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氷の楼閣


〜寵妃〜


 ――そなたの望み通り、側室を迎える――
 時が止まった。セレナの周りの空気が凍りつく。側室。正室の自分とは別の、もう一人の妃。
 ――愛しむ者は自分で決める――
 納戸での王の言葉が蘇る。セレナは身体の芯まで凍りついてしまったように感じた。言葉を紡ごうとしても、口唇が動かない。夜具の端を握り締めた手が開かない。その瞳はアレクを見つめたまま、瞬きすらできない。
「側室となる女は自分で決める。そなたのように、無理やりあてがわれた者でなく……な」
 何も言わぬ王妃を見下ろしたまま、アレクは口の端に冷たい笑みを浮かべる。
「最後の口付けだ」
 王の端正な顔が近づく。吐息がかかり、もう少しでセレナの口唇に触れるという、その刹那。
『パシッ』
 乾いた音と共に、セレナの手がアレクの頬を打った。
「ふ……」
 少しばかり赤くなった頬を押さえ、アレクはゆっくりと身を引く。セレナは彼の瞳を()めつけたまま、夜具の端を固く握り直した。
「そのように憎まれるのも……無理はないか」
 アレクは目を瞑り、一層口の端を皮肉に歪める。そして再び王妃の美貌を見下ろした。
「では、な」
 ス、と立ち上がる。アレクの夜着が起こした風からは焚き染められた香のかおりがした。片手で天蓋を押しのけ、ふとセレナを振り返る。
「そなたはせいぜい祖国トルメインを大切にするがよい」
 支える手を失った天蓋がバサリと落ち、アレクは部屋を出て行った。


 王が選んだ娘は国政とはかけ離れた地位にある家臣の三女であった。今年十六になるというその者は、名をイオラという。内々に側室に上がるというので、盛大な宴などは催されなかった。父である家臣も、娘が側室に上がるからといって 自分を国政の中心に取り立ててもらおう、などと考える男ではなかった。まったく良い娘を選んでくれたものだと、重臣達は胸を撫で下ろしたのだった。
 従順そうで美しいと噂されるイオラは、良い日を選んで後宮に上がるという。セレナ付きの女官達は、主の心中を推し量ってか、その話題に触れようとしなかった。少しずつではあるが、トルメインから輿入れしたこの元皇女の境遇に、女官達は同じ女として情を移し始めていたのだ。密かな祝賀の気に包まれる城内にあって、セレナの周りだけがいつもと変わらず穏やかであった。
 このところ、王妃としての公務は無い。王のお渡りも無くなったセレナは、心乱される事も無く、つかの間の安息の時を過ごしていた。王の顔を見なければ狂おしい恋心と祖国との間で心が揺れることも無く……。
 いや、セレナにはわかっていた。平穏なふりをしているだけだ。だが、自分にはどうする事もできまい。
 この安息の時は、あとどの位続くのか。側室がこの後宮に上がって来れば、このように心穏やかではいられまい。
 少しでも長く続くようにと……セレナは己の首飾りに嵌め込まれた金緑石を日の光に透かし見ながら、そう願うのだった。


 後宮の中だけにいれば、王妃など何をするでもない。時を持て余してしまうセレナは、女官に針仕事を手伝わせてもらったり、庭を散歩したりして過ごしていた。
 穏やかな――風も柔らかく、木々の緑も生き生きと輝く日の光に煌いて、一層美しく映える昼下がり。いつものように女官達に針の仕事を分けてもらおうと、セレナは自室を後にした。曲がりくねった長い廊下の突き当たりに女官達の仕事部屋がある。タンジアとトルメインの思い出話をしていたら、約束の時間を少し過ぎてしまった。急がなくては……。
 いくつ目かの角を曲がると、不意に廊下に人だかりが見えた。
 ――ここは使われていない部屋では……?――
 忙しく立ち働く女官や侍官は、みな部屋の中に物を運び込んでいるところだった。セレナは手近な女官を呼び止める。
「これは……どうしたのです?」
 声を掛けられた女官は、ひどく驚いた顔をした。言い淀んでしまって、なかなか言葉が出てこない。そうしている間にも、美しい天蓋用の布を持った女官が慌しく入って行く。侍官が四人、新しい調度品を力を合わせて重そうに運び込むのも見えた。
「側室となられたイオラ様のお部屋を整えているのです」
 女官はセレナと目を合わせていられず、床に視線を落とした。
 ――側室……!――
 とうとうその日がやって来たのだ。王の決めた女性がここにやって来る。この後宮に……。そうやって自分は本当に必要の無い、名ばかりの妃になってしまうのだ。
「そ……う。ありがとう……」
 セレナが声を絞り出すと、女官は軽く頭を下げて、あたふたと部屋に入ってしまった。セレナはいたたまれなくなって、口唇を噛む。そのまま女官達の仕事部屋には向かわず、後宮の一番奥にある自室に早足で逃げるようにして帰った。後手に扉を閉める。そのまま扉にもたれ、荒い息を整えた。タンジアがあまりに早いセレナの帰りを訝るような目を向けたが、女主の取り乱しようを詮索する事はなかった。
 どうして自分はトルメイン王家に生まれたのか。どうして一人の人としてアレクと出逢わなかったのか。
 ――名ばかりでも良い。ただ一人の妃として居たかった――
 失ってから初めて、自分の心の中をどれだけアレクが占めていたのか……思い知ったセレナだった。


 夜になり、遠くの方で王のお渡りを告げる先触れを聞いた。聞きたくなくてもセレナの耳はその音を拾って心の中に届けてしまう。目を瞑っても耳をふさいでも、先触れの女官の衣が自らの起こす風に翻る様や、朗々と先触れの口上を述べる声がありありと感じられ、セレナの心を苛んだ。
 王のお渡りはそれから毎日のように続いた。そんなに今度の側室が気に入ったのか。重臣の間にも、お世継ぎ誕生に対する期待が一気に膨らんだ。
 同じ後宮において、セレナは意識して側室と顔を合わせないようにしていた。顔を見れば、己の心も身体も嫉妬の炎に焼き尽くされてしまいそうで怖かったのだ。女官達もその辺りはちゃんと心得ていて、二人が鉢合わせなどしないよう、湯を使う時間も行事の際の出立の時間もずらしてくれていた。
 セレナは何度もその目で側室が閨へ渡るのを遠くから目にした。閨に続く回廊の柱の影から手燭の灯りが漏れるのだ。前後を女官に守られて、閨のために仕立てられた特別の夜着に身を包んで。かつての自分がそうであったように……。その度に彼女はどうしようもない悲しみに胸が塞がれるのだった。
 あの灰色の瞳が()(ひと)を見つめ、あの腕が彼の女を抱き寄せる。考えただけで身体の中をすっと冷たいものが降りて……それはセレナにとって針の(むしろ)に座らされるより残酷で辛いことだった。
 ――夜が怖い――
 眼を閉じればその脳裏に側室と王の睦み合いが浮かぶ。寝台の上に一人膝を抱え、セレナは幾度となく眠れぬ夜を過ごした。


 ――さすがに疲れた――
 アレクは自室の窓辺に置いた椅子に掛け、暗くなった窓の外を見やりながら、ほうっ、と息を吐いた。
 側室を迎えてよりこちら、毎晩のように後宮に渡った。側室は美しい娘だ。あの者には何の不足もない。なのに……。
 セレナの気高い美貌が闇に浮かんだ。幻の中の彼女もまた、自分を憎しみのこもった目で見つめている。アレクは再び、深く息を吐いた。
 ――この手で壊してしまうのが怖いから……だから遠ざけた。だがどうだ。わたしはこんなにもセレナを欲している。もう一度……せめてもう一度だけ、セレナの笑顔を見ることができたなら……――
 そのためなら王の威厳など捨てても良い。懇願してでも妃をこの腕に抱きたい。アレクは護身用の剣を腰につけると、誰にも知らせず、自室の窓から庭に飛び降りた。
 後宮に入るには、過日、自分が破っておいた塀を抜ければ良い。今頃王の自室の次の間では、侍官達が何も知らず空になった寝台を警護しているのだろう。
 闇に紛れ、王妃の部屋の窓辺にたどり着いたとしても、セレナは中へ入る事を許しはしないかも知れない。だが……。
 何も考えまい。唇を固く引き結ぶと、アレクはただ走った。


 ――呼ばれたような気がした。
 寝台の上に起き上がり、懐剣を手に取る。
 ――何者?――
 蔀戸(しとみど)に頬をつけて耳を澄ますと、窓の外から何者かが近づいて来る気配がした。懐剣を握り締めていつでも使えるように胸の前に構えると、セレナはそっと蔀戸を押した。薄くひらいた戸の隙間から、外を窺う。闇の降りた後宮の庭。次第に眼が慣れ、暗闇の中を何かがこちらに向かって近づいて来るのが見えた。
 ――王……!――
 歩みを止め、窓の下にたたずむその人は、二度とセレナと閨を共にしないと言った国王アレクだった。
「どうなさったのです。こんな夜更けに」
 セレナはタンジアに気取られぬよう小さい声で問うと、胸の前で構えていた懐剣を降ろした。相手が王だとわかったのに、いつまでも刃を向けているわけにはいかない。
「そなたを抱く」
 アレクはサッと部屋の中に視線を走らせる。
 一瞬、セレナの瞳が驚愕に見開かれ……スッ、と視線を外すと彼女は降ろした懐剣の柄を袖の内で握り締めた。
「……いやです」
 忘れられぬ面差し。ずっと夢に見続けた美しいアレクの顔がそこにある。手を伸ばせば触れられるほど近くに……。その唇が自分を抱くと言う。胸の鼓動が早まった。
 ――だめ……正気でいられない――
「側室を迎えられたのではありませんか? ならばその者の所へ行けば良いでしょう」
 顔を背けたまま、セレナは唇を噛む。自分は意地になっているのか? あんなにも欲し、願った王がすぐ側にいるというのに。
「だめだ。あの者では埋められぬ」
 窓枠に手をかけ、軽やかに身を躍らせる。アレクの身体は一瞬の内に王妃の自室の中にあった。セレナは驚いて彼の瞳を見返した。
「いやです。もう……」
 ――戯れに心乱されるのは辛い――
 セレナを自分の種を宿す器だと言った。名ばかりの愛しまぬ妃なのだとも。ならば愛しいと思った者をその腕に抱けばいい。世継ぎを望む声が耳に痛いのだとしても、側室を迎えたのならその者が王の血筋を繋いでくれるだろう。イオラも美しい人だと聞く。幾度も閨に招き、その度に睦み合って来たのだ。今更、この身に何の用があろう。
 ――私のことなど、もう放っておいて――
 心の傷からまた新たな血が噴き出した。
 セレナは後手に周りの様子を探りながらゆっくりと後ずさる。視線を外せばすぐにでもアレクの手に捕まってしまいそうで……。
 王の身体が一歩、セレナに近づく。
「わたしを拒むな、セレナ。拒まれれば……わたしはそなたを壊してしまう」
 また一歩、近づく。
「自分で自分を制することができないのだ。頼む。今宵だけで良い。祖国を忘れ、わたしだけの物になってくれ」
 王の顔は悲しみに歪められていた。
「おかしくなってしまいそうなのだ。そなたを想うと……。明日からはどんな憎しみでもこの身に受けよう。だが今宵だけ……わたしのためにトルメインを忘れてくれ」
 切なげにセレナを見つめる。よく見れば、その美しい顔は氷のように冷たいわけでなかった。それは感情を持つ血の通った人の顔だ。
「私を想うと……と?」
 セレナの背が壁に突き当たった。もう逃げられない。
「王のために祖国を忘れろ、と?」
 また一歩近づいた王を見上げ、重ねて問うた。
「そなたを……愛している」
 アレクの腕が伸ばされた。セレナの肩に触れる。彼の細く長い指はセレナの腕を滑り下り、華奢な指を絡め取った。
 ――愛している――
 王の言葉がセレナの頭の中で響く。
 アレクは指を絡めたまま、ゆっくりとその手を上へと持ち上げる。自らの身体を近づけ、その重みでセレナの身体を壁に押し付けた。
「愛している、セレナ」
 甘い吐息と共に形の良い唇が降りてくる。セレナの口唇にそっと触れた。
「何を泣いている?」
 今までに聞いたことも無い程、優しいアレクの声。知らぬ内にセレナの両の瞳から涙が零れ落ちていた。アレクの唇がその跡をなぞる。
 それはとても優しくて……今までに感じたことの無い程、切なくて……。
 セレナの涙は止まらない。
 閨のために仕立てた美しい刺繍飾りのついた夜着ではない。栗色の巻き毛も入念に(くしけず)ってはいない。けれど……。
 セレナのけぶるような睫毛の下の栗色の瞳から零れる涙がどんなに磨き上げた宝石よりも美しく彼女を飾っていた。
 額に、首筋に、肩口に……身体中に優しく口付けられる。納戸での最後の残酷な交わりとは違う。婚儀の折の最初の冷たい情の交換でもない。
 アレクの指が壊れ物を扱うようにセレナに触れる。
 ――これが最後なのだ――
 彼の瞳に切なさと悲しみが浮かんだ。腕の中のセレナを確かめるようにアレクの手が栗色の巻き毛を撫でる。
「泣かずに……どうか、泣かずにわたしを受け入れてくれ」
 アレクの瞳が美しい妃を捉える。
 セレナは眉根を寄せ、小さく頷いた。幾度も身体を重ねた。だが、こんなに満ち足りた気持ちになったのは初めてだった。彼女の震える手がアレクの背に回される。アレクの緑がかった茶色の髪を、白い指が梳く。
「どうか王、そんな悲しい顔をしないで」
 髪を撫でていたセレナの手が、王の頬に添えられた。小さな美貌が、ふ……と神々しい笑みを作る。
「王のためにトルメインを忘れられたら……どんなにいいでしょう」
 アレクの手が巻き毛の上で止まった。
「金緑石のようにカーネリアの色に染まることができたなら……」
 セレナは首をもたげ、自らアレクの唇に口付けた。もう止められない。心に火がついてしまった。その灰色の瞳に捕まってしまった。
 貪るようにお互いを求め合う。
 ――何もかも捨てて……!――
 手に入れたいのは目の前の人だけ。その瞳に自分を映す、目の前の人の心だけ。
「愛している」
 何度も何度も言葉にして確かめ合いながら、長い夜は更けていった。