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氷の楼閣


〜金緑石〜


 血に染まった(ねや)は、清めるのにしばらくの時を要した。壁を拭き、寝台に掛けられた天蓋を取り替え、椅子も調度品も丹念に何度となく拭き清められた。何日もかけて、たくさんの女官達の手によって。
 だが組石で仕上げられた床に染み込んだ血の匂いだけはどうしても取れず、全て取り除かれて新しいものと交換された。組石の下の土も掘り起こされ、深いところから入れ換えられた。
 セレナが逃げ込んだ納戸も清められ、襲撃の痕跡は拭い去られた。それでもセレナは、納戸に近づくのが怖かった。もっとも王妃たる者、後宮の備品が納められている納戸になど、用があろう筈もなかったが――あそこは、アレクの心を欲する自分が彼に拒絶された場所。あの時虚ろな瞳に映った天井の鍾乳石飾りは、時折夢に現れては狂おしいほど彼女の心を苛んだ。
 強い力で縛められた手首には、まだ赤く跡が残っている。衣装に隠された白い肌にも残酷な印が刻まれている。身体中に散る赤黒く色の変わった花びらのようなその印は、目に触れる度自分は愛しまれてはいない名ばかりの妃なのだと……そう告げていた。そして湯を使う際、水に濡れた薄物の上からでもわかるそれは、タンジアをひどく驚かせたのだった。
 セレナには、閨が元通りに使えるようになるまで国王アレクのお渡りは無いと告げられた。彼女は正直、ほっと胸を撫で下ろす。今王と逢っても、心に刺さった矢傷を一層深くするだけだ。未だ矢は抜け落ちず、彼女の心に深く刺さったままぶら下がっている。ならばいっそ、逢わぬ方が良いと……セレナはそう思っていた。
 世継ぎの誕生を心待ちにする重臣達の期待と落胆は大きかったが、あの襲撃で王妃が怯えているからと、カーネリア国王の名において納得させられたのだった。


 アレクも後宮に……セレナの元に渡るのを控えたかった。閨の改修を口実に、彼女に逢うのを延ばし延ばしにしていた。あのけぶるような濃い睫毛の下の、栗色の瞳を見るのが気鬱だったのだ。
 あの小さな美貌を見ると心が己の物では無くなってしまう。自制が効かず、また無体な事をしてしまう。今度逢ったなら……あの瞳で()めつけられたら……今度こそ本当に妃を壊してしまうかも知れない。
 あの美しい声でトルメインの人々を想う言葉を語られたら、二度とその声が出ぬよう彼女の細い首にこの手を掛けてしまうかも知れない。
 ジェイドの残党にセレナの命を奪われるかも知れないと思った時、何にも換えてこの手で彼女を守りたいと願った。だが、そんな妃を自分の手で壊してしまいたいと思うのもまた、同じ自分なのだ。
 アレクにとっては不可解な感情。それが男として初めて抱いた激しい恋心だなどと、今の彼には理解できる由もなかった。
 閨の改修は進む。何も知らぬ人の手によって、少しずつ。完成まであと残り幾日の猶予があるだろうか。
 そうやって歯車は噛み合う事無く――だが少しずつ、全てが元通りに修復されていく。心の奥底に冷え冷えとしたものを抱え、氷の楼閣に心閉ざす二人以外は……。


「やはり王妃様にはトルメインの香がお似合いです。そしてほら、その金緑石の首飾りも……」
 タンジアの晴れやかな声がセレナの美貌に笑みを呼ぶ。襲撃より後、殊のほかタンジアはよく笑い、トルメインの品々を毎日飽かず並べ立てる。セレナの心中を推し量っての事だろう。彼女の明るい笑顔はつい沈みがちな王妃の心の傷を少しずつ、少しずつ癒していった。
 先の謁見の折、献上品と称してセレナの許に届けられた品々は、王妃の自室の床いっぱいに広げてもまだ余りあった。だがその品々を見る度、かの日の事が思い出される。
 タンジアにはあの折の使者がジルクであったとは知らせていない。それはセレナの心の内にだけ留めておけば良い事。謁見の場に同席できなかったタンジアは、外務大臣に会えなかった事をひどく残念だったとこぼす。その度にセレナは苦い微笑みを返すしかなかった。
 ジルクもトルメインも忘れ、ただアレクを庇った暗闇の中の後宮の中庭。今自室の窓から見えるそこは、そんな事など無かったかのように穏やかに花々を咲かせ、風に揺れる木々には枝葉を茂らせていた。


 何日かの後、再びトルメインより見舞いと称して献上の品々が届けられた。謁見の間に並ぶ王と王妃は互いに言葉を交わすことも無く、使者を迎えるため別々に入室し、椅子に掛けたのだった。晴れやかな衣装を身に纏ってはいても、セレナの瞳は憂いを含んでいた。
 しばらくの後、下座の扉から頭を垂れて入って来た今回の使者は、紛れも無く外務大臣、その人であった。
「過日の謁見の折にはお体の具合を崩されたようですね」
 何事も闇の中。詳しい事は何も知らぬ、という微笑みを湛え、セレナは目の前の初老の男に言葉をかけた。
「わたしも歳ですかな。皇女様……いや失礼。王妃様に会えるのだと、前日にはしゃぎ過ぎたようです」
 外務大臣は目を細め、その口元に蓄えた、白いものが混じった豊かな髭をしきりに捻る。年甲斐も無く、久しぶりに以前と変わらず美しい元トルメイン皇女を目の前にして、照れてしまっているようだ。
 ジルクが薬を盛った事も、悟られてはいないらしい。
 ――よかった――
 懐かしいかつての恋人、ジルク。己が心に気づいた今となっては……そしてもう二度と戻ることの叶わないこの身では、彼が祖国トルメインで一日も早く次の幸せを見つけてくれる事を願うよりなかった。
「此度はわたしにも美しい石を献上してくれたそうだが……その心遣い、感謝する」
 天窓から差し込む日の光に緑色の石のついた垂飾りを透かしながら、アレクは興味深げに問うた。
「これはなんと言う石なのだ? 大層珍しい色であるな」
 濃い緑、かと思えば薄緑色の光を返す。透き通ったかと思えば次の瞬間深く沈むその色。
「それは金緑石という石でして、我がトルメインの、とある鉱脈からしか採れない貴重なものでございます」
 外務大臣は誇らしげに少しばかり胸をそらした。
「夜になりましたら、蝋燭の灯りに透かしてご覧なさいませ。赤く光って見えましょう。これは与えられる灯りによって色を変える石なのです」
 珍しい物もあるものだ、とアレクは感心した。そういえば、と隣の妃を目の端でちらりと見やる。その白く透けるような胸元には同じ色の石で作られた首飾りが揺れていた。今までゆっくり見たこともなかったが……。
「王妃様」
 王の視線が外れたのを機に、外務大臣が皺の刻まれた顔をセレナに向ける。
「人の道も然り、ですぞ」
 人の良さそうな外務大臣の顔つきが神妙になる。
「王の手の中にある石をご覧なさいませ」
 セレナはその言葉に導かれ、アレクの持つ金緑石に視線を落とした。
「このような石でさえ、灯りが変わればその色を変えます。人の道とて同じこと。住む場所が変われば自ずと心も変わりましょう」
 セレナは、はっとして顔を上げた。外務大臣の男盛りを過ぎた顔には……だが、既にいつもの人の良さそうな微笑みが戻っていた。


 外務大臣は今夜は城に泊まり、明日の早朝出立するという。先に体調を崩した折、延ばし延ばしにしていた外交が、ここに来て一時(いちどき)に忙しくなったらしい。
 初老の彼には荷が重いのではないか。その身体を気遣う王妃に向かって外務大臣は、まだ若い者には負けられぬと笑った。それでは折角だから城中の案内を、と言うと、そこまで若くは無いと言ってまた彼は大笑いしたのだった。
 今日のアレクは心なし饒舌だった。今日は特別だったのだ。外務大臣の人柄は、王の氷のような心もほんの少しだけ融かすのだろう。
 セレナも久しぶりに心から笑った。『乱』よりこちら、楽しいと思って笑った事など無かった。どんな傷も時が経てば癒えるのか。身体の傷も、そして心の傷も……。
 ――人の道も然り、ですぞ――
 外務大臣の言葉が胸に蘇る。
 住む場所が変われば心も変わる。そんな事が許されるのだろうか。金緑石のように、トルメインにあってはトルメインの色、カーネリアにあってはカーネリアの色に。
 変わってしまって良いのなら、こんなに苦しまなくても済む。トルメイン国とカーネリア国の間で翻弄される事もない。
 国など関係なく、王位など関係ないただ一人の人として生まれていれば……。
 巡らす想いは、ぐるぐると同じ所を回るだけで明確な答えを用意してはくれなかった。
 もうすぐ湯を使って夜着に召し替える時間だ。あれからアレクとはろくに口も聞かず各々の宮へ戻った。今夜も王のお渡りは無いのだろう。
「湯殿の支度が整いました」
 扉を叩き、女官が控えめな声で告げる。夜着を用意したタンジアに伴われ、セレナは自室を後にした。


 王の自室の寝台の上。湯を使い緩やかな夜着に着替えたアレクは、腕を枕に天井を見上げていた。
 手の中に硬く触れるのは金緑石の垂飾り。片手を頭の下から外して、目の前に先刻までは確かに緑色だった石をぶら下げて見る。今蝋燭の灯りに透かしてみるそれは、外務大臣の言葉通り、赤い光を返して揺れている。深く吸い込まれそうな赤色を見ている内に、その光の上に夢中で口付けたセレナの赤く染まった肘が重なった。
 ――あの妃が拒むからいけないのだ――
 トルメインのことなどセレナの心の中から消してしまいたい。トルメインとかつての恋人ジルクのことなど……。
 金緑石の赤が目に染みて、アレクは目を瞑った。
 傷を負って城に帰り着き、意識を失い……次に後宮で目覚めたあの日。我が頬に手を重ね、妃が見せた無防備な笑顔が、閉じた瞼の裏に浮かぶ。
 ――あの日から請うていたのやも知れぬ――
 もう一度その笑顔が見たいと。
 ――これは……恋か?――
 身体中に稲妻が走った。額に汗が滲む。知らず、手の中の石を握り締めていた。垂飾りの留め具が掌に食い込む。
 『戴位の儀』の折、添い伏し役を務め、後に策にはまった父と共に病を得て亡くなったエメリア。彼女に対する想いはもっと暖かいものだった。そう、母や姉を慕う幼子のような気持ち……。
 だが、妃であるセレナに対しては、エメリアに抱いていた気持ちとは違う、もっと猛々しいものを感じていた。セレナを想う時、その全てを支配したいと願ってしまう。妃が好むと好まざるとに拘らず、自分の全てをぶつけてしまいたかった。
 誰も教えてくれなかった。そんな恋もあるのだ、などと……。
 ――だがわたしの意のままにはなるまい――
 既に閨の儀式も済ませ、その後も幾度となく身体を重ねてきた妃に、今さら何と言えば良いのか。己が想いを口にしたところで、アレクを敵国の王だと()めつける妃は、決してこのカーネリアの王を許しはしない。身体は我が物にできても、その心を手に入れることは叶わないであろう。あの花びらのような口唇が拒絶の言葉を紡ぐ事を思うと……辛かった。


 ごろりと寝返りを打つ。
 ――いっそ刺客を送って、あのジルクという男を亡き者にしてしまおうか――
 トルメインに心を残さぬよう、かつての恋人の命を奪ってしまえば……。
 アレクは頭を振って、自分の内に湧き上がった考えを打ち消した。
「馬鹿な事を。それでは奴らと同じではないか」
 低く呻いて自嘲の笑みを漏らす。
 国、国と騒ぎ、己が欲望のためなら人の命をやりとりしても平気でいられる愚かな重臣ども。その者達と今の自分とは何ら変わりないように思えた。
 国より人の命の方が大切だと……そう思っていた。だから重臣どもの確執も、全て鼻で笑ってやり過ごして来たのだ。
 だがそれは、ただ自分の身を守るためだけの口実だったのではないか。兄と同じ轍は踏むまい。エメリアやその父、策にはまって命を落とした遠い血筋の王族の者達。彼らのようにならぬよう、逃げていただけではないのか。
 自分に向けられる、真っ直ぐな妃の眼差し。いつの頃からか、国を守ると彼女が口にする度、その国の後に見え隠れする人々の中に自分はいないのだと感じ……。
 当たり前だ。自分は敵国の王なのだから。トルメインの恨みを一身に受けて立たねばならない、カーネリア国の象徴なのだから。
 不意に頬に当てられたセレナの手の温もりが思い出される。あのようにずっと見守っていて欲しかったのだと……今更ながら気づいたアレクだった。


「セレナはいるか」
 後宮の王妃の自室の扉が先触れもなく開けられた。
「突然のご訪問、どうなさったのです」
 それが王の声だと気づき、次の間に控えるタンジアが何事かと驚いて小走りに様子を窺いに来る。
「そなたはさがっておれ。妃に用がある」
 アレクは制しようとするタンジアを腕で払いのけた。彼女は強い力に飛ばされ、床に倒れた。
 それを冷たい眼差しで見下ろしただけで、彼は悪びれる様子もなく大股でセレナの寝台へと向かった。
 驚いて天蓋の中で身を起こすセレナ。つい先程、蝋燭の灯りを少なくして、床についたばかりだった。
「ご無体なことを……。今日のお渡りはないとお聞きしておりましたが」
 タンジアを気遣いながらも、彼女は静かに言った。
 天蓋の幾重にも重なる襞越しに見るアレクは、薄手の夜着のまま突然思い立ってここに来たようだ。護身用の剣もつけていない。
「入るぞ」
 セレナの答えも聞かず、アレクは寝台を覆う天蓋を勢い良く払った。夜着を隠すように夜具を胸まで引き上げ、セレナは怯えたような瞳で見上げる。
「側室をとる」
 寝台に片膝を乗り上げ、彼女の栗色の瞳を真っ直ぐに見据えると、アレクは短く告げた。
「そなたの望み通り、側室を迎える。これでもう、そなたを閨に招くことは無いであろうな」
 開け放たれた扉から風が入る。蝋燭の灯りが煽られ、二人の影を大きく揺らめかせた。