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桜夜叉


〜五〜


 父親である近衛中将が医者を伴って帰って来た時には、辺りには元の静けさが戻っていた。
 ただ違っていたのは、母親のカズラがどこにもいないという事だった。引き裂かれた衣だけが残されていたが、それが何の仕業によるものか、見当もつかない。近衛府に勤める中将にも、このように衣をズタズタに引き裂かれた事例など、心当たりは無かった。
「妖しの者の仕業か……」
 険しい山に棲むという、妖しの者。それがこの屋敷に入り、カズラをこのような目に遭わせたというのか。これほどまでに引き裂かれた衣を見れば、それを纏っていたカズラが無事で居るとは思えない。喰われてしまったか、それともあるいは……。
 妖しの者は、似たような心根の者を同族として引き入れることもあると聞く。
「アレは……カズラは、哀しい女だった」
 カズラもまた、その系譜に名を連ねたのかも知れないと、中将は思った。
 桜丸は、呆けたような風情で、そこに居た。桜の古木の下で、ただ木偶人形(でくにんぎょう)のように立っていた。
 あらぬ方向に折れ曲がっていた手足は、何もなかったように元通りになっている。血に濡れた頬はそのままであったが、傷を負っている様子はなかった。
 不思議なこともあるものだと訝りながら、それでも伴って来た医者に診てもらったものの、どこにも変わったところは無かった。
「とりあえずは、そなただけでも無事で良かった」
 中将は我が子を抱き締めた。桜丸は、まだ呆けた顔で、ただ黙ってされるがままになっていた。
 カズラのことは、屋敷の者にも口外しないよう厳重に言い置いて、中将は我が子を連れて、その日のうちに郷を出た。そして桜丸は、中将の屋敷に引き取られることとなったのである。


 泥をこねて造った舟が、次第に寄せる波に崩され、呑まれていくように。
 中将の家にはそれからたてつづけに悪いことが起こり、しまいには流行り病で皆、死に絶えてしまった。あの日から、七年の後のことである。都でも人が次々と死に、他家のことになど構っていられる状態ではなかった。
 桜丸は病を得たものの、かろうじて生き残った。中将の家はそのまま桜丸の物となり、あの桜の郷にある屋敷も彼が所有することとなったのである。
 中将が亡くなった後、家人は徐々に減り、最後には少しばかりの侍女や家人が残るのみとなった。桜丸はまだ位も低く、昇殿も許されていなかった。加えて彼の母も良い家の出ではなかった。当然、後ろ盾となってくれる貴人などいない。
 世を渡って行くために、彼ははからずもその美貌を使うこととなる。
 ――かつて自らの母親である、カズラが望んだように。


 彼が生まれ育った屋敷は、林の中にあった。郷のはずれにあり、見事な桜の古木があったことから、郷の人々からはいつの間にか『桜の宮』と呼ばれるようになっていた。そしてその屋敷を所有する桜丸は、長じて桜の君と呼ばれるようになった。
 桜の君、十七歳。
 美しく、だがどことなく冷徹な印象を見る者に与える若者である。泰然として何物にも動じず、物事に執着もしない。それは人に対しても同様であり、冷たい印象を与えた。
 都ではそんな美貌の君の噂が、貴族の姫の間で囁かれる。
 決して高貴な家の出ではないけれど、その物腰はまるで高位の公達のよう。冷たくされてもなお、彼の君を恋い慕う者も多いのだと。
 どうにかして彼の君の想い人になりたいと、姫達は躍起になった。だが彼は、高貴な家の姫の許にしか通わないとのことであったし、何よりその恋の噂が長くもった試しはなかったのである。


「桜の君」
 女の呼ぶ声がする。桜の君は、簀子(すのこ)に座って、御簾の向こう側を伺い見た。
「御簾を……」
 女の声が終わるや、上質な布で飾られた御簾が侍女の手によって巻き上げられる。桜の君は優雅な仕草でスッと立ち上がると、その内に消えた。
 侍女が御簾の外側から、手をついて頭を垂れる。今宵の逢瀬の仕度が全て整ったのを確認した後、衣擦れの音を残して彼女は退出した。
 ちろちろと揺れる燭台の灯りが遠ざかる。桜の君は、帳台の内に進んだ。そこにはいかにも家柄の良さそうな、だが好色そうな女の姿がある。歳の頃は、桜の君よりも少しばかり上か。
 女は桜の君に妖艶な眼差しを向けると、紅い唇を弓形に歪めた。
「今宵も貴方は美しいわ」
 それはまるで女人に向けられる言葉のようだ。
「萩の方、貴女も美しくていらっしゃる」
 桜の君も、唇に笑みを刷いた。
 燭台の灯が、じじ……と揺れる。
「夫が通って来なくなって、もう半年。私も女盛りを一人寝で過すのは、辛いの。都で噂の貴方が私の許に通って来ていると知ったら……あの方は少しくらい、妬いてくれるかしら?」
 萩の方が笑みを深くする。それはまるで妖しの者のように、禍々しくもあった。
 桜の君は、その笑みを随分昔にも見たような気がした。
 そう、あれは……。
 母、カズラの美貌が、女の顔に重なる。  桜の君を愛してくれることもなく、ただ自分の為にだけ生きていた母。父である中将を愛していないことは、子供心にも判っていた。
 そしてどういうわけか、突然消えてしまった母。
 目の前で妖艶に微笑む女も、この自分を愛してなどいないのだろう。ただ夫への面当ての為だけに、こうやって桜の君を寝所に引き込むのである。
 だが桜の君は、そんなこともどうでも良いと思った。
 愛していないのは、こちらも同じ。人を愛する気持ちなど、とうの昔にどこかに置き忘れて来てしまった。
 そう、多分……母に愛されていないと感じた、最初の日に。
「萩の方」
 低い声が、女を呼ぶ。
「桜の君……」
 帳台の内、二つの影が折り重なってくず折れた。


「次はいつ来てくれますか?」
 咲き初めの花のようなまだ幼い姫が、退出の仕度をし始めた桜の君の袖を引いた。
「さて……ひと月後か、ふた月後か。他の方々のところにも通わなければならぬゆえ」
 直衣姿も凛々しい桜の君は、姫の想いを見越した上で、つれない言葉を告げる。
「そんな……昨夜は、私ひとりだと、仰って下さったではないですか」
 姫の瞳が水面(みなも)に揺れる。
 桜の君は姫の目の前に屈みこんだ。
「葵殿」
 耳に心地良い声が、姫の名を呼ぶ。袖を引く手が絡め取られ、桜の君の手の中に包み込まれた。葵の頬に、さっと赤みが差す。
「わたしが通う宛は、何もそなたひとりではない。そなたは初めてだったからお判りではないと思うが、恋とはそのようなもの。あまた居る人々の中で、たった一人と縁を結ぶというのは並大抵の想いでは駄目なのじゃ」
 告げる言葉は酷いものだったけれど、桜の君の唇が笑みの形に引き上げられれば、葵の心の臓は鼓動を速くする。
「ならば、いつかは私ひとりとお決めになって下さるかも知れないのですね?」
 縋るような瞳で、高貴な姫は言った。
「さあ……?」
 やんわりと手を解くと、桜の君は目を細める。
「面倒な女は、好きではない」
 そう告げた桜の君の瞳には、かつて母が自分に向けたものと同じ色が宿っていた。


「ふ……」
 牛車の中で、桜の君は口の端を歪ませた。
 噂の君に逢え、それがその噂に違わぬ美貌の君だと知れば、女達はみな自分を欲しがる。だがそれは、桜の君を本当に愛したのではない。
 夫に夜離(よが)れされたと嘆く女は、ただ自分の価値を試したいがために桜の君を寝所に招く。
 また初心(うぶ)な高貴な姫は、噂の君と寝所を共にできたというだけで有頂天になり、この身の全てを我が物にしようとする。母に取り縋って拒まれた幼い日が蘇り、そんな姫を鬱陶しいとさえ思ってしまう。
 あまたの女の(もと)を訪れたが、桜の君の心を満たしてくれる者は居なかった。どうせ得られぬものならば、最初から望まなければ良い。人の愛情など、所詮は形の無い不確かなもの。そんなモノに縋って生きる人々が滑稽に思えた。
――わたしの手の中には、そんなモノは一度も降りてこなかった――
 その美貌と甘い言葉で人の心を惑わし、冷たくしてもなお取り縋る女達を見れば、満たされない心が少しだけ救われるような気がした。そうやって自分は望まれているのだと思うことで、桜の君は自分の価値を確認することができた。
 そんな事を幾度か繰り返し……いつしか彼は、歪んだ愛情の計り方しかできなくなってしまっていた。


 牛車が、ガタンと音を立て、何かに車輪をとられた。咄嗟に身体を庇ったものの、激しく揺れたせいで、桜の君は頭を打ち付ける。
「どうした?」
 牛車の中から、桜の君は従者に問いかけた。だが答えは無い。不審に思って外に出てみると、そこには一人の女と、その連れの男が居た。その足下には、従者達の骸。女の連れの仕業らしい。
「誰じゃ?」
 凜とした声で、桜の君は問うた。女が一歩、こちらに歩み寄る。
「そなたは……」
 よく見知った女が、そこにいた。
「私は貴方を千秋の思いで待っていたというのに……どなたの処からのお帰りなのですか!」
 動き易いように下々の者が着るような物を身に着けてはいるが、この女も高貴な家の姫だった。それが今、懐剣を構えて桜の君をにらみつけている。
 深窓の姫が、このような夜に徒歩(かち)で出歩くなど、あってはならない事である。だがそれを厭わぬ程、桜の君に心を寄せているということか。
「……」
 桜の君は、ただ相手を見ていた。
 気まぐれに睦み合った女だった。「愛している」と、耳元で偽りの言葉を囁いたのはいつのことだったか。この女も数多(あまた)いる物差しのひとつ。自分の価値を確認する為に利用しただけなのだ。
「桜の君、私は貴方を愛しているの。私一人を愛していると言って下さい。そうしたら、父に頼んで貴方の家を再興することだってできる」
 妖しの者に魅入られたように。必死の形相で、女が言った。
 桜の君は、小さく息を吐いた。
「そなたも同じか。わたしを愛していると言いながら、わたしを試す。対価を払うから、わたしの心を寄越せと言う。だが……わたしの愛を得られぬと知れば、この身を憎むのであろう?」
 そこに構えている懐剣がその証拠じゃ、と、桜の君は薄く笑った。
「わたしがそなたの意のままにならぬと知ったら、殺すつもりか?」
 酷薄な笑みを刻んだまま、桜の君は自らも刀を抜いた。
 ――築地塀から伸びた枝から、桜の花弁が舞い散っていた。
 男が、動いた。桜の君の刀が澄んだ音をたてた。男の刃を鍔で受け止め、ギリギリと捻じ込むように競り合う。父が近衛府にいたのは伊達ではない。その子である桜の君も、父に武芸を習っていた。まだ昇殿を許される身分ではないが、自らも近衛府に籍を置く身。
 負けはしないと思っていた。
 ――女が動くまでは。
 唐突に、女が走り寄る。その手には、懐剣が握られたままであった。
「う……っ」
 その刃は桜の君の身体に深く食い込み、臓腑を貫いた。
 愛情がいつの間にか、憎しみに変わる。女のそれは、とても深かったのだろう。勢い余って、女も自らの刃で手に傷を負った。
「あ……あ……っ」
 桜の君の身体に懐剣を残したまま、あまりの痛みにその場にうずくまる。女の手は、どちらのものの血にか、紅く濡れていた。
「姫!」
 男の気が逸れる。
 ――刹那。
 桜の君の刃が、相手の身体を裂いた。一言も発せず、男はその場にくず折れた。
 女はうずくまったままである。桜の君は、懐剣の柄に手を掛けると、痛みに霞む目を見開いて一気に引き抜いた。女の目の前に自らの血で紅く染まったそれを放る。
「ひ……いっ」
 腰が抜けてしまったのか、地面の上で無様に転びながら、女が後退る。
 桜の君の身体が、ゆらり、と揺れた。
「わたしを……本当に愛……する者など……おらぬ」
 低く呟いた声は、まるで呪を唱えているようだった。女は桜の君を見上げたまま、身を固くする。
 傷ついた臓腑から血が溢れ出た。形の良い唇からも、一筋の紅が滴り落ちる。烏帽子が飛び、乱れた髪の合間から覗く瞳は、もう女の姿など見てはいなかった。
 苦しい。息が熱い。
 霞む目で見やれば、事切れた男が女と共に乗ってきたのであろう、一頭の馬が築地塀の傍に繋がれていた。
 桜の君はヨロヨロと歩み寄り、馬上にその重い身体を引き上げる。鞭をくれると、馬は勢い良く走り出した。
 その合間にも、桜の君の身体はどんどん冷えて行く。大量の血を失ったからであろう。気を失わないのが、不思議に思えた。
 馬は桜の君の屋敷には向かわなかった。都を抜け、次第に人の気配の無い山へと向かって行く。
 桜の君は馬の首に上体を預けるようにしていた。目を瞑り、傍目にはその意識があるのかどうかさえ判らない。だが一面桜に覆いつくされたその郷についた頃、桜の君はようやく瞼を開けた。
 母と暮らした懐かしい屋敷――桜の宮の門前に、彼は居た。


 桜の宮の管理を任されている男は、こんな明け方近くに門前に止まった馬の気配に、とまどった。
「こんな時間に、誰だろう」
 桜の君がここを訪れるのは、日の高いうちである。何刻かここで過して都に帰ることもあるし、何日か滞在することもある。だがいずれの時も数名の供を連れての訪れであった。馬で、しかもこのような時刻に来るということは、今まで無かったのである。
 男は訝りながらも門をくぐり、そこに止まっている馬の背を見上げた。
「ひぃっ」
 なんとも情けない悲鳴が、男の喉を震わす。
 それも致し方あるまい。馬上の人の纏う直衣には、濡れたような染みがあったのだ。月に照らされ、夜目にも判る黒々とした染みは、おそらく血なのであろう。それは身体を伝い、鞍を濡らし、馬の腹からポタポタと地面に滴り落ちていた。
 男は改めて、馬上の人の顔をしっかりと見た。
「桜の君!」
 それが自分の主なのだと見留め、またもや悲鳴を上げる。主は身体を支えていられないのか、馬の首に上体を預け、目を瞑っていた。
 その声に呼ばれたかのように、桜の君がうっすらと瞳を開けた。
「さ……くら……」
 弱い声で、言う。
 ここからは見えない何かを探しているようだ。
「桜……が、……見た……い」
 言い終わるや、その身体がズルズルとずり落ちる。男が支えようと手を伸ばしたが、桜の君の身体は馬の向こう側に落ちてしまった。
「大丈夫ですか!」
 大丈夫でないことぐらい、男にも判る。だがそう声を掛け、桜の君の意識を繋ぎとめようと必死だった。
「さく……ら……」
「桜、ですね? 庭の古木の、あの桜が見たいと仰るのですね?」
 微かに動く唇から漏れる声を頼りに、主の望みを問い返す。力ない仕草で、桜の君は頷いた。
 この桜の宮に来ると、主はいつもあの古木の下に佇んでいた。どれだけ時が移ろうとも、飽くことなく。
 男の身体は、桜の君よりも少しばかり小さかった。主の腕を自らの肩にかけ、ヨロヨロと屋敷の庭に向かう。二人の通った後には、点々と血の滴りが続いていた。
「しっかりして下さいまし。もうすぐですから」
 主の意識が遠のきそうになると、男はそれを呼び戻すように声を掛けた。その傷がどれだけ深いものか、男には判っていた。ここまで馬で駆けて来る間に、どれだけの血を失ったのかも。
 ――医者を呼んでも、もう無駄であることを、男は知ってしまっていた。
 それならば、せめて最後の望みを叶えて差し上げたい。男はそう思った。
 庭の池のほとりにある、桜の古木を目指す。ようやく辿り付いた時、主の瞼がまた、力なく持ち上げられた。
「よい……行……け……」
 直衣は黒々とした色に染め上げられている。月ではなく日の光のもとで見たならば、真っ赤に染まっていることだろう。
 男は主の腕を自らの肩から外し、桜の根元に座らせた。背を樹の幹にもたせ掛ければ、主の唇が綺麗な弓形に形を変える。
 男はただ黙って深々と頭を垂れ、その場を離れた。それでも心配になって肩越しに振り返ると、月明かりに照らされた主の身体の上に、ひとひら、ふたひら、桜の花弁が舞い散るのが見えた。


 はらはらと、桜が散る。
 築地塀から覗く枝からも、このように散っていたな、と桜の君は思い出した。
 あの女は、あれからどうしたのだろう。供の者を失い、血に染まった手のままで自分の屋敷に帰ったのであろうか。
――馬鹿な女だ――
 愛などという、不確かなモノに縋ったがために。
 それをどれだけ求めても得られない事など、自分はとうの昔に知ってしまっていた。愛していると言ったあの女も、相手の愛が得られないと知ったなら、それをいとも簡単に憎しみに()げ替えてしまったではないか。
「ふ……」
 薄く笑えば、桜の君の口から新たな紅が零れた。
 はらり、と華が散る。
 桜の君は、霞む目で桜を見上げた。月の掛かる空に、それは禍々しいまでに美しく映った。
 もうすぐ、夜が明ける。その頃には、自分は冷たくなっているのだろう。
――桜……――
 もう声も出ない。
――わたしは、逝くのか?――
 静かに目を閉じた。


 愛されたかった。
 慕われるのではなく、見返りを望まれるのではなく、ましてや駆け引きの道具にされるのではなく――ただ、愛されたかった。
 母が子に向ける、慈しみのように。
 愛など信じないと口では言いながら、それでも心の奥底では、無償の愛を願っていたのだ。それを得られぬと知り、女の間を渡り歩いた。
――桜……おまえは何故、わたしを助けた? あの時、何故……母の願いを聞き入れた? わたしを苦しめるためか。わたしの容姿を愛でる者は、数多(あまた)あれど……わたしを本当に愛してくれる者は、誰もいなかった。それを思い知らせるために、わたしを生かしたのか。……桜、おまえは残酷な華じゃの……――


 花弁が舞う。月に照らされたそれは儚げに輝き、桜の君の身体に降り積もった。
『ザ……』
 降るように散る花弁は次第に数を増したかと思うと、一斉にその向きを変え、巻き上がった。
『桜の君』
 呼ばれたような気がした。
 もう開かないと思っていた瞼が、それに呼応するように開く。目の前には、薄桜色の闇。
「誰……じゃ」
 唇が動く。闇から零れ出た花弁が、ひらひらと桜の君の髪に舞い降りる。
『桜の君。わたしはずっとそなたを見て来た』
 声が聞こえた。神々しいような、禍々しいような、声。桜の君は、それをどこかで聞いたことがあるように思った。遠い日の記憶の底に、冷たく(こご)ったまま沈んでいる、音の塊……。
『そなたは人から受ける愛を当たり前と思って生きてきた。どんな形であれ、そなたを愛している者がいることを幸せとも思わずに。そのくせ自らは誰も愛さず、人の心を玩具にして、多くの人々を悲しませた。知っておろう、そなたを想うあまり命を絶った者がいたことを。知らぬとは言わせぬ。わたしはずっと見ていた。幼少の頃そなたを助けてよりこちら、そなたのしてきた全ての事を』
 心の奥底に語りかけるようなそれは、桜の樹から聞こえてくる。
「桜……何……を、言いたい?」
 ゴボ、と嫌な音がして、唇がまた新たな紅に染まる。桜の君は、薄桜色の闇を睨んだ。
『そなた、まだ生きたいと願うか?』
 桜が問う。桜の君は、目を細めた。
 見上げる空も、薄桜色の闇の中だった。あまたの桜の花弁に囲まれ、背に感じる樹の幹の感触だけが、現実のものに思える。
「……生きた……い。わたし……には、まだ……手に入れていない……ものがある。わ……たしは、まだ死にた……くない」
 桜の君は、願いを口にした。
 ――紅く濡れた唇で、言ってはならない願いを。
『ならば、その願い叶えよう。そなたのその、冷たい心に見合うだけの苦しみと共に』
 何、と問う(いとま)もなく、薄桜色の闇が激しく渦を巻く。
「く……っ」
 額が焼けるように痛んだ。渦を巻く花弁が迫り、逃げ場は無い。
 臓腑が煮え返るように苦しい。身体の奥から全てを造りかえられるような痛みが、桜の君を襲った。
 新たな血を吐き、その場で身を捩じらせ、のたうった。
 死を覚悟した時よりも酷い苦しみに、いっそ意識を手放してしまえれば良いのに、と思った。
 だが今度ばかりはそうもいかないらしい。意識は遠のくことなく、身体の全てが痛みを記憶して行くのが判る。
 苦しい息の下、桜の君は薄桜色の渦を見上げた。
「何……を……?」
 苦し紛れに握った指先は、土くれを掴んで汚れている。その爪が長く鋭くなっているのに、桜の君は気付いた。
『これよりそなたは夜叉となって生きて行かねばならぬ。人を愛さず苦しめたそなたが、今度は心の底から人の愛を乞うるようになるのだ。だがそれは、容易くは手に入るまい。そなたは人の生き血を啜り、肉を喰らう化け物となって生きるのだから』
 それは死よりも辛いことなのだと、桜は告げた。
「待て……、桜!」
 風に巻き上げられた髪が、白銀の光を帯びているのが見えた。
『まことの愛を得ることができたなら、その時は……』
 身体を造りかえられるような痛みが徐々に引いて行くと、次第に身体に力がみなぎってくる。今までとは違った何かが、己の中で生まれようとしているのを感じた。身体のすみずみまでそれが行き渡ると、桜の君は自分の力でそこに立っていた。
「桜――!」
 薄桜色の渦は、もう無い。今まさに昇らんとする朝の紅い光が、桜の君を照らしていた。


 『桜の宮』を預かる家人や侍女がことごとく消え、おびただしい血の跡と千切れた着物の端だけが残されているのを郷の人々に見つけられるのは――日が天空に昇りきってからのことであった。