Graduation


〜1〜


『カッカッカ……』
 小気味良い軽い音と共に、黒板に几帳面な字で英文が書かれていく。
 自分の席に座ってノートを取る生徒達に背を向けているのは、この県立高校の英語教師、相川有希(あいかわゆき)である。赴任二年目の有希はもう随分この職場にも慣れ、生徒達と年も近いせいもあって、時々他愛もない話をしたりもする。
 彼女の授業は判り易く、評判はまずまずだった。
 長めのストレートの髪。真っ黒な髪は肌の白さを引き立たせている。すっと通った鼻筋に、小さく盛り上がった唇。日本人形のような凜とした容貌が、見る者に、決して浮ついたからかいの対象にしてはいけないような気持ちを抱かせる。
 卒業式まであと残りわずか。三学期に入った三年生の教室は、学年末考査も終わって、あとは受験まっしぐらといった感じだった。
「この文を間接話法に直して下さい。えー、次の出席番号の……」
 有希は出席簿に目を落とした。
――ええっと、次の番号は……――
 指でなぞりながら、先ほど指した生徒の出席番号から五番目の生徒を探す。有希の授業は、五番飛ばしで次に誰が当たるか予測することができるので、生徒達はビクビクすることなく授業に集中できるのだ。
――笹木高志(ささきたかし)
唐突に目に飛び込んできた名前に、有希は一瞬ドキリとする。だがすぐにそんな自分に気付いて、視線だけでそっと辺りを探った。
――良かった、誰も気付いてないみたい――
 生徒達の視線は、ノートと黒板の間を行ったり来たりするのに忙しく、有希の小さな動揺には気付いていない様子だった。
 再び出席簿に視線を落とす。その名前の上に置いた指が心なし暖かくなったような気がした。
「じゃあ、笹木君。前に出て……」
『キーン、コーン……』
 有希が出席簿から視線を上げて言いかけた時、授業終わりのチャイムが鳴った。
「ああ、時間無くなっちゃったね。じゃあいいわ。ここで終わりにします」
 出鼻をくじかれ、少し照れたような笑いを浮かべると、有希は自分の教科書をパタンと閉じた。


 高志は教科書を閉じることもしないで、教室のドアを今まさに出て行こうとしている有希の小柄な背中を目で追っていた。
 時々見せる、少しとまどったような表情。多分、他のクラスメートは気付いていないだろう。
 最初は何か、別の原因があるのかと思った。たまたまこちら側からは見えない出席簿の上に虫でもついているのかと。でも、そう毎回虫がついているわけがない。
 自分を指す前にいつもみせる小さな動揺。こちらも気になっているせいか、最近では怯えたように一瞬体を硬直させるのさえわかるようだ。
――俺、何か悪いことしたっけか――
 向こうは教師、こちらは生徒。担任を持っていない相川先生とは、授業以外の接点はないから、学校の中で特別困ることは無い。でも……。
 周りは次の授業のための教室移動で騒がしい。
――次は生物室だっけ――
 今から向かう、何か判らない動物のホルマリン漬けがいっぱいの生物室と、小さくなっていく有希の凜とした後姿がとても対照的なものに思えた。


 職員室の中は暖房が効いていて、廊下から入ってきたばかりの有希には暑く感じられた。
「お疲れ様です」
 すれ違った数学教師が軽く会釈をする。今から授業があるのだろう。手には分厚い教科書とファイルを持っていた。
「あ、どうも。次頑張って下さい」
 有希も軽く会釈を返す。スリッパの音を控えめに響かせながら、数学教師は廊下の角を曲がっていった。
「ふう」
 教科書を自分の机に置くと、椅子を引いて座る。学期末考査の採点をしようと、有希は机の大きな引出しの中から答案用紙を引っぱり出した。
「C組からね」
 A、B組はこの授業の前に採点を済ませてある。たった今、授業を終えたC組から以降が残っていた。
 次の授業までの間に採点を済ませてしまいたい。有希は赤ペンのキャップを取ると、答案用紙にさらさらと丸をつけていった。


 ストーブの上でシュンシュンと湯の沸く音がする。他の教師は授業があるのだろう。職員室にいるのは、離れたところに座っている物理教師と有希の二人だけだった。
 物理教師も学年末考査の採点をしているようだ。時折見せる苦渋に満ちた顔は、その生徒の答案の出来があまり芳しくない事を物語っている。
 ――ふふ。先生だってね、大変なのよ――
 物理教師の真剣な顔を見ながら、自分が生徒だった頃を思い出す。あの頃は先生なんて職業、自分が就くなんて思わなかったけれど。
 ご苦労様です、と心の中で会釈しながら、有希は自分の生徒の答案に視線を落とした。
――笹木高志
 またも飛び込んできたその名前に、有希の心臓は跳ね上がる。
――もうっ、どうしてこんななの、今日は――
 一旦視線を外し、教室ではできなかった溜息を、ほうっ、とつく。そうして心を落ち着けてから改めて高志の答案に視線を落とすと、ちょっと癖のある、それでも綺麗な文字が並んでいた。


 最初はたまたま保健室で交わした、女生徒達とのちょっとした会話からだった。
 朝からなんとなく思わしくなかった頭痛が、昼休み過ぎにひどくなり、保健室で薬をもらっている所に三人の女生徒が入って来たのだった。
「あたしね、今日、笹木くんに言ったんだよ。『好きです』って。そしたらさ、なんて言ったと思う? 『他に好きな人がいるから、ゴメン』だって。きれいサッパリふられてさ、却って気持ち良かったよ」
 話しながら入ってきた女生徒は少し目が赤かった。高城庸子(たかぎようこ)という生徒だ。気持ちよかったなんて言いながら、少しは傷ついて泣いたのだろう。
「目薬ありますか? こんなんじゃ授業に出るの恥ずかしくって」
 養護の先生に目薬をもらおうと歩み寄ってきた庸子が、カーテンで隠されるようになっていた有希に今更ながら気付いたようだ。
 一瞬庸子は驚いた顔をしたが、相手が有希だと判ると気易く近くの椅子に腰掛ける。付き添いの友達二人が、その脇に並んで立った。
「ね、先生、次の授業サボってもいいと思う?」
 急に話を振られて、有希は面食らった。
「サボっちゃダメ、って言いたいけど、そんな気持ちになれないでしょう? 落ち着くまでここで休んでいけば?」
 別に理解ある教師を演じるつもりは無いけれど、彼女の気持ちは痛いほど判る。自分も同じような経験をして大人になって来たのだから。
「……だって」
 庸子は友達に顔を向けた。
「先生のお墨付きをもらったから、次はサボりまーす。ありがとね、付いて来てくれて」
 庸子がおどけた様子を取り繕いながら胸の辺りで手を振ると、付き添って来た生徒達も手を振り返して静かにドアを閉めて出て行った。
「変だね、もっと悲しいかと思ったのに、今は少ししか涙が出ないよ。でも明日になったら、もっと悲しくなるんだろうな。今はまだ心に麻酔がかかってるって感じ」
 友達の背中を見送って小さく息をつくと、庸子は制服のリボンを弄りながら、下を向いてエヘヘ、と笑った。
「でもきっと立ち直れる日が来るよ。忘れはしないかも知れないけど、新しい傷にだんだんと新しい皮膚が被ってくるように治っていくものだから」
 有希は、自分の成就しなかった甘酸っぱい恋を思い出しながら、庸子の肩に軽く手を掛けた。
「ありがと、先生。笹木くんね……あ、あたしが振られた男子なんだけど。他に好きな人がいるって。この学校の中に。でもね、あたし、生徒じゃないような気がするんだ。案外相川先生だったりして」
 冗談なのか本気なのか判らない口調で、庸子は言った。
「まさか。やめてよ、売れない小説みたい」
 突然自分に話を振られて、有希は唇の端に引きつった笑いを貼り付けた。
「教師と生徒との禁断の恋」
 なおも言い募る庸子の肩を今度は両手で支える。
「そうやって自分の傷口に塩を揉み込まないの」
 庸子の目を覗き込み、諭すようにポンポンと肩に置いた手を動かした。
「……うん、ごめんなさい」
 素直に言った庸子の瞳には、新しい涙が膨れていた。


 あれから、ふとした拍子に高志のことが気になるようになった。別に『教師と生徒の禁断の恋』を真に受けたわけではない。
 真面目な気質の有希には、考えられないことだった。大学時代、『教師になって、若い男を引っ掛ける』なんて言っている友達もいたけれど、本気で言っているわけではなかっただろう。有希にしたって、それはネタとして聞いているだけだった。
 だけど……。
 じゃあ、どうしてこんなに気になるのだろう。恋ではないと思う。いや、思いたい。自分がそんな常識外れな事を考えているなんて、認めたくなかった。
 目の前にあるのは、『笹木高志』と書かれた答案用紙。
「あっ」
 考え事をしながら採点していたせいか。丸を付けるべきところをバツにしてしまって、有希の掌にどっと汗がにじんだ。
 大きめに丸を書き直し、その下に小さく『ごめんね』と書き添えた。


「今から学年末考査の答案を返します。赤野くん。今川くん。小野田くん……」
 有希のよく通る声が教室に響く。名前を呼ばれた生徒が順に席を立って、教卓のところに答案用紙を受け取りに来た。
「……笹木くん」
 呼ぶ声が震えはしなかったか。精一杯の平静を装って、有希はその名を口にした。
「はい」
 低い、声。
 続いて椅子を引く音がして、高志の近づいてくる足音が聞こえた。他の生徒がたてる物音に混ざって、高志の音だけが鮮明に聞き分けられる。
――あたし、どうかしてる――
 答案用紙をその場に置いて、逃げ出したい気持ちになった。目を伏せて、自分の手が震えていないか確かめる。
「先生。……先生?」
 すぐ間近で高志の声がした。いつの間に傍に来たのだろう。そんな事も判らないほど、自分は動揺していたのか。
 色の薄い前髪の間から、同じく色の薄い瞳がこちらを真っ直ぐに見ている。自分よりも高い背丈から見下ろされて、有希は一層身の縮む思いがした。
「あ、ごめんね。はい、答案」
 有希は努めて明るく言い、次の生徒の名を口にした。


――おかしい。絶対――
 高志は長い前髪の間から、なおも生徒の名を呼び続ける有希の顔を盗み見ていた。
――他の生徒には、普通に接している。なのにどうして俺にだけ……――
 何もした覚えは無い。何も言った覚えは無い。まして……。
――気付かれたのか?――
 高志はハッとした。組んだ指に額をつけて、何気ない風を装って有希の白い顔を見つめる。指の下から見る有希は、こちらに目を向けることも無く生徒の名を次々と呼んでいく。
 告白してきた女子には、好きな人がいるとだけ告げた。そうでもしなかったら自分の事を想い切って、次に進めないだろうから。どこの学校か、と聞かれたから、この学校だと言った。でもそれだけだ。相手の名前は言わなかった。まさか、その片想いの相手が先生だとは思いもしないだろう、と考えたからだ。
 判るはずが無い。判るはず無いのに……。
 ふと答案に視線を落とすと、そこには小さな丸っこい字で『ごめんね』と書いてあった。