Graduation


〜2〜


 慌しく時は過ぎ、三学期も残り僅かとなった。進路の決まった生徒達は、ひと時の安息を迎える。
「先生。相川せーんせ」
 英語準備室で、授業に使うフリップの整理をしていたら、庸子がひょっこり顔を覗かせた。
「あ、高城さん。どうしたの?」
 整理の手を止めずに、有希は顔を上げた。
「あのさ、先生には言っとこうと思って」
 そう言って、庸子は隣の椅子を引いて座り込む。机に肘をついて、その掌の上に顔を乗せた。
「あたし、やっぱ卒業式にボタンもらうよ。笹木くんの」
「え?」
 庸子は高志に振られたはずだったではないか。有希はフリップを持ったまま、再び庸子の顔をまじまじと見つめた。
「振られたんだけどさ、まだ心のどこかで好きなんだよね、笹木くんのこと。これで会えなくなっちゃうワケだし、思い出の一つ位もらったっていいんじゃないかな、と思って」
 そこまで言って、庸子は慌てたように付け加える。
「別に未練タラタラとか、そういった事じゃないんだよ。青春の一ページってやつ? あの時立ち会っちゃってくれた先生には、言っておきたくてさ」
 明るい調子で言うと、庸子は返事を待つように有希の顔を覗き込んだ。
「……いいよね?」
 ドキリ、と心臓が跳ねた。有希は慌てて唇の端を引き上げて微笑む。
「そうね。急に忘れられるわけじゃないんだし、思い出くらいもらってもいいよね。それで高城さんが辛くないのなら」
 自分と高志の『禁断の恋』とやらを気にして、許可を求めたわけではないだろう。有希は一瞬でもそんな事を考えてしまった自分を恥じた。
 有希の答えを聞くと、庸子の顔がパアッと明るくなった。
「先生ならそう言ってくれると思った。ホントはね、先生にこうやって、背中を押してもらいたかったんだ。ありがと。これで勇気が出た」
 さっさと椅子を片付けて、庸子はドアに向かって早足で歩き出す。短いひだスカートの裾が、彼女の動きに合わせてリズミカルに揺れた。
「廊下は走っちゃだめだよ」
「はあーい」
 有希の注意に軽い調子で返事を返すと、庸子は嵐のように去って行った。


 先生はシックな色のスーツ。生徒も皆、きれいにクリーニングされた制服で並んでいる。
 今日は卒業式。
 とうとうこの日がやって来た。これで三年生と会う機会はない。卒業生の中に意中の人がいる女子は、式が終わったらボタンをもらうのだとソワソワしている。
 そんな様子を眺めながら、庸子もその内の一人なのだな、と有希はぼんやり考えていた。
 黒いワンピースの上に長袖のジャケットをはおり、胸にピンクの造花をつけている。どこから見ても、卒業式に臨む立派な先生だった。
――これが最後――
 三年生の姿を見る、最後の一日。有希の脳裏に、高志の顔が一瞬、浮かぶ。
――何考えてるの、あたしは――
 真っ直ぐこちらを覗き込む、彼の真摯な顔。その色の薄い瞳を無理やり頭の中で打ち消して、有希は握った拳に力を込める。
――これで最後。もう息苦しい想いをしなくて済む――
 ――本当に?――
――今日が終われば、教師としての常識を越えなくて済む――
 ――本当に、あたしはそれを望んでいるの?――


 式も滞りなく済み、卒業生達が、友達同士廊下に溜まって名残を惜しんでいる。この後は自由に解散となり、それでこの学校での生活もおしまいとなる。
「先生」
 長い廊下を職員室へと向かっていた有希は、脇から声を掛けられた。顔を向けると、庸子が教室の内窓にもたれるようにして身を乗り出している。制服の胸のあたりには、多分涙の跡だろう。そこだけ色の濃く変わった染みが、丸く滲んでいた。
「あ、高城さん。卒業おめでとう」
 彼女が胸に抱えた卒業証書にちらりと目をやり、有希は柔らかく微笑んだ。
「見て」
庸子はスッと握った手を差し出す。一旦有希の瞳を覗き込んだあと、僅かに口の端を引き上げて、ゆっくりとその掌を開いた。
「もらえたのね」
 庸子の掌には、男物の制服のボタンがコロンと一つ乗っている。ところどころ擦り傷のあるボタンだった。高志の高校生活のいろいろなシーンを、このボタンは共に見てきたのだろう。
「あたし、ちゃんと言えたよ。笹木くんも、しぶしぶじゃなくて、ちゃんとくれた。第二ボタンじゃなかったけど」
 高校生らしい、甘酸っぱいシーンが有希の脳裏に浮かんだ。穏やかな日の光のもと、この子はありったけの勇気を振り絞って『ボタンを下さい』と言ったのだろう。そして相手は自分の制服の胸のボタンを一つ、引きちぎって渡す。ボタンを留めつけていた糸が、その縛めを解かれてハラリと風に散るのが見えたような気がした。
――あたしには似合わない――
 今、二十三歳。早生まれだから春休み中に二十四歳になる。すっかり大人の女になってしまった自分は、やはりこんな感情を持つべきではなかったのだ。彼らには彼らに相応しい人がいる。
「よかったね。高城さんは頑張ったんだ」
 有希は目を細めた。目の前の女子高生がとても愛おしい。その精一杯の気持ちがこちらの心にも染みてきて、素直によかったと思える。
「先生に背中を押してもらったから。あたし、これ大事にとっとくよ。大人になっても捨てない。だって、これはあたしが頑張った証拠だもん」
 言ってから、ペロリと舌を出す。
「なーんてね。じゃあ先生、元気でね」
「あなたも元気でね。じゃあ」
 軽く会釈をして、くるりと振り返る。ストレートの髪をなびかせて歩き出した有希に向かって、廊下のそこここに立ち止まって名残を惜しんでいる生徒達が、話を中断して挨拶をしてくれた。それに小さく会釈をしながら応じる。卒業式の後は、生徒達もなかなか立ち去り難いものがあるのだろう。
 ふと視線を上げた先に、職員室の方から、高志が歩いて来るのが見えた。
 一瞬、そこの角を曲がって階段を降りてしまおうか、などという考えが、頭の隅をかすめた。でも次の瞬間、それではあまりに不自然なことに気づく。職員室はすぐ先なのに、ここで違う方向に行ってしまっては却って怪しまれるかも知れない。
 歩きつづけよう。このまま何も無かったような顔をして、歩きつづけなければならない。
――笹木くんは、あたしの生徒なんだから――
 有希は自分に言い聞かせるように強く念じると、掌に滲んだ汗を握りつぶすようにして拳に力を込めた。真っ直ぐ前を見て、にこやかな、それでいて別れを惜しむ教師の顔を作る。すれ違う生徒にも微笑んで会釈をした。
 あと十メートル……五メートル。高志との距離が縮まる。
 三メートル。前を向いているのに、視界の端で高志を探ってしまう。有希はそんな自分に耐え切れなくなって顔を伏せた。
 二メートル。
「先生」
 高志の低い声。不意撃ちだ。
「え? あたし?」
 乾いて貼りついたような声を出し、有希は顔を上げた。
 何を馬鹿な事を言っているんだろう。その辺りに先生と呼ばれる人間は自分しかいない。
 廊下の片隅で、有希と高志は向き合う格好で立ち止まった。
「あの……有難うございました。いろいろ」
 背の高い高志がペコリとおじぎをする。つられて有希も軽く頭を下げた。
「卒業おめでとう。大学、頑張ってね」
 やっとの思いでそれだけの言葉を口にする。さっき庸子と話した時とは大違いだ。語彙の数が、有希の頭の中で激減したように感じられる。
 そっと目を上げて、高志の顔を見た。茶色の瞳が心なし潤んでいるように見える。男の子だって卒業式ともなれば少しは涙腺も緩むのだろう。濡れて揺れる瞳が何故だかとても色っぽく見えてしまう。
「じゃあ」
 これ以上ここに留まってはいけない。
 他の生徒にしたように軽く会釈をすると、有希は歩き出す。顔を上げて、しっかりと前を見据えて。
 一歩。高志との距離が縮まる。
 また一歩。高志の制服のボタンが全部引きちぎられているのに気づいた。
 そして……。
 高志の身体の陰に有希の身体がぴったりと重なり、そして離れる。彼の脇をすり抜けるとき、言いようの無い喪失感を感じて、有希はギュッと目を瞑った。目の奥から熱い物がこみ上げてくる。吐く息が少し震えた。
 高志を形作るものの影が、視界のどこにも映らなくなってから、彼が歩き出す気配が有希の背中に伝わった。
 一歩。離れて行く。
 また一歩。これで、もう会うことはないのだ。


 高志は小さく息を吐いた。
 先生はありきたりの挨拶だけを残して、今、自分の脇をすり抜けて行った。遠ざかる足音を背中で聞きながら、一歩を踏み出せなかった自分を心の中で呪う。
――やっぱり俺は、一生徒でしかなかったんだ――
 淡い期待を抱いたことも有った。先生が時折見せた動揺は、もしかしたら自分に好意を持ってくれていた証なのではないかと。
 卒業式が済めばもう先生と生徒ではない。何の繋がりも無くなってしまう。踏み出すなら、今しか無かったのに。
 遠ざかる足音が耳に届かなくなってから、高志はそっと振り向いた。
 先生が立ち止まっていたら、駆け寄って行って、自分の気持ちを伝えよう。
 そう決心して。
 だが振り向いた先には、ストレートの黒髪をなびかせた有希の、だんだんと小さくなっていく小柄な背中があるだけだった。
「ふ……可笑しいよな、俺」
力なく視線を床に落とすと、高志は小さく息を吐いて口の端を歪め、また歩き出した。


 高志との距離が離れていくにつれ、有希の心は大きな石がのしかかるように重く沈んで行った。
 振り向けば、そこには高志がいる。もう二度と会うことはないであろう高志が。
 もっとよく見ておけばよかった。いつも正面から向き合うことを恐れていた。
 いや、違う。本当は判っていた。高志に心惹かれて行く自分を。だが自分の心の中の素直な気持ちに耳を傾けることを恐れていたのだ。常識という枠にがんじがらめになって。
――せめて去って行く後姿だけでも見送りたい――
 もう自分に嘘はつけなかった。これが最後だと思うと、後姿を見送る事くらい、許されるような気がした。
 ゆっくりと振り返る。視線の先の高志の背中は、小さく上下しながら遠ざかっていく。
『でもきっと立ち直れる日が来るよ。忘れはしないかも知れないけど、新しい傷にだんだんと新しい皮膚が被ってくるように治っていくものだから』
 庸子に向けて、あの日有希が言った言葉。
「さよなら、笹木くん」
 有希は、高志が立ち止まっていない事に安堵と失望を感じながら、彼の背中に向かって小さく呟いた。