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氷の楼閣


〜失物〜


『ピ……チチチ……』
 耳をくすぐる可愛らしいさえずり。夜の闇に凍り付いていた音が、少しずつ朝の光に溶かされて溢れ出す。中庭に面した灯り窓の透かしから柔らかな陽が漏れ、白い漆喰の壁に調度品の影をほんのりと浮かび上がらせた。
 清々しい朝の気配。セレナは満ち足りた気持ちで夢から醒めた。うっすらと瞼が分かれ、栗色の瞳がのぞく。けぶるような睫毛が瞼と共に押し上げられ、彼女の目の縁を彩った。
 微かな風が起こり、すぐ側に自分のものではない香りをきいた。暖かな人肌が頬に触れる。セレナはアレクの腕の中にいた。
「王……」
 隣で静かな寝息をたてるアレクの横顔を、寝台の上に伏したまま眺める。このカーネリアの王とこんなに満ち足りた気持ちで朝を迎えたのは、輿入れ以降初めてのことであった。
 ――愛している――
 闇に支配された中、何度も耳元で囁かれた。その言葉に身も心も溶かされ、自分を見失ってしまった。決して祖国トルメインを忘れたわけではない。セレナの小さな身ひとつにトルメイン国の行く末がかかっているのも、カーネリア国を憎む気持ちが心の水底に冷たい結晶となって沈んでいるのも、変わらない事実だ。だが……。ともすればそれさえも凌駕してしまいそうになる愛を得た今、セレナは休む木陰を見つけた小鳥のように、しばし穏やかな気持ちになるのだった。
 もう一つ、心の襞に広がる薄い染みのような気がかりを除いては……。


「起きていたのか」
 太い弦を爪弾くようなアレクの声。セレナに向けられた瞳には、以前のような冷え冷えとした険しさは見られない。慈愛に満ちた灰色の瞳。やはり人の顔というものは、表情一つでこんなにも違って見えるのだ。『拝謁』の折に見知った少年が、(よわい)を重ねてそこにいた。
「何を見ている?」
 言葉もなくただ灰色の瞳を覗き込むセレナの額に、アレクは軽い口付けを落とした。
「王は幸せですか?」
 離れる唇を目で追いながらセレナは問うた。
「わたしは今、幸せだ。そなたは幸せではないのか?」
 栗色の巻き毛を指で絡め取りながら、アレクは問い返す。
「今は幸せです。でもこの部屋を出たなら、私の心は乱されてしまう……」
 セレナは小さく息を吐いた。伏し目がちにすると長い睫毛が白い美貌に影を落とす。
「私は自分の心を制することができません。祖国への思慕やカーネリアへの憎しみは、ふとした折に心の淵からわきあがって来ます。それに……」
 セレナは王の頬に手を添え、再び小さな溜息を漏らした。
「……側室のことか」
 アレクは頬に添えられた華奢な手を優しく引き剥がすと、白い甲に口付けた。セレナは悲しげな笑顔を王に向ける。
「その事だが」
 王の瞳がセレナの栗色の瞳を捉えた。
「そなたがいれば、他に誰も要らぬ。側室は近々その任を解くつもりでいる」
 思いがけない言葉に、セレナは驚いて自分を抱き留める王の顔を見上げた。だが真摯な色を(まと)った灰色の瞳は、それが嘘ではない事を物語っている。
「何という事を。今さら屋敷に返せば、醜聞は免れないでしょう。そんな無体なことをなさっては……」
 側室の任を解くという事は生家の屋敷に返すという事だ。内々に後宮に上がったとはいえ、そんな事が許されても良いものか。
「あの者の父は、もともと国政の権力争いには頓着のない男。無欲な良い臣下だ。今度のことではわたしの我がままから振り回してしまった。折を見て、もう少し上位に取り立てるつもりでいる。ただ、やっかいなのは重臣どもなのだが」
 セレナが側室の生家の心配をしていると思ったのだろう。アレクは国政会議での波乱に思いを馳せながら、ほんの少しだけ眉をひそめた。
「家のことを言っているのではありません。イオラ自身はどうなるのです。既に王のお子を宿されているやも知れません。毎日のようにお渡りになったではありませんか。その者を帰すなどと……慈しんでおられぬのですか?」
 側室が閨に招かれる度、針の(むしろ)に座るよりも辛い思いをした。その側室の身の心配をしようとは。自分で自分の心が掴めないセレナではあったが……。同じ女としての情がそうさせるのか。それとも王の心が自分の上にあると知った安堵の気持ちからなのだろうか。
「……側室に子は生まれぬ」
 セレナの視線をふとかわし、アレクは小さく呟いた。
「それは、まだ判らないではありませんか。確かに命は簡単には生まれません。けれども確実に続いて行くのです」
 カーネリア王室の血が風前の灯火なのはセレナも知っている。その血筋がなかなか次に受け継がれて行かないことも……。それでも王室の系図を辿れば、こうしてアレクに続いている。万に一つの命の芽生えが、側室であるイオラの身にあっても不思議はなかろう。
「そうではない。確かに幾度も閨に招いた。イオラは美しく、申し分ない娘だ。あの者を側室に迎えれば、いずれそなたを忘れることができるかとも思うたが……どうしても抱けぬのだ。幾度も閨に招き同じ寝台の上でやすんだというのに、肌に触れることはおろか夜着を剥ぐことすらできなかった」
 自嘲するようにアレクは目を瞑って小さく息を吐いた。セレナは言葉もなく、その息の行方を追った。
「寝台の端に横たわり、そなたを想った。背中越しに聞こえる甘やかな寝息がそなたのものであれば良い、と何度思ったことか。その度に眠れぬ夜を過ごした。そなたでなければだめだ。わたしの寵を受けるべき妃は……そなただけだと思い知った」
 灯り窓の透かしから花々の香りをのせた芳しい風が入り、天蓋の上質の布地を揺らした。
「勝手だと罵られてもよい。そなたより他の女は、この後宮に置きたくないのだ。そなただけを慈しみたい。ならば王の寵を受けられぬ側室など、留まっても辛いだけであろう」
 再び灰色の瞳がセレナを捉える。辛そうな影がその精悍な顔の上を走ったように見えた。
「……私のためですか?」
 セレナは答えを探そうとアレクの双眸を覗き込む。両の瞳を交互に見つめ、セレナの栗色の瞳が揺れた。
「わたし自身のためだ。これ以上心を偽れぬ。わたしが欲しいのはそなただけだ」
 アレクの瞳に熱がこもった。セレナはその熱に灼かれ、甘く心地よい息苦しさを覚えた。彼女の視線は灰色の瞳を外れ、その下に続く夜着の胸元に落とされる。
「私はトルメインを忘れ去ることはできません」
 セレナの顔が曇った。
「それでもよい」
「私の心の奥底には、カーネリアへの憎しみが残っております」
「それでもよい、と申した」
「私は……」
 紡ごうとした言葉がアレクの胸に遮られる。セレナは彼の腕の中にきつく抱き締められていた。
「その憎しみが、そなたを形作るものの一つなら……その憎しみごと、そなたを愛している」
 アレクの言葉からは、愛に対する迷いはもはや微塵も感じられなかった。凛と響く声色は元トルメイン皇女の頑なな心に少しずつ染みて行く。
「王……」
 セレナは息苦しさを覚えた。彼の腕にこんなにきつく抱き締められたのは初めてだ。だがそれも、ともすれば離れて行きそうになる自分の心を繋ぎとめる楔のように思えて、もっともっときつく抱き締めて欲しいと願った。
 ――心が飛んでいってしまわないように――
 抱える憎しみごと自分を愛してくれる、と王は言った。心の奥底にどうにもならない冷たい結晶を抱えながら、それでも自分は愛されるのだと……。
「そなたの中に、わたしを想う気持ちが少しでもあるのなら、わたしはそれを信じてそなたを愛して行ける」
 アレクの腕の力が一層強まった。
 王を想う気持ちは溢れるほど抱えている。だから辛かったのだ。トルメイン国の皇女として生まれたこの身が。そして側室が閨に招かれる、その気配を感じるのが……。
 セレナは大きく息を吸い込んだ。
「王がイオラを閨に招くたび、私は眠れぬ夜を過ごしておりました。先触れの声を聞くたび、耳を塞いでおりました。この身も心も、嫉妬の炎で焼かれる思いで……」
 セレナは自らの頬をアレクの胸板に寄せた。心地よいカーネリアの香が鼻腔をくすぐる。
「それはまことか?」
 アレクの指がセレナの顎を捉え、もたげた。視線が絡み合う。
「カーネリアの女として生まれたかったと……何度も思いました。でも、トルメインを忘れられないのも、同じ私の心なのです」
 灯り窓の軒に休んでいた小鳥がパサ……と羽音を残して飛び立った。さえずりながら木々の間を渡る。その声はだんだん遠くなり、そして消えた。
「わたし達は共に歩いて行けると思うか?」
 王が問う。
「……」
 セレナは答えを探した。だがわからない。共に歩いて行けるのか? 別々に背負う国を持ったこの二人が。
 見つめ合うお互いの瞳の中にその答えを求め、静かに時が流れる。それは一瞬であったか、それともしばらくの間であったか……。
「わからぬ、か。わたしにもわからぬ。それでもわたしは、そなたと共に歩いて行きたいと、そう思っているのだ」
 強い想い。叶えたい望み。
 ――何かが変わる。何かを変える――
 王の言葉には今までに無い意志が秘められていた。


 再びセレナは閨に招かれるようになった。閨においても、アレクはただ寝物語をするだけのこともあったし、肌を重ねることもあった。誰にも邪魔されないその逢瀬は、トルメインを背負うセレナでなく、カーネリアを背負うアレクではなく……ただ一人の人としての逢瀬であった。
 側室へのお渡りはぷっつりと途絶えた。重臣達は国王の気まぐれを訝ったが、正室である王妃のもとに王が通うのも道理であると納得する者が多かった。だがセレナだけは、イオラの立場を思うと同じ女として胸が塞がれる思いがするのだった。
 ――イオラは王をどう思っていたのか――
 気がかりで無い訳ではない。一人の王を巡って寵を争うことなど、自分の身に起こるとは考えもしなかった。セレナ自身が遠ざけられていた間、嫉妬の炎に灼かれる思いをした。今まさに側室もそんな思いをしているのではないか……。
 だがそれを確かめることは躊躇われた。自分が側室に会いたくなかったように、側室もまた自分に会いたくないのでは、と考えたからだ。
 相変わらず、それぞれの女官達の計らいで、二人には顔を合わす機会はなかなか巡って来なかった。


 後宮の中庭の緑も随分と濃くなった。木々に遊ぶ小鳥の種類も以前とは変わったようだ。人々の心の葛藤など自然の理の内では小さなこと。そうしてただ季節は移り変わって行く……。
 このところ、昼間は暑く明け方は寒い。寒暖の差が激しいせいか、セレナは身体の具合があまり思わしくなかった。考えなければならない事が彼女の心を惑わせたのか、それとも少しばかりの安堵の気持ちが張り詰めていた緊張の糸をほぐしたのか。幾分熱も有るようだ。彼女の身体を気遣う国王が自分付きの薬師を遣わしてくれ、ジェイドの秘薬を調合してくれた。おかげで今日はここ二、三日の内でもいくらか気分良く目覚めることができた。
 金緑石の首飾りを着け、タンジアに髪を丹念に(くしけず)らせた。少し痩せた肩に栗色の巻き毛がはらりとかかる。櫛の動きに合わせて、胸の金緑石がキラキラと薄い緑の光を返した。
「王妃様は金緑石がお好きなのですね。他にもたくさんお持ちなのに、いつもそればかり着けていらっしゃる」
 タンジアが石の光に気が付いて目を細めた。セレナはまるで護符のようにいつもそればかりを身に着けている。
 事実、それはセレナにとって自分を繋ぎとめる楔なのだった。
 ――金緑石のようにカーネリアの色に染まれるものなら――
 胸の石はそんな持ち主の想いなどそ知らぬ顔で、キラキラと薄緑色に輝くだけであった。


「少し気分が良いので庭を歩いて来ます。あなたは女官長に呼ばれているのでしょう。私は一人で行きます」
 まだ本調子でない王妃を心配するタンジアを置いて、セレナは一人中庭に出た。濃い緑が木陰を作り、梢を渡る風が肌に心地良い。息を大きく吸い込むと、身体のすみずみまで冴え渡る気がした。
 こうして庭を散歩するのも久しぶりだ。側室のイオラがこの後宮に上がってからは、自室に篭りがちのセレナであった。そのこともセレナの身体を弱くする一因でもあったのだが……。
 不意に胸の重みが軽くなった。何気なく首筋に手を触れる。
「無い……!」
 首飾りの石が無くなっていた。留め具が緩んでいたのだろうか。セレナは地面を見渡した。
 ――あれが無くなってしまったら――
 金緑石に懸けた願い。カーネリアの色に染まっても良いのだと、いつの日にか確信したいという願い。
 セレナは衣装が汚れるのにも構わず、地面に膝をついた。辺りには短い背丈の草が茂り、親指程の大きさの石など、いとも容易く隠してしまう。その白く細長い指で草を分け、栗色の長い巻き毛が肩から落ちて土に汚れるのも厭わず、セレナは石を探した。
 あまりに夢中になって地面ばかりを見つめていたために、近づく人の気配に全く気づかなかった。
『カサ……』
 踏みしめる草の音。顔を上げると、美しい布地が視界を華やかに彩った。
「王妃様」
 聞いたことのない声。セレナは術を掛けられた者のように動けなくなってしまった。
 ――これは――
「何かお探しですか」
 再び降り注ぐ柔らかな声。ゆっくりと視線を移すとその先に初めて(まみ)える女の艶然とした微笑があった。
「あなたは……」
 膝と手を地面についたまま、セレナはその者から目を離すことができなくなってしまった。
「イオラです」
 短く告げられた名。閨で、自室で、王が口にしたその名。国王アレクが選んだ側室の……。
 黒橡色(くろつるばみいろ)の瞳。鈍色(にびいろ)の真っ直ぐな髪。さらりと着流した衣装の襞が豊かな肢体を覆っている。美しい(ひと)であった。
 側室の任を解かれるかも知れないイオラの身を案じていた筈だった。王の心が自分の上にあると知って、安堵していた筈だった。
 だがいざその者の顔を見てしまうと、セレナは自分の心に波風が立つのを感じた。聞きたいと思っていた事は山ほどある。王をどう思っているのか、正室の自分を恨んではいないのか。それなのに言葉が出てこない。喉の奥が焼け付いたようになって、紡ぐ筈の言葉が音にならない。
「失せ物はこれでしょうか」
 イオラはゆっくりと腰をかがめて草むらから何かを摘み上げる。そしてその腕をセレナに向けて差し出した。すらりと伸びた指に挟まれているのは、セレナが先刻から探しても見つけることのできなかった金緑石。地面に這いつくばって土まみれになってさえ自分が得られなかったものを、いとも易々と見つけてしまったイオラ。
 ――怖い――
 突然、セレナはこの者を後宮に留めておく事が、とんでもなく恐ろしい事のように感じた。
 ――いつか王の寵がこの者に移ってしまうのでは――
 土に汚れた指を払い、セレナはゆっくりと手を伸ばした。イオラの指から金緑石の緑色が零れてセレナの掌に落ちた。
 一度は取り上げられたが、カーネリアで再びこれを手にする事を許された。あの謁見の頃より力を増した日の光を返し、キラキラと石は輝く。薄く浮かんだかと思えば、またすぐに深く沈む緑色。それは王の心一つで操られてしまうセレナの気持ちのようだ。指を折り、石を掌に握った。抱きしめるように両の手で包み、胸にあてがう。幼子のように守られて、石はセレナの鼓動に合わせて小さく、小さく瞬いた。