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氷の楼閣


〜崩御〜


 あたりは暗い
 気取られてはならぬゆえ、手燭も持たずに来た
 (むくろ)を背に、狭い穴を男が降りて来る
 男も手負いだ
 引きずる足を滑る地面に取られ
 伸ばした手は空を掴んで岩肌を滑り落ち……
 男も骸も泉の水底に沈んだ



 夜の闇を切り裂き、照りつける日の熱さもものともせずに一騎の早馬が砂煙を巻き上げながら駆けて行く。
 馬も人も、休む事を忘れてただひた走る。乗り手の意識が朦朧とし、手綱を取る手から力が失せかけた時……霞んだ視界の中に映る遥かかなたの地平の上、揺らめく陽炎の中にカーネリア城が浮かび上がった。


 国王崩御の知らせを携えた早馬がカーネリア城内に入ったのは、夜も明け切らぬ未明のことであった。その知らせは『思政の宮』を揺るがし、後宮にももたらされた。女官や侍官達は詳しい経緯(いきさつ)を知ろうと、少ない報を求めていたずらに奔走するしかなかった。
 セレナは部屋の外から聞こえる、人々がせわしなく動き回る物音で目を覚ました。後宮に働く人々が王妃の自室の辺りで物音を立てるなど、決して許される事ではなかった。その王妃の部屋とて、よほどの物音でもなければ中に聞こえないように厚い壁と重厚な扉で仕切られている。にも拘らず、遠慮もなく耳に入る音はセレナに一抹の不安を感じさせた。
 彼女は寝台の上に身を起こした。日が昇っているのであれば蔀戸(しとみど)のすきまから日の光が漏れ入る筈なのだが……外はまだ薄暗いようだ。夜明けと共に可愛らしいさえずりで時を告げる鳥達でさえ、まだ歌の準備は整っていないらしい。
 ――まだ朝餉の支度には早い時間なのに――
 物音は一向にやまない。それどころか、微かに女官の悲鳴のような声まで聞こえる。さすがに何事か起こったのではないかと心が惑わされた。
 同じく物音で目を覚ましたのであろう。次の間に控えていた筈のタンジアが夜着の上に薄物を一枚羽織っただけの出で立ちでセレナの様子を窺いに来た。
「何事があったのか、見て参りましょう」
 彼女は心細げな面持ちで、でも側仕えの女官らしく毅然とした態度で言うと、懐剣を胸の前で構え、いつでも鞘を払えるようにして扉に手をかける。タンジアが扉を開けようと手を伸ばすのと同時に、向こう側から別の女官の硬い声がした。
「王妃様にお伝えしたい件がございます」
 扉が開かれると、女官が一人セレナの前に進み出る。夜着を纏っていないところを見ると、不寝番の女官らしい。その蒼ざめた顔や、取り乱してあちこち走り回ったと思われる衣装の乱れから、ただ事では無いことはすぐに見てとれた。
「国王がお亡くなりになりました。詳しい経緯はわかりかねますが、戦地から早馬が参りましてございます。王妃様におかれましては、今しばらくこの部屋からお出になられませぬよう」
 震える硬い声で短く言い置くと、女官はセレナの言葉も待たず慌しく下がった。直接政務に関わりの無い、後宮仕えの女官や侍官でさえ色めき立っている。王が政務を執る『思政の宮』の混乱振りは容易に想像できた。
 世継ぎも成さぬ内に現国王が崩御するとは……。
 ――このカーネリア国は、いつか内から崩れるであろう――
 アレクが初めて感情を見せたあの晩。彼がさらりと言ってのけた言葉が、セレナの胸の内で木霊した。


 長い一日であった。
 夜明けと共に直ちに国政会議が開かれた。主だった重臣はみな会議の間に呼び出された。何時間にもわたって、カーネリア王室の血筋が絶えた事による今後の国の行く末を議論する。さまざまな意見が出されたが、どれも上滑りなものばかり。意見は何時の間にか国の行く末を憂う繰言となり、次には王の死を否定する言葉となり……みな一様に信じられないといった面持ちだった。
「何かの間違いではないか」
 何度も繰り返される言葉。誰もがそう信じてしまいたかった。早馬によってもたらされた報を信じないわけではなかったが、王の死を認めたくない気持ちは皆同じであった。
 カーネリア王室は、近年になって皇子・皇女の出生率が低くなっている。なかなか王妃懐妊の喜びの報が城中に轟く事がない。何年も待ってせっかく身ごもった子も、産み月を待たずに流れてしまう。様々な国と結びつづけた血縁のせいか。王室の系図のどこかで相容れない血の融合があったのやも知れぬ。
 正室ばかりか側室を何人も迎えた王もいた。しかし、側室に子を産ませることができても、それは新たな権力争いの火種となり、人の手によって淘汰されていった。
 アレクの父である前国王も、正室と側室との間に一人ずつの皇子をもうけただけであった。その皇子も生き残っているのは現国王アレク一人。 血縁の薄い王族でさえ、密かな権力争いの果てに策にはまって自害させられたり、反発する者どもの闇討ちに遭ったりして、全て絶えている。
 近隣諸国の中では国力もあり、栄華を極めているかのように思われているカーネリア王室。だがその正統な血筋は、いまや風前の灯火であった。
 それもこれも、国があまりに強大になり過ぎたがゆえの宿命であろうか。
「軍の帰還を待っては如何か」
 重臣の一人がその場を凌ぐように口を開く。待ってみても事実が変わるとは思えなかったが……。誰もがこの事態を憂い、夢ならば醒めてくれ、と願っていた。軍が還り、指揮官の話を聞けば諦めもつこう。
『カーネリア国軍の帰還を待って決議する』
 重臣達が導き出した、苦渋の決断であった。


 ――王が亡くなったなら、私はどうなるのだろう――
 出陣の前にアレクが座っていた窓際の椅子。高い背もたれによりかかりながら、セレナは中庭に遊ぶ小鳥の姿を目で追っていた。
 輿入れから日も浅く、世継ぎさえ設けていない王妃は再び国に帰る事を許されるのだろうか。それともこのままカーネリア国の神殿に上がって尼にさせられるのかも知れない。
 王のいない国など聞いたことがない。そもそも受け継ぐ王の血筋の絶えたこのカーネリア国が、この先続いて行けるのかどうかも怪しかった。
 ――わたしが戦場で死ねば、わたしがこの国の最後の王、という事になるな――
 真摯な色を纏った影のある瞳が瞼に浮かぶ。彼の言った言葉は現実となってしまった。
 王である自分を血筋を繋ぐためだけの種だと言い切ったアレク。
 初めて肌を重ねた日の事が蘇る。目の前の王こそが父王の処刑と自分の輿入れを決めたその人であると思っていたあの日。お飾りの王だと知っていたら……もっと違った気持ちで閨の儀式を迎えられただろうか。
 ――なぜ私は王のことばかり思い返すのか――
 セレナは自分の考えがいつまでもアレクの上に留まっているのに気づき、小さく息を吐いた。
 まだトルメインで生きている恋人ジルクではなく、死んでしまったカーネリア国王アレクを思うのは……亡くなった者への思慕の念なのか。憎んでいたとはいえ、後にも先にも、夫と呼んだ唯一人の人。その王が憎むべき相手では無いとわかってしまった今、少しばかり鎮魂の気持ちを持ったとて、罰は当たらないかも知れない。
 中庭を小さな生き物の影が走る。小鳥達は驚いて一斉に飛び立ってしまった。セレナは視線を巡らせてその後を追う。だが追いきれず、小鳥達は小さな点になり、そして消えて行った。
 それが一人取り残された今の自分の立場を暗示しているようで……セレナはやり切れない気持ちを封じるように窓を閉ざした。


 国を揺るがす知らせをもたらした早馬から遅れる事三日。カーネリア国軍が勝利の報を携えて城に引き揚げて来た。その中に国王アレクの姿はやはり無い。
 兵達が勝利に沸き立つ中にもどこか沈みがちなのも、無理はなかった。
 ――本当に死んでしまったのだ――
 物見台でカーネリア国軍の凱旋を見守っていたセレナは、今さらのように言いようのない虚脱感に襲われていた。憎むべき相手が王では無いとわかった時。あの時も自分の所在があやふやなものになった錯覚を覚えた。その王がいなくなったと聞いて、ますます自分はどうしたら良いのか、どうしたいのか、わからなくなってしまった。
 全ての兵が還り着き、城門が閉められる。馬達は全て、内堀より外側の厩舎へと連れて行かれた。
 兵達がまばらになってもなお、セレナは物見台より動けないでいた。カーネリア国の非常事態を喜ぶべきなのか。それとも自分の未来を憂うべきなのか。
「王妃様にご報告せねばならない件がございます」
 セレナの堂々巡りの考えを、太い声が打ち破った。自分の考えにすっかり囚われていた彼女は、物見台のすぐ下に戦姿の男が近寄って来たことにすら気づいていなかった。
「彼は此度(こたび)の戦の最高指揮官です」
 女官がそっとセレナに耳打ちした。
 男は鎧をつけ所々破れた衣装で、顎には無精髭が伸びている。歳の頃は三十過ぎと見受けられたが、近隣諸国の中でも最強とされるカーネリア国軍の最高指揮官を任されるだけあって、体つきも引き締まり、その視線も身のこなしも武官らしく寸分の隙も無い。
「聞きましょう」
 セレナは静かに立ち上がり、彼を謁見の間に通すよう側仕えの女官に命じた。


 謁見の間には後宮付きの兵が六名、王妃を守るために同席した。いかに最高指揮官の任にある重臣とはいえ、国王以外の男を国王の同席無しに王妃に近づける事は、王室の血筋を正統なものにするためにも避けるべき事であったのだ。
 最高指揮官は謁見の間に通されるにあたって湯を使って髭を剃り、衣装もこざっぱりしたものに着替え、戦の匂いをその身体から拭い去っていた。王妃と対面するのにいくらなんでも戦地から戻ったそのままのなりでは礼を欠くと思ったのだろう。
 彼は王妃の前まで進み出ると、片膝をついて頭を垂れた。
「私に報告したい事とは」
 セレナが促す。
「国王の事でございます」
 最高指揮官の男は畏れながら、と顔を上げた。
「この戦、勝てるものと奢り……王の寝所に使った洞穴に抜け道があるのに気づかなかったのです。ジェイドの兵が忍び込み、警護の者二人を殺め、王も……。亡骸は見つけられませんでした。おそらく、どこかに運ばれたのではないかと……」
 彼の報告を聞くセレナは、それが現実のものとは思えなかった。どこか遠くで物語でも聞いているような……そんな自分に違和感を覚えもしたのだが。
「これが洞穴内に落ちておりました。」
 差し出されたのは、アレクの剣。鞘も刀身も、どす黒い血糊がべっとりと付いている。おそらくこれで何人かは斬ったのだろう。やむなく斬り結んだ跡なのか、よく手入れされた剣には小さな刃こぼれがあった。
「亡骸は見つけられなかったのですね? ではまだ生きているのでは……」
 セレナの言葉を最高指揮官の押しつぶしたような苦悶の声が打ち消した。
「剣の落ちていた辺りに、明らかにジェイド兵のものではない大量の血溜まりがありました。それは抜け道に続いておりまして……。警護の者が事切れる直前に、敵は五人であったと申しております。残っていた亡骸が四体。おそらく最後の一人が王の亡骸を運び去ったと思われます。王が健在であられるなら、ご自分の剣を残して行かれる筈がございません」
 次々と告げられる事実の断片は、ひとつひとつ積み上げられ、アレクの死を確固たるものに形作ってゆく。セレナは自分が今どんな顔をしているのかわからなかった。
「わかりました。では今後の私の処遇などは……」
 そこまで言い、彼女はアレクの言葉を思い出した。
 ――この国では王などお飾りに過ぎん――
 重臣達の決定には王の言葉など入る余地も無いと言ったアレク。
「……この国では王がおらずとも決められるのでしたね」
 セレナの冷ややかな言葉に、最高指揮官はもう一度頭を垂れ、視線を外したまま部屋を出て行った。


 『思政の宮』でもその日の内に再び重臣達による国政会議がもたれた。国王の死が否めない事実となった今、万が一にもと希望を抱いていた者達も冷静になって淡々と議事を運ぶ。
 そして導き出された答え――。
 セレナの処遇は半年後に決定される事となった。
 王のお子を宿していない事がはっきりするまで、このまま王妃の位に留める。戦や王の死など、劇的な環境の変化もあったので半年間という猶予を持ち、事は慎重に見守られた。
 後宮へは男の出入りは許されていない。自由に出入りできるのは国王、唯一人だ。後宮には王妃の身の回りの世話をする女官の他、力仕事を担う男の従者や警護の者もいる。しかしその者達は、いずれも去勢された者ばかりだった。
 このように厳しい監視下において、セレナが他の男の種を宿すことは有り得ない。
 彼女はそのまま後宮に戻された。