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薫風


〜彼の秘密〜


「だから彼氏じゃないの! クラスメイト!」
 由布は倫子さんに向かって力説する。
「いいじゃないの。どっちでも」
「良くないっ。當麻クンが気ィ悪くするでしょうが」
「へぇ、當麻っていうんだ、由布の彼」
「だぁっ! 違うってば。家庭教師に来てくれるの! それだけ!」
 由布はリビングのドアを、後ろ手に勢い良く閉める。一歩踏み出した所でクルリと(きびす)を返すと、再びリビングのドアを開けて中を覗き込む。
「ぜぇーったい覗きに来ないでよ。変な意味じゃないけど」
「やっぱり彼なんでしょ」
 倫子さんもしつこい。
「倫子さん、何か変なコト言いそうなんだもん。當麻クンに」
 冷たい眼で倫子さんを睨み、そう言い捨てると由布はまた勢い良くドアを閉めた。


 毎週日曜日、當麻薫が由布の家庭教師に来るという約束。今日はその最初の日曜日だ。貴重な日曜日を自分のために犠牲にしてもらうという後ろめたさから、由布はハリセンボンよりもピリピリして、薫のご機嫌を損ねないようにと考えていた。
「そろそろ来るかな」
 目覚まし時計の針は十時五十分を指している。約束は十一時。昼食とおやつ付きという条件で格安でバイトしてもらう。それしか由布の少ない小遣いからバイト代を捻出できる方法はない。
『ピンポーン』
 十一時きっかりにチャイムが鳴った。
「すごいね、あの人は。やっぱできる人は時間にもきっちりしてるんだね」
 由布は妙な事に感心しながら玄関のドアを開ける。
「よっ」
 教科書やら問題集やらの入った袋を脇に抱えて薫が立っていた。あまり派手ではないロゴの入ったトレーナーにダボッとしたパンツ。頭にはニット帽をかぶっている。学校の制服姿とは違う薫に、由布は少々ドキリとした。
「来てくれてありがと。上がって」
「失礼しまーす」
 由布に促されて、薫は玄関で靴を脱いだ。薫が歩く度、パンツのポケットの中で小銭がチャリチャリと音を立てる。先に立って歩きながら、由布は口の端に笑いが浮かぶのを押さえられなかった。


「じゃ、何からやる? 一番苦手なのから始めようか」
 由布の部屋に入り、すすめられた座布団の上にちょこんと正座すると、薫は持ってきた教科書の袋をひっくり返した。
「数学かな。やっぱ。理数系で数学が苦手ってホント頭痛いワ」
 由布はため息をついた。
「じゃ、なんで理数系選択したんだよ」
 薫はあきれ顔で由布を見る。
「『理』は好きなの。でも『数』が足引っ張っちゃって」
「難儀なヤツ」
 哀れみのこもった口調で薫は言った。
「あのさー」
 由布は数学の教科書を開きながら、薫を見上げた。
「別にそんなにかしこまらなくてもイイよ。正座なんてしちゃってさ」
 こらえきれずに下を向くと、クスクス笑う。
「俺も緊張してるんだよ、これでも。イテテ……足、しびれてる」
 照れ笑いして鼻の頭を指でこすりながら薫は足をくずした。その笑顔が少し子供っぽくて、学校での薫からは想像できなくて、由布はちょっとトクした気分になった。


 由布が薫に家庭教師を頼んで以来、なんとなく学校でも前より親しく話すようになっていた。もともと辻鷹矢ともウマが合ったせいもあり、由布と紗映、薫と鷹矢の四人で一緒にいる事が多くなった。
「なんだよー。言ってくれればオレが家庭教師してやったのによー」
 鷹矢が、さも残念そうに口を尖らせる。
「なにバカな事言ってんのよ。アンタは日曜の度に試合で家にいないじゃない」
 横から紗映にどつかれる。薫はそんな二人のやり取りを黙っておもしろそうに眺めていた。学校での薫は相変わらずちょっとだけ無愛想で、快活によくしゃべる鷹矢とは対照的だったけど、由布の所に家庭教師をしに来ている時はよくしゃべったし、よく笑った。


「……で、今日もらった中間考査の順位、どうだった?」
 そろそろ風薫る季節になろうという日の昼休み。お弁当を食べ終えた紗映が、由布の頭をツンツンとつついた。
「それがねぇ。へっへー。上がったんだよっ。三十番も」
 満面の笑みで由布が言う。
「良かったねー。當麻クンに無理言った甲斐あったじゃない」
「そうでしょー」
 感極まって二人は立ち上がるとハグ。そのままポンポンとお互いの背中をたたき合う。
「またレズってるよ」
 背後から鷹矢のあきれ声がした。振り返ると、やっぱり薫も一緒だ。
「當麻クンのおかげでねぇ、上がったんだよ、順位」
 由布が嬉しそうに鷹矢の肩を叩く。
「ほー。なら當麻に抱きつくのが筋じゃないのか?」
「アホっ。んな事できるワケないでしょ。ねぇ」
 同意を求めるように、由布は薫を見上げた。
「いや。俺は別に構わんぞ」
 両手を広げる薫。
「……ねえ、辻の『おバカ』がうつったんじゃない?」
 一瞬ひいてしまった女二人だが、そんな事に構わず薫は続けた。
「それで何番上がったんだ?」
「三十番だって」
 紗映が代わりに答える。
「……ってことは今まで最高でも三十六番だったわけだ」
横から鷹矢が茶々を入れる。
「どうしてそういう計算になるの? 何? その六番ってハンパな数字」
 由布が不思議そうに尋ねる。
「當麻が三番。そのあとにオレと秦野だろ。ここで五人。それに三十番あがるために三十一をたして三十六番。な」
 力説する鷹矢。
「ふーん。……って、そんなの真剣に計算しないでよっ!」
 ホントはもっと下位なのだ。でもそんな事、この三人の前では口が裂けても言えないと由布は思った。


 當麻薫が東倉由布の家に家庭教師に来るようになって、何回目かの日曜日。倫子さんが会社の慰安会だとかで朝から出掛けたので、今日の昼食は由布が作る事になった。いつものように十一時から勉強を見てもらって、リビングの壁掛け時計が十二時を打った時点で一旦休憩。由布は階下に降りてきて簡単なものを作り始めた。


「悪いねえ。大したものできなくて」
 テーブルについた薫の前に出されたのは天津飯。簡単でボリュームがあって、由布は小さい頃からこれが好きなのだ。それで自然と得意な料理は天津飯ってことになる。
「俺も好きだから大丈夫だよ」
 はふはふ言いながら口の中に押し込む。そう言えば小さい頃、よく『かおるちゃん』とこれ食べたなぁ。倫子さんが作ってくれたのを二人で夢中で食べたっけ。目の前の薫を眺めながら、ふとそんな事を由布は思い出していた。


「さて、それじゃあ再開しますか」
「へーい」
 昼食を食べ終えると、二人はまた教科書を開いた。今度の問題はちょっと難しい。
「うーん、うーん、うーん」
 わからなくて思わず由布は唸った。
(りき)んでも答えは出てこんぞ」
 薫がしれっとした声で言う。
「意地悪ぅ」
「できたらご褒美やるから頑張れって」
そう言って薫は立ち上がった。
「どこ行くの?」
「ちょっとコンビニ。俺が帰ってくるまでにやっとけよ」
 そして大きくノビをすると部屋を出る。ドアの向こうで薫の歩調に合わせてポケットの中の小銭がチャリチャリとリズムを刻みながら遠ざかって行った。
『ポッツーン』
 そんな感じで取り残された由布は、それでも最初の内は頑張ってみた。しかし、わからないのと昼食後のけだるさとで瞼が重くなり……。いつの間にか眠ってしまっていた。


 『わすれないでね』
 『うん。かおるちゃんのこと絶対にわすれないよ』
 友情の証のおもちゃの指輪。
 キラキラ光るガラス玉……。



あ……。またあの夢だ…。
あれ? 夢見てるって自分でわかってる……?
じゃあコレも夢なのかな。
あ。玄関の開く音がする……。當麻クン帰って来たんだ。
だめだ。体が動かないや……。なんだか気持ち良くて……。


 由布は自分を見下ろしている薫の視線を感じたような気がした。そしてそれがだんだん近くなり……。
「……!」
 眠りから目覚めに移る、ほんの一瞬の間。由布は自分の唇に押し当てられた薫の唇を感じた。どういうこと……?
 心臓が早鐘のように鼓動し始める。もうすっかり目覚めてしまっていたけれど、由布は動くに動けないでいた。今のはキス? でもどうして? いつ起きたフリをしようかと考えていたら……。
『べしっ!』
 何か冷たい物でほっぺたを叩かれた。
「なーに、いつまでも寝てんだよ。ホラ、これ。……って なんだよー。まだ解けてないんじゃんかよー」
 冷たい物――薫の手に握られていたのはアイスバーだった。


「だからコレは、この公式をこうヒネって解くんだよ」
「あ、そっかー。なんで気が付かなかったんだろ」
「じゃ、後は自分でやってみな」
 由布は、今日最後の問題と格闘していた。問題を解きながら、ちらちらと薫を盗み見る。さっきの事は夢だったとでも言うように、薫の様子はいつもと変わりなかった。唇に触れた感触……あれは夢? ううん、違う。


「できたか?」
 不意に薫が顔を上げた。視線が絡まる。
「あ……うん」
由布は貼り付けたような笑顔を作った。
「なんだ、その返事。オマエは狛犬(こまいぬ)か」
「は?」
「狛犬の口開けてる方が『あ』。出生を意味する。で、口閉じてる方が『ん』。死を意味するんだ。ん……まぁいいや。じゃ、答え合わせ」
 ノートを覗き込む薫の髪が、フワッと由布の頬に触れた。いい匂いがする。シャンプー何使ってんのかな。ダメだ。なんか意識しちゃってるぞ。火照った頬を冷やすため、由布は立ち上がる。ふと首を巡らすと、ジュエリーボックスが目に留まった。ふたを開け、『かおるちゃん』がくれた指輪をつまみ上げる。彼女も今頃こんな風に勉強なんかしてるんだろうか。


「オッケー。全部マル」
 薫の晴れやかな声が、由布を現実に引き戻した。
「ホント? ワタシの頭も少しは向上したかな」
指輪をジュエリーボックスに戻すのも忘れ、由布はニコニコ顔で薫の傍らに座り込んだ。
「向上? したした。今度の期末には、もっと順位上がってるぞ、きっと……」
 薫の視線が手の中の小さな指輪に注がれた。
「それ……オマエのシュミか?」
「やーね。違うよ。大切な友達にもらったんだ」
 由布は指輪を窓からこぼれる日の光に透かしてみた。ガラス玉が反射してキラキラと光る。
「『かおるちゃん』って名前の子でね、小さい時に引っ越しちゃったんだけど……」
ジュエリーボックスに指輪を大事そうにしまうと、由布は薫の隣に座り直した。
「あの指輪、大切に持ってたら、また会えそうな気がするんだ。綺麗になってるだろうな。すっごい美人になってたりして……ふふっ」
「ふうん。女なんだ? その『かおるちゃん』は」
 薫は教科書や問題集を袋にしまいながら、由布を覗き込んだ。
「あ、そっか。同じ『かおる』でも當麻クンは男だもんねぇ。ごめんね、気ぃ悪くした?」
 そう言って、由布はちっとも悪いと思っていない様子で楽しそうに笑った。


 追ってくる小さな足音。
 窓から顔を出すと必死に追いすがる女の子。
 忘れて欲しくなかった。
 『手だして!』
 『なに、これ?』
 『約束! いつかきっと会おうね。その時は……』
 ブロロロロ……
 小さな足音はトラックの音にかき消される。
 大切な女の子に渡した おもちゃの指輪。
 キラキラ光るガラス玉に特別な想いをこめて……。



「……!」
 當麻薫は自分の部屋のベッドの上で目を覚ました。
「覚えていたんだ……アイツ」
 深くて長いため息をつく。とっくに忘れられていると思っていた。引っ越してからも、この近くに来た時は必ず様子を見に来ていた。見る度に女らしくなっていくアイツ。幼い頃の淡い恋心は、思春期の強い想いに変わって行った。
 でも声をかけるのは躊躇した。だってアイツは『かおるちゃん』を女だと思ってる。そりゃチビの頃は女顔だったし、頭の傷を隠すために髪伸ばしてたからな。それに、なんたって立ちションができなかったし。原っぱでアイツと並んで連れションしたのは決定的だったろうな。うん、絶対女だと思ってるよ。賭けてもいい。いきなり男の俺が『かおるちゃんです』なんて出て行ったら驚かせるに決まってるさ。
 でも会いたくて会いたくて、だから……。両親が海外赴任したのを機に、別人としてこの学校に転入して来た。訳有って姓も変わっているし、アイツは気づいていない。俺の前で『かおるちゃん』の思い出を語るほどに……。
 辻の事も気になる。多分、ヤツは東倉にホレてる。東倉もまんざらでもなさそうだ。学校では嫌でもそれを思い知らされる。このままアイツの家に行っていると、俺はもう自分を抑えられなくなる。このあたりが潮時かも知れない。
 薫は妙な安堵感と、一抹の寂しさを感じていた。


 枕もとの時計の針は、そろそろ学校に行く支度を始めなさいと促している。一人暮らしの薫には自分以外時間を管理してくれる者はいない。両親が海外赴任になったので、母の弟である叔父夫婦を頼ってここに部屋を借りた。 叔父の家も狭いので遠慮したのだ。
 パジャマを脱いで洗濯機に放り込み、のろのろと制服に着替える。そしてトーストをかじりながら、誰もいない部屋のドアを閉め、鍵をかけた。