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氷の楼閣


〜霞〜


「聞いてもらいたいことがあるのだが」
 国政会議をお開きとなる頃、国王アレクが少しの逡巡の後に口を開いた。
 重臣達はみな、何事かと王の顔を注視する。今までこの会議の席において、この歳若い王が発言したことは一度たりとも無かった。いるのかいないのか。ただ黙ってそこに座り、そして去って行く。あとは政務室において書類に目を通す……。霞のようなその王が、自ら口を開いたのだ。
「何でしょう。議事に不都合でもございましたか」
 訝しげに一番近くの席に座っていた重臣が問う。四十を過ぎたと思われるその顔には、不審の色が浮かんでいるようにアレクの目には映った。他の者を見やっても、みな一様に驚いたような表情を浮かべている。
 ――お飾りの王の発言がそんなに意外であったか――
 アレクの整った顔に冷たい微笑みが浮かんだ。
「側室のことだが……その任を解こうと思う」
 しんと静まり返った室内に、国王の凛とした声が響き渡った。
「考えもなしに側室を迎えてしまったが、無体なことをしてしまった。あの者は屋敷に返そうと思う」


 セレナからイオラの胸の内を聞いたのは昨夜の閨でのことであった。心も身体も癒え、また一つ思い切れたように見受けられた妃は、自ら閨に招かれることを望んだ。
 久しぶりにこの腕に愛しい妃を抱き、満ち足りた思いで眠りに就こうとした夜更け、セレナの口からイオラの想いを聞いたのだ。できることなら屋敷に帰りたいと思っていること、そして他に好きな者がいたことも……。
 ――この腕に抱いたこともない側室だ。重臣どもとて無闇に反対はすまい――
 そう考えてのことであったが……。


「王はイオラ様がお気に召さないとおっしゃるのですか」
 先ほどの重臣が声を潜め、(いさ)めるような口ぶりで問うた。
「気に入らないというのではない。わたしには王妃がいる。王妃だけで充分なのだ。側室にはかわいそうなことをした。だが王の寵を受けられぬのなら、後宮に留まっても辛いだけであろう」
 他の重臣達の刺すような視線を感じながら、アレクは今までに無く自分の心の内を吐露した。
 いつも醒めた眼差しを彷徨わせながら、自らの口に重い鍵をかけてこの席に座っていた。血筋を繋ぐためだけにここにいる。生きながら自分を殺している、そんな毎日だった。
 だが、得たいもの、叶えたい望み……それらは口にして初めて手にできることをセレナから教わったのだ。今は側室を何とかして屋敷に戻してやりたい。
「寵が受けられぬ側室とは……イオラ様に何か落ち度でもございましたか」
 側室に非があったかのように問う重臣の顔は、険しいものに変わっていた。
 ――落ち度があったと言えば、この者は側室に何かを成す気か――
 アレクの心の中に警鐘が鳴った。
「落ち度はない。もとはといえば、わたしの我儘で迎えた側室なのだ。あの者にもすまない事をしたと思っている」
 セレナを思い切るため、そして世継ぎを成すために道具のように迎えてしまった側室。国、国と騒ぐ重臣どもと同じように、自分も政のためにイオラを犠牲にしたのだ。ここは何とか重臣どもに判ってもらって、イオラに別の生きる道を用意してやりたい。
 女として慈しむことは無かったが、人として彼女の幸せを願ってのことであった。人を思いやる気持ちも、セレナを愛し、子を失ったが故に生まれた感情だった。
「一旦後宮に上がったなら、あとは尼になる他、後宮から出る手立てはございません。王はご存知無かったのですか」
 傍らの重臣の目は、そんな事も知らぬのか、と言っているように見えた。
 歳若い国王アレクが、後宮の古いしきたりを知らなかったとしても無理はない。アレクを産んだ母が側室として後宮に上がったのは、産後の肥立ちが悪かった正室が床に伏しがちになってからであった。その後は亡くなるまで後宮で暮らした。正室亡き後は、先に亡くなった兄皇子ベリルの母代(ははしろ)として正室のように扱われ……後宮を出るなどと考えたこともなかったのである。母は幸せであった。
 それより以前に後宮に側室を迎えたのは、もう何代も前の王の御世のことである。だが一旦後宮に上がった後、任を解かれる側室というのは、今までに一度もなかったのだ。王も望まなかったし、側室もそれを望まなかった。


「会議はこれで終わりとする。皆、下がるように」
 先ほどの重臣は他の重臣達を見回すと、よく響く声で言い渡した。重臣達は卓の上の書類をまとめ、一人、また一人と会議の間を後にする。後には先ほどの重臣と、国王アレクの二人だけとなった。
「さて……」
 重臣は卓の上に指を組み、国王に向き直る。開け放たれた扉が風に煽られて微かにに軋んで閉じた。
「後宮に上がった方が、おいそれと家に帰るわけにいかないのには訳があるのです。万一お子を宿した場合、警戒の厳重な後宮や神殿であればそれは王の種であると断言できます。ですが一度宿下がりになれば、そこで他の者と通ずるかも知れません。そうすれば王の子であるか、後に通じた者の子であるか判断ができません。あとから名乗りを挙げられても、調べる手立てもないのです。ですから……後々の争いを避けるためにも、そして王室の血筋をまっとうな物にするためにも、一旦後宮に上がった方は二度と帰れない事になっているのです」
 重臣はアレクを諭すように淡々と語った。その目に蔑みの色はない。ただ、初めて自分の心の内を明かした王に対する礼のようなものが、そこにはあった。
「イオラには指一本触れてはおらぬ。王妃以外は抱けぬのだ」
 自分の心の内が次々に明かされて行く。以前のアレクであれば、王の威厳にかけてもそのような事はしなかった。これもセレナを愛するが故である。
 自分の種を宿すも何も、手を触れていないのならばそのような勘繰りは必要ないであろう。一縷(いちる)の望みをかけての言葉。
「いくら王がそう言い張ったところで、他の重臣達は納得しますまい」
 重臣は深く息を吐くと、ゆっくりと首を横に振った。
 確かにそれも一理ある。何も無かったといくら王が言い張ったとて、誰も確かめようのない閨での出来事。後から側室の子が名乗りを挙げれば、結局はもめごとの種となるのである。
 ――迂闊であった――
 アレクは小さく舌打ちした。勢いに任せ、自分のためだけに人の進むべき道を誤らせてしまった。このまま後宮に留めても、この先イオラに寵を与えることは有り得ないだろう。
『生きながら自分を殺している』
 自分自身が歩むそんな人生を、イオラにも強いることになるのだ。


「王は大きくおなりですな。良い若者になられた」
 不意に重臣の目が細められる。今度はアレクが訝しげに重臣を見る番であった。
「覚えてはおられないでしょう。わたしがお相手をしたのは王がほんのお小さい頃でしたから」
 柔らかく微笑む重臣の瞳を覗き込み、それでもアレクは記憶の淵から何も引き上げられないでいた。
「確かそなたはラズルといった……」
 重臣の名など、いちいち覚えてはいない。だが国政会議の際、いつも隣に座るこの者の名はいつの間にか耳に馴染んでいた。
「お優しい心根は、昔と変わりない。政に参加なさるようになってから、お心を閉ざしていらしたようにお見受け致しておりました。小さき頃は、快活で良く笑うお子でしたが……王が心を閉ざしてしまわれたのも、無理もないですな。兄皇子のベリル様があんな事になり、添い伏しのエメリア父子までがあのような結果になってしまったのですから」
 ラズルと呼ばれた重臣は、アレクの心の中を見透かしたように続けた。
「国とは厄介なものですな。人は国の中での力を欲し、あれこれと画策する。だが一方で、国とは人を縛る枷にもなる」
 強大になったカーネリア国の中で権力を欲し、少しでも高い地位を目指して他人の命をやりとりした者も多い。だが、上り詰めればその権力は、自身を縛る枷となるのだ。
「王は国と関らずに生きて行きたいと、そう願っておいでだったのでしょう? ベリル様やエメリア父子のように国のために命をやりとりするのはおかしいと……だから霞となって漂っておいでだった。違いますか?」
「……霞?」
 ラズルを見つめ、アレクは聞き返す。
「ああ、失礼致しました。重臣の中には、王の事を『霞のようなお方だ』と申す者もいるのです。おいでになるのか、ならぬのか判らない。事実、王は進んで国政に関ろうとはなさらなかった。はなからご自分には国を動かすことはできないとお思いだったのでしょう? ベリル様の事があったからなのですね。あのように進んで国政を改革なさろうとして亡き者にされるのは……やはり望むところではないのでしょう」
 心の内をずばりと言い当てられ、アレクは返す言葉も無かった。そうだ。お飾りの王となっていたのは、自らそのように仕向けたからでもあったのだ。そしてそこには、兄皇子のようになりたくないという思いがあったのは、否めない事実だった。
「ベリル様は性急に事を運び過ぎました。それで一部の者の反感を買ったのです。聡明であるが故に、全てが道理にそぐわなければならないと、そう思ってしまわれた。ですが、政とはそんなにきっぱりと割り切れるものではないのです」
 ラズルは四十路の顔を曇らせた。
「そなたは兄皇子の暗殺に手を貸したのか?」
 一国の重臣に向かって不用意ともとれる言葉。だがアレクは目の前の男からは何故だか敵意を感じられなかった。
「わたしは傍観者でした」
 口の端に皮肉な笑みを浮かべ、ラズルは小さく息を吐いた。
(はかりごと)が密かに進められていることを、わたしは知っていました。ですが、国のためには仕方が無いと……見て見ぬふりを致しました」
 後悔をしている、といった風でもない。ラズルはただ、事実だけを述べる。
「国のため、と言ってしまいましたな。王は『国』という言葉を聞くと決まって目が険しくなられます」
 アレクの瞳に剣呑な光が宿ったのを見てとり、ラズルは眉尻を上げた。
「国という大きな流れの中にあっては、王も一介の臣下もみな流されていく小石のようなものなのです」
 飄々と言ってのけるラズルの声には、人生を達観した者の持つ穏やかな響きがある。
 アレクは目の前の重臣の顔を、ただ見返した。
「これは大変失礼な事を申し上げました。王とわたしども臣下とを一緒にするなどと……」
 窓の外に目をやり、ラズルは懐から手巾を取り出した。
「今日も暑い一日となりましょうな。こんな日は、空を覆う白雲が恋しくなります」
 額に浮かぶ汗を押さえ、雲ひとつない空を窺い見る。
「霞はいつか雲になれるのだろうか。強い日差しから人々を守り、恵みの雨をもたらす雲に……」
 汗を拭くラズルの手元と空とを交互に眺め、アレクは小さく呟いた。
「王がお変わりになれば、自然と臣下の心もついて参りましょう。その道は険しく、時間もかかると思われますが……。歳若い王もいずれ齢を重ね、重きをおかれるようになります。今はまだその時ではない、ただそれだけの事です」
 四十路の臣下は国王アレクの灰色の瞳を見つめ、ゆっくり頷く。その瞳はどこまでも蒼く、今日の空のように澄み切っていた。
 アレクの瞳が新たな光を帯びるのを見て取り、ラズルは再び窓の外に目を移した。席を立って窓辺に歩み寄る。この会議の間のある『思政の宮』からは、『正殿の宮』に遮られて後宮の様子は窺い知ることはできない。だがラズルの視線はその先にあるであろう後宮に向けられていた。
「今のままではイオラ様は後宮より出ることは適いません。出られるのは二つの機会。一つは尼になられて神殿に上がる時。もう一つは……」
 ラズルは言葉を切り、確かめるようにアレクを振り返った。
「骸であれば後宮の外に出ることができます。……王、わたしの家系図にはジェイドの血筋が載っているのですよ。かの国には死をも司る薬師がいると……いや、これは単なる噂に過ぎませぬが」
 アレクは、はっとして顔を上げた。視線の先のラズルは笑ってもいなければ、けしかけるようでもない。ただ、事の成り行きを見守っている、そんな感じであった。


「セレナはいるか」
 アレクのよく通る低い声が王妃の自室に響く。先触れもなく、慌しく入って来たその様子は、思い立ってすぐここに来たことを窺わせる。この時間は国政会議が終わった頃か。
 王妃の身体が除々に良くなって来るにつれ、国王アレクが昼間から王妃の自室を訪ねることは少なくなっていた。暫くの間おざなりにしていた王の執務が滞り、その消化に忙殺されていたのだ。昨夜久しぶりに閨で休む前は、夜の間だけこの自室でセレナと共に休んでいた。
 それが今日は昼間からセレナを訪ねたのだ。
「どうなされたのです」
 セレナは何事かあったのか、と掛けていた椅子から腰を浮かす。はずみで卓の上に並べられた練り香がバラバラと石造りの床に落ちた。
「妃と内密の話がある。そなたは下がっておれ」
 急いで落ちた物を拾い集めようとするタンジアを下がらせると、アレクは向かいの椅子に掛けた。散らばった練り香の一つが王の靴の下で潰れる。トルメインの微かな香りが、ほんのりと辺りに漂った。
「側室の件だが……。やはり屋敷に返すのは無理のようだ」
 タンジアの衣装の裾が次の間に消えたのを確認し、アレクは小さな声で告げた。
「そうですか。一旦後宮に上がった者が、そうやすやすと帰れる筈は無いと思っていましたが……」
 アレクの言葉に、セレナの栗色の瞳が曇った。
 後宮の警護の厳しさは、すなわちお世継ぎの出生を明らかにするためのものである。世間一般から見て、王の種を宿しているかも知れない側室が、簡単に宿下がりできるほど甘くはない。
 わかってはいたのだが……。
「だがそれも、生きていれば、の話だ」
 アレクは一段と声をひそめ、セレナの瞳を覗き込む。
「生きていれば……?」
 王の真意を掴みきれず、セレナは問うた。
 生きていれば出られない。ならば骸なら出られると……。
「まさか王はイオラを亡き者に?」
「そうではない」
 セレナの言葉は、みなまで言わずに遮られた。
 アレクは身を乗り出し、自らの息がかかるほどセレナに顔を寄せた。
「ジェイドの秘薬の一つに、人を死んだように見せかける薬がある。脈も止まったようになり、息もそれとわからぬほど小さくなり……端目にはまるで死人とかわらぬのだ」
 妃の耳元に唇を寄せ、囁くように謀を打ち明ける。
「そのような薬を誰が作るのです? 国を欺く謀です。誰にも知られるわけにはいかないでしょう」
「ハウラがいる。……というよりも、あの者にしかその薬は作れぬのだ」
 そう言いきったアレクの端正な顔には、自信と決意が表れていた。