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氷の楼閣


〜襲撃〜


 セレナはひどく嫌な夢を見ていた。走っても走っても追いかける手。ついには捕らえられ、逃れようともがく程、それは彼女の身体にまとわりつく。
 ――助けて……誰か……!――
 声を限りに叫んだところで目が覚めた。いつもと同じ閨にしつらえられた寝台の上。隣にはアレクが横たわっている。
 ――昨夜は王のお渡りがあったのだった――
 捕まってしまったのは自分の心。今隣で眠る、氷のように冷たいカーネリアの王に……。
 こめかみを押さえ、セレナは深く息を吐いた。
 (ねや)の窓は自室のものより広くとってある。昨夜は寝苦しかったので、中庭に面した窓は蔀戸(しとみど)を少し開け放ち、夜風が通るようにしてあった。
 寝台に掛けられた天蓋越しに差し込んでいた月の光がふと暗くなった。雲間に隠れてしまったのか。
 不意に、不審な物音を聞いた……ような気がした。扉の開く音か。嫌な気配が辺りに漂い、身体中が総毛立つ。王と王妃が閨にいる夜に、呼ばれもしないのに扉を開ける者はこのカーネリア城内にはいない。
 ――では、このカーネリア城内の人間でないならば?――
「しっ!」
 怪しい気配に向かって誰何(すいか)しようと今まさに口を開きかけたセレナを、眠っていた筈のアレクが小さな鋭い声で制した。彼も不審な気配に目を覚ましたのだろう。武芸の修練を積んだ者は、僅かな気配でも感じ取れるという。天蓋越しに向こうの闇を窺う。敵であるならば尋ねたところで答えはしない。
 護身用の剣が枕元にあるのを目の端で確かめると、アレクは寝台の上に身を起こした。
 薄闇の中に蠢く影。一人や二人ではない。闇に溶けたその身体が忍び足で寝台に近づいて来る。
 アレクはやおら、寝台を覆い隠す天蓋を払った。
 男は全部で四人。女官姿の男が一人、侍官姿の男が三人。いずれも薄い色の髪を乱れさせ、物騒な長柄の剣を携えている。薄暗闇の中で鞘を払われたそれは、蝋燭の灯りを映して鈍く光った。刀身に黒いものが付いている。おそらく、侍官達が控える部屋を抜ける際、そこにいた者達を斬り捨てた印なのだろう。
「その髪の色、ジェイドの残党と見た。わたしを殺めたところで、ジェイド国の再興などできぬぞ」
 アレクが低く唸る。枕元の剣を掴み、鞘を払って前に構えた。手探りでセレナの位置を確かめ、敵の目から隠すように自らの身体の後に庇う。
「そんな事は、もとより承知。我らはただ国の恨みを晴らすのみ」
 男の一人が地の底から這い出すような声を絞り出した。
「どいつもこいつも国、国と騒ぎおって」
 アレクは小さく舌打ちする。
「己が命を投げ打ってまで晴らさねばならぬ恨みなど有るものか」
「何不自由ないカーネリアの国王にはわからんだろうな!」
 アレクの言葉を鼻で笑うと、男が剣を構え直した。それが合図だった様に、他の者もザザッと動いた。
 緊迫した空気が流れる。命のやりとり。殺らねば殺られる。
「そなたを庇っていては、思うように動けぬ。わたしが合図するまで隠れていろ」
 小声でセレナに指示すると、アレクは寝台を強く蹴って敵のただ中に自ら飛び込んで行った。
 男達がアレクに気を取られている隙に、セレナはそっと寝台を降り、天蓋の陰に沿うようにして衝立の後ろに回った。扉に向かうには、修羅場と化している部屋の中ほどを突っ切らなければならない。
「ぐ!」
 くぐもった声がして、侍官姿の男が一人、床を赤く染めながらその場に突っ伏した。アレクの剣が斬り払ったのだ。
「……!」
 セレナは目の前に繰り広げられる惨状に、思わず息を呑む。こんな間近で人が斬られる瞬間を初めて見た。父王や重臣達の処刑とは違う。どちらも生き延びるために剣を交えている。国を守り、戦うという事はこういう事なのか。
 ガクガクと震えるセレナの瞳には、床に赤い染みを広げながら苦しげにもがく男が焼きついてしまった。目をそらす事ができない。知らず、衝立の後ろから美しい衣装の裾が覗く。
 一番手近な場所にいた二人目の侍官姿の男がそれに気づいた。ゆっくりと剣を構え直しながら、彼女に向かって歩を進める。アレクは他の敵と対峙していて、それに気づかない。男の剣が振り上げられた。


 ――斬られる――
 そう思った刹那、セレナの前にアレクが飛び出した。敵の繰り出した剣はセレナでなくアレクの身体に突き刺さるかと思われた。だが一瞬早く、アレクの剣がそれを払う。柄と柄とが弾き合う耳障りな金属音に続いて、敵の剣が組石の床に飛ばされる音が部屋に響いた。
「行け!」
 アレクの鋭い声が飛ぶ。セレナは震える膝を叱咤しながら走り出した。扉を手荒に開け、部屋の外に飛び出す。そこは既に侍官達の骸が転がり、血の海と化していた。
 ――タンジアがいなくて良かった――
 こんな緊迫した瞬間にも、トルメインから連れてきた女官の身を気遣えるとは。セレナには自分の心が不思議ではあったが……。閨で休む時にはタンジアは従わない。ここで事切れているのはカーネリア国の女官や侍官達ばかりだった。
 人気の消えた廊下に出る。自室とは反対の方角。この先には石造りの納戸があった。重厚な扉は内側から鍵をかけてしまえば、いかな剣を以ってしても破られはしないだろう。
 セレナは一つ大きく息を吸い込むと、納戸に向かって走り出した。
「妃を逃がすな!」
 先ほど剣を払われた男が薄闇の中に美しくたなびくセレナの衣装を目で追いながら叫ぶ。剣を拾い、後を追おうと踵を返した。
「行かせぬ!」
 アレクが男の前に躍り出る。剣を前に突き出し、男を牽制する。と、その剣がふわりと宙を薙ぎ払った。骨に守られていない柔らかい臓器が裂ける感触。
「ぐあっ」
 声とも物音ともつかない断末魔の叫びを上げると、男はくず折れた。
 男が倒れるのと同時にその脇をすり抜け、女官姿の男がセレナを追う。
――しまった――
 アレクが女官姿の男に気を取られている隙に、三人目の侍官姿の男の剣が彼の足めがけて繰り出された。
 一瞬早く飛び退き、床に転がるアレク。振り返った時には、女官姿の男は既に視界から消えていた。


――息が苦しい――
 後宮で暮らす妃など、あまり走ったりしないものだ。セレナはすぐそこに見える納戸の扉がとても遠いものに感じた。
「!」
 扉に手を掛けたところで、強い力がセレナの二の腕を捕らえた。はずみで振り返ると、女官姿の男が剣を片手にセレナを見下ろしている。
「トルメインの皇女に恨みは無いが……カーネリア国王の妃となったからには王と一緒に死んでもらう」
 剣が蝋燭の灯りを鈍く映し、振り下ろされた刹那。小柄なセレナは相手の懐に飛び込み、隠し持っていた懐剣に渾身の力を込めて突いた。鋭い切っ先が相手の下腹に突き刺さる。女官姿の男は衣装の襞を赤く染めながら、しばし怯んだ。
 長い剣は接近戦では小回りが効かない。セレナは男がもたついた一瞬の隙をついて納戸の扉を開け、中に滑り込んだ。
「鍵……!」
 手探りで探すが、手が震えて鍵がうまくかからない。そうしている内に外側から男が扉を開けにかかった。
「いや……っ」
 セレナも必死に内側から押し返す。懐剣は男の腹に刺さったままだ。丸腰になった自分には、もう勝ち目は無い。
 ――こんな事で死にたくない……!――
 愛しい誰かを守るためならこの命、投げ出してもいいと思っていた。だが、カーネリア国のために死ぬのは本意ではない。
「う……っ」
 知らず、頬が濡れ、喉の奥から嗚咽が漏れる。恐ろしくてセレナは目を瞑った。その瞼の裏に、このまま力ずくで扉をこじ開けられ、骸となって床に転がる自分が見えたような気がした。
『バン!』
 張り詰めていた気がふと緩んだその刹那。納戸の扉は男の身体によって勢い良く内側に開けられてしまった。扉は石造りの壁に跳ね返り、セレナの身体を打つ。彼女の華奢な身体など、ひとたまりもなく床に崩れた。


 ――どこにいる、セレナ!――
 侵入者をことごとくその手に掛け、アレクは閨から飛び出した。セレナはどこに逃げたのだ。右か、左か? 女官姿の男が彼女を追って行った。時間は……無い。
 不可解な感情がアレクを支配する。何故自分に媚びぬ女をこんなにも守ろうとするのか。だがそんな考えも、今まさにセレナに迫る危機を考えただけで吹き飛んだ。
 廊下に出る。ふと左側から声にならぬ声に呼ばれた気がした。この先は納戸。もしやそこに向かったのでは……。
 足音を忍ばせ、走る。予感は確信になった。
 ――この先にセレナはいる――
 角から少しだけ顔を覗かせ、様子を窺う。思った通り、納戸の扉の前で女官姿の男が赤く染まった腹にセレナの懐剣を刺したまま、今まさにその身体の重みで扉をこじ開けたところだった。
 ――ここか――
 アレクは足音をさせぬよう、男に忍び寄った。幸い目の前の獲物に気を取られているせいか、まだ気づかれてはいない。剣を握り直し、飛び出しざまに男の喉笛を掻き切る。辺りを鮮血で染め上げ、男は物言わぬ肉塊となって床にくず折れた。
 骸となった男の向こう側にセレナがいた。床に倒れている。白い美貌は血の気が失せて一層白く見えた。


「大事ないか」
 尋ねるアレクの息が上がっている。生きてここにいるという事は、敵は全て彼によって倒されたに違いない。セレナは身体の震えを止められず、自分で自分を抱きしめながら濡れた瞳で彼を見上げた。
 たった今、目の前で人が殺されるのを見たセレナは、血の滴る剣を手にしたアレクの姿を認めると、怖いと思った。自分を守ってくれたのだという事はわかる。だが頭ではわかっていても、恐ろしいと思う気持ちは鎮まらない。
 彼の視線から逃れようと腕をついた拍子に、鋭い痛みが走った。
「くっ……」
 思わず顔をしかめる。
「腕を……見せてみよ」
 剣を持ったままアレクがゆらり、と近寄る。
「大事ありません」
 口唇を頑なに引き結び、彼の視線から隠すように半身を引いて痛めた腕をもう一方の腕でかばう。
「見せてみよと申した!」
 有無を言わさぬ口調でアレクがその腕を取った。セレナが抗ったので、計らずも捻り上げる格好になる。
「……つっ」
 彼女の口唇がわずかに開き、小さな呻き声が漏れた。
「血が出ている。斬られたのか?」
 セレナの肘のあたりから赤い染みが広がっていた。アレクがその震える小さな身体を引き寄せようとする。だがそれより早く、彼女は自分の腕を捻り上げているアレクの手の甲に傷があるのを見て取った。
「王こそ、お怪我を?」
 これはあの時自分を守るため、飛び出した時にできた傷だろう。困惑の表情でセレナは深く息を吐く。
「私は守って欲しいなどと申してはおりません。もし命を取られるような事になったらどうするのです。私を守るために王が死んだなどと知れば、重臣達は私が手に掛けたも同然だと言うでしょう。それは……トルメインの為にも困るのです」
 顔をそむけてセレナは掠れた声を絞り出した。そう。目の前で剣に血を滴らせている男は、紛れも無く父王を亡き者にした国、カーネリアの王なのだ。その王に守られて本当は嬉しかったのだ、などと……本当は王の身が心配なのだ、などとは口が裂けても言えない。


 床を見つめる妃の頑なな美しい横顔を眺め……アレクは、己のうちからひどく荒々しい衝動が突き上げて来るのを感じた。
――何故だ――
 まだこの妃は国に残して来た恋人を守ろうとしているのか。あの者の名は確か、ジルク。トルメインという国では無く、人を守りたい、とセレナは言った。母を弟王を、そして恋人を守りたいと。自分のせいでカーネリアの王に何か有ればトルメイン国にお咎めがある。だから王であるわたしの身を案ずるのだと……?
 アレクは己の内に湧き上がる感情をどう扱って良いのかとまどった。ひどく居心地が悪い。今しがたの戦いの興奮がまだ残っているのだろうか。血の匂いに気が昂ぶっているのかも知れない。その心地悪さを目の前の妃にぶつけたいという衝動が、身体の奥底からふつふつと湧き上がって来た。
 セレナの顔が痛みに歪められるのにも構わず、その腕をもっと捻り上げる。赤く染まる肘に唇を近づけると、貪るようにそこに口付けた。
「愛しむ者は自分で決める。そなたは……名ばかりの妃だ」
 アレクが苦悶の表情の下から放った言葉。それは鋭い矢となってセレナの心に深く突き刺さった。腕ばかりでなく、心からも血が流れ出す。
『チャ……』
 短い金属音がして、アレクの剣が放り出される。自由になった手でセレナの両の手首を掴んだ。
「や……っ! やめて下さいっ!」
 セレナは抗った。こんな所でこの王は何をしようとしているのだ。こんな……目の前に骸が転がっている場所で!
 アレクの唇でセレナの花弁のような唇が塞がれる。絡め取られた舌からは微かに血の味がした。
「可哀相な名ばかりの妃。そなたを助けに来る者など、このカーネリア城内にはおらぬわ!」
 これまでとは桁違いの荒々しい扱いに、セレナは嵐の中の小舟のように翻弄された。彼女の瞳に映るのは納戸の天井。間近には骸が転がっている。アレクの身体越しの虚ろな視界に、もはやアレク自身の姿は映っていなかった。
「それで……どうしようというのですか」
 長い残酷な時が終わると、セレナは顔を背け、力無く問うた。栗色の巻き毛が乱れ、上気して薄く赤味が差した白い胸元にかかる。髪と同じ栗色の瞳からは涙が溢れ、その小さな美貌を濡らしていた。
 アレクは己の内から急速に熱が引いていくのを感じた。水を含んだように重くなった身体を無理やり起こす。
 アレクによる縛めが解かれても、セレナは横たわったまま、ただ黙ってその巻き毛に涙を零していた。身体に負った傷よりも、心の傷の方がはるかに辛い。
 ――心が……痛い――
 言葉に出せぬ想いがセレナの心を苛んだ。
「手荒な事をした。……すまなかったな」
 短い言葉を残し、アレクはひどく気だるそうに立ち上がった。
「生き残った女官に世話をさせよう」
 血に染まる剣を拾い上げ、もう片方の拳を固く握ると、そのまま一度も振り向く事無く彼は出て行った。