因果応報  ― ハルカ カナタノ ミライヘ ―



 ――わたしの手は血塗られる――
 村はずれの粗末なあばら家。その入口のすぐ脇にぴったりと身を寄せ、由羅は中の様子を窺った。年の頃は十五。まだ子供とも言える彼は、兄の命を受け、この家を探し当てたのだった。
 確かめるように腰に差した剣の柄に手を掛ける。家の中からは人の気配がした。
『ジャ……』
 意を決すると入口の戸を開けた。あまり滑らかとは言えない音が家人に侵入者のあったことを告げる。女が一人、中腰のまま、ひどく驚いた顔をこちらに向けていた。
「義姉上、もはや逃れられませんぞ」
 すぐに抜刀するのは躊躇われた。義姉上と呼ばれた女は侵入者の顔を確認すると、何もかもをその胸の内に飲み込んだ。
「……何か申し開きする事はないのですか」
 由羅が問う。
「今更、何を言えば良いのです。私のした事はあなたの兄上への裏切りなのですから」
 女の顔に諦めの色が浮かんだ。
「お二人とも斬れ、との命を受けて参りました。あのように狂った兄でも、わたしの主です。逆らうことはできません」
 眉根を寄せ、苦悶の表情を見せると、由羅はするりと刀を抜いた。
「あの人は亡くなりました。もう一年になります」
 女は土間に膝をついた。由良は黙ってその様子を眺めていた。あまり長く言葉を交わしては情が移る。こんな任は早く済ませて、忘れてしまいたい。
「お恨みはこの身にお受け致します。義姉上、御免っ」
 上段に構えた刀がふわりと振り下ろされた。静かに見上げた義姉の瞳がふと微笑んだような気がしたのは、許されたいと願う心が見せた幻か。着物の裾を乱すこともなく、女は土間にくず折れた。刃にかかった髪が一筋、花びらのようにハラリと舞い降りた。


 刀を納め、由羅は義姉の亡骸に手を合わせた。兄と祝言を挙げて間もない義姉が男と家を出たのは四年も前のこと。当時の由羅は十一になったばかり。世の中の理もよく知らぬ、ほんの子供であった。その彼に家長である兄は、逃げた女を追うよう命じたのだ。
「狂っている……」
 今の由羅なら判る。兄は嫉妬に駆られ、自分を見失っていたのだと。だが義姉を探すことに四年の月日を費やしてしまった由羅にとって、もはやそれ自体が生きる目標のようになってしまっていた。
 コトリ、と音がした。振り返ると幼女が一人、入口の戸に手を掛けたままこちらを凝視している。
 ――しまった――
 娘がいたのか。子供がいることを考えなかったわけではない。だが斬れと言われたのは義姉とその恋人の二人だけ。 子供のことなど何も聞いていなかった。
 ――この手に掛けずとも、親の無い子など生き延びられまい――
 小さな者をこの手で殺生するのは気が引ける。動かぬ幼女の脇をすり抜け、由羅は歩き出した。


 由羅が歩く。小さな足音がついてくる。
 由羅が立ち止まる。足音も止まる。



 ――振り返るまい。幼子のことだ。その内に疲れて遅れをとるだろう。村を出るところまでついて来られる訳は無い――
 村を出ても足音はついて来た。由羅は深く息を吐き、ゆっくりと振り返った。粗末な着物に身を包んだ、小さな娘。怯えた眼をしている。
「来るのか? わたしと」
 娘は黙って頷く。
「……名は何と言う?」
甲斐(かい)
「甲斐か。良い名だ」
 澄んだ眼で見つめられ、由羅は心の奥底を覗かれた心持になった。自分は醜い。自分の手は血塗られている。
 このまま屋敷に連れ帰ったところで、甲斐は捕らえられるだけであろう。そして待っているのは死。
 ――自分は罪滅ぼしをするつもりか――
 ふと可笑しくなった。今更何をしようというのか。

 ――由羅は屋敷とは反対の方向に足を向けた。


「由羅。寝ているの?」
 目の前に甲斐の顔。雨宿りをしている内に、いつの間にか眠ってしまったらしい。体の上に甲斐の着物が掛けられていた。あれから屋敷に帰るわけにも行かず、あちこちの村を転々とした。国では由羅の事など忘れてしまったのか、捜索の声も聞かれなかった。あれから十一年。
「お前が風邪をひくぞ。わたしはいいからこれを掛けていなさい」
 体に馴染んだ着物を剥ぐと、由羅は片手にくしゃっと握って差し出した。
 目の前の甲斐は既に十五になっている。こんな暮らしをしていても肌はきめ細かく、どこから見ても立派な娘だ。由羅は二十六。彫りの深い顔に時々影が()ぎるのは、背負った業の深さなのだろうか。甲斐が由羅に優しさを見せた時、必ず過ぎる辛そうな影……。
 そして彼のその体も、病に蝕まれていた。無理な旅だったのだ。幼女を連れて、まだほんの子供であった由羅がその日の糧を得るためにできることと言えば……。
 見目形の良い由羅に言い寄る男は大勢いた。男色など本意ではない。だが力も無い由羅が、ただ剣のみで生きて行ける程、世間は甘くなかった。色小姓の真似事をしながらあちこちの領地を転々としていたのだった。
 そしてどこぞで病を得て……。
 この地についてから、臥せり気味であった。
 ――もう長くはないかも知れん――


「お前はいくつになった?」
 由羅は甲斐の張りのある頬を見つめた。
「十五よ。わかってるくせに」
 甲斐は、何を今更、と言った顔で由羅を見下ろす。腰の辺りで切り揃えられた髪が、頭の動きにつられて肩から零れた。
「綺麗になったな」
 由羅の目が細くなる。甲斐の成長を喜んでいるのだ。
 兄に命ぜられて義姉を斬った。だがもとはと言えば、兄が恋人のいる義姉に横恋慕して無理やり奪い取ったのだ。元の鞘に納まろうと二人は逃げた。その二人を亡き者にしようとしたのは、ただ兄の面子のためだけであった。
 ――愛などではなかったのだ――
 恋しくて、悲しくて斬ったのではない。ただ自分の面子のために、由羅に斬るように命じたのだ。そして甲斐が残された……。
 甲斐を立派に育て上げることで罪滅ぼしをするつもりなのか。いや、それも違うかも知れない。
 ならば、何故……。
「由羅?」
 甲斐の顔が近づき、黙ってしまった由羅の額に自分の額を押し付ける。甘い香りがした。
「もう自分のことは自分でできるな。この村を出たら……それぞれの道を行こう」
 甲斐の額から逃げるように顔を背けると、由羅は低く告げた。
「いやよ。私は由羅と行くの」
 甲斐の唇が怒りで震えた。
「お前はもう立派な女だ。この意味はわかるな」
 顔を背けたまま、由羅が諭した。
「いやったら、いや! そうよ、私は女よ。だから由羅と一緒にいたいの」
 由羅の唇に柔らかいものが触れた。それが甲斐の唇だと気づいた時には、既に甲斐の体は由羅の上にあった。
「わたしは汚れている」
 苦しげな声が由羅の喉の奥から搾り出された。
「色小姓になったこと? そんなの知ってる。そうしなかったら私達死んでたわ。それが何だっていうのよ」
 甲斐の腕が由羅の肩を抱き締めた。
「わたしの手はお前の母親の血に染まっているのだ!」
 自分を押さえつける甲斐の体を引き剥がし、由羅は荒い息をついた。
 少しの静寂。甲斐の体は引き剥がされたまま、そこに固まってしまっていた。


 ――夢じゃなかったんだ――
 外から帰ったら、綺麗な男の人が立っていた。その向こう側にお母さんが横たわっていた。お母さんの体は真っ赤で……。
 呼んでも、もう動かなかった。寂しくて、悲しくて、男の人を探した。追いついて、後をつけた。ついて来るなと言われたら悲しい。でもその人は言った。
 『来るか? わたしと』と……。


「お前はわたしと居てはいけないのだ」
 寂しげな由羅の瞳。
「置いて……行けない。だって由羅、死んじゃうもの」
 お母さんのことは……もう忘れた。今は由羅が目の前にいる。
「そう。わたしは死ぬのだ。もう長くない。だから……」
「いやっ!」
 甲斐は由羅の体に抱きついた。
「苦しいのだ。心も体も。お前の顔を見る度罪の意識に苛まれるのも、病に冒されてじわじわと死んでいくこの体も」
 由羅の胸がひゅう、と鳴った。
「……苦しいの?」
 甲斐の瞳が由羅の切なげな瞳を捉える。二人の間に沈黙が訪れた。降りしきる雨音さえも遠のき、静寂に包まれる。それは何かを決断するような、意志の疎通。
「わたしを……殺してくれるか?」
 甘やかな誘惑。由羅は甲斐の瞳から目を逸らさず、手探りで自分の刀を探り当てた。ゆっくりと自分と甲斐の間に捧げ持つ。
『チャ……』
 抜刀できるよう、(つば)をずらした。
「因果応報……だな」
 甲斐の胸に刀を押し付ける。目を見開いたまま甲斐はその柄に手を掛けた。
 由羅の胸が再びひゅう、と鳴った。
「早く楽にしてくれ」
 由羅の目が閉じられた。甲斐の手がするりと刀を抜いた。
「転生したなら、今度こそ一緒にいられる?」
 柄を握りなおしながら甲斐が問う。
「ああ」
 短い答え。
『ヒュッ』
 由羅の首にあてがわれた刀身が横に薙ぎ払われた。ゆっくりと……ゆっくりと、由羅の体が落ちていく。消えていた雨音が甲斐の耳に戻って来た。
『ザァ……』


 ――遥か彼方の未来へ――

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