> 氷の楼閣 INDEX  > 氷の楼閣
 

氷の楼閣


〜侵略〜


「今、なんとおっしゃいました」
 珍しく昼間から後宮の中のセレナの自室を訪れた国王アレク。彼がさらりと発した言葉に、セレナは我が耳を疑った。


 セレナがカーネリア国に輿入れしてから、早、三月が経とうとしている。その間に十日に一度の割で後宮への夜のお渡りがあったが、昼間からセレナの自室を訪ねて来るのは初めての事だった。
 王のお越しを告げる先触れが無かったところを見ると、私用か内々に告げることでもあったのか。
 セレナが自室で側仕えの女官タンジアに物語を聞かせているところへ、突然アレクが扉を開けて入って来たのだ。
 セレナはアレクの姿を認めると、タンジアを次の間に下がらせた。


「では……ご自分のお母様の故国に攻め入ると言うのですか!」
 セレナはつい大きな声を出した。次の間に控えるタンジアにも聞こえてしまうかも知れない。それほどアレクの言葉が聞き捨てならないものだったのだ。
「そのように声を張り上げずとも聞こえている。ジェイド国との戦はわたしの意思ではない」
 窓際に置かれた背もたれの高い椅子に腰掛け、アレクは頬杖をついている。後宮の中庭に面したその窓から見える景色に目をやったきり、問いただすセレナの方を見ようともしない。どこか間延びしたようにもとれるその態度は、本心から戦を嫌がっている様子には見えなかった。事を決めたのは重臣でも、戦地に赴くことは嫌ではない……ということか。
「どうしてです。お母様は亡くなっているとはいえ、王に(ゆかり)ある国ではありませんか。なぜ戦などと……」
 セレナは卓を挟んだ向かい側の椅子を引き、掛けた。上質の絹織物で仕立てられた長い衣装の裾が、椅子の足にまとわりつく。
 開け放たれた窓から入り込む風がアレクの髪を気まぐれに乱すのを見ながら、彼女には王の心の内が理解できなかった。
 姻戚関係というものは国と国とを繋ぐために結ぶのではないか。戦いになるのを避けるため、お互いの国の血をその子孫の中で融合させる。その為に女達は自分の意思とは関係なく他の国に差し出されるのではないのか。
 それともカーネリア国にとって、それは何の(かせ)にもならないのだろうか。
「侵略と統合を繰り返し、この国はここまで強大になった。王族や重臣の中にも様々な国の血が交じり合っている。元を正せば……わたしに縁の無い国など、どこにもないであろうな」
 自分の緑がかった茶色の髪を一房持ち上げ、アレクは鼻で笑った。その髪の色も瞳の色も、様々な国と結び続けた血縁の証だとでも言うように。
「先の兄皇子の死に疑問を抱く者どもがな、とうとう嗅ぎ付けたのだ。母の縁者が暗殺を焚き付けた……とな」
 アレクはセレナの顔をちらと見やると、形の良い眉をひそめ、肩をすくめて見せる。
 衣装に留め付けられた宝飾品の石が、窓からこぼれる光を映してキラリ、と輝いた。
「戦などと……国王が反対なされば……」
 セレナの言葉はみなまで言わずに遮られた。
「この国では王などお飾りに過ぎん。重臣達が決定したことは王の意思であると伝えられるのだ」
 薄く笑って視線を外すと、また頬杖をついて窓の外を見やった。
「では、私の輿入れも……?」
 父王の処刑もセレナの輿入れも、全て国王の意思では無いと言うのか。
「ああ、そうだ。わたしが望んだことではない」
 ――王ではなかった――
 父王を処刑したばかりか、自分に『国王のものになって生き恥を晒せ』と通達をよこし、あまつさえそれを『恩情による沙汰』だなどと言ったのは……王ではないと?
 ――私の憎しみは行き場を失った――
 カーネリア国王を憎むことで、輿入れよりこちらの自分は保たれていた。いつの間にか、憎しみがセレナの生きる力となっていたのだ。その憎しみの行き先を失ったことで、これから先、何を目印に生きていけば良いのか。
 セレナは足元の床が溶けて、ずぶずぶとめり込んで行くような錯覚を覚えた。
「出陣は明後日。明日はこちらへは渡らぬ。最期の別れを惜しむ仲でもあるまい?」
 アレクは皮肉な笑みを浮かべ、立ち上がる。
 セレナは顔を上げ視線を巡らせて彼の双眸を捉えた。
 歳若い王は彼女の白い美貌を見返すと、皮肉な笑みを消し、その栗色の瞳を覗き込んだ。
「わたしの子は……そなたの中にいるか?」
 その灰色がかった瞳の奥に、ふと真摯なものがよぎったように見えた。
「月のものが終わったばかりゆえ……」
 セレナは座ったまま、アレクの細く長い指先に視線を落とした。
「そうか。ではわたしが戦場で死ねば、わたしがこの国の最後の王、という事になるな」
 我が国の行く末を憂う言葉さえ、駆け引き遊びをしているように軽く言い流す。
 肩から流れる長い布を優雅な仕草で翻すと、アレクは後宮を後にした。 


 ものものしい行列。鎧をつけ、馬に乗った兵士の群れ。どこからこんなにたくさんの兵が出て来たのだろう、と思うほどの数だ。
 セレナは城の楼閣の最上階につくられた物見台にいた。婚儀の翌日、アレクと共に上り、カーネリアの民に王妃となったことを知らしめた場所だ。
 今日はカーネリア国軍の出陣を見送るためにここに上った。
 上から見ると、ざわざわと蠢く騎馬の行列は、踏めば散る蟻の行列のようだ。だがこの蟻どもこそが、近隣諸国を震え上がらせているカーネリア国軍、そのものなのだ。
 行列の中ほど、少しばかり色の違う鎧をつけた兵士達に囲まれるようにして馬上の人となっているのは国王アレクだろう。
 お飾りの国王とて、一旦戦が始まったなら、戦場に狩り出される。軍の士気を高めるため、旗印として掲げられるのだ。
 第一線に出て戦うことはないとはいえ、命の危険があるのは否めない事実であった。
 ――わたしが戦場で死ねば、わたしがこの国の最後の王、という事になるな――
 ふいにアレクの言葉が蘇る。
「馬鹿な事を。カーネリア国軍に勝たなければ、王の首など取れはしない」
 セレナは口の端を引き上げて、小さく息を吐いた。
 ジェイド国はおそらく攻め滅ぼされるだろう。そうして地図の上からまた一つ国が消えるのだ。
 まるでトルメイン国の未来を見ているようで、セレナは胸が苦しくなるのを覚えた。
 カーネリア国にとって姻戚関係は相手国を縛る枷ではあっても、自国の枷とはならない。それは今回の出陣を見ても明らかだ。カーネリア国王室の女は他国へは嫁がない。近隣諸国から皇女を輿入れさせ……それはやはり人質のようなものだ。
 母や弟王、そして愛しい恋人ジルク。
 彼らを守るためにこの国に来た、と思っていたのに、それは自分の単なる思い上がりでしかなかったのか。自分のこの小っぽけな命と引き換えに守れるほど、簡単なものではなかったのも知れない。
 強大な蟻の行列は進む。ざわざわと蠢く群れを見ている内に、セレナは気分が悪くなるのを覚えた。


 カーネリア国軍がジェイド国軍と対峙したのは、出陣より五日後のことであった。
 双方睨み合いの末、カーネリア国軍が先に動く。ジェイド国軍に気取られぬよう、後をとる。形勢は圧倒的にカーネリア国軍の方が有利であった。前後を挟まれ、包囲の輪は縮む。戦い慣れしているカーネリア国軍の前に、ジェイド国軍はみるみる内に兵を減らしていった。
「明日にはジェイド城を落とせるでしょうな」
 最高指揮官の男が鎧を脱ぎ、しどけなく着崩した衣の胸元を弄びながら国王アレクの前に座った。
 高台になっているこの場所からは進軍の様子が一目で見てとれる。王は前線には出ず、ここで戦いの一部始終の報告を受けるのだ。
 もうすぐ日が暮れる。
 高台の後手の山腹には、風を避けられる洞穴が自然に穿(うが)たれている。
「これより私どもは策を練りますが……明日は陣を移します。早朝からの出立となりますゆえ、もうお休みになられては如何かと」
 これより先の話し合いに王は必要ないと、あからさまな言いようだ。
「ではそうするとしよう。ご苦労であるな」
 口の端で薄く笑うと、アレクは洞穴に下りていった。
 洞穴の中は外から見るよりも以外に広い。大の男が立って見上げても、まだ天井には程遠いほどの高さもある。
 地面からはところどころ水が湧き、それが溜まって足元を濡らす。それでも少し高くなっている場所は濡れてもおらず、人が何人か眠れる位の広さはあった。
 夜具を広げ、その上に横になる。カーネリア兵が二人、アレクの周りを固めるように警護についた。
「洞穴の前は指揮官達が固めている。ここならば敵も入っては来られんだろう。おまえ達も休んで良いぞ」
 警護の者に声をかけ、アレクは目を瞑った。


 洞穴の闇の中。アレクはごろりと体の向きを変えた。
 横になってもなかなか眠気は訪れて来ない。外の物音が先刻より少し静かになった。指揮官どもの策とやらも、もう練り終わったのだろう。
 夜風が入って寒いだろうと、入口を急ごしらえの扉で塞いだため、洞穴内はねっとりと重い闇が支配している。月は雲間に隠れているらしい。
 何度めかの寝返りの後、アレクは洞穴内の空気が流れているのに気づいた。
 入口の扉に隙間でもあるのだろうか。そしてそこから入った空気が洞穴内のどこかにある空気穴から抜けていくのだろうか。
 闇が動いた、ように見えた。警護の者が立ち上がる気配がする。
『ザッ』
 鈍い音。続いて何かがくず折れる音がした。
 ――敵か!?――
 アレクは腰の剣をスルリと抜いた。この闇の中では相手が見えない。迂闊に声を上げればこちらの居場所をわざわざ敵に教えることになる。外に援護を頼むわけにもいかない。
 ――侮ったな――
 アレクは自嘲の笑いを漏らした。
 この戦、勝つものと信じ込んで、洞穴に扉など建ててしまった。空気の出入りの少ない洞穴内で灯りを使えば、酸欠になる事は目に見えている。灯りも無く、相手の人数もわからず、まして足元も悪い中での戦いはあまり形勢の良いものとは思われなかった。
 おそらく、洞穴内のどこかに隠れた抜け道があったのだろう。この戦、勝てると奢ったカーネリア国軍が、王の寝所をしつらえる際に点検を怠ったのやも知れぬ。
 ここはジェイド国領内。ジェイドの民ならばこの洞穴内の構造もよく心得ているだろう。
 ――本当にわたしが最後の王になるかも知れぬな――
「ぐっ」
 くぐもった声が聞こえた。続いて金属と金属が弾き合う音がする。
 すぐ側の闇が意志を持ってアレクに向かってきた。金属製の鞘をもう片方の手に持ち、アレクはそれを払った。手応えがあった。
 相手が何人いるか判らないのに無闇に剣を使うのはためらわれた。剣など人を三人も切れば、血糊と脂ですぐに切れなくなってしまう。相手の命を取らずとも、戦闘意欲を萎えさせるだけの傷を負わせればそれで良かった。
 扉の隙間から淡い光が差し込む。月が出たらしい。
 闇の中に立つ影が五つ見える。地面に倒れている影が二つ。その内の一つはカーネリア国の装束を着ていた。
 ――やられたか――
 こちらの生き残りは、自分を含めて二人。相手はあと四人。いずれも鎧などつけていない。
 敵の一人がふわりと舞うようにしてアレクの懐に飛び込んできた。同時にあとの三人も動く。いずれもアレク一人を狙っているようだ。アレクは身を翻してそれをかわした。
 その内の一人は警護のカーネリア兵と相討ちになった。敵の前に飛び出したカーネリア兵は自らの肩に敵の刃を受けながらも、手にした剣を相手の水月に突き込む。引き抜こうとした剣は相手の手によって押さえられ、カーネリア兵の肩口から胸にかけて相手の剣が弧を描いた。
 二つの影は一つになって地面に倒れ、動かなくなった。
「残るはわたし一人か」
 剣を体の前に構え、アレクは低く呟いた。
 あと三人。三方を敵に囲まれてしまった。
 左手にいた敵が地面を蹴り、アレクの肺を狙って剣を突き出した。鞘でその刃を払い、振り返りざま剣で薙ぐ。敵の背中を斜めに刀傷が走った。鈍い音と共に倒れた敵は、動かぬ肉塊と化した。
 ――これであと二人――
 間合いを詰めながら敵が忍び寄る。アレクは左右に視線を走らせ、敵の動きを待った。相手から仕掛けるのを待って応じるつもりだ。
 右手の敵が跳んだ、と思ったら剣が風を切る音が耳元で聞こえた。
 ――速い――
 咄嗟に身をかわしたが、左のわき腹に熱い衝撃を受けた。アレクの衣装が裂け、赤いものが噴き出る。
 痛いとは思わなかった。ただ、熱い。
 わき腹に手をやると、相手の剣がそこにあった。アレクはその柄を相手の手ごと握り、そのまま反動をつけて引き寄せる。敵の体がアレクの目の前に躍り出た。
 相手の目を見つめ、不敵な笑みを作ると……アレクは自らの剣を相手の背に回し、心臓の位置にあてがってそのまま突いた。敵の目は見開かれ、その体はズルズルとアレクの体の線をなぞってずり落ちる。剣を引き抜くと、もはやそれは動かぬ肉の塊となっていた。
 ――あと一人――
 アレクの傷は致命傷では無かったが、そこから徐々に血が失われていく。時間は無かった。
 見れば相手も足を引きずっている。動きは速くないと思われた。
 敵の剣がアレクの喉元を狙って動いた。刃こぼれするのも構わず、自らの剣でそれを払い、相手の動きをかわす。相手の背後をとろうと足を踏み出したその時、アレクは湧き出た水で滑りやすくなった地面に足をとられた。
『ドサッ』
 片膝をつき、振り返る。敵の剣がまさにアレクの体に振り下ろされるところであった。
 それを見上げ、防ぐ手立ても無く……辺りが己の血で赤く染まるのが、アレクの灰色の瞳に映った。

 ――わたしの子は……そなたの中にいるか?――
 ――月のものが終わったばかりゆえ――
 ――そうか。ではわたしが戦場で死ねば
   わたしがこの国の最後の王、という事になるな――