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桜夜叉


〜二〜


 遠くを見やれば、険しい山々が一つの村を取り囲むようにしてそびえていた。その中でも一番険しい山。妖しの者が棲むと言われるこの山に、サクラは立っていた。ひときわ大きな桜の樹の下、ヒトならぬ異形のモノ――夜叉と向き合っている。
 サクラの手をとったまま、夜叉は彼女を見詰めていた。夜叉の名は、蘇芳といった。もちろん、本当の名ではない。纏った桜の(かさね)に使われた、色目の称である。名を問うたサクラに、その名で呼べと、夜叉は言ったのだ。
 見詰める瞳は闇のような黒色ではあるが、その奥に時折、金緑色の光が宿る。不思議な瞳だ。
 蘇芳の花嫁として、サクラは桜の郷の村人達の手によって差し出された。もう帰るべき場所はない。
 サクラの生まれた『桜の郷』と呼ばれる村は、都から近い場所にあるにも拘らず、険しい山々に囲まれて閉鎖的な暮らしを営んでいた。村の外れには鬱蒼とした林が広がり、その中に、『桜の宮』と呼ばれる大きな屋敷があった。林はその昔、桜の宮を守るための目隠しの役目を果たしていたらしい。今はもう使われていないその屋敷は、人の手が入っていないにも拘らず、長の歳月、朽ちることもなくそこに在った。
 二十年に一度、たった数刻の内に蕾だった桜が狂い咲くその日。桜の宮への供物として生娘が一人捧げられる。差し出された娘は、その屋敷の主の花嫁になるのだと伝えられていた。だがそののち娘を見た者がいないことから、村人達は、差し出した娘は夜叉に喰われてしまうのだと信じていた。
「こちらへ、サクラ」
 蘇芳の声が、サクラを招く。彼女は一歩、踏み出した。手をとられ、導かれるまま、サクラは歩を進める。怖くないと言えば、嘘になる。だがこのヒトならぬ夜叉の手しか、サクラが縋れるものは残っていないのだ。
「そなたはまだ、契りを交わしておらぬゆえ……」
 そう言って、蘇芳はサクラと繋がる腕をゆっくりと引いた。引かれる腕に導かれ、サクラの身体は蘇芳の桜の(かさね)へと引き寄せられる。禍々しいほどの美貌が、間近に迫った。
「や……っ」
 サクラは思わず身を固くして、その胸を空いている方の手で突き返した。
 相手は夜叉だ。先ほどよりも慣れたとはいえ、近付けばやはり恐ろしい。ましてや、自分は花嫁として差し出された身。契るという言葉の持つ意味が、分からないほど初心(うぶ)ではない。
「……ふ。契りと聞いて、臆したか」
 蘇芳が酷薄な笑みを、その唇に刷いた。
「案ずるな。契りとは約束。血の契りじゃ。なにも情を交わすわけではないわ」
 突き返す手をもう一方の手で絡め取り、蘇芳がその美貌を近づける。案ずるなと口では言っておきながら、その瞳はどことなく扇情的で、サクラの肌が粟立った。
「こうでもせぬと、そなた、わたしを裏切るやも知れぬであろう?」
 薄く笑んだまま、蘇芳は自分の袖の内へとサクラの身体を招いた。
「そなたはわたしのものじゃ。印をつけねばならぬ」
 そのまましっかりと抱き留められる。蘇芳が腰をかがめ、その顔がサクラのものと同じ高さまで降りて来る。
「どこに逃げてもそれと知れる、わたしの印を、な」
 闇色の瞳の奥が金緑色に光る。寄越された眼差しに、サクラはただ、その主を見返すことしかできなかった。見れば見るほど、引き込まれてしまいそうで、怖くなる。けれど、自分から逸らすこともできなかった。
「恐ろしいか……ならば目を瞑れ、サクラ」
 蠱惑的(こわくてき)な声色で、蘇芳が囁く。一層強く肩を抱かれ、言われるまま、サクラは目を閉じた。華の香りの風が、すぐ近くで湧き上がる。衿元に乱れかかる髪を、背に梳き下ろされた。
「……っ!」
 首筋に、突き破る痛みを感じた。驚いて瞼を開けると、蘇芳が自分の首筋に顔を(うず)めている。あまりのことに、サクラは声もなく、また抗うこともできずにいた。
 自分の首筋から、温かいものが流れ出ているのを感じる。そしてそれを、蘇芳の唇が舐め取っていることも。
「……っ、くっ」
 恐ろしさと羞恥に襲われ、サクラは顔を背けた。そんなところを人に触れさせたことなど、一度も無い。痺れるような首筋の痛みが、かろうじてサクラの正気を保った。だがそうしている内に、それだけではない、切なさにも似た感覚が、蘇芳の唇が触れた場所から、ぞわりと湧き上がる。彼女は耐えるように、眉根を寄せて強く目を瞑り、唇を噛んだ。
「もう良いぞ」
 どの位そうしていたのか。蘇芳の低い声が響く。いつの間にか、彼の唇は首筋から離れていた。
「どうじゃ、気分は悪くないか?」
 間近から覗き込む蘇芳の瞳は、何故か優しげに見えた。問われて息を吸い込んでみれば、いつもと変わりないように思える。自分の身に何が起こったのか、サクラには分からなかった。
 彼の唇は、(くれない)の血に濡れている。
「これが血の契り……夜叉とヒトとの、約束じゃ」
 そう言うと、紅い唇で蘇芳は艶然と笑んで見せた。
「そなたは、『亜』の世と現し世とを行き来できるようになった」
 腕を伸ばし、降って来た桜の花弁を、その手に受ける。女物の袿の袖が、ふわりと風に舞った。
「『亜』……?」
 その意味が分からなくて、サクラは蘇芳の言葉をそのまま返した。
「わたしの結界の内じゃ」
 手に受けた花弁を、そっと息を吹き掛けて飛ばす。蘇芳の手を離れたそれは、くるくると回りながら落ちていった。
「血の契りを交わして初めて、『亜』の世に入ることができる。結界を抜け、自由に行き来することもできる。印無きヒトには、それができぬ」
 ヒトの通れぬ道なのだと。それができるサクラは、もうヒトではないのだということなのか。彼女の肩が、微かに震えた。
「それでは、私は……もう」
「ただのヒトではない」
 瞠目したサクラに、蘇芳は短く告げた。
「……だが、夜叉でもない。血肉を欲せずとも生きて行ける。安堵したか?」
 続ける声色は、何故だか哀しげで。
 胸の奥を突かれたような気がして、サクラは言葉もなく、瞳を伏せてふるふると首を横に振った。
「ふ……」
 伏せた瞳の向こう側で、蘇芳が笑んだのを感じた。ゆっくりと、顔を上げる。蘇芳の白い指が、自らの唇を拭った。サクラの血は拭い取られたが、その唇には小さな噛み傷ができていた。
「その傷は……」
 サクラの手が、蘇芳の唇に伸ばされる。触れるか触れないかのところで、その指が躊躇うように握り込まれた。
「これか?」
 蘇芳はまたも笑んで、指先で傷をなぞる。その仕草がなまめかしくて、サクラは自分の鼓動が少しばかり速くなったのを感じた。
 指を唇に触れたまま、蘇芳の瞳が、サクラのそれを捉える。
「わたしの血を、そなたの身体の中に入れた」
 それが先ほどの血の契りだったのかと思えば、何故だかサクラの身体が熱くなった。
 ――血の契り。
 それはまるで、情を交わす男女の契りのようではないか。この身体の中に蘇芳の血が入っているのかと思い、サクラは自分の首筋が切なさに疼くのを感じた。
 細かく震えだしたようにさえ思える首筋を指先で触れれば、傷口の血は乾き始めている。突き破られた皮膚の痛みも、もう感じなかった。
「わたしの身体にそなたの血を、そして、そなたの身体にわたしの血を入れる。それが血の契りじゃ。」
 蘇芳は再び、サクラをその袖の内に招き入れた。怖いと思う気持ちが、薄らいで行く。夜叉の血が身体の中に入ったからなのか……それとも、あんな声色を聞いたからなのか。抗うことなく、彼女は蘇芳の招きに応じた。寿ぎの色目の袿が、サクラの身体を包み込んだ。
 桜の薫りが、鼻腔をくすぐる。蘇芳の袿に焚き染められた香の薫りなのだと、サクラは思った。
「参るぞ」
 小さな背を押すようにして、蘇芳はサクラを促す。
「――どこへ?」
 サクラは蘇芳を見上げた。二人並べば、蘇芳の顔はサクラのそれよりも随分上にあった。
「『亜』の世……我が屋敷、桜の宮へ」
 ――風が舞う。
 蘇芳の闇色の髪が、袿の裾が、風の中に踊った。身体を持ち上げられる感覚に、サクラは思わず目を瞑る。耳元では、風がうるさいほど()いていた。


 サクラは蘇芳と共に、山を降りた。
 夜叉の使う術なのか。風が止み、次に目を開けた時には、村の外れにある、桜の宮に立っていた。
 ここはつい数刻前、サクラが人目をかいくぐって逃げ出した場所だ。その時には大きな篝火がいくつも焚かれ、村人も大勢集まっていた。
 今目の前にある桜の宮は、そんな喧騒とは無縁の静かな佇まいを見せていた。篝火の焚かれた跡もなく、ただ静かにそこに在る。ここがヒトの入ることのできぬ蘇芳の結界の内――『亜』の世なのだと思い当たれば、それもそうかと納得した。
 サクラは屋敷をぐるりと見渡した。屋敷の庭にある大きな桜の樹が、雨のようにその花弁を散らしていた。それが泣いているようにも見えて、そこから目が離せなくなってしまう。散った花弁は池に落ち、水の流れに運ばれてどこぞへと去って行く。ここから逃げ出した時には、そこに桜があることにすら気付かなかったけれど。
 ――供物として捧げられる。
 それは何と恐ろしかったことか。縄で縛り上げられ、優しかった村人の変わり様に驚き、そして知らされた事実に絶望し……。
 その桜の宮に、自分は夜叉と共に戻って来た。
「……ふ」
 その皮肉に、サクラの喉の奥から笑いがこみ上げる。何が可笑しいというわけでもない。ただ……自分の身が、哀れに思えるだけなのに。
 笑いながら、彼女は自分の見る景色が水面に揺れているのに気付いた。
「何を、泣く?」
 蘇芳がサクラの瞳を覗き込んだ。禍々しい美貌が、すぐ近くに在った。
「泣いてなど、おりません」
 そう、サクラは言った。背を伸ばし、何度か強く瞬きをする。揺れていた景色は、しばらくの後に元に戻った。
 蘇芳が、ふ……と笑った。
「気丈な娘じゃ。そのように意地を張らずとも良いのに。泣きたいのなら、泣けば良い」
「意地など張ってはおりません」
 サクラは、蘇芳を睨み付けた。怖いという気持ちは全く無くなったわけではないけれど、随分と薄らいでいた。身体に入った夜叉の血が、そうさせるのかも知れないと、サクラは思った。
 睨み付けながら、この夜叉の身体にも自分の血が入ったのだと思い当たる。そうしてサクラは、自らの頬が熱くなるのを感じた。
 ――夜叉の花嫁。
 望んでなったのではない。けれど、それしか道が残されていないのなら、進むしかない。既にこの身はただのヒトではないのだと、蘇芳は言った。『亜』の世はヒトを受け入れない。それならば、ここにいられる自分は、既に……。
 こんなモノになってしまっても、それでもまだ生きたいと願う自分がいる。
 サクラは大きく息を吸った。それが少し、嗚咽のように震えていたことには、気付かないふりをして。


 その時、屋敷の奥が、ざわざわと騒がしくなった。中で話し声がする。その内に、一人の女が走り出て来た。長く裾を引く着物をたくし上げ、土がつかないようにして走り寄って来る。
「蘇芳の君……! 遅かったではないですか」
 サクラとそうは違わない歳の女だ。媚びるような声色で、蘇芳に近寄って来た。
「お帰りを、今か今かとお待ちしておりました。ささ、中へ、早く」
 華やかな笑顔の女だ。サクラなどまるで目に入っていないかのように、反対側の蘇芳の腕をとる。蘇芳の袿の袖に包まれたサクラが、不意のことに従い切れず、膝をついた。
 蘇芳の歩みが止まる。そこではじめて、女はサクラを見留めた。
「あら……」
 突き刺さるような視線に、サクラはたじろいだ。明らかに、蘇芳に見せたものとは違う眼差しは、サクラの頬をジリジリと焼いた。それが頬からサクラの首筋へと移る。
「新しい方ですの?」
 女の眉が、ぴくりと動いた。
「此度の花嫁じゃ」
 蘇芳は膝をついたままのサクラに手を差し延べ、立たせてやる。
「この間の花嫁は、気に入らずに喰ろうてしまったのでしたものね」
 さらりと、女の髪が揺れた。唇の端が引き上げられる。恐ろしい話をしているのに、この女は笑っているのか。サクラは女の顔を見つめたまま、瞬きをすることすら忘れていた。
「いろいろと、教えてやってくれ」
 蘇芳の手がサクラの背に添えられ、女へと押し出される。サクラは仰け反るようにして足を踏み出し、女の肩に頬をぶつけた。
「……痛いわね」
 吐き出されるような言葉に、サクラは身をすくませた。明らかに敵意のこもった声色。
「あまり苛めるな」
 くすりと笑って、蘇芳は先に屋敷の中へと入っていった。袿の裾が翻り、闇色の髪がふわりと舞う。その背に、桜の華が、はらはらと零れ落ちていた。
「あなた、名前は?」
 女が問うた。
「……サクラ」
「そう。私はアヤメよ」
 そう言って、アヤメはじろじろと不躾な視線を寄越す。サクラは一層身を硬くした。
「入って。今日からここが、あなたの住む処よ」
 面倒臭そうに言うと、アヤメは身を翻して先に屋敷の中に入って行った。サクラもその後に続く。上がり口で、自分が裸足のままだったことを思い出した。鼻緒の切れた草履は、山の木立に向けて放ってしまったのだった。
「あの、お水を……。足が汚れてしまっていて、このままでは……」
 アヤメの背中に声を掛ける。案の定、その言葉は無視されてしまった。
 代わりに、一目で侍女と分かる桜色の着物を着た女が、奥から進み出た。手には水を張った角盥(つのだらい)を捧げ持っている。
「どうぞ、お使い下さい」
 あまり抑揚のない控え目な声でそう言うと、手巾を持って傍に控えた。
 サクラは(きざはし)に腰を掛けると、角盥の水で足を洗う。そうして侍女が差し出した手巾でそれを拭うと、板張りの簀子(すのこ)に進んだ。
「アヤメさんは……?」
 侍女に向かって問いかけてみる。だが応えはなかった。


 桜の宮の中は、とても広かった。外から見るより、もっと大きく感じる。長い簀子を、侍女に案内されるまま、サクラは進んだ。どの室も御簾(みす)が下りたままになっているが、ヒトのいる気配はない。こんなに大きな屋敷だから使われていない室もあるのだろうと、サクラは思った。
 どのくらい歩いたのだろう。いくつもの角を曲がった先に、御簾が巻き上げられたままになっている室があった。侍女はその前の簀子に座ると、サクラに向かって手をついて深々と頭を垂れる。ここが自分に割り当てられた室なのだと、サクラは理解した。
 (ひさし)を通って中に入り、室内を見渡してみる。桜の色目の壁代で仕切られ、香炉台の上に見事な細工の香炉が置かれていた。そこからは薄く煙が流れ出ていて、桜の香の良い薫りがした。何もかもが桜尽くしであった。
 背後で、侍女が御簾を下ろして立ち去る気配がした。特に何も言葉を掛けられなかったので、サクラはそのまま室の中を眺め渡していた。
 隅に置かれた厨子棚(ずしだな)には、螺鈿(らでん)で桜の細工が施されており、その横に立てられた屏風にも、見事な桜の図が描かれていた。それらは一目で、贅を尽くした高価なものだと知れる。サクラの家は村でも二番目に格の高い家ではあったが、このような立派な調度は無かった。
「どうじゃ、気に入ったか」
 音も無く、御簾が持ち上がる。その向こうで、蘇芳がこちらを覗いていた。サクラは厨子棚に触れていた指を慌てて引っ込めた。
「アヤメには、逃げられたようじゃな」
 蘇芳は苦笑した。まるで最初から分かっていたかのように続ける。
「アレは、気が強いからの」
 口元に閉じた扇の先を当て、くっくっと笑った。
「あの方は……」
 そんな仕草も雅だ、などと思いながら、サクラは訊ねた。自分に向けられたアヤメの敵意は、嫉妬の念のようであった。
「かつてわたしに捧げられた、花嫁じゃ」
「え……?」
 あっさりと告げられた答えに、サクラは驚きのあまり、声をなくした。
 ――わたしに捧げられた、花嫁。
 蘇芳の花嫁として、自分はこの屋敷に連れて来られた。なのにもう、他に妻がいたなんて。夜叉の花嫁になるということを……それしか縋るものが無い事を、どんな思いで自分に納得させたことか。
 自分でも知らない内に、唇を噛む。力なく彷徨った視線が、床に落ちた。
 嫉妬などではなかった。だが、自分の居場所が無くなってしまったような気がした。
「ここには度々、供物として花嫁が捧げられる。あの者達は皆、そうして捧げられた娘達なのだ」
「あの者達?」
「声を聞いたであろう? 他にも妻はいる」
 妻が何人も。それはどういうことなのか。桜の宮の慣わしは、サクラも聞いて知っている。だがそれは、桜が狂い咲いた年にのみ、行なわれる筈。そしてそんな風に桜が咲くのは、二十年に一度の筈だった。
「けれど、アヤメさんは若かったではないですか。私とそんなに歳も違わない……二十年毎の花嫁なら、私よりもずっと年上のはず」
 この間の花嫁は、気に入らずに喰ろうてしまったのだと、アヤメは言った。そうであるなら、それを知っている彼女は、既に五十を過ぎていることになる。
 何か自分の知らない秘密があるのだろうか。それとも、ただからかわれているのか。
「夜叉と契れば……」
 蘇芳が唇を弓形に歪めた。それは美しい彼が見せる、酷薄な表情だ。ぞっとする程の冷たさを漂わせながら、けれども目が離せなくなってしまうような……。
「わたしと情を交わせば、あのように若くいられるのじゃ」
 酷薄な笑みを刻んだまま、試すように、蘇芳はサクラの目を見据えた。それを知ってしまった上で、そなたならどうするのだ……と問うているような、そんな瞳。
「どんな怪我もたちどころに治り、病にもならぬ。見目はいつまでも若々しくあり、歳を取らぬ。娘達はこぞってわたしと契りたがる」
 蘇芳は室に足を踏み入れ、その手から御簾をはらりと落とす。室の中には、先ほど血の契りを交わしたばかりの二人だけとなった。
 香炉からは、青白い煙が薄くたなびいている。それは時の流れさえも忘れさせてしまうように、ゆうるりと揺蕩(たゆと)うていた。
 サクラは蘇芳を真っ直ぐに見据えた。ここには他に、逃げ場はない。
『そなたはわたしのものじゃ。印をつけねばならぬ。どこに逃げてもそれと知れる、わたしの印を、な』
 先刻告げられた、蘇芳の言葉が蘇る。逃げられたとしても、印を持つ自分は容易く見つかってしまうだろう。
 蘇芳が近付けば、室の中に衣擦れの音がしゅるしゅると響く。サクラは一層瞳に力を込め、彼を睨み付けた。身体の距離は近付いても、心の中にまでは踏み込ませまいとする。
 そんなサクラの肩に、蘇芳の両手が掛かった。ぴくりと肩が動き、彼女は身体を硬くする。蘇芳の手に力が入り、意に反して、そっと身体を反転させられた。
「見よ」
 蘇芳は、厨子棚の上の鏡立てに掛けられた、手鏡の覆いを取った。そこに映るのは、唇を引き結んだままのサクラの顔。
「この若さと美しさを、いつまでもその身の上に留めておきたいとは思わぬか?」
 蘇芳が問うた。
 唇を引き結んだまま、サクラはふるふると首を横に振った。
 彼女の肩越しに鏡を覗き込んだ蘇芳の頬が、僅かに緩む。
「わたししか頼るモノが居ないと知れば、大抵の娘がわたしに媚びるというのに。そなたは違うのだな」
 ふわりと片手を上げれば、誰も手を掛けていないのに、するすると御簾が勝手に巻き上がる。
「そなたなら……」
 蘇芳の瞳が、鏡越しにサクラの瞳を射た。何かを探るように、その眼差しは微動だにしない。サクラは息苦しさを感じた。
 ややあって、蘇芳が小さく息を吐く。
「いや、望みとは無情なものじゃ。儚い望みなら抱かぬが良い」
 苦い笑みを唇に刻むと、蘇芳はまた部屋を出て行った。