〜命〜
セレナは逃げるようにして自室に帰った。金緑石を胸に抱きしめたまま彼女は走った。あとに残されたイオラがどのような顔をしていたのか、それさえも確かめもせず。
投げかけたいと思っていた問いも心の内に飲み込んだ。もしその口から王を恋うる言葉を聞かされたら……。
自室の扉が視界に入った途端、安堵感からかセレナの意識はふと遠くなり……目に映る景色も暗転した。
――守りたいものは全てこの手からすり抜ける――
次にセレナが見たものは、自室の天蓋越しに透ける天井であった。寝台を覆う天蓋は少し開けられて、すぐ側でタンジアの心配そうな顔が覗き込んでいた。
「王妃様」
薄く目を開いたセレナの額に、タンジアのひんやりとした手が添えられた。
「少しお熱が上がったようです。やはりまだお散歩は無理でしたのに……」
少し咎めるような気が言葉の内に込められている。事実、心配するタンジアを振り切るようにして外に出たのはセレナ自身なのだから。よもやそこで、
彼の
女と
見えることになろうとは、想像だにしなかった。
「使いの者が薬師様を呼びに行っております。程なくこちらに渡られるでしょう」
安心させるためか、柔らかな笑みを浮かべると、タンジアは言葉を継いだ。
「お衣装もお召し換えしておきました。少し土で汚れておいででしたので」
何故汚れていたのかとは聞かず、タンジアは枕元の金緑石に目をやった。
「それから、そちらの石……。王妃様は大切に抱いておられたのですが、お召し換えの時に外させて頂きました。留め具が緩んだようですね。失くならなくて、ようございました」
細工師を呼んで直してもらう手筈も整えた、とタンジアは続けた。よく気のつく女官である。
「ありがとう。それから……勝手に出歩いたりして、申し訳ないことをしました」
セレナは素直に謝罪の言葉を口にした。いつも辛い時には、この幼少の頃より見知った女官が側にいてくれる。
「あなたは私を置いてどこにも行かないで」
ふと、そんな言葉がセレナの口をついた。随分と気弱になっているのが自分でもわかる。イオラの姿を見てしまったためか。
タンジアは一瞬、眉尻を上げて不思議そうな顔をしたが、すぐに笑顔になって王妃の手を優しく握った。
「どこへも参りません。私は王妃様を置いていなくなったりしませんから」
とんとんと、子供をあやすように王妃の胸を優しく叩くと、タンジアは入口の扉を仰ぎ見た。
「薬師様がいらしたようですね」
扉を開けて入って来たのは、今までとは違う薬師であった。緩やかな衣装を身に纏った女性。少々ふくよかなその身体からは、薬草の匂いが漂ってきた。薄い金の髪と、慈愛に満ちた灰緑色の瞳。その髪の色から、その者が今は無きジェイド国の出であることが見て取れた。
少し遅れて再び扉が開かれる。
「王……!」
セレナは驚いて寝台の上に身を起こす。
心配気な表情を浮かべて戸口に佇むその人は、国王アレクであった。昼の政務の只中であろう筈なのに、抜け出て来たのか。
「倒れたと聞いた。大事ないか」
大股でセレナの横たわる寝台に歩み寄る。王妃の手を握っていたタンジアが、そっと席を辞した。代わりに王の手が彼女の手を包み込む。
「アレク皇子……いえ、王。そのようにくっついていらしては、お診立て出来ませぬが」
薬師が柔和な笑みを浮かべたまま、一国の王に向かって咎めるような言葉をさらりと発する。王の方もそれを気にする風も無く、素直に薬師のために席を空けた。
「この者はハウラと言ってな、わたしの母付きの女官だったのだ」
周りの者の訝しげな視線に気づき、アレクは薬師の肩に手を掛けた。
「先の戦の折、わたしの命を救ってくれたのもこの者だった」
ジェイド国との戦いの最中、深手を負って骸同然であった王を秘伝の薬によって見事生還させたのは、この終始柔和な笑みを絶やさないハウラだったのだ。
「この後宮にはよい薬師がいない。ハウラなら女である故、出入りし易かろう。腕も確かだ。王妃付きの薬師として召し抱えることにした」
骸同然であった王を歩けるまでに回復させた薬師である。まこと、腕は確かなのだろう。女性であるというのも都合が良い。なかなか女の薬師というのは見つからないものだ。国王付きの薬師を呼ぶたびに、後宮付きの兵達に囲まれるというのも、正直セレナを疲弊させる一因でもあった。
「ではお診立て致しましょう」
短く言い置いて、ハウラは王妃の手をとった。額に手をあて、口中を検める。衣装を少しずらし、胸を見たりもした。彼女が動くたび、ツン……と薬草の匂いがする。
「……」
いつもなら気にならない匂い。むしろ薬草の匂いを嗅ぐと、身体の中が清められるような心地がする。だが今日は何故か鼻につく。セレナは眉根を寄せて口を押さえた。気分がひどく悪い。
「だめ……」
胃がせり上がる心地がした。だがここ数日あまり食べ物を口にしていないセレナは、腹部の痙攣を感じただけで何も戻しはしなかった。
「やはりそうですね」
ハウラが柔和な顔を更に緩めた。心配気に様子を見守るアレクを振り返る。
「王妃様は身ごもっておられます」
王妃懐妊の報はまたたく間に城中に広がった。世継ぎが生まれる。カーネリアを背負う世継ぎが。陽の気が城内に満ち溢れる。誰もが祝賀の意を表す明るい色の衣装を身に着けた。後宮の女官はもとより、『思政の宮』に仕える家臣も侍官も、『正殿の宮』で雑用をこなす下男でさえ、華やかな飾りの付いた衣装を纏った。
アレクは閨にセレナを招くことはしなくなった。代わりに、王妃の自室に王自らが訪ね、ただ寝物語をして同じ寝台に眠る。新しい命を宿したばかりの王妃の身体を気遣って、肌を重ねることはなかった。
それでもアレクは満ち足りていた。愛しい妃が、我が腕の中で寝息を立てている。そしてその中には自分の血を分けた命が育っているのだ。至福の時であった。いつまでもこんな時が続けば良いと、彼は願った。何にも邪魔されず、自分と妃とそしてその子と。重臣どもの思惑など関係なく、王位を巡って新たな血を流すこともなく。だが……。
――歯車はどこかで食い違ってしまった。
セレナは薬師の診立てで、寝台の上で寝たり起きたりを繰り返していた。また倒れてはいけないと、周りの者が心配したのだ。
今から思えば、身体が熱っぽかったのは懐妊のせい。病などではなかった。だが、折角宿った命が身二つになる前に流れてしまうことは、このカーネリア国王室ではよくある事だった。周りの者が慎重になるのも頷ける。
気持ちが塞ぎ気味だったのも、急激な自身の変化に身体がついて行けず、心の均衡を欠いてしまったからであった。
だが、それだけでは答えにならない想いがセレナの心の内にあったのも事実であった。
――いつか王の寵がイオラに移ってしまうのでは――
その想いは未だ根強くセレナの心を苛む。今は愛されている。だがこの先は……。心の底から王を愛し切れていない自分への呵責だろうか。
人の心は移ろう。かつての恋人ジルクからカーネリア国王アレクへと自らの心が移ったように。
取り巻くものが変われば、人の想いも変わる。心とは不変なものではないのだ。
側室のことだけではない。その身に起こった幸せな筈の変化もまた、セレナを責め立てていた。
――この子は私の子。私と王の子。だがカーネリアの王位を継ぐ者でもある――
愛しい人の子が我が胎内にいる。それはセレナにとって幸せなことであった。だが、心の奥底に沈む冷たい結晶が――カーネリアを憎む心が――夢の中でセレナを狂気の淵に立たせる。
昔、夢は
現の願望を映す鏡だと聞いた。子供の頃は、それは美味しいお菓子であったり、綺麗な衣装を纏い、自分の意のままになる
傀儡であったりした。
我が子が生まれる
子は大きくなり、カーネリアの国王となる
トルメイン国との血の融合
相容れない憎しみの血の……
トルメインで果てた父王が泣いている
罪人のように処刑された父王
この子は育ってはいけない
私が憎しみの種を育ててはいけないのだ……
何度も同じ夢を見た。その度にセレナは目覚め、肩で荒い息をして、隣に眠るアレクの寝顔に救いを求める。
わかっている。もう戻れない祖国。憎しみに囚われていては前に進めないのだという事も。アレクを愛している。愛する人の子が胎内にいる。だがその子は憎いカーネリアの国を背負うのだ。
――私はどうしたいのか――
母になりたい。愛しい人の子の母に。
でもこの身は父王から受け継いだもの。優しく聡明で偉大だったトルメイン国王の。
――狂ってしまう――
懐妊したばかりで心の均衡を崩している今、夜毎彼女を苛む夢は除々にセレナの身体を衰弱させていった。
「セレナ、このところ良く眠れていないのではないか?」
アレクは懐妊の報以来、夜と言わず昼と言わず、少しの暇を見つけては王妃の自室を訪ねた。
――愛しい妃と少しでも長く居たい――
もちろんその想いも強い。だが、彼には少しばかり気がかりがあった。
「大事ありません」
微笑むセレナの顔はいつもと変わらず神々しく、美しい。少し痩せたように見受けられるが、懐妊初期には物を食べられなくなることがあると言う。薬師のハウラは心配要らない、と言うのだが……。
その身を深く想う者の勘だろうか。アレクは微笑むセレナの瞳の中に、言い知れない暗く重い闇を感じた。
セレナは王の心配気な顔に視線を走らせ、もう一度ふっと微笑んで見せた。目覚めてアレクが側にいる間は、あの嫌な感情に支配されることは無い。目の前の王の愛を請う、ただ一人の女としていられる。
――この夢を王に知られたくない――
未だカーネリアに恨みを残し、我が子さえ闇の船に乗せてしまおうとする自分。例え夢であっても、こんな想いが自分の中にあるのだとは知られたくなかった。
「本当に大事ないのです」
何かを汲み取ろうとでもするかのように栗色の瞳を覗き込む王。その何もかも見透かすように真っ直ぐ向けられる眼差しに耐えられず、セレナは長い睫毛を伏せた。
「薬師のハウラもついている。何かあったらすぐに診てもらうのだぞ」
アレクはセレナを抱き寄せると、まだ目立ってこない妃の腹を優しく撫でる。前よりもまた少し痩せたその肩の感触に、アレクの灰色の瞳はほの暗い影を帯びた。
――まだ全て心を許してはおらぬのだ――
一抹の寂しさを覚えながら、それでもアレクは妃を抱き留めたまま離そうとしなかった。何かを一人で耐えている、この妃を。
鈍い……痛み。
寝台の上。隣に眠るアレクを起こさぬよう、セレナはそっと身を起こした。灯り窓の透かしから月の光が入り、室内は思いのほか明るい。
夢は今夜もセレナを苛んだ。いっそこの身を半分に引き裂いて、半身を祖国トルメインに、そしてもう半身を愛しいアレクの故国カーネリアに振り分けてしまいたいと、そう願った。闇の手がセレナに纏わり付き、身を引き千切られると思った刹那、
現での身体の痛みに目が醒めたのだった。
「くぅ……っ」
下腹に感じる痛み。それは除々に強まっていく。規則的に訪れる尋常でない痛みは、セレナの呼吸を乱した。
「どうしたのだ!」
ただならぬ気配に、アレクが目を醒ました。妃の様子を見て取ると、その肩を両の手で掴む。
セレナは腹を押さえ、言葉も無い。ただ肩で荒い息をつき、差し伸べられた王の手に縋った。
「誰か……誰かおらぬか!」
アレクの鋭い声が響く。次の間からタンジアや不寝番の女官が夜着の上に薄物を纏った姿で駆けつけた。
「薬師様を!」
タンジアはセレナの苦しむ様子に大事あったのだと感じ取り、他の女官に指示を出す。小さな身の丈の女官が慌しく扉を開けて部屋の外へと駆けて行った。
セレナの額には丸い汗の粒がいくつも浮かび、顔は苦痛に歪められている。息をするのもままならない様子だ。
「しっかりするのだ、セレナ!」
アレクはただ妃の身体を抱き留め、頭を撫で、背中をさすった。
「……っ!」
セレナの身体が丸く折り曲げられた。一時もじっとしていられない。夜具を乱し、苦しげに動かされるその脚の間に、真っ赤な血溜まりができているのが月の光に浮かび上がった。
……子が流れたのだ。
アレクの目がそれを認め、驚愕に見開かれる。あまりの苦しみにセレナは意識を手放した。
「セレナ! セレナっ!」
ぐったりと動かなくなった妃の身体を抱き締め、アレクが絶叫する。その声は後宮中に響き渡って行った。
――夜風に揺れる天蓋の中、月と王だけが小さな命の終わりを見ていた。