clavicle 〜鎖骨〜



 あの日――ステージの上、彼の鎖骨は照明に映えてとても綺麗だった。


 携帯がオルゴールの音色でお気に入りの着信音を奏で出した。
 昔からある曲だけど、コマーシャルに起用されたのがきっかけで、ちょっとしたブームになった。この曲を着信音にしている人は結構いるらしい。
 駅前の雑踏の中、繊細なオルゴールの音色はかき消されてしまいそうだ。ただでさえ賑わしいこの辺りも、師走の気ぜわしさも手伝って、一層慌しく人が行き交っている。
 学生鞄にぶら下げたお手製の袋から携帯を取り出す。女らしいことでもしようと一念発起したあたしが作ったものだから、採寸を間違えて少々きつめ。毎回出し入れする度に「作りなおさなくちゃ」とは思うのだが、根性が続かなくてそのままになっている。
 誰からかかって来たのかは、すぐに分かった。だって、彼の着信音だけは特別お気に入りの曲に設定を変えてあるんだから。
「はい」
 駅前のスクランブル交差点を綾花と一緒に斜めに渡っている。だからホントは嬉しいのに、わざと素っ気無く応えた。首に巻いたマフラーが、少しズレて肩に引っかかった。
「カオリ? 俺……」
 スピーカーから聞こえる、少し機械的な声。
「今から会えないかな。話があるんだ。駅前の喫茶店に六時半。いいな?」
 あたしの素っ気無さから機転をきかせたらしい。彼は短くそう告げると、あたしの返事を待った。
「はい」
 事務的に答え、あたしは携帯を切った。
「何、何? 香緒莉の彼?」
 綾花が覗き込むようにして、あたしに擦り寄って来る。
「違うよ。彼なんていないってば。それは綾花が一番よく知ってるでしょ」
 自分としては上出来の苦笑いを貼り付け、あたしは綾花を振り返る。それはいつも繰り返される言葉だけれど、今のあたしにはとても大切な演技なのだ。


 彼――ハルと出逢ったのは、半年前、綾花と出かけたアマチュア・バンドのライブ。兄貴、リョウの留年で芽生えたあたしのアマチュア・バンドへの偏見を、見事に打ち砕いてくれたのがハルのライブだった。
 体中に彼の音が突き刺さる。魂ごとギュッと鷲掴みにされる感覚に、あたしは酔いしれてしまった。ライブがハネて、ライブ会場――通称『ハコ』の中で迷ってしまったあたしを駅まで送ってくれたのが彼だった。
 それから話をして、携帯の番号を訊かれて……。
 『好きだよ』の言葉をもらったわけじゃない。恋人の約束も交わしたわけではないけれど、気づけばあたしはハルの隣にいた。
 綾花はハルのバンドのボーカルがお目当てだと言う。彼には既に彼女がいるらしいとハルに聞き、綾花にはあたしとハルが付き合っている事を内緒にしようと決めた。最初はそれだけだったのだけれど……。


 喫茶店のドアを閉めながら、あたしは帽子の下から見え隠れする金髪を探した。薄めのサングラスをかけたままの、ハルの目の前にストンと腰を下ろす。サングラス越しにあたしを見留めた彼は、唇の端をニッと引き上げた。
 電話を受けたのが六時。綾花に怪しまれないように一旦家に帰り、服を着替えて走って来たのだ。六時半の約束が、十分遅刻してしまった。
「待った?」
「いいや。割と早く出て来られたな」
 前髪を全部入れ込んで目深に被った帽子の下に、深緑色の瞳。サングラスで隠していても、間近で見ればその綺麗な色がカラコンではないことが良く分かる。冬なのに軽くはだけた胸元に、革紐で留められたペンダントが光っていた。鎖骨の形に沿って緩やかなカーブを描く黒の革紐は、薄い髪の色によく映えている。
 日本生まれのハーフ、ハロルド真鍋。それが彼の名前だった。
「決まったんだ、事務所との契約。一番先にカオリに言いたくて」
 そう言ってはにかんだように笑う彼は、嬉しそうだ。いつもは冷静なその頬が、ほんのり上気して見える。
「そう。決まったんだ。良かったね、ハル」
 あたしは真っ直ぐ彼を見つめて、笑みを向けた。
 ――分かってた。
 最初から、分かっていた。
 いつかは音楽事務所と契約して、デビューする。あたし一人のものでは無くなってしまう。
 だから、誰にも言えなかった。
 彼はあたしのものだと、誰にも言うことができなかった。
 デビューの話が有ることは、出逢ったその日に聞いていた。その事が原因で、メンバーともめている事も。
 すぐにでも契約したいメンバーと、まだまだ色々な経験を積んで、一発屋で終わらない音を探したいと言うハル。あれから、半年後に正式に契約をするという話になったと聞いた。
「そうかー。もう半年経っちゃったんだね」
 運ばれて来たココアのカップを両手に挟みながら、あたしは言葉と共に小さな息を吐き出した。


 先に携帯の番号をくれと言ったのは、ハル。
 先に出逢った事を覚えていたのは、ハル。
 先に一目ぼれしたのは、あたし。
 じゃあ、ハルは?
 ハルは、いつあたしを好きになってくれたの?


「あ、悪い。今から練習なんだ」
 携帯の画面に表示された時計を見ながら、ハルが言った。あたしとハルの間に置かれた伝票を長い指先にはさみ、席を立とうとする。
「ごめんな。いつもあんまり時間取れなくて。いつか埋め合わせはするからさ」
 すまなそうに、ハルが眉根を上げた。
「いいよ。分かってるもん」
 あたしも彼に続いて席を立った。
「ホントはカオリも、練習見に来てくれればいいのに」
「やだ。練習の時のハルって、怖いんだもん」
 レジで勘定をすませ、店の外に出る。師走の街は慌しく、みな急いでいるように見えた。
 今なら誰も見ていないかも知れない。あたしはコートの下からそっと手を伸ばした。隣に立つハルの手を探る。指先に触れるだけでもいいと思ったのに、その指が不意に絡め取られた。
 暖かい。
 ハルの体温だ。
 暖かくて、心が()かされて、あたしはつい本音を言ってしまいたくなる。
――行かないで、って。
「リョウに伝えておいてくれよ。先にインディーズ行って待ってるって」
 そう言い残し、ハルの指は離れて行った。残されたあたしの指に、冬の風がまとわりついた。
 ついて行けるものなら、ついて行きたい。練習を見るのだって、本当は好きなのに。
 だけど、あの人が来る。ハルのバンドがデビューしたら、マネージャーになるという、あの人。確か坂崎さんって言ったっけ。
 あの人は嫌い。
 半年前、あたしはあの人に会った。練習中のスタジオに、バンドの契約の話でわざわざ出向いてくれたというのだ。今後のスケジュール、ライブの調整、契約に際しての諸注意など、細かいことをメンバーと打ち合わせし、帰って行った。
 メンバーが練習に戻った後、あたしは椅子の上に坂崎さんの手帳が落ちているのに気づいた。拾ってスタジオの外に出ると、あの人が通路の向こう側でこちらを見ていた。走り寄って手帳を渡したあたしに、あの人は言った。
「あなた、高校生でしょう。あまりメンバーと親しくしないでね。インディーズって言ったって、デビュー前後の大切な時期に、変な噂が立ったら困るのよ」
 顎を突き出し、手渡した手帳をその場でパラパラとめくる。そこには何も書き込まれていなかった。あの人が、あたしの方を見て薄く笑ったような気がした。
 それ以来、あたしはバンドの練習を見に行かなくなった。
 あたしだけのハルではなくなる、その日が近づくのが怖かったから。
 ライブにも顔を出さなくなった。ハルが不審がったけれど、「デビューするまで楽しみにとっておくね」と言ったら、しぶしぶだけど納得してくれた。
 もちろん、兄貴以外の誰にもハルの事を話さなかった。


 ハルの背中を見送って家に帰ると、テーブルの上に夕食の用意がしてあった。母さんは地域の会合で留守にしているし、父さんはまだ会社から帰っていない。兄貴は兄貴で、この時間は多分バンドの練習に行っているはずだ。
 いつもこんな感じ。母さんの会合はたまにしかないけれど、家族が揃って食卓を囲むなんて事は、最近滅多にない。
 冷めかけたおかずは、それでも美味しかった。さんまなんて、季節外れなのに脂が乗っている。レンジで爆ぜるほど温め過ぎていなければ、もっと美味しかったに違いない。食事を終えて食器を重ね、席を立とうとした時だ。
「あーっ!」
 ちょっと手が当たっただけなのに、携帯がくるくる回りながらテーブルの上を滑って行く。スローモーションのように見えたけれど、それはほんの一秒の間の事に違いない。端まで滑ると、携帯はニュートンのリンゴよろしく、フローリングの床に落ちて行った。ストラップのカットビーズが、助けを求めるようにキラリと光って視界から消えた。
『ガツン』
 派手な音がした。悪い事に、打ちどころが悪かったらしく、携帯の液晶画面がバキバキに割れていた。これでは操作ができない。
「明日買い換えよう」
 踏んだり蹴ったりだ。携帯なしの生活は考えられない。今月はお小遣いがピンチだから、機種変更なんてややこしいことはできないだろう。
「新規かぁ。番変連絡するの面倒くさ……」
 食器を洗い終え、ヒビでクモの巣もびっくりな模様になった画面を見ながら、あたしは大きなため息をついた。
 翌日早速新規に契約をし直し、友達にはみんな知らせた。兄貴にはさんざんコケにされた。自分だって、つい一ヶ月前に水没させたくせに。
 これでみんなに知らせたはずだ。ただ一人を除いては。
 ハルには新しい番号を教えなかった。何故だか、このまま連絡をとらない方がいいような気がしていた。逃げるみたいで卑怯かも知れないと思ったけれど、どうしても彼には知らせることができなかった。
 家の番号は教えていない。当然、彼からの連絡は無くなった。
 あたしからも、連絡をすることは無くなった。


 菜の花が食卓に並ぶ。もうこんな季節になったんだな、なんて、花模様の小鉢を覗き込みながら季節感を満喫する。
 金曜日の夜。いつも忙しくしている兄貴が珍しく家にいて、テレビなんか観ている。
「何見てんの? 珍しいじゃない」
 訊ねたあたしを一瞥しただけで、兄貴はまた画面に目を向けた。
 テレビでは、歌番組をやっている。バンドもグループもごちゃ混ぜで出ている、結構有名な番組だ。参考にでもしようと思っているのか。兄貴の目は、傍から見ていても真剣だ。
 次々と紹介された歌手やバンドが歌や演奏を披露して行く。司会者の絶妙なトークに、芸能人の本音もチラリとのぞけると評判の歌番組だ。
「次は『GRASP』の皆さんです」
 紹介され、登場したメンバーに、あたしは息を呑んだ。よく見知った黒髪の横に並んで座る金髪。それは紛れもなくハルのものだった。
「あ……」
 あたしの喉の奥で、声が熱い塊になって貼り付いてしまった。テレビ画面を通して見る彼は、あたしの知っている人ではないように見える。本当にデビューしてしまったんだな……と、そう思ったら目頭がツンと熱くなった。
 演奏が始まる。以前よりずっと音に厚みが出ているように思った。
――良かったね、ハル――
 夢が叶ったんだ。有名になって、好きな音楽を職業にできて、ハルの夢が……バンドみんなの夢が叶ったんだ。
 あたしはもう、足手まといでしかない。売り出し中のバンドに色恋沙汰はご法度。そんな事、中学生でも知っている。
 画面に釘付けになってしまったあたしの横で、兄貴が物言いたげにこちらを見ているのに、この時あたしは気が付かなかった。


「おまえ、久し振りに俺のライブの手伝いしない?」
 兄貴からこんな誘いがあったのは、卒業式の次の日。あたしが毎日暇そうにしているのを見ているからか、なかなか嫌とは言わせてくれない。
 前にハルに言われてたっけ。兄貴の音も良くなってるって。あれから聴きに行こうと思いながらも、つい言い出しそびれていたのも事実だ。
「仕方ないから付き合ってあげる。でもあんまりコキ使わないでよ」
「オッケー、オッケー。大事な妹をコキ使うなんて、滅相もない」
 大仰に顔の前で手を振って見せる兄貴の鼻が、ひくついている。嘘をついたって、バレてるよ。兄貴は何かやましいことが有ると、必ず鼻がひくひくするんだから。
 きっと目一杯コキ使われるんだろうな、と思ったけれど、それもいいかとあたしは思い直した。
 以前はただ純粋にライブを楽しみにしていた。始まる前の雑然とした楽屋の雰囲気も、緊張したメンバーの顔が次第にステージ用の顔に変わって行くのを見ているのも、とても好きだった。
 ハルと付き合い出してから、少しの間だけど彼の楽屋に行かせてもらった。すぐに契約の話が具体的になって坂崎さんに牽制され、それもできなくなってしまったけれど。


 ――ライブはそれから二日後だった。


 今度のライブは以前にも行ったことのあるハコでやる。あたしは楽器搬入の車に便乗して、兄貴と一緒に楽屋入りした。
「まったく、花の十八歳の乙女に、なにが悲しくてこんな重たいもの持たせるかなあ!」
 あたしの両手には他のメンバーのケース入りの楽器がぶら下がっている。早くこの重たさから開放されたいと、あたしは自然に早足になった。息が上がって、語尾が荒くなる。
「そうツノ出すなよ」
 後を歩く兄貴が、噴き出した。
「久し振りのライブなのに、悪いな」
 しおらしく言ってくれる。
「いいよ、いいよ。どうせこうなるんじゃないかって覚悟してたから。コキ使わないなんて言って、しっかりコキ使われちゃうんだもんなぁ」
 言ってから、後の様子を窺った。
 あれ? 反論して来ない。
 あたしは狭い廊下の壁に楽器をぶつけないよう気を付けながら、振り返った。
 廊下の一つ向こうの角で、兄貴がつっ立っていた。顎で右の方を指している。どうやら兄貴のバンド『MISTY』の楽屋はあちらの方向だったらしい。入る前に平面図で確認した筈なのに、あたしの方向音痴がまた出てしまったらしい。
「ごめーん。やっぱあたし、いつまで経っても進歩なしだわ」
 けれどもそのおかげでハルとも出会えたのだと思い出し、あたしの胸が少しうずいた。
 今頃彼はどうしているだろう。地方を回っているのか、それともどこかで収録中なのか。どちらにしても、あたしの手の届かない存在になってしまったことだけは、紛れも無い事実だった。
「そう落ち込むなって。今日しっかり働いてくれたら、俺からご褒美やるから」
 兄貴の目がいたずらっぽく細められた。
「何? 何かくれるの?」
「ひーみーつ! オラ、ごちゃごちゃ言ってないで、入れ」
 食い下がるあたしを肘でかわす。片足を上げてあたしのお尻を軽く蹴った。
「ああっ、もう! セクハラ!」
 喚き立てるのを物ともせず、兄貴はあたしを楽屋に押し込めた。
 思えば、兄貴とこんなに話をしたのは久し振りだ。ハルと交わした約束が、今果たされる。あたしの中で、兄貴に対する今までのわだかまりが小さくなって行った。


 ハルのバンドがプロデビューした今、この辺りのアマチュアライブのトリは、兄貴のバンドがつとめる。暗い中から湧き出るようにして光に浮かび上がったメンバーは、一瞬の内に静から動に変わる。小気味良く刻まれるリズムに、聴衆の体は皆、否応なく突き動かされてしまった。
 兄貴の音は、格段に良くなっていた。留年したことも、親に心配をかけたことも、全てこの音の為の回り道だったように思える。
 兄貴だって泣いたんだ。
 兄貴だって悩んだんだ。
 それがみんな兄貴の中で年輪になって、音となって溢れているように感じられた。


「今日は、来てくれてありがとう。そして、俺達の演奏まで残っていてくれてありがとう」
 演奏が終わり、おどけた調子で兄貴がマイクをとると、聴衆の中から笑いが起こった。
「最後まで聴いてくれたお礼に、今日は特別ゲストが来てくれています」
 兄貴の言葉が終わらぬ内に、照明が落とされ、ステージの上に別の人影がシルエットとなって現れた。
「シークレット・ライブ!」
 ひときわ甲高い声を最後に、兄貴達の姿はステージ上から消えた。代わりにギターがうなりを上げる。
 この音は……!
 忘れようと思った。
 でも忘れられなかった。
 あの音が、あの曲が、あたしの耳朶を打った。
 『GRASP』。
 彼らが今、ステージの上で演奏を始めた。
 魂が揺さぶられる。心臓が狂おしく鼓動している。
 会いたくても会えなかった人。会えるのに会う勇気を持てなかったその相手が、ステージの上にいる。
 聴衆の間から、悲鳴に似た歓声が湧き起こった。
 ハルは金色の髪を揺らし、サングラスをかけたまま演奏していた。その奥には、深緑色の瞳が今も変わらずあるのだろう。
 あたしはずっと見ていた。どんな仕草も見逃さないように、ずっと彼を追っていた。
 ギター・ソロが始まり、ハルが中央に進み出た。途中サングラスを外し、弦を口にくわえた。そんな仕草も、聴衆の歓声を呼ぶ。
 深緑色の瞳が、ひた、とこちらを見据えた。
 初めて言葉を交わした、あの日のように。
 おそらく彼は、あの日もこうやって、あたしを見ていてくれたのだろう。
 ハルの視線の先を追って、照明があたしの周りを照らし出した。
 あたしは逃げることもできず、ただそこにいた。
 ハルの音に、ハルの視線に、あたしは絡め取られてしまっていた。
 不意に、最後に逢った日に触れ合った指先を思い出した。
 指先から伝わる熱を想った時、あたしは自分の頬が塗れているのに気付いた。
 ハルの胸には、あの日と同じ、黒い革紐の先に下がったペンダントのトップが光っている。はだけたシャツの間から、ライトに照らされた鎖骨が覗いていた。
 ソロが終わっても、彼はずっとあたしを見据えたままだった。そのまま演奏が終わり、歓声がひときわ大きくなる。
 歓声の中、ハルはMCを始めようとするボーカリストに歩み寄って、耳元で何事か言ったようだ。黒髪のボーカリストがちらりと観客席を一瞥し、口元に笑みを浮かべる。ハルは自分のボジションまで戻ってコーラス用のマイクをスタンドごと掴むと、一歩進み出た。
「そこにいるバカタレ、よく聞け」
 あたしを見据えた瞳が険しくなり、いきなり毒づく。
「いいか、俺がこの何ヶ月かの間、どれだけ心配したと思ってるんだ。連絡のひとつも寄越さないで、俺はおまえの何だと思ってる」
 歓声が本物の悲鳴に変わった。
 そりゃあ、そうだ。ちゃんとプロデビューした芸能人の端くれが、こんな場所でこんな私的な事言ってたら……。
「それから、ごめん。不安にさせて、ごめんな。俺、おまえのこと好きだから。プロになっても、変わらずおまえのこと好きだから」
 悲鳴が更に大きくなった。マネージャーの坂崎さんは、今頃慌てていることだろう。
 ハルが赤いレスポールを床に置き、ステージ下にひらりと飛び降りた。聴衆は気圧(けお)されたように道を空ける。彼は真っ直ぐあたしの方に近づいて来た。
「おまえは?」
 あたしの真正面に立ち、ハルは言った。深緑色の瞳が、嘘は許さないと告げている。
「カオリは俺のこと、どう思ってるの」
 腰に腕を回された。険しい瞳のまま、体を引き寄せられる。
 こんな状態で、他の言葉が見つかるわけがないじゃない。あたしは嗚咽と共に、小さな声をそれでも精一杯振り絞った。
「あ……あたし……も……、っく、好き」
 悲鳴と歓声と、それに拍手と。
 大きな音に囲まれて、あたし達はぎゅっと抱き締め合った。


「坂崎さんに逢わないように言われたんだもん。あたしもその方がいいかも知れないって思うようになったし」
 ライブが終わった後、『GRASP』の楽屋であたしはハルに詰め寄られていた。
 他のメンバーは打ち上げがあると言って、早々に楽屋を後にした。兄貴は兄貴で、あたしに向かって親指を立てて見せた後、何も言わずに帰ってしまった。今回のことは、ハルと兄貴が相談してやった事らしい。
 あたしの言葉を聞き、ハルはこめかみを押さえて深いため息をついた。
「おまえね、俺達がそんなことで潰れるようなヤワなバンドだと思ってんの?」
「だって、イメージって大切でしょう?」
 あたしの指は、またハルに絡め取られていた。
「俺達のファン層がどんなだか、知ってる? 男の方が多いんだよ。ルックスやイメージも大切だ。だけど、俺達は自分を磨いて来たんだ。一発屋で終わらないように、実力もつけて来た。それを知らないわけじゃないだろう?」
 絡めた指が熱い。
「だけど、あんな所で……ステージであんな風に言わなくてもいいじゃない。わざわざ自分達のイメージを傷つけるようなこと……」
 指を引っ込めようと思っても、熱病にかかったように体が動かない。
「イメージを傷つけるだって?」
 絡めた指ごと、腕を持ち上げられた。
「大切な人を犠牲にしてまで、不特定多数の人に好かれたいとは思わない。イメージだけで付いて来るヤツは、結局はすぐに離れて行くんだ。本当に観て欲しいのは、音やそれに対する姿勢なんだから……俺のした事は、間違っていないよ。大切なものを守れなかったら、そっちの方が人として恥ずかしいだろ? 俺にはカオリが必要だから」
 指先に、そっと彼の唇が触れる。
「……寂しかった」
 彼の声が間近でささやいた。唇が、あたしの唇にそっと触れた。目を閉じて、あたしもそれを受け入れた。
「あたしも……死ぬほど寂しかった」


 携帯がオルゴールの音色でお気に入りの着信音を奏で出した。
 最近始まったドラマに起用されたのがきっかけで、ちょっとしたブームになった曲だ。この曲を着信音にしている人は結構いるらしい。
 ショッピングモールの雑踏の中、繊細なオルゴールの音色はかき消されてしまいそうだ。誰からかかって来たのかは、すぐに分かった。だって、彼の着信音だけは特別お気に入りの曲に設定を変えてあるんだから。
「ハル?」
 晴れやかな声で応じる。
「ここ。見える? 上だよ、上」
 見上げた先には、日当たりの良いカフェテラスの二階席の窓際で、携帯を肩にはさみ、もう一方の手を上げて微笑むハルの姿があった。
「香緒莉、方向音痴だもんな。また迷わない内に電話してやったよ」
 そう言った彼の、はだけたシャツの胸元には、なだらかなカーブを描く鎖骨が日の光を浴びて色っぽく浮き上がっていた。