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氷の楼閣


〜謀〜


『コンコン』
 部屋の扉を叩く音がする。
 別段億劫がる様子もなく、部屋の主は自ら扉を開けに席を立った。この時間、出入りの商人が『正殿の宮』に来るというので、いつも部屋付きの女官達は出払ってしまうのだ。
 取手に手を掛け、ゆっくりと引く。微かな音と共に、美しく細工された扉は向こう側の景色に視界を譲った。
「王妃様……」
 初めてのお客。この後宮に部屋を与えられて以来、王妃がここに来たことは一度も無かった。
「元気そうですね、イオラ」
 王妃セレナの凛と響く声。部屋の主であるイオラは戸口に立つ王妃に向かって軽く会釈した。
「どうぞ、こちらへ」
 中庭に面した窓辺の椅子を勧める。イオラも向かいの椅子に掛けようとする。そこで、世話をする女官がいないことに思い当たった。
「お茶をお持ちしましょう。女官がいませんのでしばらく失礼致します」
「構わないで下さい。女官達がいない時間を見計らってわざわざ出向いたのですから」
 席を立とうとするイオラの手を引き、セレナは座るよう促した。それはただの茶飲み話をしに来たのではない、という意思の表れ。
 イオラはセレナの栗色の瞳に吸い込まれるようにして、また椅子に掛けた。


 中庭からは午後の日差しが差し込み、白い石造りの床に跳ね返った光が部屋の中まで明るく照らしている。この国において、一番日の光の強い季節。渡る風さえ、熱気を帯びている。
 それは今から始まる、国を欺く相談事の予兆のようであった。
「例え王のお手のついていない側室でも、一旦後宮に上がったなら、その者は二度と屋敷に帰るわけにはいかないそうです」
 淡々とセレナが告げる。イオラの頬からほんの少し、色が抜けたように見えた。セレナの瞳から自分の指先へと視線を落とす。
「ですが……」
 セレナの口から紡がれた、覆す言葉。イオラの視線が再び王妃の瞳に向けられた。
「それは生きている者のこと。骸であれば……または骸同然であれば、この後宮から出ることはできます」
「骸同然……?」
 すぐには飲み込めない様子で、イオラは聞いたばかりの王妃の言葉を反芻する。
「あなたはここを出たいのですね。そして好きな人の待つ隣国に逃れたいと……本心からそう思っているのですね?」
 真っ直ぐに向けられる王妃の瞳。その暖かい栗色がイオラの心に染みて行く。言葉もなく、イオラはゆっくり頷いた。
「そのためには少しばかりの……いえ、偽りは止しましょう。死に至るほどの苦痛が伴うそうです。それでもいいのですね?」
 重ねて王妃が問う。二人の間に少しの静寂が訪れた。
 ――死に至るほどの苦痛――
 身体に与えられる苦痛は一時のもの。だがこの機を逃せば、一生をこの後宮で心に傷を負ったまま暮らさなければならないのだ。
 再び頷くイオラの黒橡色の瞳には、確固たる意志の光が煌いていた。


「少し頭が痛いの。薬師様を呼んで下さい」
 手筈通りイオラが薬師であるハウラを自室に呼んだのは、その日の夜であった。国王アレクや王妃セレナとも内密の話ができていたハウラは、いつものように薬の入った革袋を下げ、側室の自室に召された。
「あなた達はもういいわ。こんな夜中に起こしてごめんなさいね」
 イオラは言葉少なに女官達を労うと、暗に人払いをする。薬師様がいらしたのだからもう自分達にできる仕事はない、と女官達も素直に次の間に控えた。
 最後の女官が次の間に入って扉を閉めたのを確認すると、ハウラは携えていた革袋からおもむろに小さな布袋を取り出した。
「いいですか? この薬を懐に忍ばせ、折を見て女官の目の前で飲むのです。自ら毒を飲んで自害したと……証人を作るのです」
 ハウラの掌の上で怪しげな香りを漂わせる布袋。その中には、先ほど乳鉢で擦って作ったばかりの薬が入れられていた。
「これはジェイドの秘薬中の秘薬。わが家にしか伝わらない、一子相伝(いっしそうでん)の秘薬です」
 いつもは柔和なハウラの顔が、銀の燭台に灯された蝋燭の小さな灯りに照らされて妖しく揺らめく。
「少量飲めば、心を高揚させ、痛みを取る働きがあります。でも一時に多量に飲めば、人は死んでしまう。そして……これだけの量。ちょうどこれだけの量を飲めば、生きながらにして死に行く過程を再現できるのです。効き目はすぐに顕れます。焼けるような痛みと息苦しさを覚え、飲んだ本人も本当に死んでしまうかのように錯覚します。……あなたにその勇気がありますか?」
 後宮付きの女薬師は、側室の顔を覗き込み、決意を試すかのように問いかけた。
 じっと薬師の手に乗せられた布袋を見つめるイオラ。黒橡色の瞳には少々の怯えと、しかし決して揺るぎない決意が表れていた。
「は……い」
 カラカラになった喉の奥から、それでもやっとイオラは声を絞り出した。
 この機会を逃せば決して後宮より出ることは叶わないであろう。一生をここで王の寵も受けられず、女として朽ちていくのは耐えられない事……。
 イオラはハウラの瞳を見返すと、しっかりした意志を持って頷いた。


 謀はゆっくりと、確実に進んで行く。
 薬はイオラの手に渡った。
 そして……あとはそれを行うのみ。


 いつもと変わりない朝。小鳥は木々の枝にさえずり、朝の光にきらめく風はまだ熱を帯びてはおらずに心地良い涼を運ぶ。セレナは風の行方を目で追った。
 昨夜は王のお渡りがあった。謀を抱えた昂ぶりからか、昨夜はあまり休むことができなかった。閨で朝を迎えた二人は、一晩中肌を重ねることもなく、ただ側室の身を案じていた。
「イオラは……ためらうでしょうか」
 セレナは寝台から身を起こした。夜具の端をその華奢な白い手の中に握り締める。アレクも肘をついて半身を起こした。
「苦痛を伴う薬だと聞いた。恐ろしくて当然であろう」
 灰色の瞳に真摯な色を纏い、アレクは静かに呟いた。
 己の心を救わんがためだけに、イオラの進むべき道を誤らせてしまった。それがどんなに残酷なことか、全てに冷徹であった時には計り知ることができなかった。
 だが、今となっては……。
 少しでもジェイドの秘薬によってもたらされる苦痛が少ないものであるように、と願うばかりであった。
「私ならどうするでしょう」
 セレナは白くなるほど握り締めた拳に視線を落とす。
 死に至るほどの苦痛。この閨において、侵入者が斬られ、のたうち回るのを見た。あの苦しみを見てからは、安易に『死』を考えられなくなっていた。
 妃の白く握られた手をアレクの大きな手が包み込んだ。
「案ずるな。大丈夫だ。大丈夫だから」
 それは自分にも言い聞かせる言葉なのだろう。アレクの太い弦を爪弾くような低い声は、心なし震えているように感じられた。


 その日は少し加減が悪いと言って、アレクはしばらくの時を後宮の王妃の部屋で過ごした。何かあった時、真っ先に対処できるように。
 だが、昼を過ぎても、後宮はいつもの静かな様相を崩さなかった。いつものように昼のお茶の時間が終わり、いつものように出入りの商人に用のある女官達が『正殿の宮』に出向き……。
 ただでさえ静かな後宮内。今日は一段と人の気配が少なくなり、空気さえもがその場を動くことをためらっているように思える。そのように感じるのは、謀を抱えている後ろめたさと緊張からであろうか。
「やはり怖いのでしょう」
 セレナが重い口を開いた。向かい合う王は、卓に施された彫刻を見つめたまま、身じろぎもしない。
「今日はもう『思政の宮』に渡られた方が良いかも知れません。また明日、おいでなされませ」
 あたかも美しい彫像のように動かぬアレクに向かって、セレナは優しく微笑みかけた。
「そうご自分をお責めにならないで。イオラは自分の意志でこちらに参ったと申しておりました。運命や、まして人の意思に流されたわけではないと。世継ぎの母となれるかも知れないという野望が、心のどこかに有ったのかも知れないと……そうも申しておりました」
「そうであっても……!」
 アレクはその美しい顔を歪ませ、縋るように妃の華奢な手を握った。
「わたしが側室など迎えようと思わなければ、このような事にはならなかったのだ」
 国王がこのような弱い姿を見せたのはいつ以来か。そう……あの大怪我を負って城に帰還したあの日。家臣の前では居丈高だった国王が、ふとセレナに見せた弱い心。
 セレナの心の中に、守られるだけの愛とは違う、別の感情が満ちて来た。
「大丈夫。イオラは強い人です。力では男の方には敵いませんが、女は……愛する人のためならこの上なく強くもなれるのですよ」
 セレナは握られた手を優しくほどき、その手でアレクの肩を抱いた。自責の念に囚われた灰色の瞳。それを覆う震える睫毛に口付けを落とし、そのまま形の良い唇に自らの口唇を触れた。
 王の腕がセレナの背中に回され、しっかりと抱き留める。窓辺に置かれた小さな卓を挟んで、二人は長い口付けを交わした。


 にわかに廊下が騒がしくなった。駆ける足音。人の怒号。これは国王崩御の知らせが届いた時と同じ空気。
 触れていた唇を離し、二人は抱き合ったまま見つめ合う。
 ――イオラが薬を飲んだのだ――
 何も言わずとも、セレナとアレクはお互いの瞳の内にその喧騒の意味を見出した。
「大変です。側室のイオラ様が……自害なさいました」
 慌しく王妃の自室の扉を開け、誰何の声も待たずに女官が叫ぶ。次の間に控えていた王妃付きの女官も、人数は少ないながらも慌てて駆けつけるのだろう。バタバタと足音が遠ざかっていく。
 少しでも手当てをされるのが遅れるよう、人の少ない時を狙ってイオラは薬を飲んだのだ。
「行こう」
 短く言うと、アレクはセレナの手をとって走り出した。後宮の一番奥にしつらえられたセレナの自室からイオラの自室へは少し距離がある。息が苦しい。胸がつぶれそうに痛む。それでもセレナは懸命にアレクについて走った。
 イオラの部屋の前には、人の少ない時間だというのに既に人だかりができていた。側室付きの女官でなければこの部屋に許可もなしに入ることはできない。アレク達が見ている内にも、経緯を知ろうとする侍官や他の女官達がわらわらと集まって来る。
「何が有ったのだ」
 努めて冷静に言い、アレクは周りの者を一瞥した。人垣はさっと両に割れて、入口の扉に続く道を作る。王と王妃はその間をゆっくりと進んだ。
 中に入ると、既に薬師のハウラが呼ばれていた。寝台に寝かされたイオラの脈を取り、固く閉じられた瞼を起こす。口許に鼻を寄せ、残り香をきいた。
「毒を飲まれましたな」
 周りの者に聞こえるようにゆっくり、大きな声で告げる。扉の中に進んだ王と王妃の姿を認めると、他の者に判らぬよう、小さく頷いた。
「既に事切れておいでです」
 薬師のおごそかな声。起こした瞼は元に戻され、脈をみるために握っていた手首も胸の前で重ねられた。
「イオラ様ぁ!」
 『正殿の宮』に使いに行っていたのであろう。小柄な女官が再び閉じられた人垣を掻き分けるようにして部屋の中に入ると、寝台に駆け寄って泣きながら動かぬイオラに取り縋った。
 ――これは謀だ――
 判っていても、心の動揺は抑えられない。セレナはその栗色の瞳から暖かい物が頬を伝うのを感じた。アレクの手がセレナの肩に置かれる。そうして王と王妃は、長い間そこに立ち尽くしていた。


 イオラの身体はまる一日、神殿の地下室に安置された。カーネリアで最も暑いこの時期でも、重厚な石造りのそこだけはいつも冷気が漂っている。死者の魂の嘆き故か。
 防腐の香が立ち込める中、棺に横たわる彼女の体は冷たくて、本当に死んでしまったように見えた。黒橡色の瞳がきらきらと輝くことも無く、その唇が艶のある声を紡ぐことも無い。
 イオラの死は自害として認められた。前日の夜に薬師が呼ばれていたのは、頭痛の薬をもらうため。少量なら痛みを取る毒薬を、何度も足を運んでもらうのは大変だからと言って多量に欲しがったのはイオラだと証言された。
 また、女官のいる前で自らその薬を多量に飲み、その前に王の寵を受けられない自分を嘆く言葉を口にしていたことも、彼女が自害したことの証とされた。
 神殿の地下室には王と王妃だけが付き添った。側室であるという理由から、侍官や女官が大勢付き添う正式な喪ではなく、王と王妃だけの略喪であった。
「こうしていると、本当に生きているのか……判りませんね」
 棺の傍らに立ち、セレナはイオラの血の気の失せた顔に視線を落とした。
「薬の効き目はちょうど二日目に切れるとハウラが言った。イオラの棺は明日、神山の洞にある墓地に安置される。そなたは……まだカーネリア国王族の墓地には行ったことが無いのだったな」
 アレクはセレナの後に立ち、イオラの棺に目をやった。側室で、しかも王の寵を受けていないという事で、簡素な彫刻の棺しか与えられなかった。だがその中で横たわるイオラは、丹念に死に化粧を施され、とても美しかった。
 ――違った出会い方をしていたら、この者を愛することができただろうか――
 セレナの神々しい美しさとは違う、艶やかな美しさを湛える顔を見下ろし、アレクは自らに問い掛けた。
 そんな王の胸中を知ってか知らずか、セレナがふとアレクを振り返る。
「何を考えておいでです?」
 薄暗がりの中で揺れるその栗色の瞳を見て、アレクはふっと唇の端を引き上げた。
 ――わたしはセレナだから愛したのだ。セレナ以外の者など必要ない――
 側室への想いは、ただの憐憫(れんびん)の情だ。セレナこそが、この頑なであった我が心を溶かすことができたのだ。
 ――身勝手だという事は充分承知している――
 壁の燭台に灯された蝋燭の灯りが地下室の冷たい空気を揺らす。夜が明けたなら、神山に棺を運ぶのだ。少数の供だけを連れて……。
 ここからは自分達がしっかりせねばならない。皆の目を欺き、そしてイオラに新しい生を与えるために。
 ――他の者を不幸にしてもこの愛だけは手放さぬ――
 己の内に湧き上がった感情に自嘲の息をつき、アレクは後から妃の肩を抱いた。その肩に顎を乗せ、耳元で囁く。
「悲しいほど、わたしはそなたを愛している」
 回された腕に自らの手を添え、セレナは言葉も無くただ頷いた。