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氷の楼閣


〜謁見〜


 アレクの傷は深く、癒えてもいない内に無理をして動いたためか、城に還り付いたその日から七日の間高熱が彼を襲った。
 意識は深く沈み、時々薄目を開けても、セレナの問いかけに答えることは無い。
「王、お薬をおつけしましょう」
 語り掛ける声が届いているのかいないのか。動かぬアレクはその身体を苛む熱が無ければ、骸と見まごうほど弱っていた。
「国王付きの薬師はジェイド出身の者なのですね。今日も王のためにお薬を調合してくれました」
 答えが返って来る事など期待せず、セレナは淡々とアレクの看護をする。女官が代わりに、と申し出ても、王の命なのだからと王妃自ら世話をした。
 王の傍らにもう一つ寝台をしつらえさせ、セレナはそこで休んだ。昼となく夜となく、まどろんでは起き、起きては傷の手当てをする。水に濡らした手巾を絞り、アレクの額に乗せる。
 傍目からは仲の良い夫婦にも見えたのだが……。


 八日目の朝日が差し込む。アレクの様子を見守りながら寝台の傍らで肘を付き、ついうとうととまどろんでいたセレナの巻き毛が何かに絡め取られた。うっすらと目を開ける。彼女のはっきりしない視界に入ったのは自分のものではない細く長い指先。それは手首へ、そして少し痩せてはしまったが程よい筋肉のついた腕へと続き、その先にアレクの灰色の瞳があった。
「王……。気づかれたのですね」
 セレナの栗色の瞳が安堵の色に変わる。
「本当にそなたが世話をしてくれたのだな」
 アレクはセレナの栗色の巻き毛を弄び続けた。指にきつく巻きつけ、スルスルと解く。(くしけず)り易そうなその髪は絹糸のように柔らかく、名残惜しそうにアレクの指に絡んだ。
 セレナは手を伸ばし……アレクの頬にそっと重ねた。彼の肌からは健康な人ほどの熱しか感じられない。
「熱が下がれば大丈夫だと、国王付きの薬師が申しておりました」
 思えば初めてであろう。セレナはアレクに無防備な笑顔を向けた。相手が怪我人だから、と気を許したのか……。
 朝日の中で輝くその顔が美しくて、神々しくて……アレクは心地悪さを感じて視線を外す。自分も怪我を負って、心が弱くなっているのかも知れない。
「わたしなど見殺しにすれば良かったものを」
 きつく結んだ唇の端から言葉を搾り出す。それを見て、セレナは小さく息を吐いた。
「トルメインのためです」
 二人の間に冷やかな『気』が流れた。一度は寄り添うと思われた心が、また離れていった。


 ――私は王の命でお世話しているのか……それとも自分の意思で、自分がそうしたいと願うからなのか――
 小さなわだかまりを抱え、それでもセレナは王の看護を進んで引き受けた。認めてしまうわけには行かない。そうだ。これは王の命だからしている事なのだ。
 セレナは忙しく立ち働く事で、雑多な思念を己の内から振り払った。
 王の身体は日に日に治癒していった。もともと武芸の修練を積んだ男だ。内に秘めた魂の力は奇跡とも言える回復力を周りの者に見せつけた。
 七日の内に床の上に起き上がれるようになり、また七日の内に壁を伝って歩けるまでになり……帰還して一月の後には、政務に戻るべく『思政の宮』へとアレクは帰って行った。後宮にしつらえられた王の居室も主を失い、従者達の手によって元通り片付けられた。


「此度の王妃様のお働きは目を見張るものがあります」
 国政会議の只中。久しぶりに同席したアレクをちら、と見やりながら重臣の一人が口火を切った。
「トルメインの人質代わりに、と迎えた王妃でしたが……まことカーネリアの王妃にふさわしいお方かも知れませんな」
 口々にセレナを賞賛する言葉が部屋を満たす。
「如何でしょう。この際、人質のような扱いはもう()しとして、トルメイン国の品をお側に置く事を許されては」
 異議を唱える者など誰もいなかった。早速トルメイン国に使者が遣わされ、王妃への献上の品を用意するよう伝えられた。その知らせは後宮に住まうセレナやタンジアのもとにも届けられる。
「トルメイン国の品を使うことができるなんて。王妃様にはトルメインの香が良くお似合いですもの」
 タンジアは瞳を潤ませてセレナの手をとった。
「そうですね。私にはカーネリアの香はきつ過ぎます。トルメインのあの儚げな香のかおりが懐かしい」
 セレナは優しく微笑んだ。
「それから、あの金緑石の首飾り。王妃様に良くお似合いで……」
「まあ。タンジアは私の事ばかり言うのですね。あなたこそ、ゆうれん石の()め込まれた(かんざし)が、その髪に映えていましたよ」
 二人は顔を見合わせてふふ、と笑った。
「トルメインよりお使者が到着するのはおそらく五日後。どなたがお使者に立たれるのでしょうか」
 タンジアは自分の見知った者が来るといい、と付け足した。
「外務大臣が来るのでしょうね」
 セレナが思い当たるのは彼くらいだった。まだトルメイン皇女であった頃、表向きの外交は全て初老に達した外務大臣がそつなくこなしていた。
「ああ、あの方! とてもお優しくて、私もとても可愛がって頂きました」
 無邪気に笑うタンジアを眺めながら、セレナはその胸の内に来る筈もない愛しい人の面影を見い出していた。


「トルメイン国よりの使者が到着されました」
 後宮に嬉しい知らせがもたらされたのは、きっかり五日後のことであった。王妃やその側仕えの女官が喜びそうな品々とカーネリア国への貢物を携え、はるばるやって来たのだ。
 国王アレクと王妃セレナは外交のために仕立てさせた上質の衣を(まと)い、威厳を持って使者を迎える。謁見の間の上座に置かれた布張りの椅子に座り、下座の扉から頭を垂れたままの使者が入って来るのを眺めていた。
「許す。もう少し前に進み出よ」
 アレクの太い弦を爪弾くような声が響く。畏れながら、と使者は歩を進めた。
 目の前の使者。その面差しに目をやった時、セレナは全身の血が逆流したように感じた。
 ――ジルク! 何故……?――
 そこに片膝をつき、頭を垂れているのは祖国トルメインに残して来た愛しい恋人。輿入れの朝、あの小部屋できつく抱きしめられた感触が、それがつい先刻の事だったかのように蘇る。額に、瞼に、唇に……。押し付けられた唇の柔らかさと熱っぽさが思い出され、セレナは息を呑んだ。
 不意に、頬に焼けるような視線を感じた。眼の端で窺うと、隣の椅子に身体を預けたアレクがこちらを見ている。その瞳は訝るようにセレナの様子を眺め、次に形の良い眉がひそめられた。
 ――気取られてはならない――
 ジルクが恋人であったと、アレクに……この氷のような王に知られたら、彼は生きてカーネリアを出られないかも知れない。
 セレナは努めて冷静に恋人の顔を正面から見据えた。
「トルメインの使者よ。遠路はるばるご苦労でした。届けられた品々もみな懐かしい物ばかりです。今日はお疲れでしょうから、城内で休まれて明後日にでもお発ちになると良いでしょう」
 にこやかな外交上の笑顔を作り、さも懐かしい重臣に会ったと言わんばかりに振舞う。
「勿体無いお言葉、有難うございます」
 ジルクはそんなセレナの瞳を見つめ、寂しそうな笑顔になると再び頭を垂れて静かに言葉を紡いだ。
「王妃の祖国からの使者を『禁断の宮』へお通しするのは失礼だ。後宮に一番近い『正殿の宮』にでも泊まって頂くが良い」
 アレクはその瞳に暗い影を落とし、口の端を引き上げて薄く微笑んだ。


 セレナは後宮の自室に戻ってからも、ふわふわと心が定まらなかった。湯を使い夜着に召し替えても、まだ胸の鼓動は治まらない。
 ジルク、ジルク、ジルク――!
 夢にまで見た恋人。今その彼が同じ城中にいる。そう思っただけで、セレナの胸は高鳴り、じっと座っていられなくなる。
 だが、王と一緒でもないのに後宮より出る事は叶わない。考えた挙句、彼女は中庭を散歩するだけだから、と言い置いて供の者も連れずに自室を後にした。
 中庭はもう既に暗く、手燭の灯りだけが頼りだ。昼間見る庭は明るく美しいのに、夜の闇が降りた庭は得体の知れない物が潜んでいるように思えて、彼女はブルッと小さく身震いした。
 ――逢える筈もないのに――
 自嘲めいた笑いが口元に浮かぶ。だが、この城のどこかに恋人ジルクがいると思うだけで、懐かしいような切ないような気持ちになるのだった。
 セレナはしばらく庭を所在無く歩き回っていた。だがそれも詮無い事と諦め、踵を返す。その時、背後で小枝を踏む小さな音が聞こえた。
 恐る恐る振り返る。
「誰です」
 そこにいるのは人とは限らない。懐剣を握り締め、隙を見せずに鋭い声で誰何(すいか)した。
「皇女様……?」
 懐かしい声がセレナの耳朶を打った。
「ジルク……そこにいるのはジルクなの?」
 心臓が早鐘のように鼓動する。胸が詰まり、息が苦しい。手燭の灯りを差し出すと、そこには紛れも無く懐かしい恋人、ジルクの顔があった。
「どうして後宮の中庭になど……。見つかったらただでは済みませんよ」
 心配のあまり、咎めるような声になる。
「今一度、皇女様のお顔を見たくて歩き回っている内に、塀の破れからここに入り込んでしまったのです」
 彼の言葉に、セレナの瞳から涙が零れる。ずっと逢いたかった。カーネリアの王妃となっても、忘れることなどできなかった。
『国を守る』
 彼女がそう言う度、国の後にはいつもジルクの笑顔があったのだ。
「此度の使者は何故あなたなのですか? 外務大臣はどうしたのです?」
 セレナは恋人の瞳を見上げ、問うた。闇の中ではそれとはわからないが、彼の瞳はたった今でも栗色のままそこにあるのだろう。変わってしまったのは自分だけ。カーネリアの王妃となり、ジルクのために守ってきたトルメインの掟も破られた。ここにいるのはもうジルクと添う事のできない、他の男の刻印を持つ女。
「皇女様にお逢いできる唯一度の機会と思い詰め、外務大臣殿に薬を盛りました。お体の調子を崩され、補佐であるわたしが代わりに参上したのです」
 事が露見すれば、自分も咎人なのだ……と、ジルクは悲しく微笑んだ。
 もう逢えないと想っていた人の胸が間近にある。セレナはその胸に飛び込んでしまいたい気持ちを必死に押し留めていた。
「こんな逢瀬が見つかったら、二人だけの問題ではなくなります。祖国トルメインにどんなお咎めがあるか……」
 言葉とは裏腹に、セレナの手はジルクの衣装の袖を曳いていた。
 ――本当は行って欲しくはないのです――
 口には出せない言葉がその胸の内で木霊する。
 だがそれも、不意に聞こえた衣擦れの音に打ち消された。
「やはり、ここだったのだな」
 闇の中から滲み出るように現れた人影は、セレナの掲げる手燭の灯りに照らされ、次第に国王アレクの姿を形作る。驚く二人を高い身の丈から見下ろすと、まずセレナに、そして次はジルクにと鋭い視線を向けた。
「ジルクは悪くないのです。広い城内で迷い、気が付いたらここに来ていた……それだけなのです」
 セレナの必死の執り成しも、アレクの心を動かしはしなかった。
「ほう。その者はジルクと申すのか」
 セレナの顔が強張る。
「そなたの恋人だな?」
 アレクの灰色の瞳がいっそう影を濃くした。
「いいえ……いいえ……!」
 セレナは蒼ざめ、首を激しく横に振ってジルクを後手に庇う。ジルクの暖かな手が彼女の肩に添えられた。
 アレクはそれを認め、ギリッと歯根を鳴らす。
 ――何故こんなに心乱されるのだろう。何故放っておけなかった?――
 『正殿の宮』から後宮に続く塀を少しばかり破っておいたのはアレク自身だ。自分でも何故そのような事をしたのかわからない。覚えているのは、謁見の折のセレナの様子がただならぬ物だったこと。使者を見た時、彼女が息を呑むのがわかった。自室に帰り、それを思い返していたら……いつの間にかその足は後宮へと向かっていたのだった。
 不可解な気持ちはアレクを一層苛立たせた。ふつふつと残忍な言葉が己の内に湧き上がる。
「我が妃を放してもらおう。その者はわたしの種を宿す、大切な器なのだからな」
 一段低い声で冷ややかに言い放つと、アレクは手を伸ばしセレナの腕を掴む。強い力で引き寄せられ、セレナはよろめいて傷が癒えたばかりのその胸に倒れこんだ。
 ジルクが衣装の袖の内で拳を握り締める。その拳が震えた。一瞬の逡巡の後、それはアレクに向かって繰り出された。
 ――いけないっ!――
 セレナが咄嗟に身体を張り、アレクを庇う。ジルクの拳はその華奢な身体を打った。彼女の小さな身体が前のめりに折れる。激しく咳き込むと、そのまま地面に膝をついた。
「なぜカーネリアの王を庇うのです」
 王妃セレナを見下ろすと、心底悲しげな声でジルクが問う。セレナと同じ栗色の瞳は彼女を捉えたまま揺れている。
「……私が庇ったのは王ではありません」
 元トルメイン皇女は寂しく微笑んだ。
「あなたがカーネリアの王を傷つければ、トルメイン国の立場が危うくなります。だから……」
「もうよい!」
 アレクの強い声がセレナの言葉を遮った。
「ジルクとやら。命拾いしたな。今日のところはセレナに免じて何も無かった事にしてやろう。我が妃に感謝するが良い。もうすぐ見張りの者が回ってくる時間だ。さっさとこの場を立ち去れ」
 灰色の瞳でジルクを()めつけ不機嫌に言い放つと、アレクは肩から流れる長い布を翻し夜の闇に溶けていった。


 ――私は……――
 自室の寝台の上でそれを覆う天蓋を見上げながら、セレナは痛む胸に手を当てた。ジルクの拳が打った場所。彼の悲しみが、切なさが、そのまま胸に染み付いている。
 あの時。
 咄嗟に飛び出し庇ったのは、トルメインの国でもそこに暮らす人々でもなかった。
 本当は――。
 幾度となく肌を重ねる内に、自分はカーネリアの女になっていたのか。あの時守りたかったのは、傷も癒えたばかりのアレクの身体だった。
「何故……!」
 悔しかった。涙が溢れ、己が心が恨めしかった。
 ――いやだ、いやだ、いやだ!――
 カーネリアを憎む心。その一方で既に国王アレクに心惹かれてしまった自分を思い知らさせる。
 ――引きずられたくない、この想いに。憎しみだけで生きていられたら、まだどんなにか救われたのに!――
 暗い夜が更ける。ねっとりと重い闇が濃くなっていく。
 それはそのままセレナの心の色のようで……彼女は夜具を頭から被って丸くなった。母の胎内に眠る赤子のように……。