桜樹



 桜の下には死体が埋まっている
 だから桜は春になると 一斉に花を咲かせるんだ……



 ―― そして今年も春が巡る ――


 春の匂いを含んだ風に、桜の花がほころびはじめた。毎年、人にはそれとわからぬ内に、桜は当たり前のように春の準備をはじめる。薄いピンク色がかった花弁は、見るだけで人を和ませる。そして花見と称して、人はその下でパーティーを開くのだ。今年もいつもとおなじように……。


「あたし、花見は好きだけど あの宴会は好きじゃないわ」
 戸上佐保(とがみさほ)は会社のホットコーナーの壁にもたれて、ライターをカチッと鳴らすとくわえた煙草に火をつけた。ふうっと大きく息を吐くと紫煙がゆらめきながら漂い、そして消える。その様を眺めながら彼女は目の前にいる同僚の校倉透(あぜくらとおる)に渋い顔をして見せた。
「仕方ないさ。毎年決まってる行事なんだし。佐保ちゃんとオレが幹事するのだって去年から決まってたじゃないか」
 校倉は、彼女の吐いた煙をそれとわからないように避けながら苦笑した。フロアは禁煙になっているので、喫煙者のためにホットコーナーは喫煙コーナーにもなっている。佐保は煙草をたしなむが校倉は苦手なのだ。
「その『佐保ちゃん』って言うの、やめて」
 佐保が少々きつい表情で校倉をにらむ。
「校倉くんとは一年前に別れたのよ。今はお互いフリーなんだから、ちゃんと苗字でよんでよ」
「はい、わかりました」
 小さな子供をあやすように校倉は引き下がる。短い間の付き合いだったが、恋人同士だった頃に習得した技だ。佐保の機嫌が悪い時に反論すると、その十倍は抗議の言葉が返ってくる。話を手短に切り上げるためにも反論は避けた方がいい。
「今から私、場所とりに行くわ。早めに行かないといいところなくなっちゃうから。校倉くんは食べ物や飲み物を引き取って合流してくれる?」
 佐保は灰皿の上で煙草をきゅっと揉み消すと、ヒールをカッカッと鳴らしながらエレベーターホールに向かって歩いて行った。


 会社の同期として同じ課に配属されて二年目の秋。そこそこ仕事も覚えた頃、校倉が佐保に好意を抱いて二人は付き合い始めた。
 しかし付き合って半年で佐保の方から一方的に別れを切り出す事になる。理由は『結婚の匂いのする付き合いはいや』というもの。
 確かに短い付き合いの中ではあったけれど、校倉の方は佐保となら、このままずっと一緒に暮らしていけそうな気がしていた。自分でもそれと気づかぬ内に、言葉の端々に『結婚』の匂いを漂わせていたかも知れない。
 別れたと言っても、佐保のさばさばした性格と校倉のおっとりと包み込むような性格が幸いして、それは泥沼にはならなかった。そして今でも校倉は待っているのだ。佐保の気が変わるのを……。


「よかった。まだ人、少ないわね」
 川沿いの数ある桜の中でも、ひときわ大きく色鮮やかな桜の樹。樹齢千年もあろうか。その根元にビニールシートを一通り敷き詰め、あたりを見回すと佐保は安堵のため息をついた。
 去年はさんざんな目に遭った。場所取り部隊が出遅れて、公衆トイレ横の狭い一角でバーベキューをつつく羽目になったのだ。そこは毎年行っていた場所だったけれど、(げん)が悪いからと、今年は違う場所でやる事に決まった。
「山がうっすらと見えて いい感じ」
 佐保は満足そうに目を細めた。バッグからシガレット・ケースを取り出し、彼女はふと手を止めた。
「こんな景色のいい所で煙草っていうのも不似合いよね」
 苦笑すると手に持ったそれをバッグの中に滑り落とす。もともと好きで吸い始めた煙草ではない。大学を卒業した後、男性と一緒になって第一線で働くために、いきがって吸い始めたのだ。
 学生の頃は良かった。男も女も平等だった。それが社会に出ると、とたんに『女性だから』という理由で不当な扱いを受ける。女性だから何年か後には辞めるだろう。女性だから第一線で働くのは難しい……。何度となく聞かされ、これみよがしに(ささや)かれる言葉にどれだけ傷ついただろう。
 人並みに恋もした。校倉と付き合ったのだって、彼を好きになったからだ。でもいざ『結婚』が目の前にぶらさがると、逃げ腰になっている自分がいた。結婚すれば子供が生まれる。そうしたら今までの自分の築き上げた物を全部捨て、家庭に収まらなくてはならない。校倉が『結婚』を匂わせる度、佐保は追い詰められていくような気がしていた。
 満開の桜の下、佐保はしばらく声も無く花びらが風に踊る様を眺めていた。自分の地位を守る鎧兜(よろいかぶと)のようなハイヒールを脱ぎ、樹に腕を回して耳をつけてみる。枝が風にそよぐ音が幹を伝って佐保の耳に届いた。しばらく目を閉じて聞き入っていたが……。


 ふいに人の気配を感じる。
『校倉くんかしら? ずい分早かったわね。』
 ゆっくり目を開けると、そこには見慣れぬ若者がいた。全身黒づくめの服をまとい、物憂げに佐保を見つめている。その瞳は吸い込まれるように黒く、長い髪も瞳と同じく闇の色だった。
 佐保は彼の視線から逃れようとするが、金縛りにあったように体が動かない。幹に回していた手を引き離そうと思っても、腕はピクとも動かなかった。まるで桜の樹につかまってしまったように……。
「やっと会えました」
 若者が懐かしむような笑みを浮かべる。言ったように聞こえたのだが、口は開いていない。頭の中に直接言葉が響いてくる。佐保は体の自由を奪われ、恐怖の表情を浮かべることさえできない。
「ずっと待っていました、佐保様」
『佐保? なぜあたしの名前を知っているの?』
 佐保は声にならない言葉を発した。
「あなたはわたしを忘れてしまったのですか。わたしはここでずっと待っていたというのに」
 彼は佐保の考えを読んだかのように言う。
『あたしは知らないわよ、こんなところ初めて来たんだもの。』
 若者と対話ができるとわかって、佐保は少し落ち着きを取り戻す。気持ちが落ち着いてくると目の前の彼が誰なのか興味が湧いてきた。
『あなたは誰? どうしてあたしを知っているの?』
「わたしは……」
 言いかけて若者は、ふわりと佐保の体を抱く。彼女は彼に触れられている所から熱が注ぎ込まれるように感じた。とたんに(かせ)が取れたように腕が動くようになる。そのまま桜の樹から引き剥がされるようにして、佐保は後から若者に抱きすくめられた。
「あ……」
 頭の中に強烈な痺れがかけめぐり、佐保の意識は徐々に暗転していった……。


 次に佐保が目をあけると、あたりは随分暗かった。彼女が会社を出たのは定時ジャストだったから、どう考えてもまだこんなに暗くない時刻のはずだ。なのにあたりは暗く、目をこらしてやっと先刻の川の近くだとわかる。しかしあの桜の樹はなく、草むらは秋の様子を呈していた。
 心なし空気も違うように感じる。都会の薄汚れた空気ではなく、まだ何にも汚されていないような……。
「何、これ?」
 佐保は自分の格好に気づいて驚いた。さっきまではアフターファイブにも通用するというスーツを着ていたはずなのに、今彼女がまとっているのは着物。知識が無いのでよくわからないが、これは平安の頃の貴族の装束ではないか。
「佐保様。お会いしとうございました。お屋敷の方々に気づかれませんでしたか?」
 声のした方を見ると、先程の若者が一見して低い身分の者とわかる装束で佐保の足元にひざまづいている。彼の闇の中でもそれとわかる漆黒の瞳を見た途端、佐保の頭に今までの記憶が全部注ぎ込まれた。
 そうだった。彼はあたしの屋敷に仕える使用人。普通なら絶対に顔を見せる事すらない。あの日あたしが扇を落として、彼が拾って手渡してくれた。そして……。
「会いたかったわ、志野(しの)。屋敷の中ではあなたと話すことはおろか、こんなに間近に見ることはできないもの」
「佐保様……」
 志野と呼ばれた若者は、ためらいながら伸ばした手を佐保の肩に回すとそのまま彼女を引き寄せた。佐保は彼の手の触れているところから先程と同じように熱が注ぎ込まれるのを感じた。
「あなたは不思議な力を持っているわ。大好きよ、志野」
「わたしもです。これが身分違いの恋でなかったなら……」
 志野の顔が徐々に近づき、唇が重なる。佐保も夢中で志野の唇を(むさぼ)った。やはり志野と触れ合っているところから甘い痺れが体中に広がっていく。いつしか志野の唇は佐保の首筋を()っていた。
「は……あっ」
 意識が霞み、そのまましなだれるように膝をついた……。


 突然目の前の景色が変わる。変わったと思ったけれどそこは先程の川べりだった。さっきより幾分明るいものの、薄暗い。季節も違うようだ。そして佐保の腕の中には志野が今にも息絶えそうに、ぐったりとして抱かれていた。
「どうしたの、志野! 具合悪いの?」
 驚いて、佐保は志野の体を揺する。
(やまい)を得た……ようです。……わたしはもう駄目でしょう」
 苦しい息遣いの下から志野が微笑んだ。
「わたしが死んだらここに埋めて下さい。この川べりに……。そして佐保様……あなたの印をその上に……どうか……」
 もう一度微笑むと志野は静かに息をしなくなった。佐保の意識も再び暗転した……。


 志野を埋め、その上に桜の苗木を植えた。古来より、桜の姫の名は『佐保姫』という。 それは千年も前の前世の記憶だった。
「わたしの体は、まだその桜の根が抱いているのです」
 ふいに間近で静かな声が聞こえる。志野だった。闇色の服に戻っているという事は現世に戻って来たのか。
「あなたとは来世を誓い合いました。でもあなたはわたしを忘れてしまった。それに……」
 志野はふっと微笑んだ。
「現世でのあなたの想い人は他にいるようですね」
 微笑んだ顔が寂しくゆがむ。そのまま志野は桜の樹に溶け込むように、にじんで消えて行った。遠くで校倉の声が聞こえる。また佐保の意識は暗転した……。


「……ほ……ちゃん。佐保ちゃん!」
 目を開けると心配そうな校倉の顔が間近にあった。佐保は桜の樹を抱いたままだった。
「あ……。校倉くん」
「『あ、校倉くん』じゃないよ、まったく! 死んじゃったのかと思ったぞ」
 佐保は体を動かしてみる。ちゃんと動く。あたりも随分明るい。脱いだハイヒールも足元に転がっている。全部元通りだった。彼女の脳裏に焼き付いて離れない、『志野』との記憶以外は。
「飲み物、そこまで運んできたんだけどさ、重くって。こんなこと女の子に頼むのもなんなんだけど、佐保ちゃん手伝ってくれよ」
 校倉は顔の前で手を合わせ、懇願する真似をした。
「普通、男のプライドにかけてもそんなこと頼まないわよ」
 一応頬をふくらませて怒った顔をつくった佐保だが、そのまま苦笑した。
「あれ? 『佐保ちゃんなんて呼ばないで』って怒らないのか?」
 拍子抜けした顔で校倉が言う。不思議と佐保は、突っ張って生きて来た今までの自分が滑稽に思えて来た。
「いいわよ」
 ハイヒールを履きながら、佐保は言った。
「それどっちの『いい』なの? 飲み物運んでくれるの? 佐保ちゃんって呼んでもいいの?」
「……両方よ」
 照れくさそうに佐保は微笑む。そしてバッグの中を探るとシガレットケースから煙草を全部抜き取り、近くのごみ箱に歩み寄ると残らず捨てた。
「あれ? 煙草やめるの?」
 校倉がごみ箱の中に落ちていく煙草の行方を目で追いながら言う。
「いいのよ、もう私には必要ないから」
 佐保は校倉に歩み寄った。
「『佐保ちゃん』って呼ぶには条件があるの。わかってるわよね?」
 そして彼の腰に腕を回した。春の匂いを含んだ一陣の風が吹いて大量の桜の花びらを巻き上げる。そしてそれは、いとおしむように……悲しむように……ハラハラと舞い降りて二人のまわりを桜色に染め上げていった。