> 氷の楼閣 INDEX  > 氷の楼閣
 

氷の楼閣


〜神山〜


 夜の闇は日の光に追いやられ、(はかりごと)を成就させるための長い一日が始まる。
 朝の清々しい空気の中で、装飾を控えた馬車が城の裏門につけられた。見送る者も少なく、ひっそりと棺が運び出される。今からこの馬車が向かう先は、城から随分離れたところにある『神の聖域』といわれる山だ。
 神山にはカーネリア国王族の墓がある。それはちょうど自然に穿たれた洞の中に作られていた。普段は王族しか入ることの許されぬ神山。だが埋葬の時だけは、重い棺を運ぶため、従者二人に限って同行しても良いことになっている。
 棺が載せられた馬車の後に、王と王妃の乗る馬車が続く。たった二台の地味な馬車は、一振りの鞭の音を合図に滑るように動き出した。
 セレナの華奢な身体は、馬車の車輪が拾う小さな揺れにも翻弄される。隣に座るアレクは、そんな妃の背にそっと腕を回した。
「イオラは本当に目覚めるのでしょうか」
 アレクの肩に頭を預け、セレナは小さく呟いた。薬によって死んだように見せ掛けているだけだとわかってはいても、目に焼きついたイオラの身体は魂の在処のようには見えなかった。
「わたしもあの薬を使ったのを見たことは無い。だが、ハウラが『大丈夫』だと言うのだ。今はその言葉を信じるしかあるまい」
 妃の背に回した腕に力を込め、彼女の身体を引き寄せる。華奢な身体から伝わって来る温もりが、ともすれば不安に惑わされそうになるアレクの心をどうにか落ち着かせていた。
「神山にはあと少しで着く。埋葬にかかる時間を考えても……あの者が目覚めるのは、みなが帰路に着く、ちょうどその頃であろうな」
 埋葬の途中で目覚めることがあってはならない。薬はちょうど埋葬し終えた直後に効き目が切れる位の量が渡された筈だ。従者の目を盗んで棺から出た後は、茂みにでも隠れさせておけばよい。
 だが薬が切れるのが遅れ、棺の中で眠ったまま神山の洞が閉じられてしまっては、目覚めたイオラがいくら力を振り絞ろうと墓の扉を開ける手立てはない。扉は外側から、しかも二人の人間がいなければ開かない仕組みになっているのだ。何とかちょうどよい時間に目覚めの時が来なければならないのだが……。
 数分の誤差。そればかりは、いかな優秀な薬師のハウラであっても調節する術はなかった。


 道は次第に険しくなり、馬の歩みも遅くなる。王族しか入ることの許されぬ神山は、うっそうと茂った木々が影をつくり、馬車が通る道さえも雑草に覆われていた。道の両側は崖のように切り立っていて、谷側の崖は背の低い木々や雑草が生い茂っているものの、見下ろせば足がすくむようだ。自然と馬車は山側の崖に沿うようにして進んでいった。
「ここから落ちたなら、命は無いでしょうね」
 馬車の窓から外の様子を窺っていたセレナがアレクを振り返った。
「そうであろうな。王族しか入ってはならぬ場所ゆえ、滅多に人が入れぬようにしてあるのだ」
 馬車の座面の上に片膝を立て、その上に肘をついてアレクが答える。もう片方の手は妃の背に伸ばされ、ゆるゆるとうねって輝く栗色の巻き毛をその細く長い指に絡め取っていた。
 木々の陰になっているせいか、日の光もあまり強くなく、かえって肌寒く感じる。セレナはブルッと身震いすると、そっと窓から離れた。
 再びアレクの腕の中に納まったセレナは、これから行くカーネリア王族の墓に思いを馳せた。祖国トルメインの墓とは随分違うのだろう。トルメインの墓は城のすぐ側にあり、いつでも個々の墓碑を見ることができた。死後もなお、生きている者のすぐ傍らにいられるように。空気となり、水に溶け、死者はいつでも生者と共にあるのだ。
 だがカーネリアの墓は城から随分離れた神山にある。カーネリアの教えでは、王族は死後、この国を護る神の一部となると信じられている。だからこそ、王族以外の者がその墓に近づく事を禁じているのだ。ましてや、その墓を暴かれる事があってはならぬ。そんな事のないよう、洞の扉の開け方は国王にしか伝えられない。


 道はますます険しくなる。セレナの手が胸元に当てられた。
「どうした? 具合でも悪くなったか?」
 アレクが心配そうに覗き込む。セレナの顔色はあまり良くない。山道の傾斜で身体が斜めになっている上に、車輪が拾う揺れもかなりのものになっている。華奢なセレナの気分が悪くなったとしても無理もない。
「ええ、少し。洞まではどの位でしょうか。そんなに遠くないのなら、今しばらく我慢できますが」
 胸に当てた手はそのままに、セレナはアレクを仰ぎ見た。栗色の瞳は少しばかり潤んでいるようにも見える。
「そうであるな……。ああ、この木が目印だ。これが見えればあとはほんの一時のこと。……本当に我慢できるのか?」
 アレクは開けられたままの窓の外を見やり、そこに目印となる大きく曲がった木を見つけて言った。
「はい。あとわずかの間ならば……。外の冷たい空気が、かえって気分を引き立たせましょう」
 セレナは『大事ありません』という笑顔をアレクに向けると、再び窓側の壁に寄り添った。暑い季節のことゆえ、セレナの纏う衣装は肌の露出の多いもので、使われている布も薄絹であった。城にいる間はそれでも暑い位だったのだが、これだけ山を登って来ると、さすがに辺りも涼しくなってくる。
 窓から入る風に煽られて、胸の上で金緑石がころりと転がった。その石の冷たさに、セレナは思わず己の身体を抱くようにする。不意に肩口に布が掛けられた。
「……?」
 振り返ると、アレクが自らの上衣を脱ぎ、セレナに着せ掛けている。上衣を脱いでしまうと、アレクも随分と軽装だった。
「いけません。王がお身体を壊されます」
 慌てて肩から衣を外し、セレナはそれを返そうとする。
「良いのだ。この寒さではそなたが身体を壊してしまう。わたしはここには何度も参っている。それだけ身体も慣れておろう」
 灰色の双眸を細めると、再び彼は妃に衣を掛けてやった。今度ばかりは、セレナも素直にされるがままになっている。衣を掛け終えると、アレクは妃の髪を丹念にその中から引き出した。柔らかな栗色の巻き毛。強く扱えば儚く切れてしまう、細い絹の糸のようだ。全部の髪を出し終え、彼はその一房をすくって口付けた。
「王……」
 恥らうように目を伏せ、セレナが頬を染める。アレクはその一房の髪をいつまでも手の中から解放しようとしなかった。
「そなたに触れているとわたしも心が休まる。しばらくの間、このままでいさせてくれ」
 王の灰色の瞳がセレナの瞳を捉える。その視線を外さぬまま、再び彼は妃の髪に口付けた。


 馬の歩みが次第に緩くなり、そして止まった。
「着いたようだな」
 王の言葉が終わらぬ内に、馬車の扉が静かに開けられた。従者が足元に、降りるための台を置く。アレクが先に降り、妃の手を取った。セレナの衣装が風をはらんでふわりと舞った。
「そなたはいつも羽根のように舞い降りるのだな」
 手を取ったまま、アレクはセレナを覗き込んだ。
「気分はどうだ?」
「揺れが止まったので治まりました」
「そうか。ならばあそこを見るがよい」
 アレクの指差した先には、自然に穿たれた洞の入口があった。大人の男が立って入ってもまだ余りある程の高さで、広さも5人程が一時に並んで入れる程であった。入口から少しばかり奥まった所に積石の壁が造られていて、その真中に石造りの扉がある。壁や扉のどこにも手をかける所が無く、どのようにして開けるのか、一見しては判らなかった。
「そなた達はあちらの洞の中に控えておれ」
 威厳のあるよく響く低い声で、アレクは従者二人を下がらせた。ここから先、扉を開ける所は誰にも見られてはならぬ。これはカーネリアの掟であった。
 従者達は言われた通り、入口より数十歩先のもう一つの洞の中に入った。こちらの洞は墓のある洞よりも少し狭く、だが大人の男が二人控えても充分な広さがあった。
 アレクは従者が洞の中に消えたのを確かめると、扉のまわりの積石を手で探り始める。その細く長い指先が何の変哲も無い石の上に触れた時、アレクはセレナを手招きした。
「わたしが合図をしたら、そなたはここの石を強く押すのだ」
 アレクは小さな声でセレナに指示をした。セレナは指された石の位置を確かめ、遠ざかるアレクの背を見送った。
 アレクは再び、セレナの位置から扉を挟んでちょうど反対側の積石を手で探り始めた。そして先程と同じように、ひとつの石を探り当てると、その上で手を止める。
「よいか? ……さあ、押すのだ!」
 同時に石を強く押す。先程までは何の変哲も無かった石が周りにあるいくつかの石と共にズズッと壁の中に沈み、代わりに十個程の石が次々とせり出して来た。
『ズズズ……』
 全ての石が動きを止めると、重く湿った音と共に洞の扉が向こう側に向かって開き始める。組石の技術に長けたカーネリア国ならではの細工だった。
「もう良いぞ」
 アレクは再び、よく通る声で従者達にこちらに来るように指示をした。


 久しぶりに外界と通じた墓は、入口から吹き込む風にその内部の空気の色を新しく塗り替えられていく。
 従者が捧げ持つ、手燭の灯り。その揺れる光に照らされて、墓の内部が浮かび上がった。整然と並ぶ、たくさんの棺。防腐の薬が塗られた木造りの棺は、何年経っても腐ることは無いのだろう。どれもしっかりと原型を保っている。
「奥から順に安置するのだよ。手前にあるもの程、新しい棺なのだ。一番手前にあるのは父王の棺。その一つ向こうが兄皇子の棺。そしてその向こうが母の棺……」
 アレクは妃の背後からその肩に手を置き、耳元に唇を寄せて言った。どの棺も美しい象嵌が施され、カーネリア王室の威厳をたたえている。
 従者達は一旦手燭を墓の床に置くと、イオラの棺を運ぶために馬車に戻った。程なく二人がかりで棺を運び込み、石造りの台の上に据える。重い棺をたった二人で運べるよう、埋葬に携わる従者は屈強な者が選ばれていた。
 そうしてイオラの棺を安置し終えると、従者達は何も言わず小さく頭を垂れて墓の中から出て行った。
 蝋燭の灯りに浮かび上がるいくつもの棺。歴代の王族の豪華な棺の中にあって、イオラのそれは簡素で哀しかった。


 アレクは棺の蓋を開けた。中に眠るイオラが目覚める気配は無い。
「まだ……目覚めませんか?」
 傍らに寄り添うセレナも心配そうに棺の中を覗き込んだ。
「そろそろ薬の効き目も切れる頃合なのだが……」
 死んだように眠るイオラの顔を見下ろし、アレクは深く息を吐いた。
 埋葬の手順はおおかた終わった。あとは洞の扉を閉じて帰途につくだけである。扉を閉じる前に目覚めてくれれば良かったのだが……。
「やむを得ぬ。埋葬が終わったのに、いつまでもこうしているわけにも行かぬし……な」
 アレクは再び棺の蓋を閉じた。木の蓋は重い音を立ててイオラの顔を隠す。
「このまま帰ってしまうおつもりですか?」
 驚いたセレナが王の顔を見上げた。思わず彼の腕に取り縋る。妃の細く華奢な指をほどきながら、アレクはふと微笑んだ。
「イオラを見捨てたりはせぬ。だが従者の手前、いつまでもぐずぐずしているわけには行くまい? 一旦城に帰り、その後馬で駆けてくれば良い。しばらくあの者を待たせる事になるが……そなた、馬に乗ったことはあるか?」
「私は一人では乗れないのです」
 祖国トルメインでは、いつも誰かに乗せてもらっていた。それさえも数える程である。カーネリアに嫁いで来てからは、一度たりとも馬の背に揺られた事など無かった。
「ならばわたしが乗せてやろう。そなたはわたしに掴まっていれば良い」
 妃の手を取って促すと、アレクは手燭を床から拾い上げた。  洞の外に出ると、先ほどまでの日の光は嘘のように、細かい雨が降っていた。留めてあった馬車は王と王妃が乗ってきたものだけが残され、棺を運んで来た馬車は先に帰っていた。王族でないならば、用の済んだ者はすみやかに神山から出なければならない。それがカーネリアの掟であった。
「いっそう冷えて来たな。大事ないか?」
 馬車に乗り込むと、アレクは妃の身体を気遣った。湿気を含んで頬に張り付いた髪を手で梳いてやる。
「ええ。王にお借りした衣がありますもの」
 セレナが微笑み返すのと同時に、従者の鞭が一振り、軽い音を立てた。


『カッカッカッ……』
 馬の蹄が立てる、小気味良い音。規則正しく響くその音は、セレナの眠気を誘った。次第に重くなっていく瞼を何とか開けようとする。行きはそれどころではなかった。だが人の緊張とは、そんなに長続きするものではない。今はまだ時間の猶予があると思うだけで、張り詰めた糸が切れてしまったようだ。知らず瞼が重なり、頭がガクッと揺れる。
「今しばらくは何もできぬ。今の内に眠っておいた方がよかろう」
 アレクは妃の髪を優しく撫でると、彼女の頭を自分の肩に引き寄せた。
 セレナの息は次第に規則正しい寝息へと変わる。アレクは再び彼女の髪をそっと撫でた。
「もう少し馬を速めてくれ」
 セレナの寝息を確かめると、アレクは馬車の前で馬を操っている従者に向かって言った。イオラはもう目覚めたかも知れない。一旦城に帰った後、また馬を飛ばして来ても、相当な時間がかかる。閉じられた暗闇の中で他の棺に眠る本物の死者達と共にいる時間は、少しでも短い方が良い。
「はい」
 短く答えた従者が、馬の尻に鞭をくれようとしたその時。
 馬のいななく声と共に、従者の目の前を黒い影がサッと横切った。馬達はその影に驚き、それぞれ違う方向に走り出そうとする。はずみで馬車が不規則に揺れた。
 セレナも眠りの底から揺り起こされ、何事がおきたのか、と不安そうな眼差しを彷徨わせる。
「どうした!」
 アレクは前方の窓を開き、従者に問うた。
「何かが……黒いものがこちらに襲い掛かって来ました」
 従者は雨の中で暴れる馬をなだめるのに忙しく、黒い影の正体を見極めるどころではない。ともすれば崖下に転落してしまう危険もある。
 アレクは窓から身を乗り出し、影を探す。と、再び目の前を大きな黒い影が目にも留まらぬ速さで横切った。アレクは影の行方を追う。馬を威嚇したそれは、ふわりと空を上って行き、大きな鳥の姿になった。
「この雨の中でも飛べるとは……随分強靭な翼を持った鳥であるな」
 おそらく、この道沿いのどこかで営巣中であったのだろう。二羽の大きな鳥が交互に馬車を威嚇しに降りてきた。馬はすっかり怯えきってしまい、真っ直ぐに走ることができない。
 見上げるアレクの目に、大きな鳥が真っ直ぐに突っ込んで来るのが見えた。ひときわ大きな馬のいななきと共に、バサッと何かが当たる音がする。威嚇だけではなく、今度は馬を直接攻撃したようだ。途端に馬車はあらぬ方向に走り出す。
「危ないっ!」
 従者の悲痛な叫び声と共に、車内の二人を大きな衝撃が襲う。馬の哀しげないななきが聞こえ、続いて転がり落ちる感覚。
 ――崖を踏み外したのか――
 二転三転とする馬車の中でセレナの身体を庇いながら、アレクは頭の中の冷静な部分でそう判断した。
何度目かの衝撃の後、馬車の壁に頭を打ち付け……アレクの視界は暗転した。