〜序〜
女主人のもとを訪ねてきた男を取り次いだ女房は、両手をついて深く頭を垂れた。
「
蘇芳の君……」
脇息にもたれて座っていた女主人が、待ちかねたように、男の名を口にする。
蘇芳というのは、男のまとっている
襲に使われた色目の称である。寿ぎの色目とされるその襲で女人のように装い、長い髪を背に流している。男の白い肌は闇色の髪に映え、一層光り輝いて見えた。
素性を悟られないための女装束なのだろうと、女房はさほど気にも留めていなかった。
ここから先は、秘めたる事。女房は頭をあげ、それでも伏目がちに部屋を退出した。
「愛しい、あなた」
しどけなく肩から滑り落ちた
袿を直そうともせず、男の顔を見上げたまま、切なげに女はささやいた。
『ジ……ジジ……』
部屋を照らす燭台の灯りが、小さく
爆ぜて震える。
応えは無い。
座したままにじり寄り、女が体を寄せた。蘇芳は女の肩を抱くこともなく、ただ黙って立っている。
壁代の向こうで、ひゅうと風が鳴った。
香炉に焚かれた香木が、ほのかに薫る白い煙をゆるゆると吐き出していた。
「蘇芳の君」
いつまで待っても添えられる手の無い肩の寂しさに耐えかね、女が
面をあげた。
「今宵はあなた様と契りを結ぶ覚悟でおりましたものを……何故ここまできて、そのように
躊躇われるのですか?」
寄りそう影が壁代に映って、ゆらりと揺れた。
「貴女は……」
低い声が、切ない問いにやっと応じた。
「……わたしの何処に惹かれておいでです?」
くぐもった問いに、知れたこと、と女の声が笑んだ。
「その、女人と見まごう程の
顔も、優しく髪を撫でて下さるその手も、そのお声も……全てが愛しゅうございます」
「わたしがどこの素性の者とも知れぬのに、それでも愛しいとおっしゃって下さるか」
応える代わりに、女は立ち上がり、蘇芳の胸に頬を寄せた。
「
真名も素性も明かさぬというのに、この見目形だけで貴女はわたしを愛しいとおっしゃるのか」
衣越しに、直に響く声。
女の背は、柔らかな羽で撫でられているように蕩けた。
「あなたが妖しの者だったとしても、私の気持ちは変わりません」
女は蘇芳の胸に頬を寄せたまま、その顔を見あげた。
女人も羨む、血のように赤い唇。細く整った
頤が、僅かに動いた。
蘇芳は女の肩を強く抱いた。顔を近づけ、その首筋に唇を寄せる。肩から零れた黒髪が、はらりとその口元を隠した。
二つの影が、床にくず折れた……。
「――っ!」
声にならない悲鳴と共に、女の腕が蘇芳を押し返した。
今までの恍惚とした面差しは一変して、その眼には怖れが宿り、蘇芳に傷つけられた首筋からは紅い筋が流れ出している。
体を押し返された蘇芳は、ゆるゆると顔を上げた。
白い頬にかかる、乱れた黒髪。
赤く濡れた唇の間からは、鋭い歯が覗いていた。
「わたしが妖しの者だとしても、愛しく思うて下さるのではなかったのか」
もそり……。
蘇芳はゆっくりと立ち上がった。
「今宵は『朔』……。わたしの力を縛る物は、何も無い」
蘇芳の足が一歩、踏み出される。女は見開いた眼を蘇芳に向けたまま、衣を引き摺ってあとずさった。
彼の艶やかで黒々としていた髪は次第に色が薄れ、夜目にもまぶしいほどの
白銀へと変化した。見る間にその滑らかな白い額には、小さな突起が盛り上がって角となる。
「ひぃ……っ、夜叉……!」
女はまたも、あとずさった。
つい先ほどまではこの身に向かって愛をささやいていたその唇が、『夜叉』となじる。潤んだように見つめた眼が、今は怖れの色を宿して見開かれている。
血に濡れた赤い唇が、にっ、と弓形に捻じ曲がった。
――蘇芳の瞳が、金緑色に光った。
「まだお目覚めではございませんか」
朝の冷たく澄んだ大気が、それでも日の光に温む刻である。
あまり長居をして男の退出がままならなくなってはと、先の女房が女主人の部屋の外から、遠慮がちに声をかけた。
だが……女主人の応えは無かった。
「手水をお持ち致しました」
失礼致します、と部屋に入った女房が見たものは、おびただしい量の血痕と、引き裂かれた主の衣。
悲鳴を上げる女房の足元に、季節はずれの桜が一輪、冷たい風にその花弁を震わせていた。