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薫風


〜風の予感〜


 しばしの沈黙。開け放たれた窓から初夏を思わせるような暖かい風が入り、薄い水色のカーテンを揺らす。
 由布は、自分の心臓がタップ・ダンスを踊っているのを感じた。体中の血がいつもの倍の速さで駆け巡っている。『何か言わなくちゃ』と思うのだが、口の中がカラカラに乾いて声が出ない。
「答えを……くれないか」
 薫の腕に力がこもる。彼は、由布の肩に乗せた顎を持ち上げると、彼女の首筋に顔を埋めた。
 薫の髪が由布の頬をくすぐる。由布の白く頼りなげな首筋に、薫の息がかかる。薫の右手が動いて、由布の胸の下――鼓動を感じる場所――にあてがわれた。
「……ドキドキいってる」
 低く、静かな声で薫が言った。
「そりゃ、動いてなきゃ死ぬでしょうが」
 言ってから、由布は『しまった』と思った。今、ツッコミを入れる雰囲気じゃないのに。
 案の定、薫の肩がふるふると震える。
「くくっ……。オマエ、全然色っぽくないのな」
 そう言って、腕をほどこうとする。
「待って!」
 思わず由布は、濡れたままの手で薫の手を引き留めた。
「東倉?」
「あ……あの、ワタシも……當麻クンが好きだよ」
 背後にいる薫の表情はわからなかったけれど、由布は彼が長く深く息を吐いたのを感じた。由布の体を包む腕に、一層力が込められる。
「良かった……」
 薫の声はかすれていた。体が密着したせいで、鼓動が背中越しに伝わってくる。
「當麻クンもドキドキしてるね」
 由布はくすっと笑った。
「ああ。動いてなけりゃ、死ぬからな」
 いたずらっぽく言うと、薫は由布を腕の中でくるっと回し、自分の方を向かせた。
「ゆうちゃん」
 懐かしい響き。声変わりして、すっかり昔と変わってしまったけれど、響いてくる音は懐かしい『かおるちゃん』のものだった。
「はい……かおるちゃん?」
 見上げると、優しい瞳が由布を映している。
「……はい」
 息遣いが感じられるほど、顔が近づく。由布は眼を閉じた。ふっと軽く唇の触れる感触。小鳥がついばむようなキス。
『この感じだ……』
 由布は夢の中のような、あの感触を思い出した。
 一旦唇を離し、薫は由布の頬を両手ではさみ込むようにすると、彼女の色素の薄い瞳を自らの視線で捉える。意思の強そうな彼の瞳が、熱っぽく、そして切なそうに揺れていた。
 由布は薫の視線に心まで射られたようになり、背骨の方から溶け出してしまいそうになるのを感じる。立っているのがやっとで、思わずしがみつくように薫の制服の背中をぎゅっと掴んだ。
 薫はそれが合図だったかのようにもう一度顔を近づけ、強く唇を重ねる。驚いて身を引こうとする由布の頭を左手で支え、もう片方の腕で彼女の腰を引き寄せた。


「ん……んんっ!」
 由布は薫の性急なキスに息苦しさを覚えた。しがみついていた手を離し、思わず彼の背中をトンと叩く。
 薫はバツが悪そうに由布の唇を解放すると、ため息をついた。
「ごめん……イヤだったか?」
 その顔が道端で拾ってもらえるのを待っている子猫のようで、由布はもう一度彼にしがみついた。
「ううん。ただ急だったから、びっくりしただけ。これから、ゆっくり……ね」
 そう言って、薫の制服の胸にコツンとおでこをつけた。
「こんな所に二人きりって、良くないよな。……帰るか」
 フッ切るように笑うと、薫はノビをした。そして自分の学生鞄を持つと、由布の鞄がないのに気が付いた。
「オマエ、鞄は?」
「……あ!」
 由布はポリポリと頭を掻く。
「しまった。鞄も日誌も、教室に放りっぱなしだ」
「じゃあ、一緒に取りに行こう」



 教室が近づくと、由布はなぜ自分が教室から逃げ出したかを思い出した。
 もし鷹矢に会ったら、どんな顔をすればいいんだろう。逃げることは無かったんじゃないか。鷹矢を傷つけたんじゃないか……。
 次第に足取りが重くなる。
 薫はそんな由布の様子を見て不思議そうな顔をしたが、歩調を合わせてくれた。


 教室のドアの前に立つと、由布は一つ深呼吸をした。
『大丈夫。辻はもう帰ったよね』
 自分に言い聞かせるように念ずると、ドアの取っ手に手をかけ、勢い良く開ける。建て付けの悪いドアは、やっぱり耳障りな音を立てて軋んだ。
 斜陽がまともに入る教室の中。暮れ色に染まる逆光の中でこちらに顔を向ける人影。
「辻……?」
 薫が驚いたようにつぶやく。
 窓際の由布の席に、片方の拳を頬に添えた辻鷹矢が放心したような面持ちで、こちらを眺めていた。
「當麻……東倉も」
 短く息を吐く。
「は……そういう事か。やっぱりな。相手が當麻じゃ、しょうがないか」
 鷹矢は自嘲気味に口の端を無理やり笑みの形に引き上げた。由布は入口から中に入れずに固まっている。
 勘の良い薫は、それだけで二人の間に何があったのか察したようだ。一旦、目をつむってからその眼差しを真っ直ぐ鷹矢に向けると、つかつかと彼の側に歩み寄った。
「辻、ごめん。俺……」
 言いかけた言葉は、鷹矢に遮られた。
「それ以上言うな。頭ん中じゃ、わかってたんだ。東倉が當麻を好きな事くらい……」
 鷹矢はゆっくりと立ち上がる。そしてその顔を由布の方に向けた。
「東倉。今さら遅いかも知れないけど、また元通り付き合ってくれるか? オレ、友達のオマエまで失いたくない」
 その言葉が終わるか終わらないかの内に、由布は金縛りが解かれたように鷹矢のもとに走り寄った。
「ワタシの方こそ逃げ出したりしてごめん。辻の気持ち、考える余裕無かった……」
 鷹矢は手元にある日誌を拾い上げると、由布の頭に『ボン!』と載せた。
「これで仲直り、な」
 ニッと笑う。
「うん、仲直り、ね」
 頭の上の日誌を胸に抱え直すと、由布もニッと笑みを返す。
「俺は?」
 自分を指差しながら薫が遠慮がちに尋ねた。鷹矢にクイクイと手招きされて、そのままヒョイッと首を伸ばす。
「いてっ! ててて……!」
 両耳を鷹矢につまみ上げられて、薫は本気で痛がった。これは演技じゃない。
「このクソ、幸せモン! 東倉をよろしくな!」
 わざと耳元で大きな声で言うと、鷹矢はポイッと捨てるように薫の耳から手を離す。
「……で、どこまでいってんだ? オマエら」
 鷹矢の問いに、薫と由布、二人の右拳が彼の顔面めがけて繰り出される。一瞬速く、由布の学生鞄を持ち上げて、体の前で構える鷹矢。二つの拳は、よくなめされた黒い皮に当たって鈍い音を立てた。
「ざーんねん!」
 勝ち誇ったように鷹矢が相好を崩した。
『ボスッ』
 鈍い音がして、笑った顔のまま鷹矢が前のめりになる。空手で鍛えた由布の左拳が、鷹矢の腹部にめり込んでいた。
「手は二本あるんだって……知ってた?」
 口の端を引き上げて由布の顔が勝ち誇ったような笑みを形作る。
「はい……今知りました」
 力なく笑った鷹矢の顔が痛々しかった。


 明るい陽差しに誘われるように、別段用事が無くても思わず外出したくなるような午後。薫風(くんぷう)が公園で遊ぶ子供達の歓声を乗せて、開け放たれた南向きの窓から入り込む。
 薫は由布の部屋に座っていた。『日曜家庭教師』のために来たのではない。大体、今日は土曜日なのだから。
「なんか落ち着かないな。女の子の部屋ってさ」
 薫は所在無さげに部屋を見回す。
「何言ってんのよ。今まで何度も来てるくせに」
 ダイニングから運んできたウーロン茶のおかわりを薫の目の前のテーブルに置きながら、由布はくすくすと笑った。
「今までは……ほら、家庭教師っていう名目があっただろ。何も用事が無いのに女の子の部屋にいるってのは、やっぱ落ち着かないよ」
「なんで? 昔はよく遊びに来たじゃない」
「昔と今とじゃ違うだろ。お互い成長したわけだし」
「そっかなー? じゃ、勉強でもする?」
 由布は上目遣いに薫を見上げた。
「……おまえ、そんなに勉強したいのか?」
 薫の声のトーンが低くなる。
「う。謹んでご辞退申し上げます」
 由布は渋い顔をすると、気分を変えるために目の前のウーロン茶をぐいっと一口、喉に流し込んだ。
「おい、それ……さっき俺が口つけたヤツ。オマエのは、まだお盆の上にあるぞ」
 薫の視線の先、お盆の上にはもう一つのグラスが乗っている。
「わっ、ごめん! どーしよ……間接キスしちゃった。ははは……」
 由布は、照れたように笑う。
「間接どころか、俺達、もうキスしてんじゃん」
 薫の言葉に、由布は硬直したまま真っ赤になった。
「み……倫子さん、今日は半日出勤だって言ってたから、もうそろそろ帰って来る頃なんだけどな」
 無理やり話題を変えるように、由布はドアの方を振り返った。
「そう言えば、久しぶりにおばさんの天津飯、食べたいなー」
 宙を見つめ、ボソリと薫がもらす。
「こないだ作ってあげたでしょ? 私のじゃ、不満なわけ?」
 薫の独白を耳ざとく聞きつけた由布は、ずいっと詰め寄った。
「そうじゃないけどさ、家庭教師してる間もおばさん、気ィつかって豪華料理作ってくれてただろ? チビの頃によく食べたあの味が忘れられなくてさ」
 取り繕うように笑顔を作ると、薫はまた夢見るような顔になる。
「はいはい。倫子さんに頼んであげるよ、天津飯」
 小さくため息をつきながら、由布はどうしてそこまでこだわるのか、といった目で薫を見上げた。
「どうせ帰っても一人なんでしょ? これから毎日、ウチで夕飯食べてけば?」
 もののついで、といった感じで由布は続ける。
「當麻クンが『かおるちゃん』だって知ったら、倫子さん毎日作ってくれるよ、きっと」
「そっかなー」
「あの人の性格は把握済み」
 そう言って、由布は小さく頷いた。
 また宙を見上げてしまった薫を横目に、ふいに立ち上がると、由布はジュエリーボックスを開いた。中から幼い日の友情の証、おもちゃの指輪を取り出す。
「この指輪もらった時は『かおるちゃん』は女の子だと思ってたんだけど……こんな男の子になって帰って来るとは思わなかったワ」
 指輪と目の前の薫とを交互に見比べる。
「今んとこ訂正。『男の子になって帰って来た』んじゃなくて、俺はもともと男!」
 『男』の所を強調して薫が抗議した。
 そうなんだ。女の子だと思っていた『かおるちゃん』は、モテ系の男の子になって帰って来た。由布の中では白鳥がお姫様になったようなもんだ。
「白鳥の湖でも踊りたい気分」
「勝手に踊ってろ」
 突き放した言い方とは裏腹に薫の瞳は優しい。それを見ているとあの場面が脳裏に蘇る。泣きながら追いすがったあの日。


『ゆうちゃん! 手だして!』
『なに、これ?』
『約束! いつかきっと会おうね。その時は……』



「あのさ、この指輪くれた時、『約束』って言ったよね? 覚えてる?」
 由布は一旦言葉を切り、手の中に握られた指輪に視線を落とす。
「トラックの音で聞こえなかったけど、あの後、なんて言ったの?」
 薫は一瞬、言葉を失ったが、観念したように口を開いた。
「……『その時はお嫁さんになってね』って言うつもりだったんだ。あん時は」
「……!」
 今度は由布が絶句した。
 そんな彼女を見て、薫は照れたように人差し指で鼻の頭を掻く。
「子供の……他愛ない感傷だけどな」
「じゃあ、今はそう思ってないわけ?」
「え? いや……その……」
 切り返されて、薫は言葉に詰まる。
「ま、許したげる。これから先、どう気持ちが変わるかわかんないもんね」
 ニッと笑うと、由布は意地悪く言い放った。
「いや、それは困る!」
 薫は慌てた。
「子供の頃からずっと好きだったんだぞ。今さら気持ち切り替えるなんてできないよ」
 こんな告白もくすぐったいけど気持ちいい。
「ふ……ふふふ……」
 由布は口元が緩むのを感じた。


 天津飯の材料があるか確認しようと階下に降りると、薫もついて来た。そして台所と続きになっているリビングのソファに腰を下ろす。
「あるある。後は倫子さんが帰って来るのを待つだけだね」
 由布はそこでククッと笑った。
「何?」
 薫が冷蔵庫の前で笑っている由布に目を向けた。
「倫子さん、きっとびっくりするよ。腰抜かすかもね。當麻クンが『かおるちゃん』だったなんてさ」
 再び由布が笑った時、玄関の開く音がした。
「あ、帰って来た」
 由布は薫に向かって目配せをした。
「ただいまー。ひゃー、疲れた疲れた」
 倫子さんは玄関に入るなり、上がり(かまち)にドサッと腰掛ける。
「こんにちは。お邪魔してます」
 リビングから薫がひょこっと顔をのぞかせた。
「ああ當麻くん、いらっしゃい」
「倫子さん、おかえりー」
 続いて顔をのぞかせた由布に向かって倫子さんは手招きをする。由布はいぶかしがりながら近寄って行った。
 倫子さんは由布の肩越しに薫に向かって営業用スマイルを振りまく。
「やっぱり彼氏なんだ?」
 由布に向き直り、小声でささやいた。
「この度、めでたくそうなったのっ。」
 由布も小声で言い返した。それから思い直したように作為的な笑みを浮かべる。
「あ、天津飯つくってよ。とびきりおいしいやつ。」
「なんだ、疲れて帰って来た母親をつかまえて、こき使うつもり?」
「當麻クンのリクエストなの! はい、ごちゃごちゃ言わないで作る!」
「……やな娘。誰が育てたんだろうね、まったく」
「見たい?」
 そう言って、由布は下駄箱の上に有った手鏡をさっと取り出した。
「……はいはい、ありがとさん」
 およそ感情のこもらない礼を述べ、重い腰を上げると、倫子さんは台所に消えていった。程なく、シャキシャキと材料を刻むリズミカルな音が聞こえだした。
「すみませんね。俺が久しぶりにおばさんの天津飯食べたいなんて言い出したもんだから」
 薫は奥の台所に向かって、本当にすまなさそうに言った。
「いいのよ。今日はお父さんも出張だし……あれ?」
 そこで倫子さんは、何かおかしい事に気づいたようだ。
「ところで……『久しぶりに』って、私ゃ、當麻くんに天津飯なんて作ってあげたっけ?」
 包丁を持ったまま、倫子さんが振り返る。
「やっぱ、わかんないですか?」
 薫がいたずらっぽく笑う。
「速水薫です。姓が変わって當麻になりましたけど」
「速水薫って……お隣のかおるちゃん……は女の子だったよね? ……ええっ?」
 倫子さんは口をパクパクさせているが後の言葉が続かない。薫の隣で由布が目に涙をためて、けらけらと笑っていた。


 薫る風――薫風が吹き過ぎていく。涙目で薫を見上げながら、彼と一緒なら、これから何かもっといい事が始まりそうな気がする由布だった。