桜涙 -サクラアメ-



 いつもと同じ場所なのに、街は色を失くし、灰色に沈んでいる。一切の音は大気と同化したかのように浮かぶ雨の粒に呑み込まれ、分厚い水の壁がまるで海の底のように果てしなく続いていた。
 優梨子の運転するものの他に、車は無い。自転車はもちろん、歩行者もいなかった。
 信号が黄色に変わり、続いて圧倒的な赤色が灰色の交差点を毒々しいほどに彩る。ブレーキペダルを踏み込んでゆっくりと停止すると、優梨子はフロントガラスの風景から、ふと視線を外した。
 車道と並んで走る反対車線側の遊歩道の向こうに、桜の並木が続いている。盛りを過ぎて、今はもうハラハラと花びらが散るばかりだ。明るい時間に見れば若葉の緑が薄紅色の間に垣間見られるのだろうが、それさえも明暗だけのモノトーンの世界に呑み込まれている。
「はあ……」
 思わず声が漏れるほど大きなため息をつき、優梨子は自分でも驚いた。何か心配事があるというわけでもないのに、何故自分の気持ちはこんなにも鉛を流し込んだように重いのだろう。
――まるで今日の天気みたい――
 降り止まない雨粒の中の、たった一つを見つけるかのように、優梨子は目を凝らして空を見上げる。重苦しい灰色はさっきよりも濃さを増したようだった。
「……あれ?」
 ふと戻した視界の端に、さっきまでは無かった色があった。吸い寄せられるように視線を移す。焦点が定まるとそこには、黒っぽい服を着た男性が背中を向けて立っていた。
 いつの間にそこに来たのだろう。それともさっきからそこに立っていたのに、自分が気づかなかっただけなのだろうか。黒っぽい服は信号の赤色に照らされて、少し赤みがかって見えた。
 傘を持っていない。頭からすっかり濡れてしまった様子の男性は、髪の毛もぺしゃんこで、服もずっしりと重そうだった。
 優梨子はパワーウィンドウのスイッチを押し、窓を開けた。途端に雨が車内に降り込んで来る。顔にかかる雫を形だけ避けながら、男性をよく見ようとする。その時、音に気づいたのか、男性がゆっくりと首を巡らせた。
 一瞬、意図せず見詰め合ってしまう。
 優梨子はすぐに我に返り、慌てて車内に視線を戻して窓を閉めた。ダッシュボードの上に置いてある小さなぬいぐるみが淡く光って見える。何となく男性がまだこちらを見ているような気がして、優梨子はそちらに視線を向けられなくなってしまった。
 信号が青に変わり、辺りが緑色を含んだ灰色に染まる。前を見据えたまま、優梨子はアクセルを踏んで車を発信させた。
「やだ……」
 心臓の鼓動がやけに大きく感じる。ほんの一瞬目が合っただけなのに、妙に彼の顔が頭に焼き付いてしまっていた。
 真ん中で分けた黒い前髪の間から覗く目。白っぽく光る鼻と、妙に赤い唇。どこかで見たような、でも優梨子の記憶には無い顔だった。わざわざ車の窓を開けて見るなんて、変な女だと思われただろうか。何か用事があったから見ていたのだと思われただろうか。
――びしょ濡れだったわね――
 傘が無くて帰れずに、あそこにいたのかも知れない。助手席を見ると、優梨子が会社の駐車場まで差して来た傘が置いてあった。随分降っていたから、床に敷いてあるマットも濡れて黒く変色している。今も相変わらず酷いどしゃ降りだ。
――もう一本傘があるんだから、貸してあげれば良かったかな――
 今日持ち歩いていたビニール傘とは別に、車にはいつももう少し上等な傘を積んでいる。どこでも買えるようなビニール傘ぐらい貸してあげれば良かったかも知れないと、優梨子は少し後悔した。
 脇道に逸れる交差点が見えた。優梨子は無意識の内に、ウインカーを出していた。
 誰だって濡れるのは悲しい。既にびしょ濡れになってしまっていても、新たに体に染み込む雨は気持ちを萎えさせる。特にこんな灰色の世界で、物悲しく散る花びらを見ていれば尚更だろう。
「いい人ぶってるわけじゃないわよ」
 自分に向けてなのか、それとも別の誰かに向けてなのか分からない言い訳を口にすると、優梨子は先ほどの場所へと車を走らせた。
 反対車線に回って来たから、男性がいた方により近くなる。さっきの信号の手前から目を凝らして見てみると、彼はまだそこにいた。信号を過ぎてから、ハザードランプを点滅させて停車する。今度は助手席側の窓を開けた。
「そこのあなた! 濡れてるけど大丈夫ですか?」
 できるだけ大きな声で呼びかけてみる。優梨子の呼びかけに応え、男性はこちらを振り返った。
「ビニール傘があるんだけど、使いません?」
 そう言うと、優梨子は助手席の窓を閉め、エンジンを切った。自分は車にいつも置いてある置き傘を差し、助手席からまだ少し雫の垂れるビニール傘を掴んで外に出る。男性はその様子を黙って眺めていた。
「はい、これどうぞ。濡れるの悲しいでしょ?」
 近寄っても逃げる様子はない。それは優梨子が来るのを待っていたということだ。ビニール傘を差し出すと、男性はそれを受け取った。
「……ありがとう」
 想像していたのとはちょっと違うけれど、耳に心地よい声だ。至近距離で見上げてみると、どこかで見たような気もするが、やっぱり優梨子の知らない顔だった。
「返さなくていいですから」
 そう言うと、優梨子は踵を返して車に戻った。ドアを閉めてシートベルトを締める頃に、男性が傘を開くのが助手席の窓越しに見えた。ずっとこちらを見ている。今度ばかりは知らん顔もできないだろうと、優梨子は彼を見て少し微笑んでみせた。男性も軽く会釈をする。透明なビニール越しに、彼も少しだけ微笑んでいるのが分かった。


 翌日はお休みだった。昨日の雨が嘘のように、青空が広がっている。雨で洗われた空気は爽やかで、思わず何度も深呼吸したくなるようだった。洗濯物を干し終えてベランダの手すりにもたれ、遠くから聞こえる微かな街のざわめきを優梨子は聞いていた。
――あれからちゃんと帰れたのかしら――
 優梨子が車を発進させた時も、彼はまだ歩き出す気配もなく、ただそこに立っていた。まるで優梨子を見送るかのように……。
「誰かに似てるのよね」
 ふわりと漂って静かに形を変える白い雲を見上げながら、優梨子はつぶやいた。誰に似ているのか具体的には思い出せないが、頭の隅のどこかで彼に似た面影を知っているような気がするのだ。声を聴いた事もなく、ただ見たことがあるだけの、それくらいの距離感。それなのに懐かしく思えるような、不思議な感覚だった。


 それから数日は快晴とまではいかなかったけれど、穏やかな天気が続いた。並木の桜もなんとか持ちこたえ、新緑色の葉の間にはまだ薄紅色の花が残っていた。仕事の行き帰りには、いつものあの場所を通る。あれから彼を見かけることもなく、無事に自身の生活に戻ったのだろうと優梨子は思っていた。
 今日は朝から曇っていたのだが、夕方になって堪え切れずに雨が落ちて来た。会社で帰り支度をしながら、これで桜も全て散ってしまうだろうと思った。
 あの日と同じように、灰色の交差点が赤に染まり、優梨子は車を停止させた。何気なくまた遊歩道の向こうの桜並木を見る。雨に打たれて散った花びらが、地面いっぱいに広がっていた。
 ふと、視界の端に影が差した。
 優梨子が視線を巡らすと、先日の男性がそこに立っていた。今日は桜ではなく、こちらをじっと見つめている。手にはあの日のビニール傘。畳んだままのそれを、落ちてくる雨粒から守るように彼は持っていた。
 傘を返すためにそこで待っていたのだろうか。優梨子は青になった信号を渡り切ってから車を停め、車にいつも置いてある置き傘を差して車外に出た。
 今日は男性の方からこちらに歩み寄って来た。雨が降っているというのに、傘を差していない。手にしたビニール傘は、今日は使われた形跡はないようだ。
「こんばんは」
 礼儀正しく挨拶をされる。優梨子も軽く会釈し、「こんばんは」と返した。
 男性はこの間ほどではないが濡れていた。今日も黒っぽい服を着ていて、それが水を含んで更に黒々として見える。こんな事なら持っている傘を使えばいいのに、と優梨子は思った。
「返さなくても良かったのに。そんなに濡れて」
 桜の季節とはいえ、夜はまだ寒い。雨ともなれば尚更だ。寒くて悲しい気持ちになってしまうのに、と思って彼を見ると、微笑んでいる眼差しと視線がぶつかった。
 どこで見たのだろう。懐かしい気もするが、こんなに近くで見てもやっぱり思い出せない。
「……優梨ちゃん」
 男性の唇が、優梨子の名を呼んだ。
「……!」
 思いがけない声に、優梨子はただ相手の目を見返すことしかできなかった。
「なぜ私の名前を……」
 やっと絞り出した言葉は続かなかった。男性がビニール傘をこちらに向かって差し出したからだ。それを呆けたように受け取り、優梨子はただ彼の顔を見ていた。
「こんな日だったね」
 男性は穏やかに話し始めた。雨はまだ降っている。真ん中で分けた黒い前髪の間から覗く目が、懐かしそうに細められた。
「僕はその遊歩道の隅に座ってた。あの日もこんな風に雨が降っててさ」
 空を見上げた彼の足元で、チャプ、と水たまりが音を立てる。
「桜が散って、花びらがくるくる回ってて、僕は寂しかったけどそれを見ていると嬉しくなった」
 いつの間にか男性はまた優梨子を覗き込むように顔を近づけていた。
「ここで拾ってもらったよね。あの日もこんな風に雨が降っててさ」
 そのまま優梨子の肩にコトンと頭を乗せた。ふわりと吸い込んだ香りが、優梨子の記憶の中の何かを呼び覚まそうとしている。
『にゃあお』
 頭の中で、懐かしい鳴き声が響いた。
「……クロ?」
 恐る恐る呼んだ名前に、相手が肩に頭を乗せたまま、コクリと頷いた。
 クロは何年も前に優梨子が飼っていた猫の名だ。雨の中、鳴きもせずじっとうずくまっていたずぶ濡れの黒い子猫を、優梨子は家に連れて帰って温めてやった。鳴く力も残っていなかったのか、冷たい子猫の体はガリガリに痩せて、何日も食べていない事はすぐに判った。翌日は運よく会社が休みだったので、朝一番で子猫を獣医に連れて行った。元気になるかどうかは半々の確率だと言われて、優梨子は必死に世話をした。その甲斐あってか、子猫は食欲を取り戻して元気になった。体の色からクロと名付けて一緒に暮らしたのは二年ぐらい。ある日、不注意で開けておいた窓の隙間からクロは出て行ってしまった。それ以来、二度と帰って来なかった。
「クロ……なの? どうして? なんで人の姿なの」
 目の前で起こっている事が信じられない。肩に乗ったままの頭を、かつてクロにそうしていたようにそっと撫でながら優梨子は訊いた。
「桜の神様に頼んだんだよ」
 昔よくしていたように、クロは優梨子の肩に頭を擦りつけてそう言った。
「僕はあの頃、まだほんの子供だった。外にはワクワクする事があるような気がして、優梨ちゃんの家を抜け出てしまった。ちょっとした冒険心だったんだけど、道に迷って帰れなくなった。ずっと歩いて、歩き続けて、ヘトヘトになって、どこかの桜の樹の下で僕の命は尽きた」
 優梨子は、「ああ、やっぱり」と思った。自分の手を離れてもどこかで元気に暮らしていて欲しいと願いながら、心のどこかでクロはもう生きていないかも知れないと思っていた。
「だんだんと意識が遠くなる中、くるくる回りながら散る花びらが見えた。そしたらちょっとだけ嬉しくなって、心の中でその花びらにお願いしたんだ」
 クロがゆっくりと頭を持ち上げた。
「もう一度だけでいいから、優梨ちゃんに逢わせて下さいって。きっと僕が突然いなくなったから優梨ちゃんは心配してる。自分を責めるかも知れない。でも僕は短い間だけど一緒に暮らせて幸せだったと伝えたいって」
 そう言うと、クロは少しだけ笑った。
 あれから数年経った。桜の季節になると、優梨子はいつも嬉しいような悲しいような気持になった。クロを拾ったのも桜の季節なら、クロと別れたのも同じ季節だった。雨の日ともなれば、重苦しいため息をつく事も少なくなかった。それは単なる体調不良なのだと思っていたのだが、今から思えばクロの事がずっと心に引っ掛かっていたのかも知れない。
「戻って来るのが遅くなっちゃったけど、優梨ちゃんに逢えて良かった」
 すっと背筋を伸ばして。そして一歩、後ろに下がった。
「ずっと元気でいて。また逢えるよ、きっと」
 確認するように小さくうなずいて、クロはまた一歩下がる。優梨子を見つめ、少しだけ目を細めて笑った。こちらを向いたままゆっくり後ろ向きに歩いて、街灯の切れ目でその姿はふわりと消えた。
「クロ……!」
 あとには優梨子と優梨子の車だけが残された。信号が青から黄色に変わり、続いて圧倒的な赤色が灰色の交差点を毒々しいほどに彩る。辺りには車や自転車はもちろん、歩行者もいなかった。


 あれから数年が過ぎた。人間の姿をしたクロに逢った事は、夢の中のできごとだったのではないかとさえ思える。でも『誰か』に貸したビニール傘はちゃんと手元に戻って来ていたし、桜の季節に重いため息をつく事もなくなっていた。
 優梨子は相変わらず同じ会社に勤めていて、同じ時間に出社し、退社していた。桜並木沿いの道を通勤に使っていて、桜の季節になると辺りは薄紅色に彩られた。
 今日は朝から土砂降りだった。夕方になって少し雨足が弱くなったものの、依然として傘が必要なほど降っている。また桜の季節が巡って来たというのに、数日続いている雨が、早々に花を散らしてしまうだろう。
 優梨子はあの信号を青で渡り切り、ふと思いついて名残りの桜を見ようと車を停めた。車のフロントガラス超しに見る桜は落ちる雨粒に身を揺らしながら、それでもまだ枝にしがみついて咲いていた。
 車にいつも置いてある置き傘を差して車外に出ると、ドアを閉めてロックする。傘に当たる雨粒の音を聞きながら遊歩道を歩いていると、何かに呼ばれたような気がした。
 首を巡らせて辺りを見回すと、何故だか一本の桜の木が気になった。水溜りに注意しながら近づいてみる。木の根元に、微かに動く影があった。
「……!」
 優梨子は息を飲んだ。覗き込んだ先には、子猫がいた。ずぶ濡れになって震えている。その小ささは、あの日のクロを思い出させた。
――ずっと元気でいて。また逢えるよ、きっと――
「……おまえ、クロなの?」
 優梨子は、子猫の前にしゃがみ込むとそう言った。
「にゃあお」
 子猫が鳴いた。