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桜夜叉


〜三〜


 蘇芳は、自分の室である母屋の褥に座っていた。
――あの娘……――
 つい先ほどまで言葉を交わしていた、サクラを思った。
「ふ……」
 蘇芳の口から、笑みにも似た息が漏れる。
 今まで供物として捧げられながら、そこから逃げ出した娘などいなかった。皆、村人に諭され、言い含められて大人しくその運命に従った。その内の何人か――夜叉の逆鱗に触れて喰われてしまった者と、(なが)の若さを得られなかった者以外は、まだこの屋敷で暮らしている。
 脇息(きょうそく)に寄り掛かり、目を瞑った。
――アレは、変わった娘よの――
 桜が咲いた。ほぼ二十年に一度、宮の桜の樹がそれと決めた日に、郷の桜は一斉に狂い咲く。蘇芳は結界の内から、現し世に在る桜のむせ返るような気配を感じた。
 夜明けも近くなってから、桜の宮に供物が捧げられた。透し見の珠を使って覗いてみれば、此度の娘は縄で縛められている。無事花嫁となるのか、それとも……。
 相手が夜叉であると聞けば、臆さぬ者の方が少ない。臆してこの身をなじるなら、夜叉の血はその者を許さない。気が付けばいつも、引き千切られた着物の切れ端が乱れ散る中に立っていた。
 そのまま珠を覗いていると、娘はこともあろうに縄を解いて逃げ出した。遅れること、しばし。気付いた村の若者が、その後を追って行く。娘を追い詰め、骸にしてでも供物として捧げるのだと言った。
――(にえ)ではないと言うに――
 死んでしまっては花嫁にはならぬ。蘇芳は気付かれぬよう姿を消し、現し世の桜の樹の上にそっと降り立った。夜叉の訪れに、桜が騒いだ。
 ――糧を呼べと。
『助けて欲しいか』
 問うてみたのは、気まぐれだった。声が聞こえればよし、そうでなければそのまま斬られるのも致し方ないと思った。いずれまた時が来れば、次の娘が捧げられる。それまで待てば良いだけのこと。どうしてもこの娘でなければならない理由はない。
 呼び掛けてみれば、こちらの問いに娘は応えた。
 ならば、助けてやろう。術を使い、男達を桜に喰わせた。
『……ありがとう』
 礼など言われたのは、初めてだった。名を訊ねれば、サクラ、と応えた。
 ――桜の君。
 その昔、自分のものだった華の名を、あの娘は持っていた。
「……かと思えば」
 蘇芳は目を瞑ったまま、唇の端を持ち上げた。
 血の契りを交わし、他に頼れるモノはもう無いのだと知った後でも、娘は決して媚びなかった。夜叉と情を交わせば(なが)の若さを手に入れることができるのだと教えてやっても、首を横に振ってそれを拒んだ。こちらを睨みつけるその瞳は、花嫁となっても心まではやらぬと言っているようだった――。
 この娘ならば、もしや……と思ってしまったのは、おそらく己の望みが強いせいなのだろう。
  「わたしは、ただ……」
 そう独りごち、目を開ける。いつもの自分の室の中に、香の煙がゆるゆると揺蕩(たゆと)うているばかりだ。脇息に寄り掛かったまま手にした扇の先をすっと上げれば、目の前の御簾が触れてもいないのに巻き上がった。続いて蔀戸(しとみど)が持ち上がる。その向こうに、庭の桜が見えた。
 この桜は一年中華をつけ、散らしている。この『亜』の世に四季の移ろいはない。桜はいつの時も華を散らし、泣いていた。
「何が哀しい、桜?」
 蘇芳は夜叉となってからずっと共に在った桜に問い掛けた。結界の内である『亜』の世の桜は、何も応えない。ここに在るのは現し世の桜の影。何度問い掛けても、命無きモノが応えるはずもない。
 蘇芳は音も無く立ち上がった。(ひさし)を抜けて簀子(すのこ)に出る。空はカラリと晴れるでもなく、華曇りといった風情だ。
「のう、桜。わたしは……いつかこの呪縛から解き放たれるのだろうか」
 簀子の端に立ち、またも問うてみた。華が散る。桜は何も応えず、ただ泣き続けるばかりだった。


 蘇芳が出て行った後も、サクラはしばらく鏡を覗き込んだままだった。
 病にもならず、見目も変わらず……それは、不老不死ということなのだろうか。
――若さを保って、それでどうなるというの――
 いずれ終わりが来ると判っているから、人は限りある命を懸命に生きようとする。いつまでも終わることができないというのであれば、それはむしろ辛い事なのではないだろうか。
 けれど、喰われる事を思えば怖ろしさに身が竦む。蘇芳の機嫌を損ねれば、そんな事もあるのだろう。この先、自分の命がどのくらい続くのかは、彼の心次第という事になる。
 サクラは嘆息した。自分がどうすれば良いのか、またどうなってしまうのか……これからの事など何も見えて来ない。
 ただ――。
『ただのヒトではない。……だが、夜叉でもない。血肉を欲せずとも生きて行ける。安堵したか?』
 そう言った蘇芳の、哀しげな声色が思い出される。ヒトのもののように揺れた、禍々しくも美しい(かんばせ)が、鏡の中に映った自分の顔に重なって見えた。
「失礼致します」
 物思いに沈んで行こうとするサクラを、女の声が呼び起こした。重い心のまま、のろのろと振り返る。御簾の向こうに侍女らしき影が映った。
「どうぞ」
 そう応えれば、御簾が巻き上げられる。一人の侍女が、大きめの塗り盆を持って(ひさし)の内に入って来た。
「あなたは……」
 サクラはそれが先ほどの侍女である事に気付いた。侍女は何も言わずに盆を自分の脇に置き、深々と頭を垂れる。サクラは塗り盆に視線を移した。
 黒々と深い色で塗られた光沢のある盆の上に、美しい布地が載せられている。それは、女物の着物のように見えた。そう気付いて自分の姿を見下ろしてみれば、村人に無理やり着せられた形ばかりの婚礼衣装のままである。もとは少しは上質な着物であったのだが、あちこち汚れたそれは、婚礼の衣装というよりも死に装束のようだった。
「ふ……」
 思わず、サクラの口から哂いが漏れた。死に装束を纏う自分が、あまりにもこの状況に似合いだと思ったからだ。
 水面(みなも)に揺れそうになる視界の端に、いつの間にか頭を上げた侍女が、訝しげな顔をしてこちらを見ているのが映った。感情をあまり見せないこの侍女でもそんな顔もするのだなと、どうでも良い事を考えている自分が可笑しくなる。
「お召し替えを。お手伝い致します」
 怪訝そうな表情のまま、侍女が言った。いつの間に用意したものか、水を張った角盥(つのだらい)と手巾もそこに置かれていた。
 泥と血で汚れた顔と手を清め、丁寧に髪を梳られた。汚れて裂けた着物は全て剥ぎ取られ、単衣から順に着せられる。それまでに見たこともないような上質の布を纏わされ、サクラはどこかの姫のような出で立ちになった。着物には桜の香が焚き染められている。そう言えば、蘇芳の着物からも同じ薫りがしていた。ここでは皆、桜の香を焚き染めるのだろうか。
「あなたの名は、何というの?」
 もう一度、サクラは訊ねた。この屋敷に来てからずっと、この侍女は自分の世話をしてくれている。ならば、これからもそうなのではないかと思ったからだ。
 名を知らなければ呼びようがない。こちらから話し掛けたい事だって、この先無いとは言い切れない。
 侍女はサクラの目の前で両手をつき、深々と頭を垂れた。
「……シノノメと申します」
 抑揚はあまりないものの、先ほどよりも随分打ち解けた声色だ。
「そう……このお屋敷は、長いの?」
 サクラの問いに、シノノメは顔をゆっくりと上げた。ふるふると小さく首を横に振る。
「私はまだ、生まれたばかりですので」
 そうしてまた頭を垂れる。
「生まれた……どういうこと?」
 サクラは意味が判らなくて、訊き返す。(うちぎ)の裾を直しながらシノノメの前に座り、その顔を覗きこんだ。
「この宮の侍女は皆、蘇芳の君がお作りになられたのです」
 サクラに与えられたこの室からも、庭の桜を見ることができる。相変わらず華を散らし続け、時折風に乗ってそれが舞い上がるのが見えた。
 その内の一枚なのだろう。ひらひらと蝶が舞うように風に乗り、薄桜色の花弁が簀子の上に落ちた。
 シノノメがゆっくりと体を起こし、よく磨かれた板の上で震える花弁を見やった。膝行(しっこう)し、それを掌の上に拾い上げる。
「現し世の華のひとひらに蘇芳の君が息吹を拭き掛け、私は生まれました。新しい花嫁を迎える度、その方をお世話するための侍女が作られます」
 またも風が吹き、掌の花弁は何処かへとさらわれてしまった。
「あなたは、桜の精?」
 その行方を目で追い、サクラは訊ねた。シノノメが、また首を横に振る。
「……蘇芳の君の思念を形にしたモノ、と言った方が近いのではないかと」
「そう……」
 蘇芳は夜叉であるから、そんな事も容易くできるのかも知れない。ヒトではない彼の、不可思議な力の片鱗を見たような気がした。
「蘇芳の君は、もうどのくらいこのお屋敷にいらっしゃるのかしら」
 夜叉は長命だと聞く。蘇芳も長の歳月を生きているのかも知れないと、サクラは思った。
「現し世の桜が、数多(あまた)の春を迎えた程に」
 シノノメが両の手を揃えて、ゆうるりと頭を垂れた。
 桜の宮の他に、夜叉がいるという噂を聞いたことはない。ならば蘇芳はたった一人でそれだけの歳月を生きてきたのだろうか。寂しくはなかったのだろうか……。
『見目はいつまでも若々しくあり、歳を取らぬ。娘達はこぞってわたしと契りたがる』
 ああ、だから……とサクラは思い当たった。
 だからヒトの娘を花嫁にして、長の歳月を共に生きようとするのだ。夜叉と情を交わせば、ヒトの娘もまた、永の若さを手に入れることができるから。
「……いやよ」
 蘇芳の機嫌次第で簡単に取られてしまう命。終わることのない時をそんな恐怖と共に生きなければならないのなら、自分はヒトに許された分だけの命で良いと、サクラは思った。


 現し世はどうなっているのか。透し見の珠を使えば簡単に見ることはできたのだが、蘇芳はふと思い立ち、庭に降りる。薄闇の中、影絵のように沈む桜の樹に歩み寄った。
「相変わらずじゃの」
 華はハラハラと散り、落ちた花弁は池の水に揺蕩(たゆと)うて、何処ぞへと流れて行く。もうどれくらいそんな景色を見続けたことだろう。
 樹の幹を撫でながら、掌に気を込めた。結界がゆらゆらと揺らめき、現し世との境が薄ぼんやりと溶け合いだす。数瞬の後、蘇芳の体は現し世の桜の宮にあった。
 篝火が焚かれた跡が残る、現し世の屋敷の庭。今は誰もいないのか、人の気配は無かった。
 こちらの桜は既に大半の華が散り、枝が露わになっている。無限に華をつけることのできる『亜』の世と違い、現し世では限りある命なのだ。散るのがあまりにも早かったため、葉は華に追いつけずにいる。樹の肌ばかりが目立つそれは、遠目から見ればまだ春を迎える前の風情にも見えた。
 夜叉の力を使って見渡してみれば、郷の桜のほとんどが枝ばかりになってしまっていた。
 ――狂い咲いた華が散れば、桜の宮の主様が無事に供物を受け取った証。
 そう伝えられている。郷の者は皆、安心して家に帰ったのであろう。雪のように地面に散り敷いた真新しい花弁だけが、狂った春の名残を留めているばかりだった。
 その昔――蘇芳は何とかして呪縛から逃れようと、手当たり次第に娘をさらっては連れて来た。都の貴人の屋敷に忍び込んだことも数知れぬ。都に近いこの郷でも、娘をさらった。だがその度に夜叉となじられ、辺りは紅に染まった。
 行方知れずになった娘たちの噂と、新たな糧を得たように勢いを増す桜の不吉さに、人々は不安を隠せないでいた。郷では高名な御坊を呼んで何日も祈祷を捧げた。神がかった桜の樹の力を見抜いたのはその御坊の力だ。はるか昔に夜叉となり果てた若者の伝承と、桜の樹の不可思議な力とを繋ぎ合わせ、哀しい口碑(こうひ)が生まれた。
 以来、およそ二十年に一度、郷では娘を差し出すことで夜叉の哀しみを慰めることとなった。そしていつの頃からかその期限が近づくと、まるで催促するかのように郷の桜が一斉に狂い咲くようになったのである。
「桜……此度の娘は、わたしを救ってくれると思うか?」
 問い掛けても応えは無い。渡る風に枝が、ざわ、と啼いただけであった。


「失礼致します、サクラさま」
 シノノメの声だ。御簾のこちら側からは、あげたままの蔀戸から漏れ入る(ぼう)の月に照らされ、侍女の姿がよく見える。
「どうぞ」
 サクラは脇息に肘を預けたまま応えた。
「蘇芳の君がお渡りになられます。お仕度を……」
 御簾を巻き上げたシノノメが、簀子に座したまま深く頭を垂れる。サクラは息を呑み、そのまま言葉を失くした。
 花嫁となったならば、当然のことなのかも知れない。たて続けに色々な事が起こり過ぎて、一番大切な事を忘れてしまっていた。
 今この時間に蘇芳がここに来るという事は、共に朝まで過ごすのだろう。
――怖い――
 忘れた筈の恐怖が、足元から這い上がって来る。それでもサクラは、気丈に顔を上げた。
 シノノメが室を見渡し、調度の位置などを細かく直して行く。最後に新しい香を焚いて、御簾の傍に控えた。
 簀子を誰かが渡ってくる気配がする。さやさやと微かに聞こえる衣擦れは、蘇芳のものに違いなかった。
 サクラは畳から下りて板の間に座り、蘇芳を待った。程なく御簾の向こうに人影が映る。
「サクラ……よいか?」
 低い声が訊ねた。
「……はい」
 声が震えはしなかったか。両手を床について、深々と頭を垂れる。シノノメが御簾をこちら側から巻き上げて、蘇芳を迎えた。サクラの目の端で動く色彩は、相変わらず寿ぎの色目を表す蘇芳を使った桜の(かさね)だった。
「後はよい」
 御簾の内に入って来ると、蘇芳が侍女を振り向いた。小さく頭を下げると、入れ違いにシノノメが外へ出て行く。そうして、御簾を元通りに下げ、蔀戸を順に下ろしながら遠ざかって行った。辺りは次第に闇が濃くなっていく。
 サクラは顔を上げた。目の前に、蘇芳が座っていた。
 燈台の灯りだけが揺らめいている。その反対側に、二人の影が長く伸びてゆらゆらと揺れていた。
 それと判らぬように小さく息をついて、サクラは袿を肩から外し、単衣姿になった。上質な布地で作られた真っ白な単衣は、淡い燈台の灯りの中でも輝いて見える。
――これが私の婚礼衣装――
 そう思えば、少しは救われるような気がした。
「悲壮な決意をしたようじゃの」
 冷たい美貌で蘇芳が笑む。サクラは何も応えず、唇を噛んだ。
 蘇芳も立ち上がって女人のような袿を肩から外し、単衣だけの姿になる。掌をふわりと持ち上げると、外した着物がひとりでに衣桁に掛かった。
「さて……心は決まったか?」
 サクラの真向かいに座り、蘇芳が訊ねた。サクラは座したまま、暗闇に視線をふわりと漂わせる。
 彼は自分の決意を試しているのだろうか。永の命を得るために、真の花嫁になる覚悟――蘇芳と情を交わす覚悟ができたのか、と。
 自分の瞳が蘇芳の姿を捉えそうになり、慌ててサクラは視線を外した。大きくひとつ、息をつく。
「あなたがこの宮の主です。私の意志など訊かずとも、あなたがそう望むのなら、お心のままにすれば良いでしょう」
 どのみち自分に他の道などない。蘇芳の望みに抗えば、喰われてしまうだけなのだろう。
 蘇芳がふと、目を細めた。
「それでは駄目なのじゃ。無理強いしても意味はない」
 その声に諦めの念が混ざったような気がして、サクラは視線を蘇芳へと向けた。相変わらず禍々しい程に美しい夜叉が、こちらをじっと見据えている。その瞳が、つ……と揺れたように見えた。
 ――助けてくれ、と言われたような気がした。
「……何を?」
 思わずサクラは問うていた。蘇芳は判らないとでも言いたげに眉を上げ、サクラを見据えたままだ。
「いえ……、何も」
 夜叉が自分に助けを望むなど、ある筈も無いであろうに。サクラはそんな風に思ってしまった自分を持て余して、言葉を濁した。
「そなたが望まないのなら、わたしは何もせぬ。形ばかりの婚礼の儀式を行うだけじゃ」
 そう言って、蘇芳は立ち上がる。そのまま一人で帳台の内へと入ってしまった。
「そなたも来るがよい。案ずるな、何もせぬ」
 よく通る低い声で呼ばれた。サクラはずっとその場にいるわけにもいかず、それに従った。
 帳台の内で、蘇芳は横になっていた。そんなに広くはないその空間の中では、自然とお互いの距離も近くなる。サクラは蘇芳の隣に座し、静かに体を横たえた。すぐ隣――ともすれば触れてしまいそうな場所に、彼の単衣の布がある。こんな近くで夜叉と怖れられるモノと一緒にいる自分が、サクラは不思議だった。
 隣を窺えば、蘇芳は目を瞑っている。こうしていると、ヒトと何ら変わりはないように見えた。
「蘇芳の君……」
 小さく呼びかけてみる。目の端に、単衣の胸が上下するのが見えた。
「……なんじゃ?」
 ややあって、低い声が応える。続いてごろりと寝返りを打ち、蘇芳がこちらに体を向けた。
「あなたは……夜叉なのですか」
 思わずそんな問いが漏れる。訊いてしまってから、サクラは自分の愚かさに眉をひそめた。
「いかにも、夜叉じゃ。そなたも見たであろ? 指先一つで術を使う、この禍々しきモノがヒトに見えるか?」
 その声にまた哀しみが混ざったような気がして、サクラは思わず手を伸ばしていた。怖いと思う気持ちは、相変わらず続いている。けれど彼が時折見せるヒトのような表情に、そんな気持ちも何処か形を変え始めているようだった。
 伸ばした手が、蘇芳の頬に触れる。彼の瞳が驚いたようにサクラを捉えた。
「あなたの意に染まぬ私でも、生かしておくのですか」
 言いながら、いつの間にか涙が伝っているのをサクラは感じた。何が哀しいのか、自分でもさっぱり判らない。ただ判っているのは……蘇芳も自分も、こんな事を心から望んでいるわけではないという事。
「そなたは不思議な娘よの」
 蘇芳が、ふっと笑った。
「わたしから逃げたいのか、そうでないのか……よく判らぬ」
 彼の手が伸びて来て、伝う涙を指先ですくい取られる。サクラの頬が熱を帯びた。
「あなたは私を助けてくれました。婚礼も形ばかりのもので良いともおっしゃいました。あなたが夜叉であるなら、わたしの気持ちになど関係なく、思うままにするのではないかと……」
 指先に触れる彼の頬からは、温かな肌のぬくもりが伝わって来る。術を使うさまも見た。気に入らぬ花嫁は喰らってしまったのだという事も、アヤメとのやり取りで知った。けれど……。
「その昔、わたしもヒトであった。ヒトの心を信ずることができずに、夜叉に堕とされたのよ」
 そう言った蘇芳の瞳は、遥か彼方を見ているようであった。