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氷の楼閣


黒橡(くろつるばみ)


「タンジア……? いないのですか?」
 このところ力を増した日の光のおかげで、少し動き回るだけで額に汗がにじむようになった。もともと華奢なセレナは暑さに弱く、食が細くなる。それを防ぐために、こんな時いつも使っていた薬があった。わざわざ薬師のハウラを呼んで調合してもらうのも気が引ける。
 異国に嫁いだ娘を心配した母が入れてくれたのであろう。祖国トルメインからの見舞いの品の中に、その薬があったのを思い出し、タンジアに出すのを手伝ってもらおうと思ったのだが……。
 ――他の女官達の姿も見えない――
 昼を少し過ぎた今の時間、出入りの商人が『正殿の宮』に来ているのかも知れない。ならば、それぞれに用のある女官達がこの後宮を留守にするのも頷ける。誰もいないという訳ではないだろう。女官の仕事部屋まで行けば、残っている者もいる筈だ。だが、そうまでするほど急を要する事でもない、とセレナは思い直した。
「後からにしましょうか」
 ひとりごちて、セレナは窓際に置かれた背もたれの高い椅子に掛けた。
 今は王も政務の只中なのであろう。セレナ以外の人の気配が消えたこの部屋は、渡る風ばかりが天蓋を揺らし、次に花器に挿した花を揺らして、微かな音を立てるばかりであった。


「遅くなりました」
 いつもより弾んだ声とともにタンジアが部屋の扉を開けた。手には黒色の盆を捧げ持っている。セレナの座る椅子の傍らまで来ると、タンジアは幼子のようないたずらっぽい笑みを浮かべてセレナの顔を覗き込んだ。
「王妃様、どうぞ」
 タンジアが差し出した丸盆の上には、金緑石の首飾りが載っている。深く沈んだ緑色が、盆の黒色の上にその光を映していた。
「……直ったのですね!」
 セレナの顔が明るい笑みに彩られた。愛おしそうに石を持ち上げる。それに続く鎖が盆から零れて小さな音を立てた。
 ――カーネリアの色に染まっても良いのですよ――
 トルメインの母から贈られた大切な言葉。日の光の下にあっては緑色、蝋燭の灯りの下にあっては赤色の光を返すこの金緑石のように、トルメイン国にあってはトルメインの色、カーネリア国にあってはカーネリアの色に染まっても良いのだと……。
 今この石の光を見ても、以前のように苦しくはない。愛しさだけがこみ上げてくる。
 変わることを切望し、護符代わりにいつも身に付けていた石。いつの日にか、カーネリアの色に染まっても良いのだと確信したいという願いを込めたこの金緑石は、静かに王妃の胸につけられるのを待っていた。 


「お綺麗ですわ。その石は王妃様の白い肌によく映えますね。日の光の下で見たら、さぞ美しいでしょう」
 セレナの胸に輝く金緑石を目を細めて見ると、タンジアは盆を傍らの卓の上に置いて微笑んだ。暗に外に出てきてはどうか、と促している。体の具合も良いし、少しくらい日の光を浴びたほうが心も前向きになれると言いたいのだろう。
「そうします」
 セレナは心の中でタンジアに感謝しながら、立ち上がった。トルメインからついて来たこの女官は、セレナの身を一番に案じてくれている。確かに子が流れ再び目覚めてからは、自室に篭ったままで後宮の中庭に出ることも無かった。
 幸い今日は穏やかな日であった。


 中庭に出ると、美しい花々が咲き乱れ、その間を蝶が舞っている。今がここカーネリア国において、一番日の力が強い時期なのだ、と言った王の言葉が蘇った。
 日の光は生きる力を与えてくれる。森羅万象、全てのものが日によって生かされている。セレナ自身も、心の中の淀みが、氷が溶けるように小さくなっていくのを感じた。
 池のほとり、木々の陰、花々の脇……。思いつくままにそぞろ歩いても、一時に回りきれる程中庭は狭くない。半分も歩かない内に、セレナは疲れを感じた。
 丁度良い具合に、花に埋もれ半日陰になった場所に東屋(あずまや)が建っている。中には石造りの椅子が、同じく石造りの卓をとり囲むようにして五脚並んで置かれていた。中に入り、椅子に腰掛ける。しばらく満足に使っていなかった足が少しばかり痙攣していた。
「だめね。こんなことでは……」
 セレナは苦笑する。
 幼い頃は快活に飛び回っていたのに、たったこれだけ歩いただけでこんなに疲れてしまうなんて。自らの拳で衣装の上から軽く足を叩きながら、この国に輿入れしてからの事に思いを馳せる。
 いろいろな事が有った。幼い頃、『拝謁』のためにこの国を訪れた際には、こんな運命が自分を待っていようとは想像だにしなかった。
 あの『拝謁』の折に一緒に遊んだ少年の許に輿入れし、憎み合いながらも心惹かれ……その子を宿し、そして失い……。
 セレナの動きに合わせ、胸の上で金緑石がコロリと転がった。親指程の大きさの石。東屋から少し身を乗り出し、日の光に石を透かして見る。
 ――ああ、この緑色――
 心に染みる色。今までこんな穏やかな気持ちでこの石を眺めたことは無い。いつもこの石を見る時は、心の内に葛藤が有った。
 静かに……静かに石は光り、セレナの心の中にも穏やかに風が渡っていった。


「王妃様」
 不意に、艶のある柔らかな声がした。聞き覚えのある声に、セレナはゆっくり顔を上げる。
「あの折の石……首飾りの石でしたか。直ったのですね」
 美しい人。見上げるセレナの視線の先には、側室のイオラが彩りも鮮やかな美しい衣装を纏って立っていた。小さく会釈をして東屋の中に入ると、優美な仕草で傍らの椅子に座る。
「この度は残念な事でした」
 つい、と背筋を伸ばし、イオラが言った。残念な事とは、子が流れた事を言っているのであろう。セレナは心の奥底にチリッと小さな痛みを覚えた。
「仕方のない事ですもの。この国ではよくあることですから」
 失った子に対する後悔の念や懺悔の気持ちは、心の淵に深く沈んでいる。だが、いくら悔やんでも詮無きこと。そうしたところで、子がかえって来るわけではない。
 イオラは足を組替える。衣装の裾から起こった小さな風が王のものとは違う、カーネリア独特の強い香のかおりを運んで来た。
「同国の者同士ならば、もっと違った結果になっていたかも知れませんね」
 イオラの口から吐き出された、試すような言葉。挑戦とも言えるその言葉を投げかけ、セレナの心根を推し量っているのか。
「どういう事です?」
 そ知らぬ風にセレナは問うた。
「言葉通りの意味ですわ。カーネリアの王とカーネリアの民である私との間にできた子なら、流れることもなかったかも知れない、と申し上げたのです」
 静かにセレナに向けられる黒橡(くろつるばみ)色の瞳。心の中を真っ直ぐに貫くようなその眼差しは真意を隠したままで、そこから何かを感じ取ることはできなかった。
 ――何が言いたいのか――
 以前のセレナであれば、その言葉に打ちのめされていたであろう。だが、また一つ(ろう)たけた彼女の愛の泉にはただ一つの波紋さえ起こらなかった。
 王の愛を信じている。二人であの辛い夜を乗り切ったのだ。神殿の石の椅子の上で、固く抱き合いながらお互いの中にお互いの罪を溶かし合った。
 明けない夜は無い。止まぬ雨は無い。そうして夜の後には朝が、雨の後には光溢れる空がまたやってくるのだ。
 黒橡色の瞳を、ただ見返し……。イオラの発した言葉の真意を知りたいという、それだけの想い。
 この側室は私を憎んでいるのか。それほどまでに王の寵を請うているのか。今の言葉で自分の心に棘を巻きつけたつもりなのか。
「あなたは王を愛しているのですか?」
 セレナは視線を外さぬまま、問うた。ずっと前にも聞いてみたかったこと。どんな答えが返ってこようとも、セレナが抱く王への愛は揺らぐことはない。今はそう言いきれる。もしも王がセレナの愛など要らぬと言う日が来たなら……それはその時に考えれば良いこと。
「愛……」
 小さく呟いて、イオラは言葉を切った。
「王妃様は王を愛していらっしゃるのですか?」
 風が渡った。セレナの栗色の長い巻き毛がふわりと舞い、傍らに座るイオラの鈍色(にびいろ)の髪に絡む。
「愛しています」
 髪をほどきながら、セレナは微笑んだ。何故微笑んだのか、自分でもすぐには判らなかった。でも、王を愛している、と口に出しただけで、とても幸せな気持ちになったのだ。自然に笑みが零れる。
 人を愛し、その人に同じだけ愛し返されるなら、そんな幸せな事は無い。だが例えその想いが与えるだけのものだとしても、今のセレナは幸せだった。
 ――愛を生きる力にできた――
 以前のセレナは憎しみを生きる拠り所としていた。その時の殺伐とした想い。心がささくれ立ち、抜き身の剣のようにギラギラとしていた自分。
 母の言葉に重荷を解かれ、少しずつではあるが憎しみも薄らいで行く今、新たな拠り所となったのは国王アレクへの愛であった。


 ふっ、と黒橡色の瞳が和らいだ。
「最初から、かなう筈ありませんわ」
 イオラの目が遠くを渡る鳥の群れに向けられた。
「王は、はなから私の事など望んで側室に迎えたわけではありませんもの」
 胸の内につかえた塊を吐き出すようにイオラは小さく息を吐いた。
「少し意地悪を言ってみたくなりました。申し訳ありません。お世継ぎが流れる事は、この国ではよくあること。カーネリアの民同士であっても、それは変わりませんわ」
 自嘲するような微笑を浮かべる。鈍色の真っ直ぐの髪がさらさらと風に舞う。髪に留めつけられた(かんざし)の石が、微かな音を立てた。
「王が王妃様を愛しておられる事はすぐに判りました。閨においても、私に指一本触れようとなさらなかった。いつも寝台の端に背中を向けて眠り……いえ、眠ってはおられませんでした。夜中に私が目覚めると、いつも王は起きておいででしたから」
 この側室もまた苦しかったのではないだろうか。セレナにはイオラの黒橡色が少しだけ水面(みなも)に揺れたように見えた。
「王の寵も受けられず、私は何のために後宮に上がったのかと……お恨みする気持ちが無かったとは言い切れません」
 イオラは目を伏せ、自分の衣装の飾り布についている房を細い指先で弄んだ。房は指の動きに合わせて小さく揺れる。
「……好きな人がおりました。隣の国の人です。私に側室の話が来て、その人とは引き裂かれてしまった」
 この人もまた、(まつりごと)のためにその道を曲げられてしまったのだ。それも国王アレクと自分との確執に巻き込む形で。自分がかつての恋人ジルクと引き裂かれたように、この人もまた、政という大きな流れの中にその身を翻弄されてしまったのだ。
 セレナは霧のように胸の内に湧き上がった考えに、少なからず打ちのめされていた。
「王妃様、どうかお気になさらず。私は私の道を選んでここに参ったのです。運命や、まして人の意思に流されたわけではありません」
 セレナの眼差しの中に込められた想いに気づき、イオラは黒橡色の瞳を少しだけ和ませた。
 ――賢く強い人――
 運命に流されたわけでは無いと言う。まして人の意思に翻弄されたわけでも無いと言う。それが傍らに座る王妃に気を遣っての言葉でないことは、その瞳を見れば判る。柔和な中に強い意志を秘めた瞳。祖国トルメインを背負ってこの国に輿入れした自分と少し通じ、そして少し違うその黒橡色。
「後宮に上がって王の寵を受け、世継ぎの母となれるかも知れないという野望が、私の心のどこかに有ったのかも知れませんね。今となっては、そのような事は望むべくもないと身に染みましたが」
 心の内の野望をちらりと吐露し、イオラは微笑んだ。
 セレナは言葉も無く、イオラを見つめていた。王の寵を争う正室と側室という立場でなければ、このイオラとは無二の友人になれるだろう。
「イオラ、あなたは幸せではないのですね?」
 セレナの口をついて出た言葉。
「……」
 イオラの顔から笑みが消えた。そう、自分は幸せではないのかも知れない。
「今でも隣国の人を愛していますか?」
 心に染みるようなセレナの声。優しく、鋭く、心の深淵を貫くその一言。同じ想いを味わった者の声が持つ、不思議な響き。
 イオラの瞳が揺れる。黒橡色の水面は丸く膨れて暖かい雫を零した。
「愛しているのですね」
 再び投げかけられた、確かめる言葉。イオラは小さく頷いた。
「王は近い内にあなたの側室の任を解くと言っています。もしそうできるのなら、あなたはそれを望みますか?」
 セレナはイオラの肩に手を掛けた。
 この側室が、それでも後宮に留まりたいと言うのなら、そう王に進言しよう。例え寵を分かつことになっても……。だが、側室も任を解かれることを望んでいるならば、何とか手を貸してやりたいとセレナは思った。
 それは王の寵がこの者に移るのを恐れてのことではない。同じ想いを味わった者として、その心の内に潜む悲しみに魂が響きあったのだ。
「もし……もしそれが可能なら、私は後宮を下がりたいと思います。そしてあの人と……好きな人と一緒に暮らしたい」
 縋るような瞳。先ほどまでの艶然とした表情は無く、そこにはセレナより一つ年下の女が彼女の栗色の瞳を見つめていた。
 この後宮で随分無理をして来たのだろう。寵を受けられない自分を情けなく思っていた事は、その縋るような瞳が語っている。
 今が幸せでないなら、幸せになれる場所に行きたい。
 黒橡色の瞳はセレナの栗色の瞳に向かってそう告げていた。