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氷の楼閣


〜玻璃〜


「皇女様、決して侮られてはなりませんよ」
 お付きの女官の何度目かの忠告。国境を越えカーネリア国に入ってから、この揺れる馬車の中で何度この言葉を聞いたことであろう。
 皇女様と呼ばれたのは、先日十歳の誕生日を迎えたばかりのトルメイン皇女セレナ。栗色の絹糸のような巻き毛と、髪の色と同じ栗色の瞳を持つ、美しい少女である。華奢な肢体はまだ成熟しきっておらず、だが時々ふとした拍子にどこか艶めいた表情を浮かべる。少女から女へ、微妙に変化していく……そんな年頃であった。
「ええ。わかっています」
 馬車の揺れに合わせて襲う眠気の中、上滑りな返事を返すと、セレナは隣に座る女官の目を盗んで小さなあくびを一つ、かみ殺した。


 近隣諸国の中では絶大な勢力を誇るカーネリア国。近隣諸国の王室では、皇子・皇女が十歳の誕生日を迎えると、数名の供を連れて一年間をカーネリア国で暮らす。それは『拝謁』の儀式と呼ばれ、早く言えば人質のようなものであった。
 トルメイン国の皇女セレナにも、先日『拝謁の儀式に臨め』との通達が第二十六世カーネリア国王の名においてよこされた。それを受けて数名の女官を従えて山を越え、荒地を越えて隣国であるカーネリアに入ったのである。
 まさかこの『拝謁』において、その後の彼女の一生を左右する出会いを得ようとは……。ただ運命の神のみが艶然と微笑み、静かにその行方を見守っていた。


「良かった。誰にも気づかれていない」
 カーネリア城内の端の方。『拝謁』のために滞在する皇子・皇女が居室として使う『禁断の宮』の庭に降り、注意深く辺りを窺うと、セレナはそっと庭に面した部屋の扉を閉めた。
「タンジアは行儀見習いに忙しくて遊んでくれないし、女官はうるさいし。サフィスも来れば良かったのに」
 ぷいっと頬を膨らませて、ひとりごちる。サフィスとはトルメイン国に残して来た、セレナの弟皇子の名である。
 カーネリア国について来た唯一歳の近い女官タンジアは、年長の女官から行儀見習いの教えを受けるのに忙しい。厳しい女官のもと覚えなければならない事が山積みで、セレナの相手をするどころではなさそうだ。
 唯一の遊び相手を奪われ暇を持て余したセレナは、庭に降りては木陰で休んだり、小動物を追いかけたりするのが楽しみとなっていた。『禁断の宮』の中であれば、『拝謁』中の皇子・皇女は自由に動き回ることができる。だがそれでさえも年長の女官に見つかれば『一国の皇女がはしたない』と言ってお小言をもらうのである。


 辺りには柔らかな日差しが溢れ、灰色の背に黒い模様の入った小鳥が数羽、池の水を飲みに降りて来ていた。
「おいで。ほら、こっちにいらっしゃいよ」
 セレナは小鳥に向かって手を差し出す。驚かさないようにそっと近づいた。
『パキ』
 探るように踏み出した足の下で何かが砕ける。儚く冴え渡った音に驚き、小鳥たちは一斉に飛び立った。
「あっ」
 セレナの耳に慌しい羽音だけを残して、それは小さな黒い点となって空に上り、やがて消えた。
「くっくっく……」
 不意に背後で人の気配。
「誰!」
 セレナは胸の帯の辺りに携えている懐剣の柄を握り、勢い良く振り向いた。
 目の前の木立の陰に、少年が一人、木の幹に身体を預けて笑っている。セレナと同じ位か、ひとつふたつ年上か。緑がかった茶色の髪がさらさらと風になびき、ぱら、と額にかかる前髪の下で、涼やかな灰色の瞳がセレナを真っ直ぐ見つめていた。腕組みした衣装の袖には金糸で刺繍が刺され、一見して育ちの良い少年と判る。カーネリア国重臣の子息あたりか。長い飾り布を肩に留めた辺りには、美しく磨かれた垂飾りの赤い石が日の光を映してきらきらと輝いていた。
「ぶ……無礼な! 何故そのように笑うのです」
 セレナは先ほどまでの少女らしい物言いを改め、一国の皇女として問うた。凛とした気配がセレナの身体にみなぎる。
 少年は臆する様子も無く、木の幹に預けていた体を起こすと、両手を上に軽く掲げながらセレナの間近まで歩み寄った。
「別に怪しい者ではない。そなたが呼んだあの鳥……あれは人には慣れぬ」
 そこで一旦言葉を切り、ふとセレナの足元に視線を移す。セレナもつられるようにして自らの足元に視線を落とした。
「ああ、ここにあったのか。……このようになってしまっては、もう使えまいな」
 少年が腰を折って拾い上げたもの。細く長い指先の上で虹色に輝いているのは、貝殻で作られた練香入れであった。だがそれは、セレナに踏まれ、真っ二つに割れてしまっていた。
「あ……ごめんなさい」
 先程の剣幕とは裏腹に、慌てた様子で謝るセレナ。それを手で軽く制しながら、少年はセレナに向き直った。
 間近で見る少年は、すらりと通った鼻梁に涼やかな目元、丁度よい薄さの唇……どれをとっても美しかった。セレナも美しい皇女だと言われている。セレナに似た弟のサフィスも美しい皇子だと……。
 だが、この少年の美しさは神がかっていた。異国の血なのだろうか。
「何を見ている?」
 またくすくすと笑いながら、少年はセレナに問うた。
「何も」
 じっと見つめてしまった自分を恥じ、セレナは視線を泳がせる。その先に先ほどの小鳥たちが、木の枝に舞い戻るのがちら、と映った。彼女の栗色の瞳が輝き、知らず頬が緩む。
「鳥は好きか?」
 セレナの視線の先を窺いながら、少年は言った。
「鳥のように自由に空を飛べたなら……人知れず国に帰り、また戻ることもできるでしょうに」
 セレナは憧れにも似た眼差しを空に向ける。優しく聡明な父王、笑みを絶やさない母、そしていつも一緒だった弟皇子。ここカーネリアでの暮らしに不自由を感じたことはないけれど、早く期限が過ぎて、トルメインに残してきた人々に会いたい、と思う気持ちが有るのも正直なところである。
「トルメイン国第一皇女、セレナ……」
 不意に、少年の口から自分の素性が語られた。セレナの背筋に緊張が走る。
「あなたは……?」
「名を名乗るわけにはいかない。そなたの好きな名で呼べばよい」
 高飛車な物言い。相手がトルメイン国の皇女であると知っても、少しも臆する気配はない。
「こちらへ……」
 少年は短く促すと、セレナの手をとって歩き出した。
 弟以外の少年に手をつかまれたのは初めてである。
「きゃ……」
 小さな悲鳴をあげ、セレナの頬が熱くなる。そんな彼女の様子を知ってか知らずか。少年は口の端を柔らかく引き上げただけで、彼女の手を離そうとはしなかった。


 少年に手を引かれ、『禁断の宮』の周囲をぐるりとまわった。セレナが降りた扉のちょうど反対側にあたる辺りまで来ると、茂みに囲まれるようにして小さな噴水があった。セレナもここまでは来たことがない。初めて見る場所であった。
 白い石造りの彫像から水が噴き出し、まわりの水面に小さな波紋を広げていく。日の光を受けてきらきらと輝く水粒は美しく磨かれた玻璃の珠のようであった。
「きれい……」
 夢見るように瞳を輝かせるセレナをちらりと見やり、少年は自分の目線が彼女と同じ高さになるまで腰を折った。耳元に唇を寄せ、そっと指差す。
「……あの枝の上。あの鳥ならば、運がよければそなたの相手になってくれよう」
 見れば、そう高くない木の枝に、白い小鳥が数羽、とまっている。少年の言葉を信じ、セレナはそっと足を運んだ。小鳥達を驚かさないよう、そっと、そっと。
 枝の下まで行き、す、と腕を伸ばす。するとその中の一羽が可愛らしく首をかしげる仕草をした後、彼女の手に降りて来た。
「見て! こんなに慣れている……」
 喜んだセレナが振り返った時、そこにはもはや少年の姿はなかった。


 あれは誰であったのか。子供心にも美しい少年だと思った。素性も明かさず、好きな名で呼べ、と。
「練香入れを割ってしまったのだった」
 虹色に光る貝殻で作られた、細かな細工の逸品。身に纏った衣装の上質さといい、さぞ名のある重臣の子息なのであろう。
 やおら、セレナは自分の衣装箱を開け、中から玻璃で作られた練香入れを取り出した。蝋燭の灯りを透かして、それは水粒のようにきらりと光る。
「また会えたなら、これを渡そう」
 セレナは、トルメインの石細工技術の粋を集めて薄く繊細に磨かれたそれを、両の手の中にそっと包み込んだ。


 次の日も、その次の日も、少年は現れなかった。今日で三日目になる。玻璃の練香入れは、セレナの衣装の懐の中でずっと温められていた。
「もう会えないのかしら」
 少年に教えられた噴水の水に足を浸し、庭の木立の間から漏れる日の光を見上げながら、セレナは小さな溜息をついた。まわりには人懐こい小鳥達が、セレナを怖がる様子もなく戯れている。
「トルメインの皇女が何を憂鬱そうにしている?」
 頭の上から涼やかな声がした。首をめぐらすと、セレナの背後にうっそりと立つ木の枝に、先日の少年が腰掛けている。
「あ……!」
 返答もできないでいるセレナの目の前に、軽い身のこなしで少年が降りてきた。
「あの……これ。この間のお詫びです」
 セレナが恐る恐る差し出した玻璃の練香入れを、少年は眩しげな眼差しで見下ろした。
「美しい細工だな。トルメインは良い石を産出する国だと聞いた。それでこのような細工技術も発達したのであろう」
 随分と物事を良く知っている。少年がそっと手を差し出すと、玻璃は彼女の手から零れるように、少年の手に渡った。
「トルメインにはもっと良い石があります。中でも一番美しいのは……金緑石」
 祖国を懐かしむようにセレナは目を細める。絹糸のような栗色の巻き毛が、さやさやと渡る風にすくいあげられ、羽根のように舞う。木立の間から零れる日の光が、白い肌の上にキラキラと輝いた。
「それはどのような石なのだ?」
 傍らの少年が眩しそうにセレナを見つめる。その視線に気づいているのかいないのか。セレナは続けた。
「日の光のもとでは緑色、蝋燭の灯りのもとでは赤色に変わる、美しい石です」
 深く沈んだ緑色は、ちょうどあなたの髪の色のような、と続けて、セレナはふと言葉を切った。
金緑石(アレキサンドライト)……。あなたのことをアレクスと呼んでも良い?」
 唐突なセレナの申し出に少年はしばし驚いた顔をしたが、次第に唇を笑みの形に引き上げた。
「アレクスか。ははは。それは良い。アレクス。今からわたしの名はアレクスだ」


   ***


「どうした? また痛むのか?」
 後宮の王妃の自室でセレナの背をさすっていた王が、ふと目を上げた。額にかかる前髪を無造作に掻きあげる仕草もなまめかしい、美しい王である。
「昔を思い出しておりました。あなたと出逢った頃のことを……」
 傍らで自分を見つめる妃の言葉に、王――アレクは目を細めた。
「あの折にそなたより貰った玻璃は、もう割れてしまったが……」
 ゆっくりと寝台の端に腰掛ける。
「わたしはもっと大切な宝を手に入れたのだな」
 セレナの手をとり、その甲に口付けた。
「一つ思い出しました。私はあなたをアレクスと呼んでいたのでしたね」
「あの折は、驚いたぞ。そなた、わたしの素性を知っているのかと思ったほどだ」
 楽しげにアレクは笑う。灰色の瞳が幼い日の面影を残していた。
「その胸の金緑石がそなたを守ってくれよう」
 セレナの胸に輝く石を見つめ、アレクはいたわるようにその肩を抱いた。
「私達はまた新たな宝を得るのですね」
 そう微笑み、セレナは繰り返し押し寄せて来る新たな波に翻弄されながら、その美貌を少しばかり歪めた。
「ああ」
 満足げに応える王。その手は優しくいたわるように、今まさに新しい命を生み出さんと収縮を始めた妃の腹に添えられていた。