海の民  − 真珠色の涙 −



「海を見てるとね、なんだか呼ばれるような気がするの」
 隣で暗い海面を覗き込んでいる水姫(みき)の言葉に、(りく)は煙草の煙を口の端から吐きながら眉尻を少しだけ上げた。
「生命の源だからだろ? 海はさ」
 月の光もない暗闇の中にゆらゆらと揺れる黒い海面は、見ているだけで引き込まれてしまうような錯覚を抱かせる。終わりに差し掛かったとはいえまだ暑い盛りの夏休み中なのに、この海面を見ているとひんやりとした感じが背筋を這い登ってくる。
「特に夜の海って禍々しくて引き込まれそうで……嫌」
 顔をしかめてブルッと一つ身震いをすると、水姫はテトラポッドの上から乗り出していた体を引っ込めた。


 外海に面した海岸沿いに、波除の為の堤防がある。堤防の先にある小さな灯台からは、その大きさからは想像のできない程鋭い光を沖の船舶に向けて放っている。そうして船達は、その一条の光を頼りに暗い海面を滑って行くのだ。
 堤防の侵食を防ぐ為に、外海側にテトラポッドが整然と並べられている。水姫はその一番端に乗って海を眺めていた。背中を覆う程伸ばされた真っ黒のストレートの髪は、今時の高校生にしては昔風だ。風になびいて舞い上がり、夜の闇に溶けて見える。
「だったらこんな所、ついて来なけりゃ良かっただろ。俺はただ海を見に行くって言っただけだぞ。ついて来いなんて言った覚えは……」
 少々ぶっきらぼうに言い放つと、陸は手にした煙草の吸殻を勢い良く漆黒の海に向かって投げ捨てる。
「……ないっ」
 まだ煙がたちのぼっていた吸殻は、弧を描いて暗い水面に落ち、海水に冷やされて『ジュッ』と短い音を立てた。
「あっ、そんなもの海に捨てちゃだめじゃない。大体高校生のくせに煙草なんて……」
「るせーな。年上だからって威張んな」
「陸こそ、年上年上っていちいちうるさいわね。二つしか違わないじゃない。そうやってすぐ突っかかるなんて……」
「悪かったね、言う事がいちいちガキで」
 陸の手が、風に巻き上げられた水姫の髪を梳く。言葉とは裏腹に、その手の動きは優しい。
「ごめん。最近変だよな、俺。水姫に当たったって、仕方ないのに」
 水姫の顔を見下ろしながら、陸は小さく呟いた。
「私だってこの頃陸に優しくできない。ごめんね」
 いつの間にか、陸の手は水姫の頬にあてがわれていた。陸の手に頭の重みを預けるようにして、水姫は目を瞑った。


 同じ委員会の先輩後輩として出会った二人は、会った瞬間お互いに惹かれあった。まるで前世から決められていたように。
 高校三年生の水姫は、今度の春には遠い所の大学を受験することが決まっている。先生からもほぼ確実に受かるだろう、と太鼓判を押されている。そうしてまだ一年生の陸は、この場所に置いて行かれるのだ。
 身長も水姫より高い。肩幅だってある。体の大きさなら三年生の男になんか負けていない。それなのに……。学年が違うというのはこんなに残酷な事なのか。同じ大学に進めたとしても、二人の間に空いた二年の差は埋まらないのだ。大人ぶって吸い始めた煙草も、その月日を埋めてはくれない。
 離れ離れになる時が近づくにつれ、小さなイライラが募り……この頃は、こんなに近くにいてもお互いの距離が遠いものに感じる。


 海は真っ暗で……とても真っ暗で、見ている者に引きずり込まれるような錯覚を与える。事実、この海には霊が棲むと言われているのだ。
 この海に落ちた者はほとんど助からない。遺体さえ上がらないと言う。そして助かった一握りの者達は、みな一様に『黒い髪を振り乱した何かに足を掴まれて引き摺り込まれた』と証言する。それでいつの頃からか、この海には霊が棲む、と言われるようになったのだ。
「本当に霊なんていると思うか?」
 陸は水姫の肩を抱きながら、暗い海面に視線を彷徨わせた。
 ――ただの噂だ――
 わかっている。でも、微かに蠢く黒い海面は、それ自体が意思を持った生き物のようだった。
「潮のせいよ」
 陸の腕に縋りながら、水姫はもう一度海面を覗き見た。
「海面から三十センチまではこちら側に向かって潮が流れているの。でもその下は自転車を漕ぐ位の速さで逆向きに潮が流れているんだって」
 眉根を寄せて、水姫は海面から目を背けた。



「落ちたら浮かんで来られないのかな」
 水姫の肩から腕を外し、陸はテトラポッドの端に立った。
「やめなさいよ。こんな月の無い夜は生きて還っては来られないのよ」
 水姫は思わず陸の腕に手を掛け、強く引いた。
「やけに詳しいんだな」
 顔だけこちらに向けて口の端を引き上げると、陸はわざとよろけて見せた。
「やめなさいってば!」
 驚いた水姫が叫んだ刹那。
『ザバッ』
 海面が黒く盛り上がり、先程まで陸の居た場所に、彼の姿は無かった。
「陸? 陸っ!」
 テトラポッドに両手をつき、水姫は漆黒の闇に溶ける海面に目を凝らす。少し先の方から海面を泳ぐ水音が聞こえた。
「水姫! ほら、大丈夫だろ? 噂なんてそんなもんさ。何も起こりゃしない」
 むしろ楽しげに陸は言い放つ。その声には噂への嘲笑が込められていた。
「だめ! すぐに上がって! でないと……」
 水姫の言葉が全部終わらぬ内に、陸の立てる水音が明らかに苦しげにもがく物に変わっていた。
「助け……ぐっ!」
 短い言葉を最後に、水面を掻く音ももがく音も聞こえなくなる。暗闇の中で、水姫の目は陸の消えた辺りの海面を凝視していた。
「違う……彼は違うのに」
 短く呟くと、衣服もそのままに水姫は暗い海面に飛び込んだ。


 暗い海の中。陸は自分の目が開けられていることに気づいた。いつもなら、痛くて海水の中で目を開けていることなどできない。それに月の光さえない夜だというのに、自分の目に鮮やかに映るモノがいた。
 ――魚?――
 一定の距離を保って自分の周りをもの凄い速さで自由に泳ぎまわるそれは、大き目の魚のようだった。だが魚にしてはシルエットが見慣れたもの……。
 ――人……か?――
 ばかな。人がこんなに速く泳ぎまわれる訳はない。それが一周する度に、陸は胸にかかる圧力が薄れていくのを感じた。
 そして何度か陸の周りを泳ぎ回った後、それは動きを止めた。
「水姫!」
 こちらに向けられたその顔は紛れも無く水姫のものだった。だが、その体に先程までの服は無く、長い髪が胸の辺りを覆い隠している。腰から下はいつものすんなりと伸びた足ではなく、魚のような鱗に覆われ、その先には半透明の美しい尾ひれがついていた。
「人魚?」
 小さい頃絵本で見たおとぎ話の中に出てくる人魚。その姿そのままの水姫が寂しそうな笑顔で陸を見ていた。
「あなたの周りに結界を張りました。水の中でもほら、息ができるでしょう?」
 改めて気づくと、ちゃんと息もできるし声も出せる。周りのものは水であって水でないようだ。
「どうして……?」
 陸は水姫に触れようと手を伸ばす。だが伸ばしたその手は見えない何かに遮られて水姫に届くことはなかった。
「私達は海の民。あなた方人間は『人魚』と呼んでいます。私はその人魚の長なのです。人魚は海で溺れた人の魂を食べて生きています。ここの海は私達が魂を狩る場所。あなたは溺れるべき人ではないのに、この者達が引き込んでしまったようです。許して下さい」
 水姫は周りに集まり始めた他の人魚達を手で制すると、また陸に向き直った。
「私達人魚に男は生まれません。五十年に一度、人間の男との間に子をもうけ、私達は種を繋いで行くのです。そのために私は人の姿になり、あなたとの出会いを用意した……」
 寂しそうな笑顔がふっと歪む。
「じゃあ、俺達の出会いは……俺の知ってるお前の家族は……みんな作りごとだったって言うのか?」
 陸は触れられないと判っていても、水姫に向かってもう一度手を差し伸べた。
「そう、全ては作り事の記憶。あなたはよくこの海を見に来ていた。私は暗い水の中からあなたを眺め、そして欲しいと思った……」
 二人で過ごした全ての日々は、予め用意されたものだったのか。陸は手を伸ばしたまま、水姫の揺れる漆黒の髪を目で追った。あの髪に何度指を入れて梳いてやったことだろう。
「一度愛し合い、そして失い、再び出会って愛し合うことができたなら、その人間と人魚は結ばれます。私が大学に行くと言い、二年の月日を経てなお、あなたが私を求めてくれたなら私の恋は成就する筈だった」
 水姫の目から海の水とは違う、オーロラ色に輝くものが流れ出る。しばらく漂った後、それはまわりの水に溶けていった。
 陸は胸が締め付けられるように感じた。人でないと判っても、まだ水姫を想っている。
「俺はまだ水姫が好きだ。そんな……これで終わりみたいな事、言わないでくれよ」
 陸の言葉に水姫は目を瞑って静かに首を横に振った。
「もう遅い。恋が成就する前にあなたは知ってしまったから」
 あとからあとから溢れるオーロラ色の涙は、だんだん水姫の周りに溜まってその体を包んでいった。
「全ては作り事。私の恋が破れた今、全ては無に還ります。あなたの記憶も……そして私自身も」
 水姫が言い終わった刹那、陸の伸ばした手が結界を突き破って彼女の細い手首を掴んだ。いつもと違ってそれはとても冷たく、人のものではない事を思い知るには充分だった。結界が破れると同時に、陸の周りの海水が本来の海水に戻り……息苦しさの中で最後に彼が見たものは、自分を抱きかかえるようにして泳ぐ水姫の漆黒の髪。徐々に透き通りながら揺らめくそれは、先の方から水に溶けて小さな泡粒に変わっていった。


「おーい、にいちゃん、そんな所で寝てると海に落ちるぞ」
 通りがかりの釣り人か。夢心地でその声を聞いた陸は、うっすらと目を開けた。周りを見渡すと、どうやら堤防の上で眠り込んでいたらしい。
 ――どうしてこんな所で寝てたんだろ――
 急に海が見たくなって、一人でここに来た。そこまでは覚えている。ふと自分の服がなんだか湿っぽいのに気づいた。
 ――海に落ちたのか? いや、それにしては濡れ方が少ない。一体……?――
 その時、陸は自分の手が何かを握っているのに気づいた。そっと指を開く。
「真珠……」
 オーロラ色に輝く丸い粒は、人魚の涙と称される真珠の粒だった。甘く胸が締め付けられるようなオーロラ色。ふいに聞き覚えのない、それでいて懐かしい声が聞こえたような気がした。


 ――海を見てるとね、なんだか呼ばれるような気がするの――


 手の中の真珠の粒は、そ知らぬ顔で……。