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氷の楼閣


〜暖雨〜


 闇の船に乗るのは私
 我が子を我が心の内で殺した私
 このまま目覚めなければ良い
 このまま……



 目覚めたくなくとも朝は来る。
 アレクは深い闇の底から這い上がるようにして意識を浮かび上がらせた。
 ――今日は良き日になるか――
 愛し合う二人の間に芽生えた命は流れた。寝台の上を朱に染めて妃は意識を失った。たくさんの血を失い、紙のように白くなった身体は、それでもまだ息をしていた。それなのに……。
「何故目覚めぬ!」
 アレクは己の身体に掛けられた夜具を乱暴に剥いだ。緑がかった茶色の髪を両の手でくしゃくしゃと掻きむしる。
 セレナが意識を失ってすぐ、薬師であるハウラが駆けつけ、彼女に適切な処置をした。薬に長けたジェイド国の秘薬も使った。
 あの夜から既に七回目の朝を迎える。
 王妃の身体は衰弱してはいるものの、しっかりとした鼓動も感じられる。その身体を抱き締めると、ゆっくりと小さく胸が上下するのも 感じられる。ハウラに言わせれば、この状態で目覚めないのはおかしい、と……。
「だが実際に目覚めぬのだ!」
 いらいらとした気持ち。居心地の悪い感情に振り回されるのは初めてではない。だが、今回は違う。永遠にセレナの笑顔を失うかも知れないのだ。
 あの夜から、アレクは毎晩をセレナの部屋で過ごした。いつ目覚めても側にいられるように。妃の目に映る最初のものが自分自身であるように。
 だがセレナは目覚めない。七日の間ろくに眠れもしなかったアレクは周りの者に強いられて、昨夜はしぶしぶ王の自室で眠ったのだった。
 おかげで少しは眠る事もできたが……。そのおかげで考えがまとまるようになった。はっきりした頭の中に色濃くたちこめる重く暗い影。
 ――今日目覚めなければセレナは……――
 矢も盾もたまらず、アレクは身支度を整えて後宮に向かった。


 王妃の自室の前で、アレクは肩を大きく一つ上下させた。祈りを込めて扉を開く。
 女官達の控える次の間の扉にちら、と目をやる。開け放たれているという事は、まだ王妃の具合が思わしくない、という事か。いつでも気配を感じられるように、王妃の寝台に続く扉も開け放たれていた。
 寝台の脇にはハウラがいた。アレクの姿を認めると、視線を合わせたまま、小さく首を横に振った。
 普段、寝台を覆っている天蓋は、今ははね上げられている。少しの変化ももらさず感じ取るために……。
「変わりないか」
 落胆の色が王の声に現れる。見下ろす先のセレナの瞼はきつく閉じられ、けぶるように濃い睫毛の下の栗色の瞳を覆い隠していた。
「いつお目覚めになってもおかしくはないのですが」
 ハウラも眉間に皺を寄せて王妃の顔に視線を落とした。いつもの柔和な笑みはその顔からは消えている。この者も七日の間、ずっとセレナを見守って来たのだ。
「昼から神殿において祈祷が行われる。王妃治癒の祈祷だ。そこで何も起こらなかったなら……」
 アレクは言い淀んだ。


 王妃の腹の子が流れた、との知らせは喜びの報が轟いたのと同じ速さで城中を駆け巡った。喜びに沸き立っていた重臣達の落胆の色は大きい。そして追い討ちをかけるように王妃が目覚めぬとの知らせも……。
 悲しみの報を打ち消すには喜びの報しかない。重臣達は、ならばすぐにでも側室に渡るように、と王に進言して来たのだ。
 ――お飾りの王はやはり血筋を繋ぐための種にしか過ぎぬのか――
 こちらの胸中などお構いなしだ。このまま王妃が目覚めぬのなら、王妃の位を側室に譲れ、とも言って来た。
 ――できるわけが無い!――
 だが王の言葉に耳を傾ける重臣はいない。アレクは仕方なく、神殿での祈祷を提案したのだった。それは時間稼ぎ以外の何物でもなかったのだが、今の彼にできる精いっぱいのことであった。


 王妃の身体には祈祷用の白の衣装が着せ掛けられた。金糸で刺した刺繍飾りだけの簡素なものであったが、セレナの美しさを引き立てるには充分だった。
「王妃様を神殿までお連れ致しましょう」
 侍官が王妃に近づこうとするのをアレクは手で制した。王自らセレナの脇と膝の下に手を差し入れ、華奢な身体を軽々と持ち上げる。
「こんなに軽くなってしまった……」
 これが生きている人の重みなのか。このまま白く優美な羽をその背中に生やし、今にも飛び立ってしまうのではないか、と思われた。
 ――天女――
 初めて見た時も美しいと思った。婚礼用の衣装に身を包み、自分を()めつけたあの瞳。婚儀の聖水をお互いの手に受ける時、この手の下で小さく震えていた華奢な白い手。お互いを射るような視線で見詰め合った祝宴。渡した杯を受け取った細い指先。
 国を守ると言い切る強さに反発しながら、一方ではその強さを欲しいと思った。
 もう一度……もう一度その目を開いてくれるなら、射るような眼差しでも憎しみの言葉でも……全てこの身に受けよう。だから……。
 神殿の階段をセレナを抱いたまま、一歩、また一歩と上る。栗色の長い巻き毛が、吹き上げる風に煽られてふわり、と王の頬を撫でた。


 神殿の建物は長い階段を上がった先にあった。半円を模した入口がいくつも並ぶ建物の中に入ると、未だ目覚めぬセレナを抱き、アレクは石の椅子に掛けた。膝の上にセレナを横向きに座らせ、その肩を抱いて支える。腕の中にすっぽり収まってしまう細い肩が何故だか悲しい。
 ――この小さな身体でわたしの子を育んでいてくれたのか――
 華奢な身体一つに重い運命を負い、トルメインから輿入れした皇女。父王を殺された恨みを抱え、恋人と引き裂かれて道具のように扱われるその身を嘆いた夜は数え切れないだろう。
 心の奥底に冷たく沈むカーネリア国への憎しみと、その国の王への愛の狭間で心を乱し……。
「……!」
 アレクは己が心の奥底にキラリ、と光る何かを見たような気がした。
 妃の胎内に自分の子がいると知った時、森羅万象に感謝したいほど嬉しかった。これでセレナの心を繋ぎ留める事ができたと……。
 子ができれば女は慈しみ、育てるものだと思っていた。そうして家族が生まれ、命は続いて行くのだと。
 だが本当にそうだったのか? セレナはこの命の芽生えを喜んでいたのか?
「セレナ……」
 アレクは答えぬ妃の白い美貌に視線を落とした。
 ――私は子を成すつもりはありません――
 二度目の閨において、セレナが投げかけた言葉。カーネリアを憎んでいるから、カーネリアの世継ぎを産むわけにはいかないと。
 ならば未だその憎しみを抱えているセレナが、新しい命の芽生えを簡単に喜べた筈はなかろう。
「迂闊であった」
 妃のきつく閉じられた瞼や固く引き結ばれた口唇を食い入るほど見つめ、アレクは低く呻いた。


 神官が祭壇の前に立った。聖木でつくられた香を焚き、聖木の葉をその煙の上にかざす。銀の器に入れられた聖水にその葉を浸し、王妃の上に振りかけた。香りの良い細かな水の粒が王妃の髪や肌を濡らす。祭壇に向き直ると、神官は祈祷の言葉を朗々と唱え始めた。
「セレナ、目を開けてくれ……」
 妃の額の水粒を指で拭いながら、アレクはもう一度セレナの肩をきつく抱き締めた。拭った筈の水粒が大きく暖かい水滴となってセレナの額に零れる。後から後から落ちるそれは、アレクの涙であった。
「頼む。目を開けてくれ。そなたが目覚めぬと、わたしは側室のもとに渡らねばならぬのだ。先にも言った。わたしはそなた以外要らぬ。そなたでなければならないのだ。そなたの苦しみが何なのか……知っているつもりだ。もう子は要らぬ。そなたが苦しいのなら、子は成さずとも良い。だから……どうか、目覚めてくれ!」
 アレクの想いと神官の言葉が神殿内に高く、低く、響き渡る。それは詩のようでもあり、嘆きのようでもあった。


 闇の船に乗るのは私
 ――側室のもとに渡らねばならぬのだ
 我が子を我が心の内で殺した私
 ――もう子は要らぬ
 このまま目覚めなければ良い
 ――目を開けてくれ
 このまま……
 ――そなた以外欲しくない!

 ……ココロガヒキモドサレル――


 心地良い音。……声? 雨……ああ、雨。月灯りがあったのに……。
「……王?」
 か細い声。アレクの腕の中の身体が声の終わりと共にゆっくり大きく息を吸い込んだ。
「セ……レナ?」
「雨が……」
 はたはたとセレナの額や頬に落ちる暖かな雨。
「泣いておられるのですか」
 細い指が、アレクの瞳に向かって伸ばされた。その指はアレクの手によって包み込まれ、彼の瞳に届くことはなかった。
「良かった……良かっ……」
 アレクはセレナの肩を抱く腕に一層力を込めた。小さかった胸の動きも、大きいものへと変わっていた。
 細い顎をアレクの肩に乗せ、セレナは目を瞑った。
 ――長い夢を見ていた。これも夢?――
「お腹の子は……」
 弱々しい声でセレナが問う。
「流れてしまったのだよ」
 アレクは優しく王妃の髪を撫でた。
「そう……」
 目を瞑ったまま、セレナは髪を撫でるアレクの掌を感じていた。
 いいのだ、と。これでいいのだ……と、その掌は告げていた。
「もう苦しまなくても良い。そなたの辛さは知っているつもりだ。子は成さずともよい。そなたさえいてくれれば……」
 カーネリア神殿の石の椅子の上で、この国の王と王妃はいつまでも抱き合っていた。お互いの罪をお互いの中に溶かすように……。


 王妃が目覚めたことで、重臣達の溜飲は無理やり下げられた形となった。
 これで納得せねばなるまい。身体が回復するまでしばらくの時を要するだろうが、歳若い妃のこと。すぐにでもまた次のお子を授かるかも知れない。一度は胎内に王の子を宿すことができたのだ。次が無い筈がない。今度こそ慎重に事を運べば、カーネリア王室は安泰なのだ。


 日ごと、セレナの身体は回復していった。以前のように物も口にできるようになり、痩せてしまった肩も元通りになりつつある。少しずつ笑顔を見せるようになり、心に負った傷も癒えて行くかのように見えた。
「トルメインからまた見舞いの品が届いたのだが」
 国王アレクが従者も連れず、王妃の自室を訪ねた。王自ら衣装や香の入った箱を抱えている。
「わたし一人で会って来た。そなたは会えなくて残念であったな」
 会って来た、とは外務大臣のことだろう。まだ癒えきらぬ王妃の身体に配慮して、謁見は王一人で行われたのだ。
「彼は元気でしたか?」
 穏やかな微笑みを湛え、セレナが問う。
「あの者には不思議な力があるようだな。わたしも珍しく楽しい気分になった」
 外務大臣とのやりとりを思い出しているのだろう。アレクは口の端に小さく笑みを浮かべた。
 見舞いの品々が入れられた箱に目を移したセレナは、そこに一通の書状が挟んであるのを見つけた。
「これは……?」
「ああ。外務大臣より王妃直々に渡して欲しいと懇願された」
 アレクはさらりと言った。本来ならば祖国よりの書状は重臣達に渡されてから王妃の手に届く。その手順を踏まずに直接渡すと言うことは、何か内密の用件でもしたためてあるのか。
 カーネリアの国王であるアレクの前で読むことに、セレナは一瞬ためらいを感じた。だが、この心の内の葛藤も全て知っている王の前で、隠し事をするのはもう止そうと決めたのだった。
 書状はトルメインの母からであった。


 この度は大変残念な事でした。あなたもさぞ苦しんだことと思います。トルメイン国の皇女として国を背負ってカーネリア国に嫁いだあなたを、母はずっと案じておりました。父王を慕っていたあなたの事だから、祖国と嫁ぎ先との間で迷いもあったでしょう。
 先に贈った金緑石は、今もあなたの胸で輝いていますか。あの石は与えられる光によって色を変えます。人の道も然り。これは外務大臣から聞きましたね。あの言葉は私からの言伝でした。外務大臣は、先の謁見の折、カーネリアの国王を随分気に入っておりました。彼はあなたが国王に心を移し始めているのだ、とも言い切ったのです。
 あなたの胎内に宿る子は、あなたとあなたの愛する人の子なのです。カーネリア国の世継ぎである前に、愛し合う二人の子なのです。憎しみからは何も生まれません。でも愛からは命が生まれます。
 人の心は不変ではありません。カーネリアの色に染まっても良いのですよ。

追伸 トルメインの果実は今年も変わらず実りました



 読み終える頃にはセレナの視界は滲んでしまっていた。何度も何度も読み返す、最後の行。祖国トルメインの誰かにはっきりと言って欲しかったその言葉。
 ――カーネリアの色に染まっても良いのですよ――