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氷の楼閣


〜帰還〜


『ピチョン』
 夢……。
『ピチャン』 
 (うつつ)? それとも幻か。暗い水中を浮き沈みしているような感覚。意識がふと浮いては沈んでいく。もうどの位そうしていることか。とても長い間のような気もするし、ほんの一時のような気もする。
『ピチャ……』
 顔に冷たいものがかかった感触。その刺激がまた意識を浮上させる。
 ――何かを……なさねば――
 再び沈みかけた意識を叱咤し、そのまま高みへと導く。重い瞼がふと上下に割れた。ぼんやりした視界に映るものは黒々とした岩肌。
「気がつかれましたか」
 微かな衣擦れの音とともに薬草の匂いがツンと鼻をついた。
「滴る水がお目覚めを誘ったようですね、アレク皇子。いえ、今は国王におなりでしたか」
 目の前にあるその顔に焦点を結んだアレクは、一瞬の逡巡の後、その者の名を口にした。
「ハウラ……」
 ハウラと呼ばれた女は、静かな微笑みを湛えてアレクを見下ろした。四十に近いと思われるその顔は、それでも母のような慈愛に満ちた笑みのおかげでとても神々しく見える。
「アレク様がまだお小さい頃、熱を出す度によくこうして看病して差し上げましたね」
 懐かしそうに彼の頬に手を当てる。アレクは自らの腕を動かし、その手に重ねた。
「ジェイド国に里下がりになったきり、戻って来なかったのだったな」
 本心からではないが少し咎めるような口調になった。
「私が里下がりしている間に急な病でお母様が亡くなられ……。お仕えする主人を亡くした私はカーネリア国に戻る事無く、故郷であるジェイド国に居着いてしまったのです」


 女は名をハウラといい、ジェイド国からアレクの母について来た女官であった。王族の子供は幼い頃から自分の宮を持ち、母親とは離れて暮らす。幼い頃のアレクは後宮に母を訪ねた折、帰る段になるとよく熱を出した。それは母と別れたくないという子供の心が本人もそれと知らぬ間に成せる仕業だったのだろう。そうやって熱を出したアレクの看病をしてくれたのが、この母付きの女官、ハウラだった。


「そなたは薬や医学に長けたジェイド国の薬師(くすし)の家の出であったな。此度の戦は……すまなかった。家の者は大事ないか」
 幼い頃より見知っている者に会えた心易さからか、アレクはいつになく素直に詫びの言葉を口にした。
「里下がりをしてすぐに家の者……と言っても父が居ただけでしたが、その父も亡くなりました。その後は家業を継ぎ、細々と薬を作って暮らしておりました」
 戦――自分で言った言葉に思い当たるものが有ったのか、突然アレクは目を瞑って両の手で頭を押さえる。
「わたしはどうしたのだ。あそこで……あの洞穴で討ち取られたと思ったが。ハウラ、そなたは何故ここにいる? ジェイド国との戦はどうなったのだ?」
 アレクは身を起こそうとして小さく呻いた。身体を動かそうとすると全身に鋭い痛みが走る。
「まだ起きてはなりません。私がお助けした時、アレク様はすでに(むくろ)同然だったのですから」
 矢継ぎ早に問い掛けるアレクを制して、ハウラは小さく息を吐く。優しく肩に手を添えると、彼を横たえた。
「順を追ってお話しいたしましょう」


 ハウラがジェイド兵達の密談を聞いてしまったのは、ほんの偶然だった。
 彼女は怪我を負った兵に使う薬をジェイド国軍の陣まで届けるように仰せつかった。そしてたまたま迷って通りかかった小部屋から漏れ聞こえた言葉。それが聞き捨てならぬものだったのだ。
「この辺りで王の寝所に使うとしたら、あの洞穴以外に無いな」
「ならばジェイドの民にさえよく知られていない、秘密の抜け道を使えばいい」
「カーネリア軍は、この戦、勝てると油断している筈。正面からでなければ王の寝込みを襲うことは容易い事だ」
「この国はもうすぐカーネリア国の手に落ちる。国は敗れようとも、せめて敵国の王を道連れにしてやろうぞ」
 ハウラは国王アレクの寝所に忍び込むという計画を知り、そのまま兵達の後をつけて洞穴内に入った。
 ジェイド国の民である自分が何故、今まさに自分の故国と戦をしている敵国の王を助けようとしているのか。後をつけ、見失いそうになりながらも彼女は自分で自分に問い掛ける。だが、自分の国よりカーネリア国王を助けたいと思う気持ちは偽りでは無かった。『国』と『人』。二つを秤にかけた時、縁者もいないジェイド国より、幼い頃お世話申し上げたアレク自身の方がはるかに重かったのだ。
 兵は五人。気取られぬよう、手燭も持たずに後をつける。途中、ぬかるむ足元に気を取られ、泉のほとりで兵達を見失った。
 ――帰りもここを通るに違いない――
 そう考え、ハウラは岩陰に身を潜め、兵達の帰りを待った。
 しばらくの後、足元をよろつかせた男が一人、骸を背に岩場を降りてきた。泉のほとりは特に湧き出る水の量が多い。ぬかるんだ地面に足を取られ、岩肌を滑り落ち、男も骸も泉の水に沈んだ。
 ハウラは泳法の心得があった。足手まといな上衣を脱ぐと、迷わず水に飛び込んだ。男は落ちる際、岩にうちつけたのだろう。頭から大量の血を流して事切れていた。骸と思われた男に近寄ると、それは紛れも無くアレク皇子……いや、現カーネリア国王だった。
 ――死んでいる……?――
 恐る恐る指でなぞると、血の気の失せたその首筋からは微かな脈が触れた。だがそれは弱々しく、今にも止まってしまいそうだ。
 ――今ならまだ助かるかも知れない――
 急いで水から引き揚げ、家に代々伝わるジェイドの秘薬を使って蘇生を試みる。程なくアレクは微かに息をし始めた。


「身体のあちこちに刀傷があって……随分と血を失っておいででしたから、このまま気が付かれないのではないかと案じておりました。アレク様をお助けしてから、既に一月が経とうとしております」
 ハウラは心底安堵したようにアレクの頬を再び撫でる。幼い頃、そうしてやると彼は安心して眠りについたのだった。
「さすがは水量豊富な国、カーネリアの王ですね。足元を濡らす水に助けられ、また今は滴る水に呼び覚まされ……」
「だがわたしがこのような深手を負ったのも、水に足元をすくわれたからなのだよ」
 ハウラの言葉を遮り、アレクはふふ、と笑った。
「カーネリアの象徴である水は国王でさえ傷つけるのだな」
 他愛も無い偶然だった。だが、アレクにはそれさえも自分の立場を暗示しているように思えて、自嘲の笑みを漏らすのだった。
「いつまでもそなたに迷惑をかけるわけには行かぬ。わたしが少し動けるようになったら、こっそり城の前に連れて行ってくれ」
 話し疲れたのだろう。言い終えると彼は、また夢の中へと沈んで行った。


 カーネリア国軍の凱旋より一月余り後。
 東の空が白々とし始めた頃、カーネリア城門の通用口を叩く小さな音がした。門番が誰何(すいか)しても答えは無い。不審に思って剣を構え、小さく通用口の扉を開くと、そこには傷ついたカーネリア国王が重厚な金属の扉にもたれるようにして座っていた。
「後宮に運べ」
 国王自らの命で、彼の身体は門番から警護の役人に、そして城中の従者へとその肩を借りて後宮の門をくぐった。『思政の宮』にも使いが出されたが、重臣達の耳に望外の知らせが届いたのは、国王がすでに警護の固い後宮の門をくぐった後であった。


「王妃様、大変でございます!」
 後宮仕えの女官が取次ぐ暇も惜しいと言わんばかりに王妃セレナの前に進み出る。とりあえず洗面だけは済ませたものの髪はまだ(くしけず)っている途中であった。だが、女官が大変な知らせを持ってきたと言うので用件だけは聞こうと面会を許したのだ。
「国王が……国王が生きておられました!」
 思ってもみなかった女官の言葉に、タンジアの手が止まる。セレナも何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「王が生きていたと……そう言ったのですか?」
 確かめるようにゆっくり聞き返す。
「はい。門番からの知らせがございました。思政の宮へは寄らず、まっすぐ後宮に向かわれたとの事……」
 女官は嬉し涙を流している。この者の様子からして、王の帰還は本当のようだ。女官を下がらせた後、タンジアを急かして髪を梳らせ終え、身支度を整えると後宮の門へと急いだ。途中、国王のお渡りを告げる先触れの女官と鉢合わせする。彼女もまた、嬉し涙を流していた。
 頭の中に枷をはめられたようで、何も考える事ができない。視覚が、触覚が、聴覚が……全ての感覚が薄物を通して入って来るように感じられる。
 ――確かめなければ――
 ただその思いだけで前に進んでいる。気がつくと、セレナの歩みはいつしか小走りとなっていた。纏った衣装の裾が足に絡んで走りにくい。留め付けられた飾り布が肩から滑り落ちる。それでも構わずにセレナは走った。後からついて来るタンジアも、そんな主に追いつくのに必死だった。
 ずっと遠くに見える人影。後宮勤めの従者に肩を借りながらも後宮の門をこちらへと歩いて来る長身のその人影は、他ならぬ国王アレクの姿であった。傷をかばってか、動きはぎこちなく、ゆっくりであったが、確かに彼はそこにいた。
 ――生きていた――
 セレナは安堵の嘆息を漏らした。次の瞬間、その美しい顔が強張る。
 ――私は今なんと? 生きていて良かったと……そう思ったのか? 刺し違えても良いと思っていた王が生きていた事を、喜んだのか?――
 セレナの足は止まり、凍りついたようにその場に釘付けとなった。
 ゆっくりと歩を進め、アレクは門を入ってすぐ、広間の中ほどに置かれた椅子に腰をおろす。出陣の折、戦のために纏って出た装束は、あちこち刀傷を受けて破れている。そして敵のものか自分のものかわからない、黒く変色したおびただしい量の血がこびり付いていた。
「戦地にてお亡くなりになったと聞きましたが」
 タンジアを伴って進み出たセレナは、片膝をついて頭を垂れ、つとめて冷静さを装った。
「死んではおらぬ。怪我を負って、今まで動けずにいたのだ」
 従者の肩から腕を外す際、アレクは少々顔を歪めた。気丈にしているが傷は思いの外、深いのかも知れない。
「それともわたしが死んでいた方が、そなたにとっては都合が良かったのかな」
 薄く笑って、セレナを見下ろす。
「しばらく後宮に留まる。そなた、わたしの世話をせよ。この傷が治癒するか、それとも悪化するか……そなた次第だ」
「私次第……と?」
 セレナは顔を上げ、訝るような声で今聞いたばかりの言葉を繰り返す。
「自ら剣を持たずとも、わたしの命をどうにでもできる。どうだ、嬉しいだろう。ジェイド国との戦の傷が元で死んだのなら、いくら重臣どもとてトルメイン国には何もできまい」
 王である自分の命さえ手駒にするように冷ややかに言うと、セレナの瞳を見据えた。
「これより、薬師(くすし)の他はこの後宮に近づいてはならん。よいな」
 声に力こそなかったが、威厳をもって周りの者に言い渡す。
 付き添っていた国王付きの女官が何か言おうとしたが、王の鋭い眼差しを向けられると言葉を発することなく開きかけた口を噤んだ。
 後宮勤めの女官や侍官の手によって、空いている一室に急遽、王のための居室が整えられた。


「そなた、わたしを部屋に連れて行ってくれ」
 居室が整えられたとの知らせを受け、アレクはセレナに向かって腕を差し出した。
 王妃が自ら王に肩を貸すとは……前例の無い事ではあったが、王の命であるならば仕方ない。セレナはその華奢な肩にアレクの腕を回した。
 弱っているとはいえ、剣術や馬術などの武芸で鍛えた筋肉質の男の身体だ。重いことこの上ない。小柄なセレナには荷が勝ち過ぎていた。
 やっとの思いで部屋にたどり着くと、その中ほどにある寝台にアレクを横たえるため、前かがみになった。少し重心を傾けただけでもセレナの華奢な体はフラフラとよろめく。寝台の端に腰を掛けてアレクの身体の脇に両手をつくと、彼女は息を整えながら彼の灰色の瞳を覗き込んだ。
 出陣の時と変わらず冷たく美しいその顔。大量の血を失ったためか、紙のように白い。アレクの無残な衣装を開こうとして、セレナはふとその手を止めた。
「ご自分でお脱ぎになりますか? それとも私がお脱がせ致しましょうか。このようななりでは手当てができませんが」
「手当てなどいらぬ」
 挑戦的な眼差しでセレナを見返す。だが、その瞳にはいつものような力は無かった。
「それでは死んでしまいます」
「見殺しにしてもよいのだぞ?」
 アレクは血の気が失せてもなお美しいその顔に試すような笑みを浮かべると、手を伸ばしてセレナの頬に触れようとする。伸ばしきらない内に傷に障ったのか、口唇から小さな呻きが漏れ、その手は寝台の上に力無く落ちた。
「失礼致します」
 セレナは傷口に触らぬよう気を付けながら、血でどす黒く汚れた衣装を脱がせにかかった。もっとも衣装はあちこち切り裂かれていて、どこが傷口かわかりはしなかったが。
「ひどい……」
 胸の前を少し開けただけで、彼女の細い指は凍りついてしまった。アレクの傷は思いの外、深い。従者の肩を借りていたとはいえ、この傷でよくもここまで歩いて来られたものだ。国王としての意地なのだろうか。
「刀傷を見るのは初めてか」
 驚いて止まったままのセレナの手をアレクの手が掴む。手首に感じるその力は弱々しい。非力なセレナでさえ振り払ってしまう事もできると思われた。だがそうしてしまうのは何故かためらわれ、彼女はアレクの灰色の瞳に視線を落としたまま、振りほどこうとしなかった。
「少し肩を上げて頂けませんか」
 セレナは幼子に言い諭すようにやんわりと言った。傷ついた王がどんなに射るような視線を向けても、彼女の心の中までは射抜けなかった。ふいにアレクの瞳から力が抜ける。
「家臣どもの前では虚勢を張っていたが、そろそろわたしも限界だ。身体に力が入らぬ。……衣装はそのままで良い」
「いけません。傷口から悪い風が入り込んだら本当に死んでしまいます」
「わたしを殺したいのではなかったのか」
「もう……それは諦めました。人の死はこれ以上見たくありません」
 伏し目がちにするとけぶるような睫毛がセレナの瞳に影を落とす。もう一度アレクの力無い灰色の瞳に視線を移すと、彼女は怪我人をこれ以上苦しめないよう細心の注意を払って、その血で汚れた衣装を剥ぎ取った。