> 桜夜叉 INDEX  > 桜夜叉
 

桜夜叉


〜四〜


 庭の桜の古木に背を預けるようにして、一人の少年がたたずんでいた。名を桜丸。その(かんばせ)は大層美しく、物語に出てきそうなほどの風情である。
 池の方を見やり、時折つまらなさそうに足元に落ちている小石をその中に投げ込んでいる。池を泳ぐ魚が驚いて逃げてしまうであろうに、少年はそんなことは意に介せず、それを繰り返していた。
 庭のそこかしこに植えられた桜は今が盛りで、時折吹く風に薄桜色の華を揺らしている。華の蜜に誘われて、空を飛ぶ鳥が、枝に下りた。くちばしで器用に華の根元にある蜜をついばめば、五枚の花弁が揃ったまま、華が舞い落ちる。張り出した枝から零れたそれは、池の水面(みなも)にしばし波紋を呼び、華の(いかだ)のように浮かんだ。
「桜丸、ここにいたのですか。探しましたよ」
 (きざはし)に続く簀子(すのこ)から、美しい女が手招きする。その姿を見留めると、桜丸の顔がパッと輝いた。
「母上! わたしをお探しだったのですか?」
 仔犬のように駆けて行く姿は、歳の頃七つぐらいだろうか。幼いながらも利発そうな(まなじり)には、童髪(わらわがみ)の乱れが掛かっている。
「まあ……」
 桜丸に母上と呼ばれた女は、扇で口元を隠しながら眉根を寄せた。
 母の名は、カズラ。桜丸の美しい(かんばせ)は、この母親に似たのだろう。白い肌は滑らかで、夜の髪も艶やかである。くっきりとした眉は意思の強さを表し、形の良い唇は、紅など差さなくとも濡れたように輝いて見えた。
 その美貌を曇らせながら、カズラは我が子、桜丸が駆け寄ってくるのを見ている。
「そのように走ってはいけないと、あれほど申したでしょう。転んでそのお顔に傷でも作ったら、どうなさるおつもりなのです」
 棘のある母の言葉に、桜丸はハッとした。
「はい、母上」
 たたらを踏むようにして一旦その場に止まると、桜丸はそろり、そろりと歩き出す。その様子を見て、カズラはやっと、その形の良い唇に笑みを刷いた。
「お父さまがいらっしゃったのですよ。久し振りですね、桜丸。綺麗に足を拭いて、母屋にいらっしゃい」
「父上が?」
 途端に桜丸の顔が曇る。輝いていた頬から、光が失せたように見えた。
「そのように、がっかりした顔をしてはいけません。お父さまは、立派な方なのですからね」
 カズラはそんな我が子を、どこか空々しい声で諫める。桜丸は唇を尖らせて、それでもひとつ、頷いた。


 桜丸の母であるカズラは、大層美しい女だった。それを自分でも良く分かっていて、若い頃は、どのような殿方でも虜にしてみせると思っていた。
 今でこそ、どこぞの姫君のような暮らしをしているが、彼女の生まれはあまり良いとは言えなかった。本来ならば家の格が違うからと言って相手にされないのだが、彼女はその美貌を存分に使って桜丸の父親に取り入ったのである。
 桜丸の父親は、他所に妻子のある男であったが、カズラの手管に乗せられて、彼女を都から程近いこの場所に、囲い者として置くことにした。
 桜の郷と呼ばれるこの村は、都から近い場所にあるにも拘らず、険しい山々に囲まれて閉鎖的な暮らしを営んでいた。中でも一番険しくそびえる山には妖しの者が棲むと言われ、余程の事が無い限り、村人はそこに入ろうとはしなかった。
 そんな曰くもあって、地位も財産もあるこの父親は、カズラとその息子を匿うのにこの郷を選んだのである。この郷には、そうした屋敷が他にもあった。
 カズラの方も、自分の贅沢な暮らしさえ成り立てば、桜丸の父親など必要とは思っていなかった。日頃はあまりこの父親のことを良くは言わないカズラを真似たかのように、桜丸もまた、父親に良い感情を持ってはいなかった。


 たまに立ち寄ったのだからと、三人は同じ部屋で食事を摂ることになった。だが母屋での親子の食事は、どこか空々しかった。桜丸は始終黙って俯いたままであったし、母親のカズラも微笑んではいても、その目は決して笑っていなかった。
 そんな中で父親だけが、此度の除目(じもく)で従四位の近衛中将に任ぜられたのだと上機嫌であった。
 桜丸が箸を置き、ため息をつく。箸の進まない我が子に、カズラが声を掛けた。
「おや、どうしたというのです? 甘葛煮は好きだったでしょう?」
 膳の上に箸もつけずに残ったままになっているフキの甘葛煮を見て、カズラは桜丸の顔を覗き込んだ。
「もう食べたくありません。あちらに行っても良いですか?」
 桜丸はそう言うと、ちらりと父親を見る。その視線をそれと分からぬように追うと、カズラは小さく息をついた。
「このところあまり気分が優れないようで……退出させてもよろしいでしょうか」
 父親の中将に気遣っているようには見えるが、そこには既にそうするのだという意思が感じられる。だが中将は、それに気付く様子も見せず、ただ頷いた。


 桜丸が行ってしまうと、カズラも箸を置いた。
「ところであのお話……進めて下さっていますか?」
 媚びるような瞳で、中将に少しばかりにじり寄る。美しい女の見せる笑みを愛情と勘違いし、中将は顔をほころばせた。
「うむ……考えてはいるのだが」
「あら、考えていらっしゃるだけなのですか?」
「あ……いや、それとなく当たってもみたのだが……」
 カズラの詰め寄るような声に、思わず中将も箸を置く。
「桜丸はまだ幼い。まだそのような話、持ち出さずとも良いであろう」
 少しばかり困ったような顔で、嘆息する。カズラの眦が、吊り上った。
「『まだ』ではなく、『もう』です。ぐずぐずしていたら、家柄の良い姫は、他の家との(えにし)を結んでしまうではありませんか」
 膝の上で拳を握り、中将に詰め寄る。その顔は、鬼の形相だった。
 カズラは今の境遇に満足していなかった。いずれはこのような辺鄙な郷ではなく、都に住んでみたいと考えている。生まれた子が見目麗しく育ってゆくに従って、半ばその望みを手にしたようにも思っていたのだった。
 桜丸は、稀に見る美しい子供だった。自身もそうであったように、その美しさを武器にすれば、もっと高みへと上ることができると考えていた。
「中将様もおっしゃっていらしたじゃありませんか。都の公達にも負けぬ程の美しい子じゃ、と。家柄の良い姫と縁を結ぶことができたなら、あの子は幸せになれるはず。あなたも父親でしょう? あの子の幸せを願ってはくれないのですか?」
 本心は隠して。我が子愛しさ故の願いなのだと、カズラは訴えた。
「……ならば」
 少し考え込んだ後、中将はカズラに向き直った。
「そこまでそなたがあの子のことを思っているとは知らなかった。ならば……」
 居ずまいを正す。
「あの子を我が屋敷に連れ帰っても構わぬか?」
 真っ直ぐに、カズラの目を見た。
 寄越される視線に、カズラは一瞬たじろぐ。
「それは……どういう?」
「桜丸を、我が屋敷で養育しようと思う。北の方には、姫しかおらぬ。桜丸がわたしの唯一人の男の子。このような郷で暮らすより、その方が桜丸にとっても良いと思うのじゃ。もちろん、そなたにはここで今まで通りの暮らしをさせてやる。こう言っては何だが、そなたの生まれはあまり良いとは言えぬ。北の方のいる屋敷で共に暮らすのは辛かろう。あの子の将来を思うなら、それが一番良いと思うのだが」
 北の方というのは、中将が共に暮らす、正妻のことである。もちろん名のある家の姫で、身分の上ではもとよりカズラが敵う相手ではない。その女に、桜丸を取り上げられてしまうというのだ。そして自分だけ、こんな辺鄙な郷に取り残されるのだとも。
 カズラはふるふると首を横に振った。
「いやでございます。桜丸を私から取り上げておしまいになるなど、鬼のすることではないですか」
 それでは自分の望みは叶わない。桜丸を足がかりに、もっと良い暮らしをするつもりだったのに。いつもならば、真綿にくるむようにして中将の機嫌を損なうことなく話を進めるカズラであったが、つい、感情が高ぶってしまった。
「ならば、これでこの話はしまいじゃ」
 中将は、鬼と呼ばれて少しばかり気分を害したようだ。唇を噛み締めるカズラにちらりと目をやる。
「今宵はこちらに泊まろうと思うておったが……やはり、やめにしよう」
 す、と衣擦れの音がして、中将が立ち上がった。
「妖しの者は、何も山の中にだけ棲むとは限らぬようだからの」
「……お待ちください」
 カズラが取り縋る。
「桜丸を取られてしまうと思って、つい口が過ぎました。お許し下さいませ」
 両手をついて、深々と頭を下げる。中将はひとつ息をついて、また座り直した。
「……よい。わたしも言い過ぎた。そなたの気持ちも汲んでやらねばならなかったな。子供を取り上げられる事ほど、母にとって辛いことはなかろうほどに。この話は、また今度にしよう」
 カズラの母としての気持ちを汲んだ中将は、その手を彼女の背に添える。カズラもまた、偽りの笑みをその唇に刷いた。


 母屋を出たものの、なんとなくその場を離れがたくて、桜丸は簀子から続く階のところに座っていた。部屋の中で、両親が話す声が聞こえる。ここに桜丸がいるなどと、考えてもいないようだった。
 話される事柄は、自分のことだった。父の屋敷に行かねばならないかも知れないと聞き、その胸はつぶれそうになる。
 桜丸は、母の傍にいたかった。ただひとり、自分を護ってくれる筈のその手。けれど母であるカズラは、あまり桜丸になど興味はないようだった。彼女が気に掛けているのは、カズラに良く似た面差しの、この顔。少しでも傷がつくことを厭い、子供らしい遊びもさせてもらえなかった。
 気に入るだろうかと案じながら摘んで行った野の花は、すぐに捨てられてしまった。綺麗に書けた書を喜んで見せに行けば、さして興味もないのか、墨が着物につくからと言って叱られた。
 いつも美しく在ることを強いられながら、自分はあまり愛されていないことを、幼いながらも桜丸は知ってしまっていた。
 けれどもそんなカズラでも、時折母らしく笑い掛けてくれることもあったのだ。
 その度に桜丸の心は諦めという自己防衛の(すべ)から引き剥がされ、儚い望みを持った。そしてその望みは、数刻ののちに、また砕かれてしまうのである。
「今日は珍しく母上がわたしを探して下さったと思ったのに」
 父に引き合わせるためだったのかと、桜丸は落胆した。
「甘葛煮だって……」
 甘葛煮は、母が好きなものなのだ。それを美味しいと言えば、母は笑顔を見せてくれる。さして好きでもないそれを、母の気持ちがこちらに向くことだけを願って、いつも自分は好きだと言っていたのに。
「母上は、わたしなど要らないのだろうか」
 階の上で膝を抱え、桜丸は庭に目をやった。
 ひときわ大きな桜の古木が、薄桜色の花弁をハラリ、ハラリと池に舞い散らせている。
――まるで涙のようだ――
 何度も泣いて、自分はもう泣くことも忘れてしまった。母の傍に居たくとも、それが叶わぬことの方が多かった。屋敷に仕える侍女が優しく接してくれても、それは務めとしてのことであって、桜丸を心底大切に思ってのことではなかった。
 桜丸は泣いた。何度も何度も泣いて、もう心のどこを突付いたら涙が出るのかも忘れてしまった。
 ハラハラと、花弁が散る。
 代わりに桜が泣いてくれているような気がして――桜丸はフラフラと階を降りた。
「桜……わたしはいずれ、何処かにやられてしまうのだろうか」
 自分と同じ名を持つ樹に向かって、桜丸は問いかけてみる。もとより応えなど期待してはいない。ただ、応えの代わりに散り続ける花弁が、自分のために桜の樹が泣いてくれているような気がして、桜丸はもっとよくそれを見ようと近付いて行った。


 膳が下げられ、中将は母屋の帳台の内でうつらうつらと居眠りを始めた。
 カズラは試みが失敗したことを悟った。夫である中将をあてにすることは、もはやできない。こうなったら、是が非でも桜丸を都に連れて行って、どこぞの姫に見初めさせ、良い縁を得るしかないと思った。
「桜丸……?」
 カズラは我が子を探した。とっくに対屋(たいのや)に戻っていると思っていたが、侍女達は見掛けなかったと言う。既に日は傾き始めている。屋敷の中では、燭台に灯が入る頃だ。
 カズラは階から、暗くなり始めた庭に下りた。高貴な姫ならば決してしない事ではあるが、もともとあまり良くない育ちのせいで、庭に下りることなど何とも思わなかった。
 中将にあてがわれた屋敷の庭は広い。このような広い屋敷を得ても、またカズラの気持ちは満足してはいなかった。いつかは都で暮らしたい。そんな思いが、桜丸を手駒として使うことに、何の躊躇いも感じなくさせる。
 庭には季節の花々が誇らしげに咲き、春の訪れを告げている。そんな中でひときわ美しいのは、桜だった。春に生まれた我が子に、迷わずその樹の名をつけたのも、美しいモノを愛でるカズラの心を表していると言えよう。
「……桜丸?」
 池を見渡せる場所まで来ると、もう一度カズラは我が子の名を呼んだ。ここは桜丸が好きな場所だ。よく桜の古木にもたれて、池を眺めているのを目にすることがある。
 舞い散る花弁は、雨のようだ。
 頭の上で、ガサリと音がした。
 カズラは導かれるように、仰向いた。


 いつの間にか、眠っていた。自分を呼ぶ声に、桜丸は樹の枝の上で、薄く目を開けた。
 桜の涙に誘われるようにして、古木のところまで歩いて来た。幹に手を触れれば、ザラリとした感触を寄越す。トン、と背を預けると、桜は一層たくさんの涙を零した。
――このまま、桜になってしまいたい――
 そうしたら、また自分は泣けるようになるのに、と幼い桜丸は思った。
 ザラリとした幹に足をかけ、小さな手で身体を導いて、桜丸は樹によじ登った。本来なら何でもやってみたい盛りの男の子だ。母に止められているとはいえ、こうして時々は桜の樹に登ってみたこともあった。
 枝の上から眺めてみると、自分がまるで桜の樹の一部になったような気がした。枝が大きく張り出しているところに腰を掛け、上体をそっと横たえる。桜が自分を抱いてくれているような気がした。
 そのまま静かにしていると、次第に瞼が重くなり……そして桜丸はつい、まどろんでしまったのだった。


「……桜丸?」
 自分を呼ぶ声が聞こえた。
 それはどんなに焦がれてもこちらを向いてはくれぬ、母のもののように思える。
 心地よいまどろみから無理やり自分を引き剥がすと、足下に母の姿があった。
 こんなところを見つかったら、また嫌われてしまう。桜丸は慌ててもっと上の枝によじ登ろうとした。
 足が枝を捉えたと思った。力を入れて、身体を押し上げようとする。だがその足は、樹の皮の上で滑った。
 身体がふわりと浮いたように思えた。
 垂れていた童髪が、着物の袖が、風を孕んで舞い上がる。
 桜の華が、小枝が、頬を打った。
『ザッ!』
 桜丸の身体は、切り取られた花の首が転げるように地面に落ちた。
 桜の花弁が一斉に舞い散った。


「桜丸っ! 誰か、桜丸がっ!」
 カズラの尋常ではない声に、帳台の内で眠っていた中将が飛び起きた。
 沓を履き、階から飛び降りて来る。池のほとりで、カズラが顔色を失って立っていた。
 その足下を見れば、桜丸が横たわっている。だがその顔には血の気がなく、足も手も、あらぬ方向に折れ曲がっていた。
「桜丸、桜丸――っ!」
 カズラは、我が子の身体を抱き起こした。
 ――この子だけが、望みだったのに。
 ――この子だけが、自分を今の暮らしから引き上げてくれる、駒となる筈だったのに。
 べっとりと血のついた頬は、桜丸の怪我が酷いことを意味する。
「桜丸っ!」
 呼んでも応えぬ我が子を、カズラは強く揺さぶった。中将の手が、カズラを制した。
「そのように揺すってはいけない。そこに、静かに寝かせるのじゃ」
 自分を制する手から中将の顔へと視線を移し、カズラはやっとそこに自分の夫がいることに気付いた。
「中将殿っ、桜丸が!」
「動かしてはならぬ。わたしが馬で駆けて行き、医者を呼んで来よう」
 そう言うと、中将は馬を引き出しに行ってしまった。少しの供を連れて、早駆けして行く騒々しい音が聞こえる。
「桜丸……」
 残されたカズラは、その場に屈み込み、血の気の失せた我が子の頬を撫でた。
 愛しいと思ったことなど、一度もない。纏わり付いてくれば、鬱陶しいだけであった。ただ自分の望みを叶えるために、必要だった子供。自分の意のままに操るために、愛しいふりもした。だがそれも長続きはせず、子供らしい我がままの片鱗を見せられれば、やはり鬱陶しいと遠ざけてしまう。
 カズラは確かめるように何度も桜丸の頬を撫でた。幸いその顔には、傷はついていなかった。頬についた血は、耳や頭からのもの。ただその美貌が無事だったことにだけ安堵する。だがすぐさま、その胸が上下していないのに気付いた。
「い……や」
 カズラの手が止まる。
 失われてしまう。この身を高みへと引き上げてくれる、手の内の駒が。
「嫌っ、桜丸!」
 動かない我が子の身体に、カズラは取り縋った。
 ――ハラリ。
 ハラ……ハラリ。
 薄桜色の花弁が、傷ついた子供の身体に舞い散った――。


 ――(いびつ)な愛情で結ばれたヒトを、桜が見ていた。


 華が、散る。
 ハラハラと、華が散る。
「助けて……」
 弱々しい声で呟き、カズラは天を仰いだ。
 ――ハラリ。
 華が、散った。ひとひら、ふたひら……。
「……助けてっ」
 カズラの頬を、涙が伝う。
「誰か、この子を助けてっ!」
 天を見つめたまま、袖の内で拳を握り、カズラは叫んだ。
『ザ……』
 風も無いのに、零れる花弁がその向きを変えた。後から後から増えるそれは、さながら花吹雪のようである。まるでそれ自体に意思があるかのように渦を巻いて、辺りを薄桜色に染め上げた。
「……っ」
 カズラは自らの袖で、顔を覆った。よろりと足下がふらつけば、その身体は桜の花弁に押されるようにして、トン、と背が幹に当たる。桜丸の姿は、薄桜色の渦の中に見えなくなった。
『……欲しいか?』
 どこからか、声が聞こえた。カズラは辺りを見回す。だが彼女の周りには薄桜色の闇があるばかりで、声の主の姿を見ることはできなかった。
「何を……?」
 思わず声が漏れる。花弁はこんなに荒れ狂っているというのに、不思議とカズラの身を傷つけることはなかった。
『助けて欲しいか?』
 またも響く、声。それは神々しい響きを持ちながら、どこか禍々しくさえあった。
「誰?」
 助けて欲しいかと、問う声。それはヒトのものではないように思える。カズラは臆しながらも、見えない相手に向かって訊ねた。
 桜の花弁は、今も荒れ狂ったようにカズラの周りで渦を巻いている。
『わたしは、桜だ』
 声は言う。カズラは思わず、背にした桜の樹を見上げた。
――桜が口をきいたと言うの? 馬鹿馬鹿しい。妖しの者でもあるまいに――
 そう考えたカズラの瞳が、薄桜色の闇の中、ほのかに禍々しい色を帯びる。
 ――妖しの者。
 この郷を見下ろす険しい山には、妖しの者が棲んでいるというではないか。それならば、桜が口をきいたとて、何の不思議もないのかも知れない。
 こんなに美しく咲く華のことだ。どのような妖力を秘めているのか、知れたものではない。
 カズラの唇の端が、歪んだ形に引き上げられた。
 望みが叶うかも知れない。
 今、その命の灯を消そうとしている桜丸。この子が助かれば……もっと良い暮らしを手に入れるという望みが、また自分のもとに戻ってくるのかも知れない。
 カズラは、歪んだ笑みのまま、言った。
「この子を助けて……桜」


『ザア――ッ!』
 舞い踊る花弁が、その勢いを増した。カズラはまたも、自らの袖で顔を覆う。美しい顔に傷でもついたなら、中将に嫌われてしまう。そうしたら、この屋敷からも追い出されてしまうかも知れない。
 だが今度は、顔を覆った袖を、花弁が裂いた。
「……っ!」
 後から後から狂ったように踊る華の渦は、次第にカズラに迫ってくる。
「や……っ」
 逃げようにも、背中はもう桜の樹に押し付けられてしまっていた。
 目の前に、薄桜色の闇が迫った。
「――っ!」
 聞こえたのは、悲鳴だったのかも知れない。
 全てが収まった後には、引き裂かれたカズラの衣と、呆けたように虚ろな瞳を空に向ける、彼女の子供が残されているのみであった。