死と聞いております」
 セレナは記憶の糸を手繰った。まだ健在であった時、父王からそう聞いていたように思う。
「で、そなたは信じるのか」
 アレクが薄く笑う。
「では違うと?」
「前日まで元気にしていた者が、翌朝閨で冷たくなっていたと……信じるのか?」
 腕枕を組替え、アレクは天井を見上げた。
「わたしを玉座に座らせようと、側室であった母の縁者が仕組んだ事だった。聡明であった兄は政を改革しようとして重臣どもに(うと)んじられたのだ。母の縁者は巧みに重臣どもに暗殺の話を持ちかけ……母はジェイド国の出でな、かの国には病死にみせかけて人を殺める薬があるのだそうだ」
 隣に横たわる、自分を憎む小さな妃にそんな話を聞かせたところで、どうなるものでも無かったが……。
「国と引き換えに自らの命さえ投げ出すそなたの気持ち、わたしにはわからぬ」
 アレクは再びセレナの方を向いた。けぶるように濃い睫毛の下で、栗色の瞳が自分を映している。この瞳の奥で、この妃は何を考えているのか。
「そなたに聞く。国とはそんなに大切なものか。人の命をやりとりしてまで守らねばならぬものなのか。国、国、国……もうたくさんだ!」
 冷たく美しいアレクの顔に、初めて感情の色が浮かんだように見えた。
 セレナは王の中に昔見知った少年の影をちら、と見たような気がした。よく笑う、快活な少年。『拝謁』の折、見知ったあの少年は、王位継承権を得た時にこの国を見切ったのであろうか。
 互いの顔を見詰め合ったまま、また沈黙が訪れた。
 セレナの巻き毛の影が蝋燭の灯に揺らめいて白い肌に映る。アレクの灰色にも見える影を落とした瞳がそれを追う。
 やおらアレクは起き上がると、枕元の剣を掴む。鞘を払い、切っ先を自分の胸にあてがう。驚くセレナの手を掴んで引き寄せると、その(つか)を彼女に握らせた。
「その腕にほんの少し力を入れればわたしを殺めることができる。どうだ、できるか?」
 アレクは挑戦的な笑みを浮かべ、セレナに問うた。
「そなたの望みはわたしの命をとることであろう」
 ――夢が現実のものとなる――
 セレナは柄を握る手から汗が噴出すのを感じた。
 夜具に赤い染みが広がり、自らの手も朱に染まる。そしてその先は……。
 目を瞑り、深く息を吐いて、彼女は剣を握った手を降ろした。
「なぜやめる?」
 鋭い声でアレクが再び問うた。
「国を守るため……と言ったら?」
 セレナは静かに答えた。
「は……! また国か」
 剣を鞘に戻して再び枕元に置き、アレクは寝台に横になった。
「王には守りたい人が無いのですか? 私は国ではなく、人を守りたかったのです。母や弟王、それに恋人。大切な人達をこの命で守れるなら、私は喜んであなたの刃にもかかりましょう。でもあなたの命をとれば、祖国は滅びる。大切な人々をも失ってしまう。父王の恨みはあれど、あなたをこの手にかけるわけには参りません」
 セレナは横になったアレクを寝台の上に座って見下ろしながら、なぜだか王を殺めたいという気持ちが消えかけているのを感じていた。
「わたしの守りたい人はみな死んでしまった。わたしにはもう何も残ってはおらぬ」
 アレクは目を瞑り、口の端を引き上げる。
「この国ではな、国だけが一人歩きしている。カーネリア国は……強大になり過ぎたのだ。いつか内から崩れるであろう」
 さらりと言ってのけ、アレクはそれきり口を閉ざした。
 寝物語にしては長い会話が途切れる。夜鳴き鳥の声だろうか、遠くで低い声がかすかに響いていた。