> 薫風 INDEX  > 薫風
 

薫風


〜夢の暗示〜


 『わすれないでね』
 『うん。かおるちゃんのこと絶対にわすれないよ』
 『ゆうちゃん! 手だして!』
 『なに、これ?』
 『約束! いつかきっと会おうね。その時は……』
 『かおるちゃん、行っちゃヤダ!』
 ブロロロロ……
 重々しい音をたてて トラックは去って行く。
 たくさんの引越しの荷物と 大好きなともだちを乗せて。
 手の中に残されたのは 友情の証のおもちゃの指輪。
 キラキラ光るガラス玉を見ていたら 涙がこぼれた……。



由布(ゆう)ぅ! 早く仕度しないと学校遅れるよーっ」
 階下から倫子(みちこ)さんの声がする。多分、階段の一番下の段に片足を乗せて、『フッ素加工の鍋にもキズがつかない』という触れ込みのフライ返しを手に持っているのだろう。そして今朝の朝食はオムレツだ。そう、多分ね。
 倫子さん……といっても、早い話が母親だ。随分若くに由布を産んだので、親子には見えない。小さい頃は、ちゃんと『ママ』と呼んでいたのだけど、中学に入った頃から自然と名前で呼ぶようになった。倫子さんも気に入っているらしく、敢えて訂正はしなかった。


「今ごろになってあんな夢を見るなんて……」
 夢見が良かったのか悪かったのか由布の頭はボーッとしていた。
「久しぶりに、かおるちゃんの夢を見たな……」
 お父さんの仕事の都合でほんの少しの間だけのお隣さんだった速水(はやみ)さん。そこの子、『かおるちゃん』と由布は仲良しだった。サラサラの黒髪、色白の肌。顔は記憶の彼方にぼやけてしまってよく思い出せないけれど、日本人形のようにきれいに切り揃えられた髪がいつも揺れていた。
「随分キレイになっちゃったんだろうな」
 肩まで伸ばした自分のネコッ毛を一筋すくってみる。朝の光に透けて、もともと色素の薄い髪は金色に光った。
「ワタシは平凡な女になり果てました」
 つまんでいた毛束をポイッと捨てて、首をぐるぐる回す。いつもの日課。少しは頭がはっきりしてきた。ちらっと視界の端っこに うつったデジタルの目覚し時計。見てはいけない数字が刻まれている。
「わっ。やばいよ。遅刻しちゃう!」
 由布は慌てて階下に降りていった。


 今日から新学期。東倉由布(とうくらゆう)も高校三年生になる。頬をなでる風が春の匂いを含んで柔らかく感じられる。 紺色のブレザーにチェックのスカートという制服に身を包んだ由布は、どこから見てもりっぱな今時の女子高生だ。
「由布っ。おはよ」
 校門を入ったところで、 秦野紗映(はたのさえ)に声をかけられた。由布とほぼ同じ位の背丈の紗映。顎のラインで切り揃えられた髪は、遠い日の幼馴染を思わせる。
「あ。紗映、おはよ」
 由布はニッと笑った。
「今年も同じクラスだよーっ。よろしくねっ」
 そしてハグ。ぎゅーっと抱きしめあう。別に二人は帰国子女というワケではない。でもお互い感情が昂ぶると、ついやってしまうのだ。
「……やっぱマズいんとちゃう?」
「……そうだね。まわりの視線が痛いワ」
 朝っぱらから女二人、校門のところで抱き合ってるなんて注目の的だ。ちょっとマズかったかも。
「よっ! 何を朝っぱらからレズってんだよ」
 不意に後からどつかれた。
「あーん?」
 ジト目で振り向くと、去年も同じクラス、そして今年も同じクラスになる予定の辻鷹矢(つじたかや)が学生鞄を体の前に持って身構えている。
「なーにやってんのよ、辻ぃ」
「反撃に備えて」
 油断なく構えを解きながら鷹矢はニッと不敵な笑みを浮かべた。鷹矢は柔道部に似つかわしくないほど細く見える。それでも構えをとると、さすがに隙がない。
「今年もよろしくな!」
 鷹矢は投げキッスの真似をすると昇降口に向かって走って行った。


 ホームルームが始まる前の、ざわざわした教室の中。一応自分の席についているものの、隣の人と話したり、中には席を立って友達と話しているツワモノもいる。先生が入って来たら、多分お説教をくらうだろう。
 由布は、ぐるっと教室内を見回してみた。二年間で見知った顔もあれば、初めて一緒のクラスになる顔もある。
 由布はこの新学期第一日目があまり好きではない。一年ごとにリセットされて、また一からやり直し。クラスの雰囲気に馴染むまでがイヤなのだ。馴染んでしまえばそれなりに楽しいし、そんな些細な違和感は誰もが感じている事なのだけれど。


「ねえ知ってる? 三年に男子が転入して来るんだって」
 情報通の女子が教室に飛び込むなり大きな声で言った。
「クラスに大抵一人位いるな。こういうタイプ」
 由布は思わず苦笑した。隣の席の鷹矢がツンツンと由布をつつく。
「なあ。三年生になって転入するなんてどんなヤツだと思う?」
「どんなって……。確かウチの転入試験、難しいんだよね」
 由布は以前聞きかじっていた事を思い出す。
「ああ。めっちゃ難しいらしいぜ。……てコトはガリ勉くんタイプ?」
 指で輪を作って目に当てながら、鷹矢はクソまじめな顔をして見せた。
「きゃはは。そんなのヤだ」
 由布が大笑いをしたところに教室のドアを開ける音が響いた。一瞬ざわざわのトーンが下がり、教室中の視線がたった今開いたばかりのドアに注がれる。担任の先生が名簿とプリントの束を持って『ぬっ』と顔を覗かせた。ほんの少しばかり失望の色が教室に漂った。
「えー、僕がこのクラスの担任のサエキです」
 抱えていた物をドサッと教壇の上に置くと、くるりと皆に背を向け黒板に自分の名前を書いていく。
佐伯崇(さえきたかし)』ね。割と若いし、眼鏡取ったら……まあイケるんじゃないだろうか。
「次はみんなに自己紹介をしてもらおうと思う。……が。その前に転入生の紹介をします。トウマ君、入って」
 にわかに教室のあちこちで、ささやきが交わされ始める。
「ガリ勉君、ウチのクラスに入るのかよ」
 鷹矢がおもしろそうに言う。
「ホントにガリ勉君か、まだわかんないじゃない」
 由布はさっきの鷹矢の顔を思い出して、ふきだしそうになった。


 少し間があって、『トウマ』と呼ばれた少年が入ってきた。教室内に新たなざわめきがおこる。茶色い髪。肌の色は男子にしては白いが病的なものではない。意思の強さを示す眉はきれいに形づくられている。
『今時の男子高校生』
 そんな言葉があるとしたら、ピッタリあてはまるような外見だった。
「ずいぶんモテ系のガリ勉君だ・こ・と」
 鷹矢をちらっと横目で見ると、言葉尻をわざと区切って由布は言った。
當麻薫(とうまかおる)
先生が黒板に書いた文字を見て、由布はドキリとした。薫・カオル……かおるちゃん!遠い日の幼馴染の夢は、この転入生が来る予感だったのだろうか。


 『わすれないでね』
 『うん。かおるちゃんのこと絶対にわすれないよ』
 友情の証のおもちゃの指輪。
 キラキラ光るガラス玉……。



「倫子さん、昔お隣にいたかおるちゃんチ、何て姓だった?」
 夕食を済ませ、テーブルの上のみかんに手を伸ばしながら、由布は倫子さんを振り返った。
「ああ、すぐに引っ越して行っちゃった、あの? そうねえ、確か速水さんだったかな」
 流しで食器を洗いながら倫子さんが言う。
「そうだよねぇ。じゃ、やっぱ違うんだぁ」
 時期はずれの皮のかたいみかんを口に放り込むと、由布は苦笑いした。自分は何にこだわっているんだろう。今朝の夢がずいぶん影響してるな。それに大体、幼馴染の『かおるちゃん』は女の子だったよ。一緒に連れションしたもん、原っぱでさ。今日の転入生は……どっからどうみても男子だし。
 よそ事を考えながら、口の中でみかんを咀嚼したその時。
「ケホッ……うぇ……ぷ……」
 果汁がピュッと飛んで、のどの変なトコに入ってしまった。
「倫子さん、み……みず」
 コップ一杯の水を受け取って飲み干すと、なんとかおさまる。
「あ……りがと。助かったワ」
 空になったコップを返す。
「そーか、そーか。そりゃ良かった。ちなみに鶴でも恩返しするんだからね。コレ片付けてくれてもバチは当たらないが」
 にっこり笑った倫子さんの視線の先。きれいに拭きあげられた食器がつまれている。
「へいへーい」
 やる気があるんだか無いんだかわからない返事をして、由布は目の前の陶器の山を崩しにかかった。


 食器との格闘の末自分の部屋に戻ると、由布はジュエリーボックスを開けた。中には高価なものこそないけれど、由布のお気に入りのアクセサリーたちが並んでいる。その中に、そこに似つかわしくないおもちゃの指輪……。幼い日の友情の証を指でつまみあげてみる。蛍光灯の光を受けて、キラリと光るガラス玉。
 あの別れの日から十一年。笑ってしまう位昔のことなのに、由布はそれを捨てられないでいた。かおるちゃんの方は、由布の事などとっくに忘れてしまっただろう。毎年毎年、学年が変わるたびにリセットされる人間関係の中で。
 でも自分がその指輪を持っている限り、またどこかで会えるかも知れない。なんの根拠もないけれど、そんな風に由布は思っていた。


「あーっ、もう。やだやだやだっ!」
 由布は教科書を『バシッ』と乱暴に閉じる。
「暴れても試験は無くならないぞー」
 教科書から目をそらさずに、紗映が抑揚の無い声で言った。
「紗映はイイよ、頭いいもん。それに比べてさ……」
 シャープペンシルを口にくわえながら、由布は教室の天井を見上げた。
 新学期早々、学力試験なんてものがあるのだ。どうせすぐに中間考査や期末考査があるんだから、『こんなモン、やんなくてもいいだろ』と皆思っている。思ってるけど……文句を言ったところでやる事に変わりはないので、黙って試験勉強なんかしてるワケだ。  教室で、しかも試験当日に。


「シャーペン、うまいか?」
 頭の上から鷹矢の声。虚ろな目をゆっくりと声のした方向に向けると、案の定鷹矢が笑っている。そして隣には、薫も立っていた。
 この二人、どうもウマが合うようだ。よくしゃべる鷹矢と、ちょっと無愛想な薫のどこに共通点があるのか知らないけど、薫が転入してきたその日からなんだかんだと言ってはくっついている。席が前後だから……というのもあるかも知れないけれど。
「あ。席、借りてるよー」
 紗映が鷹矢を見上げた。
「いいよ。オレ一応、家でやって来たから」
 鷹矢は少しばかり胸を張って、拳で『トン』と叩いた。
「辻も頭いいもんねぇ」
 それを恨めしそうに見上げながら、由布はため息をつく。そしてその視線を薫の方に向けた。
「當麻クンも頭いいんだよね。ウチの転入試験パスしたんだからさ」
 グチるように言う。
「おい、オレが呼び捨てで當麻は『クン』づけかよ」
 鷹矢が納得いかない顔で抗議の声を上げる。
「アンタはいいの。そーね、と・く・べ・つ……ってコトで」
 人差し指を立てて左右に小さく振りながら、由布はおどけて言った。
「そんな事言うと襲っちゃうぞ」
 鷹矢が由布を抱き締める真似をする。
「あはは……。冗談やめてよぉ」
身を捩って由布は笑った。
「仲いいのな。オマエら」
 薫がボソッと言った時、授業開始の予鈴が鳴った。紗映は教科書を閉じて自分の席に戻る。鷹矢も薫もそれぞれの席についた。


 校庭の葉桜もすっかり色を増した頃、先日の学力試験の結果が返された。
「ダメだ、こりゃ」
 由布は試験の順位表を見るなり、その手の中に収まる程小さな紙切れをペンケースの中にしまい込んだ。


 昼休み。紗映と一緒に、持ってきたお弁当を食べる。
「由布? 元気ないよ?」
 いつもだったらよく動く由布の口が重い事に紗映が気が付いた。
「うーん、さすがにあの成績じゃーね。落ち込むワ」
「塾とか行ったら? そろそろ受験考えないとマズイでしょ」
「紗映は家庭教師つけてもらってるんだよねぇ」
「ま、ね。浪人されちゃ困るってんで、親が無理やり決めた」
「ワタシの家庭教師してくんない?」
 そう言って紗映の顔をウルウルした瞳で見つめてみる。
「残念。そんなカワイソーな顔したって、アタシにゃそんな暇ありません」
「……だよねー」
 由布は弁当箱の端っこに貼りついていた卵焼きをフォークでぶっ刺した。


 紗映が委員会の集まりで行ってしまったので、由布は昼休みの残りを中庭で過ごす事にした。あまり人の来ない由布のお気に入りの場所。大きな楠の根元に座って、ぼーっと空を眺める。白い雲が風に吹かれて形を変えながら呑気に流れていく。
「家庭教師かぁ」
 学力試験の順位は去年より二十番も落ちた。母親の倫子さんは成績に関しては寛大だけれど、それにも限度ってモンがあるだろう。
「そんなの、つけてもらう余裕なんてないしな……。どーすんだろ」
 まるで他人事のように、由布はため息をつく。
「家庭教師探してんのか?」
 不意に頭の上から声がした。驚いて見上げると楠のすぐ横、校舎の中二階ほどの出っ張りの上で薫がゆっくりと上半身を持ち上げているところだった。
「當麻クン。そんなトコ上がっちゃダメだよ」
慌てて由布が注意する。確か立入禁止になっている筈だ。
「え? そうか? なんにも書いてなかったぞ」
「書いてなくてもダメなの! それに足場もなしにどうやって上がったのよ」
あたりには階段も無いし、台になりそうな物も無い。
「飛びつきゃ登れるさ。来るか?」
「だーから! ダメなんだってば」
由布の鼻息は荒い。
「大丈夫だって。ほら手出せよ。引っ張り上げてやるからさ」
薫の強引さに負けて、由布はしぶしぶ手を出した。伸ばした手を握られて軽々と引き上げられる。一瞬、まわりの風景がフワッと下へ流れ、そのまま空へ飛び立ってしまいそうな気がした。


 薫があまりにも軽々と自分を引き上げた事に、由布は驚いていた。由布だってそんなに軽いわけではない。空手を習っていたので見かけより筋肉がついていて重いはずだ。よっぽど由布が(ほう) けた顔をしていたのだろう。
「ん? どうした? どっか痛いのか?」
 薫が心配そうに尋ねた。
「ううん。力あるなー、と思って」
 由布はまぶしそうに薫を見た。こんなにまじまじと薫を見たのは初めてかも知れない。自分より高いその背丈は、多分鷹矢と同じ位だろう。切れ長の目。整えられた眉。すっと通った鼻筋。茶色い髪はおそらくカラーリングしたものだ。よく先生に怒られなかったな、と思ったが、『成績が良い生徒には生活面の指導は甘い』と聞いた事があったのを思い出した。
「そりゃ俺も男だからな。東倉一人持ち上げる位の力はあるさ」
 薫はネクタイをゆるめながら笑った。
「で? 家庭教師探してるのは何年生? 中二? 中三?」
「あ……う」
 由布は言葉につまった。この状況で、まさか自分だとは言いづらい。
「まさか…オマエ?」
 由布が言葉に詰まったのを見て、薫が覗き込む。
「……バレた?」
 ここでウソを言っても仕方ないだろう。由布は正直にうなずいた。
「なーんだ。格安でバイトしてやろうと思ったのに」
 その言葉に、由布はハッと顔をあげた。
「當麻クン、こないだの試験、何番だった?」
「なんだよ、突然」
「いーからっ! ね、何番?」
「さ……三番」
 ぬわんですと? 三番ですとぉ?
「プライド捨てた! お願い、ワタシの家庭教師してっ」
 由布はガバッと薫の右手を両手で握り締めた。もう相手が男だろうがクラスメイトだろうが狼だろうが――いや、狼はマズいけど――とにかく誰でもいいからこの窮地を救って欲しかった。
「當麻クンに見捨てられたら、ワタシ浪人するしかないのっ!」
 紗映にしてみせたようにウルウルした瞳で見つめる。
「わ……わかったからその目はやめてくれ。このシチュエーションでそんな目されたら、辻じゃないけど襲っちまう」
 薫は握られていた右手を振りほどこうとブンブン振った。
「……襲うの?」
 由布はジィッと薫を覗き込む。
「う……ん。……かも」
「ふーん。じゃ、やめたげる」
 由布は離してなるものかと握り締めていた薫の手をポイッと投げ捨てた。
「でも家庭教師の話はマジだからね」
 由布は薫の肩をポンポンと軽く叩いた。