〜暁〜
柔らかい感触が頬に当たる。頭が……重い。身体が動かぬ。
「王。……王?」
愛しい声。水底から引き上げられるようにしてアレクの意識は浮上した。うっすらと開いた目の前に映る影が、次第に人の形をとる。間近にセレナの心配気な顔があった。
「セレナ……つっ」
その瞳に手を伸ばそうとして、したたかに打ち付けた頭がズキン、と痛んだ。
「痛みますか、王。ああ、私など庇ったりなさるから……」
セレナはその胸に、ひし、とアレクの頭を掻き抱く。彼の頬に当たっていた柔らかな感触は、思いのほか豊かなセレナの胸のふくらみであった。
「わたしの事は良い。そなたは大事ないか? そなたに万が一の事があらば、わたしは……」
「王が庇って下さったおかげで、私は腕を軽く打ったに過ぎません」
アレクの言葉は、みなまで言わずにセレナの微笑みに打ち消された。その神々しい美貌を見、アレクはほっと息をつく。
「そなたの身の軽さが幸いしたようだな。わたしは……どうやら頭を打ったらしい」
あれだけの転落事故にあっても、王の傷は頭に負った打ち傷のみであった。質素に仕立てられていても、王族の乗る馬車である。造りも丈夫であったし、内部の壁には柔らかな布が一面に張られ、それがアレクの傷を軽減したようだ。剣や武術の修行で得た俊敏な身のこなしも、彼にとっては幸いであった。
「どの辺りまで落ちたのであろうか」
転落の際にはずみで閉じてしまった窓を開け、辺りを見回す。馬車は道より下、大人の身の丈にして二十名ほどが縦に並んだくらいのところで、太い木の幹に行く手を阻まれる格好で留まっていた。
従者は、と周りに目を配る。御者台にその姿はない。だが、ひしゃげた御者台にべっとりと付いた血痕が、従者の身が深く傷ついた事を物語っていた。アレクの形の良い眉がひそめられる。
視線を移し、馬達を窺う。こちらは馬車に繋がれたまま、既に息をしている様子はない。首があらぬ方向に捻じ曲がっている。頑丈に護られた箱のような馬車の中と違って、あの衝撃の中で外にいた馬達は、その命を奪われてしまったのだ。
不意に、ぎし、と馬車が傾いた。
「危ないな。まずはここを出なければ」
アレクは斜めになった扉を開け、馬車を留めている木の幹に足をかけた。そのままスルリと身を翻して枝を片手で掴むと、馬車の中の妃に向かってもう一方の手を伸ばした。
「セレナ! こちらに手を!」
妃の瞳が不安に揺れる。その心細げな視線を正面から、しか、と受け止めると、アレクは口の端を笑みの形に引き上げた。
「案ずるな。そなたは必ず守り通す。わたしに全て委ねれば良い」
灰色の瞳が真っ直ぐにセレナの栗色の瞳を捉える。緑がかった茶色の髪が風に煽られてふわり、と舞った。
セレナは射止められた小鳥のようにアレクの視線に釘付けになった。
この灰色の瞳を憎み、愛し、失うことに怯え、そしてやっと全て一点の曇りも無く我が物にできるというこの刹那。ここで命を落とすわけにはいかない。
セレナの手がゆっくり伸ばされ……そして力強く、差し出された手を握り返した。
馬車から這い出ると、二人は馬車を留めている太い木の幹に身体を預けた。
「ここから上にのぼらねばならぬ。わたしが先に行ってそなたを引き上げる。よいな、決して案ずるでないぞ」
アレクの言葉に頷くセレナ。ふと視線が流れ、馬車の下に赤い染みを見つけた。
「王、あれは……」
不自然な薄さの人の腕。馬車の下から伸ばされたそれは指先へと続き、赤く染まって空を掴むかのように緩く曲げられていた。
「既に生きてはいまい」
短く吐き出されたアレクの言葉は、心なし沈んでいた。
「行くぞ」
ぐずぐずしている暇はない。いつ馬車が均衡を崩し、落下するかも知れない。そうなれば二人が身体を預けるこの木でさえも、どうなるか判らないのだ。
雨にぬれ、滑りやすくなった斜面の中に足がかりを見つけ、アレクが自らの身体を上に押し上げる。後に続くセレナは、彼の腕に助けられてその華奢な身体を上へ上へと導いた。長い衣装の裾が足に絡んで動きにくい。折からの雨を吸ってずっしりと重くなった衣装は、ただでさえ激しく身体を動かしたことのないセレナの自由を容易く奪った。このままでは、いつか王を巻き添えに滑り落ちてしまうかも知れない。
「王、お待ち下さい」
やおら、セレナは自らの衣装の裾に両の手を掛けると、そのまま勢い良く左右に腕を広げた。
『ビイッ』
細く高い音がして、上質の絹織物で仕立てられた衣装の裾は真っ二つに裂けた。セレナのすんなり伸びた脚が太腿の辺りまで露になる。
「私は王と共に生きたいと思っております。ここで死ぬわけには参りません」
護られるだけの妃ではないのだと。自ら望んでアレクと共に生きるのだとセレナは微笑んだ。
「よい心がけだ。それでこそ一国の妃」
アレクも栗色の瞳を見つめたまま、ふと微笑む。
「最初の閨の儀式の折も……王はそのように仰せられました」
「そうであったな。あの折は『一国の姫君』……と。そなた、身体は差し出しても心まではやれぬと……そう申したのであったな」
互いの瞳の中に映る己の姿を見出し、二人は硬く唇を引き結んだ。互いの心を欲しながら、必ずや生きる、と。
雨はまだ降り続く。動き易くなった脚を懸命に運び、セレナはアレクに導かれるように斜面をのぼって行った。
果てなく長い道のりに思えた。重い身体を崖上に引き上げ、二人は荒い息をついた。それを待っていたかのように足元で重い音がする。見下ろせば先ほどまで拠り所としていた馬車が均衡を崩して、今まさに更なる崖下に落ちようとしているところだった。繋がれたままの馬の亡骸を道連れに……。
「わたしの我儘が、まわりの命を傷つけたのだな」
濡れそぼった袖の中で固く拳を握るアレク。そんな王の背を、土に汚れてもなお美しいセレナの華奢な手が撫でた。
「王だけの咎ではありません。私と王の二人が共に背負うべき咎なのです」
王の背でゆっくりと動かされるセレナの手もまた震えていた。
「失った命は還りません。ですが、私達はまだ助けられる命を持っています。……イオラは目覚めたでしょうか」
唐突にセレナは王の袖を引いた。あれからしばらく時が経っている。誤差の範疇であっても、既に目覚めていても良い頃だと思われた。
「行くぞ」
歩けば時のかかる距離ではある。だが王と王妃の二人はためらう事無く洞に向かった。
はやる胸を抑え、目当ての石を探し当てる。石組みの仕掛けを解き、洞の扉を開けた。扉が開く際の重く湿った音に混じって、中から女のすすり泣く声が聞こえた。
「イオラ!」
手燭も無い薄闇の中、二人は真新しい棺に駆け寄り、その蓋を開けた。
「怖かった……とても怖かったのです……」
必死の様相でセレナの華奢な身体にしがみ付くイオラの顔は、涙に濡れていた。死者の眠る洞の暗闇の中に生きたまま閉じ込められていたのだ。並みの女では気が変になってしまうかも知れない。そんな中で泣きながらも自分をしっかり保っていたイオラは、心根のしっかりした者だと言えよう。
「大丈夫です。もう大丈夫。あなたは自由なのですよ」
――自由――
薄暗がりの中、目の前の王妃の瞳を濡れた黒橡色の瞳でじっと見返すイオラ。頭の中で反芻したその言葉は彼女の唇をつき動かした。
「自由……!」
途端にイオラの涙に濡れた艶やかな顔の上に一筋の光が零れる。
「ええ。あなたはもう自由なのです。よく耐えましたね」
セレナはアレクにしたように、イオラの背を優しく撫でる。横からアレクの腕が伸びて、イオラの身体を棺の中から抱え出した。一緒に葬られた白い花がハラハラと石の床に零れ落ちる。
「この神山から隣国との境はすぐ目と鼻の先だ。案内が無くともすぐに判るであろう。あちらの男には内密に書状を送ってある。今ごろ国境の辺りで、そなたを待っておろう」
イオラの髪に残る、萎れかかった白い花を払ってやりながら、アレクは言葉を切った。
「此度の事は、すまなかった。わたしの為にそなたを不幸にするところであったな。今更こんなことを言っても偽善にしかならぬが……幸せになってくれ」
ややあって、真摯な視線を向けながら、アレクは低い声でそう付け足した。
辺りは雨である。
「イオラはもう、国境の辺りでしょうか」
優しげな声。
「そうであろうな」
太い弦を爪弾くような低い声。
「愛しい方には会えたのでしょうか」
「そうであると良い……な」
墓のある洞の隣の洞の中。イオラの埋葬の際、従者達が一時控えた洞である。その中でアレクとセレナは二人、寄り添っていた。辺りは重く垂れこめた雨雲によって日の光が遮られ、薄暗い。いや、雨雲のせいだけではないのであろう。夕闇が迫っているのやも知れぬ。濡れて冷え切った身体を暖めるため、アレクは枯れた枝を拾い、懐に携えていた火起こしの道具で小さな炎を作った。
あれから国境へと赴くイオラの背を見送った。古い因縁を捨て、新しい希望に向かって彼女は自分の足で最初の一歩を刻んだ。
『違った出会い方をしていたら、王は私を……?』
謎かけにも似た艶めいた笑みを残し、鮮やかに衣装の裾を翻して。
イオラの最後の問いに、アレクは答えなかった。一時は自分の側室として後宮へ迎えた女をただ灰色の瞳で見つめ、優しげとも冷酷ともとれる笑みを口の端に浮かべただけであった。
それぞれに想う人がいる。我が心も身体も妃だけのものだと……妃以外の、何者をも欲してはおらぬのだと、その灰色の瞳は語っていた。
「国境へは、どの位なのでしょう」
薄闇に包まれ始めた中、炎に映し出されてセレナの白い腕が、ぼうっ、と浮かび上がる。きめの細かい胸元も、裂けた衣装の裾から覗くすんなりと伸びた脚も、全てがそれ自体、光を発しているようだ。
アレクの腕が伸びて、セレナの手を取った。
「歩いてもそれ程にはかからぬ。山道ではあるが、この神山との境には警護の者もおらぬゆえ、逃げるのは容易い事であろう」
指を絡め、どちらともなく唇を重ねる。長い口付けの後、アレクは妃の瞳を覗き込んだ。
「このまま……二人で逃げようか。国も王位も何にも煩わされる事のない土地へ」
軽口とも本気ともつかぬ、王の言葉。セレナは、たった今も灰色に揺れているのであろうアレクの瞳を見つめ返した。
「王と王妃が国を捨てて逃げるのですか?」
カーネリアの国を、祖国トルメイン程にはまだ愛せてはいない。だが、王が国を捨てて良いとは思えない。
「わたしが王として動けば誰かが傷つく。王とは……人を踏みつけにして、それでもなお何も無かったように生きていくものなのか。それならば国など関係ない場所で、人としてそなたと二人、生きていきたい」
再び、アレクの唇がセレナの唇に重ねられた。
「そなたは神々しい程に美しいな」
ふふ、とアレクが微笑む。その髪に指を梳き入れ、セレナは浅く息を吐いた。
「私も王を初めて見た時、美しい男神のようだと……そう思いました」
「男神と女神か。では一対の神として、二人で新しい人の世でも作るか」
セレナの賛辞を軽くいなし、身体の重みを彼女に預けたまま、ふとアレクは真顔になった。
「わたしは変われるか? そなたという寵妃を得て、家臣らの信頼に足る王になりたいと……そう願ってもよいのか」
アレクの問いにセレナはただ笑みを作って小さく頷く。
「一点の曇りもなく愛している」
アレクの腕がセレナをきつく抱き締めた。神の住まうという山の中、二人の気配だけが、降りしきる雨の音に溶け……山肌に染みて行った。
いつの間にか雨は上がり、空には星が瞬き出す。中空に掛かった月は辺りを照らし出し、木々はその影を地表に落とした。
「そなたと二人、城外でこれ程に長い間を過ごしたのは……初めてであったな」
上気した肌に乾きかけの衣装をしどけなく羽織っただけで、アレクは炎をつついた。
「二人で城を空けたのも初めてではありませんか」
セレナは胸元で衣装の前を合わせた。
夜風が立ち、慎ましやかな炎を揺らす。アレクは傍らのセレナに視線を移した。栗色の巻き毛がふわっとたなびき、そのまま夜に溶けていってしまいそうで……。急に不安を覚え、アレクは彼女をその胸に抱き留めた。
「セレナ、どこにも行くな。ずっとわたしの傍らに仕えよ」
腕の中のセレナは抗うこともなく、王の胸に頬を寄せた。
「どこにも参りません。私もあなたのお子を産みたいと……カーネリア国王室の血筋を残すためのお世継ぎなどではなく、あなたのお子を……」
もう迷わない。もう惑わされない。カーネリアの国に縛り付けられ、王室の中で無様にもがきながら、それでも……。
「それでもあなたのお子を産み、あなたと共に生きたいと……そう願っております」
王とは呼ばず『あなた』と。
運命の全てを受け入れたわけではないが、それでもアレクと共に歩んで行こうと。
セレナの心の琴線に、アレクの愛がぴったりと共鳴した瞬間であった。
遠くに小さな灯りが揺れる。帰りの遅い王と王妃を心配した家臣がよこした馬車の灯であろう。
「暁が近いのやも知れぬな」
アレクが、す、と立ち上がって衣装の土を払った。セレナに手を差し伸べ、自らの傍らに導く。
月は中空に。まだ暁など気配も見えない。だが……。
「ええ」
揺れながら次第に近づく灯を見つめ、セレナも頷いた。
カーネリア王国史には綴られる。
第二十七世アレクの御代。
妃セレナを迎え、三人の皇子と一人の皇女をもうけたと。
第一皇子が王位に就くまでの三十年間、国王アレクは冷徹ながら的確な政により、国民の信頼を得、その暮らしを守ったのだと。
側室イオラの事に王国史は触れていない。王は生涯一人の妃を愛し、慈しんだのだと王国史は伝える。