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薫風


〜晴天のヘキレキ〜


『あれはどういうつもりだったんだろう。』
 薫にあの日の事を聞くわけにもいかず、由布は悶々とした日々を送っていた。当の薫はまったく普段通りで変わった素振りも見せない。相変わらず学校ではちょっと無愛想で、でも由布の家では良くしゃべって……。自分一人が悩んでいるのも、正直バカらしかった。でも……。考えないようにしようと思っても、ふとしたはずみによみがえるあの感触。
『と……くら。』
「東倉っっ!」
「は……いっ?」
 突然の薫の声に 由布は思わず座布団を蹴って立ち上がった。
「立たんでもいいぞ。オマエ、聞いてたか? 人の話」
「……あ?」
 由布は呆けた顔で薫を見下ろすと、持っていたシャーペンでポリポリと頭を掻いた。
「ごめん。聞いてなかった……カモ」
 そのままペタンと座り込む。
「ボーッとしてんじゃねぇよ」
 丸めた問題集でバコッと頭をハタかれた。
「はうっ!」
 うずくまって大げさに頭を押さえる由布。そのまま上目遣いに薫を見上げる。薫の目は笑っていた。
「で、話……なんだっけ?」
 顔を上げて、ご機嫌を取るように聞く。
「教えてやらない」
 笑った目のまま、薫は口だけへの字に曲げた。
「ふにゃ」
 由布は情けない笑顔をしてみせる。それを見て薫は表情を緩めて息を吐いた。
「……ま、意地悪してもしょーがないか。……あのさ、こないだの中間考査でも順位上がったみたいだし、そろそろ俺が家庭教師しなくてもいいだろうと思って」
「え?」
 由布は驚いた。『薮から棒』だ。そうじゃなきゃ『晴天の霹靂(へきれき)』か。ずっとこの日曜日の日課は続くものだと思っていた。終わりが来るなんて考えもしなかった。
「もうウチ来ないの?」
 恐る恐る聞いてみる。
「そういう事になるかな」
 視線を外して薫が言った。丸めた問題集を反対に丸めて反りを直し、袋にしまい始める。その横顔を眺めている内に由布の胸の中にあの幼い日と同じ喪失感が広がっていった。


 薫と由布の『日曜家庭教師』は二ヶ月間で幕を閉じた。
「なーんだ。本当に彼氏じゃなかったの」
 倫子さんは残念そうに言う。
「だから最初からそう言ってたじゃない。勘違いしたのはそっちでしょ」
 強気に言ってみた由布だったが、傷口に塩をもみ込まれたような気分になった。
「ま、由布はもともとデキの悪い方じゃないんだから、コツさえわかればスラスラできるわよねぇ」
 倫子さんの誉め言葉も由布には虚しく聞こえるだけだった。


 これで元通りただのクラスメイト。唇に残る感触は本物だったけれど、薫から告白されたワケじゃないし、大体最初から『成績をあげるための家庭教師』に来てもらっただけ。目的を果たした今、薫の貴重な日曜日を恋人でもない自分のために潰させるのも筋違いというものだ。由布は無理やり自分を納得させようとしていた。


 次の月曜日、由布は当番だった。放課後、一人残って日誌に書き込む。大半を書き終わった時、建て付けの悪い教室の出入り口が耳障りな音をたてた。
『誰かが忘れ物でも取りに来たのかな』
 気にもとめず由布は書きつづける。突然、頭上から声が降ってきた。
「おまえさぁ、なんか今日元気なくない?」
 顔を上げると、鷹矢がいつになく真剣な面持ちで由布を見下ろしている。
「別に……何でもないよ」
 再び日誌に視線を落とすと、由布は素っ気無く返事をした。
「うそつけ。いつもだったら、もっと調子こいて絡んで来るのに、今日は全然じゃないか」
 鷹矢は探るような目で由布を見る。
「うるさいな。ほっといてよ」
 乱暴に日誌を閉じて立ち上がると、中腰になって覗き込んでいた鷹矢の顔面に由布の肩がヒットした。
「……つっ!」
 鼻を押さえて鷹矢がうずくまる。
「ごめん。痛かった? あ……」
 鷹矢の肩に手を掛けて助け起こそうとした瞬間、まわりの景色がふわっと上に流れ、由布の視界は制服の胸で遮られた。何が起こったかわからなかったが、ややあって自分は鷹矢の腕の中にいるのだとわかった。机と机の間に座り込んでいたが、場所は教室だ。いつ誰に見られないとも限らない。
「ちょ……何すんの。冗談やめてよ」
 いつもの冗談だと思って軽くかわそうとした由布だが……。
「東倉、オレと付き合わないか」
 由布を腕の中に抱いたまま、鷹矢が低い声でつぶやく。いつものおちゃらけた感じではなく、声に重みがある。由布は突然の事に何も言い返せなかった。
 鷹矢の腕の力が緩み、由布の頬が彼の胸から離れる。驚いた表情のまま由布が見上げると……。
「本気なんだ。前から言おうと思ってた」
 鷹矢の双眸が由布を捉える。そのまま彼の顔が近づいて……。
 鷹矢の唇が触れるより一瞬早く、由布の脳裏に薫の唇の感触が蘇った。
「ごめんっ!」
 渾身の力を込めて由布は鷹矢の胸を押し返し、走り出していた。


 どこをどう走って来たのかはわからない。気が付くと中庭の大きな楠の根元に座り込んでいた。
 由布はやっと自覚した。自分は好きになってしまったんだ。當麻薫のことを。だから『日曜家庭教師』が終わるのが寂しかったし、薫を思い出した途端、あんなに心を許していた鷹矢をも拒絶して逃げ出したんだ。
「ばっかみたい」
 少し落ち着くと空を仰ぐ。風に枝を揺らす楠。その上を白い雲がのんびりと流れて行く。
 あの日と同じ。由布が薫に家庭教師を頼んだ日。ふと楠の脇、中二階ほどの出っ張りが目に留まった。
「上っちゃおう……かな」
 きょろきょろとあたりを見回し、誰もいない事を確かめる。
 あの日は薫に引き上げてもらった。一人で上れるか定かではなかったが、どうしても上りたい気分だった。
自分の背よりも高い出っ張りに手をかけ、ぶら下がる。
「くっ……」
 確か男子の体育の懸垂はこんな感じだったな。女子は斜め懸垂だったけど……。
 人間、苦しくなるとしょうもない事を考える。腕は辛くて悲鳴をあげているのに頭の中はヤケに冷静だった。足をかけて上がろうとする。
「パンツ見えるぞー」
 背後から低い声がした。由布は声の主を見ようと首をめぐらす。
「わっ!」
 体の捩れと共にかろうじて引っかかっていた足までがずるっと滑り落ちる。悲鳴をあげていた腕は、耐え切れなくなって出っ張りから離れた。
『ドサッ』
「ってー!」


「ホンっトにごめん」 
 誰もいない保健室。由布は目の前の椅子に腰掛けた薫の顔に絆創膏を貼りながら、申し訳なさそうに謝った。薫は怒ったような表情をしている。
「オマエ、自分が女だって自覚ないのな」
「だって……一人でも上れると思ったんだもん」
「背丈考えてみろよ。俺とオマエじゃ全然違うだろうが。……つっ!」
 薫の顔には由布の靴跡がついている。由布は制服のポケットからハンカチを取り出すと、水道水で湿らせて薫の顔を拭った。
「ちょっと我慢してね。……って言える立場じゃないけどさ」
 薫の肩に手を掛け、濡れてしまった跡を乾かすようにフーッと息を吹きかける。


 薫はそれを心地よく感じながら、でも一種の居心地の悪さを感じていた。すぐ近くに由布の顔がある。由布の息がかかる。女の子の香り。諦めようと思って自分から離れたのに、引き戻される気持ち。薫は何気なく、ふと微笑んだ。
「……ったく昔っから変わってないんだな、オマエ。男まさりでさ……」
「え? ……どういう事?」
聞き返された言葉に、薫は『しまった』という顔をした。
 由布の手が止まる。
「私を……知ってるの? 昔から?」
真っ直ぐに薫を見る。彼の双眸から何かを見つけ出そうとするように。こんなに正面きって見つめたことはなかった。そこには優しい色の瞳が驚きに見開かれたまま由布の姿を映していた。
 ややあって、薫は目を伏せ、長く息を吐いた。しばらく自分の手を見つめていたが……。意を決したように由布を見つめ返すと、優しい色の瞳はさらに優しい色をたたえた。
「ゆうちゃん……キレイになったね」


『ゆうちゃん』
こう呼んでいたのは誰だったか。懐かしい響き。由布の頭の中は、いろいろな事がぐるぐる回って脱水中の洗濯機のようだ。そこから搾り出される答え……。
「かおる……ちゃん……?」
 恐る恐る呼んだ名前に、目の前の薫が破顔する。
「本物のかおるちゃん!?」
「そうだよ。……ゆうちゃん」
 由布は薫の顔を見て、そこからずずっと下に視線を移し、また上へと辿って薫の顔の上で留める。そこで何かがおかしいと感じた。
 何か……何か……。あ!
「……うそ。かおるちゃんは女の子だったよ?」
 由布の言葉に、薫は眉間を押さえてため息をついた。
「やっぱりな」
 短くつぶやくとそのまま下を向き、言葉が途切れる。その間を埋めるように、校庭から部活中の生徒の声が風に乗って聞こえてきた。
「……オマエのソレ、勘違い」
 眉間を押さえたまま、その長い指の間から上目遣いに由布を見上げる。
「だってその……原っぱで二人並んで……!」
ここまで言ってから由布は言葉につまった。
「連れション……したっけな。二人で」
 さらっと言ってのけた薫を凝視したまま、由布の顔がみるみる赤くなる。
「せ……性転換でもしたの?」
 薫の眉間に当てていた手がポロッと落ちる。そして信じられないモノを見るような目で由布を見上げた。
「あのなー」
 あきれ半分、笑い半分の顔になって、薫は憑き物を払うように首を振った。
「昔は立ちションがうまくできなかったんだよ。オマエだって自分の事『ボク』って言ってたじゃないか」
「でも……でも、お隣は速水さんだったもん!」
 そうだ。薫の姓は當麻。かおるちゃんは速水だったはず。この間、倫子さんにも確認したばかりだ。
「その姓は父親の姓。相続の関係で母親が実家の跡をついだ時に姓が変わったんだ」
 言葉が途切れる。由布の頭の中は超高速脱水中の洗濯機。もしかしたらそのままドラム乾燥に突入しちゃうかも知れない。
 當麻クンがかおるちゃんで、かおるちゃんは大きくなったら當麻クンになってて……。
「あっ!」
 突然由布は大声を上げた。
「じゃあ、どうしてあの時黙ってたの。ワタシ、かおるちゃんの指輪をかおるちゃんに……なんかややこしいな。當麻クンに見せたよね? あんな昔の思い出、後生大事にしてるワタシの事を笑って見てたの?」
「違う」
 薫はかぶりを振った。
「だったら、どうして?」
「オマエの中の思い出を壊しちゃいけないと思った」
「え……?」
「思い出、大事にしてただろう? その幼馴染の『かおるちゃん』を壊しちゃいけないと思ったから言い出せなかった。それに……」
 薫がふと顔を上げる。彼の言葉を聞き逃すまいと見つめていた由布と視線が絡まった。
「辻とオマエは……その……そういう仲なんだろう?」
 ぼそっと薫がつぶやく。いつもの彼らしくない、自信のなさそうな声で。
 由布の顔が強張る。さっきの辻鷹矢との事がちらっと頭をかすめた。
「そういう仲……とは?」
 聞き返した言葉が、心なし震えているように感じる。
「付き合ってもいいかな、とか思ってるんだろ?」
 確かに前はそう思った事もあった。でも今は……。薫を好きだと自覚した今は、そんな風に薫の口から言われる事が悲しかった。
「……そんなんじゃないよ。少なくともワタシは」
 くるりと背を向け、すっかり生ぬるくなった手の中のハンカチを水道水で洗う。水しぶきのせいか、ハンカチがぼやけて見えた。制服の袖に生暖かいものが落ちる。それが涙だとわかって、由布は短く息を吐いた。


 ふいにガタッと椅子をひく音がする。薫がこのまま帰ってしまうのかと、由布は慌てた。
「當麻クン、ちょっと待っ……!」
 濡れたハンカチを絞りながら振り向こうとする。でも引き留める言葉は途切れた。
 すぐ背後に薫を感じる。そのままふんわりと薫の腕が由布を包み込んだ。
「……俺じゃダメか?」
 由布の肩に顎を乗せ、耳元でささやく。
「オマエが辻を好きなら諦めようと思った。でも相手が他のヤツなら俺は引き下がらない。オマエが……好きなんだ」
薫の息遣いが間近で聞こえる。薫の低い声が恋の告白をする。由布の頭はフィルターをかけられたようになり、絞りかけのハンカチが湿った音を立てて流しに落ちた。