鼻うさぎ



 フワリ。
 体が持ち上げられる。
 顔のあたりを触られて、次第にまわりの物が見えるようになった。
「鼻が少し曲がっちゃったわね。じゃあアンタは鼻うさぎ、ね」
 最初に見えたのは、そう言ったおばさんの顔だった。



 棚の上に、小さなうさぎのぬいぐるみがいくつも並んでいた。
 体の色はピンクで、短い毛足のピロードのような手触りの布で作られている。お腹のところに、赤い色の糸で、『Lovely Rabbit』と刺繍がしてあった。
 体の中に詰められているのは、化繊の綿と少量のプラスチック・ビーズ。持った感じは、お手玉のようにクタッとしている。
 ここは小さな町工場。工場といっても家族が主な働き手である。それにパートのおばさんが五人。みんなご近所さんだ。
 ここではおもちゃの企画会社から依頼を受けて、ぬいぐるみを作っている。今注文が来ているのは、SDプランニングという東京の会社から受けた仕事だ。うさぎのぬいぐるみを百個、明日の昼十二時までに仕上げて送らなければいけない。
 型抜きをした布地と色を合わせた糸、お腹に詰める綿やプラスチック・ビーズなどは、別の会社から宅急便で送ってくる。
 朝からみんなで取り掛かり、夕方外が暗くなる頃には、同じ形のうさぎが何個も棚の上に並んでいた。


 鼻うさぎは、棚の上からぼんやりと工場の中をながめていた。何故だかよくわからないけれど、顔のあたりをさわられた後で、物が見えるようになった。手や足は動かなかった。でも、まわりを見回すことはできた。
 工場の真中の机の上に、同じうさぎのぬいぐるみが何個も置いてある。机の端にかたまっているのには、まだ目がついていない。つるんとした顔がちょっとおかしい。その変な顔のうさぎを一つずつ手に取っては、おばさんが丸いボタンの目を縫い付けていた。
 その横のおばさんは、うさぎの体の中に綿とプラスチック・ビーズをつめて、縫い合わせていた。ここでようやくぬいぐるみらしくなる。
 机の反対の端では、できあがったぬいぐるみの首に、タグのついた金色の細いゴムをしばり付けていた。
 鼻うさぎは、自分の首にも同じ物がぶらさがってるのを見た。
『他のみんなもボクみたいに見えているんだろうか』
 鼻うさぎはそう思ったけれど、しゃべれないので聞けなかった。他のうさぎの顔を見ると、どれも口が無かった。
 ポチッと丸い、ボタンの目。鼻は黒い糸で刺繍してある。ピョコンと長い耳と、プリンと丸いしっぽ。
 ちょっと目の間が離れているもの。鼻の大きさが糸一筋分大きいもの。
 同じような形だけど、みんなどこかが少しずつ違って見えた。


 翌朝、うさぎ達は箱に詰められた。ピンクのうさぎのぬいぐるみが百個、大きなダンボールの箱の中に次々と詰められていった。鼻うさぎも仲間と一緒に箱に入れられた。蓋が閉じられ、何も見えなくなった。
 ガタン、ゴトゴト……。
 どのくらい揺れていたんだろう。
 トラックのエンジンの音が急に静かになったと思ったら、箱の蓋が開いて、パッとあたりが明るくなった。
 百個の仲間達は、いくつかのグループに分けられ、それぞれ違う人がどこかに連れて行ってしまった。
 鼻うさぎは他の三個の仲間と一緒に、あるショッピングセンターのおもちゃ売り場に連れて行かれた。
 売り場に付くと、ぬいぐるみばかり置いてある棚に並べられた。お腹の中に入っているプラスチック・ビーズがおもりの代わりになって、ちょうど座ったような格好になった。頭が少し重いので、疲れているみたいに背中がクタッと丸くなった。


「かわいいっ。これ、欲しい!」
 小さな女の子がうさぎのぬいぐるみ達の前に立った。お母さんが遅れてやって来て、その横に立った。
「ほんとに可愛いね。じゃあ一つ、買って行こうか」
「わあ、ほんと? うれしいな」
 お母さんが手にとったのは、鼻うさぎの横に座っていたやつだった。フワリと持ち上げられ、そのうさぎは母娘と一緒にレジに向かって消えて行った。
『ばいばい』
 鼻うさぎは心の中でそう言ったけれど、母娘と一緒に行ってしまったうさぎに聞こえていたかどうか、わからなかった。
 その後にうさぎ達の前に立ったのは、少し大きな男の子だった。
「ユウナの好きそうなうさぎだよな」
 そう一人言をつぶやいて、一番端っこのうさぎを手に取った。
『ばいばい』
 選ばれたうさぎに向かって、鼻うさぎはまた心の中でつぶやいてみた。
 次に来たのは、制服を着た女の子が二人。
「あー、これかわいいー。ベッドのところに置いとくのに良くない?」
 そう言いながら、片方の女の子がうさぎに手を伸ばした。でも、女の子の手は鼻うさぎではなく、隣のうさぎを持ち上げた。持ち上げる時に指先が当って、鼻うさぎは斜めに少し傾いた。女の子達は気付かない様子で、歩いて行ってしまった。
 びっくりしてしまったので、今度は『ばいばい』と言えなかった。
 閉店の時間を知らせる音楽が流れ、お客さんは足早に手にした商品をレジに持って行った。バタバタと店員さんが片付けを始め、そのうちに店の中は暗くなった。
『みんなボクのコトは気に入らなかったのかな』
 鼻うさぎは、斜めになったまま、少し悲しくなった。


 翌日、営業時間になり、また店内に明るさが戻って来た。
『ボクを気に入ってくれる人が来てくれないかな』
 鼻うさぎは、斜めになったまま、そう思った。
 ガタン!
 大きな音がした。店員さんが近くのドアに搬入用のカートをぶつけたのだ。ぬいぐるみの棚が小さく揺れ、鼻うさぎのクタッと丸まった背中が余計にねじれて、頭がカクンと横に傾いた。
 今日は昨日よりお客さんが少ない。平日だからだと、店員さんが話をしていた。
 ベビーカーを押したお母さんが、鼻うさぎの前を通りかかった。
 鼻うさぎは傾いた頭のまま、じっとお母さんを見ていた。
 お母さんが、ふと、こちらに目を向けた。
 その時、頭の重さを支えきれなくなって、鼻うさぎはポテッと横に倒れた。
「あら、倒れちゃったわね」
 お母さんは鼻うさぎの体を持ち上げ、まっすぐになるように座り直させてくれた。それでもやっぱりクタッとしているので、背中は丸くなってしまった。
「あぶー、うーっ」
 ベビーカーの中から声がした。
「まあ、起きちゃったのね。困ったわ」
 お母さんは、今にも泣き出しそうな赤ちゃんにオロオロしながら、優しくベビーカーを揺すり始めた。
「ほら、うさぎさんですよー。こんにちは、って言ってますよー。ほーら、泣かないでねー」
 一生懸命にあやしながら、鼻うさぎを赤ちゃんの目の前に差し出した。
 赤ちゃんは、差し出された鼻うさぎに向かって手を伸ばした。
「気に入ったみたいね」
 お母さんは、そのまま鼻うさぎをレジに持って行った。
 ピッ!
 店員さんが鼻うさぎにつけられたタグのバーコードを機械で読み取り、「三百九十九円です」と言った。
 お母さんはお金を払い、その場でタグを切ってもらって鼻うさぎを赤ちゃんに渡した。赤ちゃんは鼻うさぎをひっくり返したり、ピンクの長い耳を口の中に入れたりして、すっかり気に入ったようだった。


 こうして、鼻うさぎは『花村さん』の家のうさぎになった。
 花村さんの家には、赤ちゃんの上にもう一人、幼稚園に通う男の子がいた。トオルくんという子で、優しい子だった。
 赤ちゃんの名前は、ミキちゃん。女の子だった。
 ミキちゃんは、鼻うさぎのことをとても好きになってくれた。夜寝る時も、お買い物に行く時も、ずっと一緒だった。
 鼻うさぎは、自分の事をこんなに好きになってくれて、とってもうれしかった。だから、少しぐらい乱暴に投げられても、耳をかじられても、お尻をイヤという程床に打ち付けられても、ちっとも苦にならなかった。  そんな事よりも、ミキちゃんと一緒にお出かけしたり、遊んだり、寝たりできるのがとてもうれしかった。
 お買い物の時には、一緒にベビーカーに乗せてもらう。時々ミキちゃんが手を離してしまって、鼻うさぎはベビーカーから滑り落ちてしまう事があった。そして本当に時々、そのままベビーカーの車輪に轢かれてしまう事もあった。
『痛くないもん。我慢するもん。うーっ』
 鼻うさぎは、そんな時にも泣いて自分を探してくれるミキちゃんのために、車輪に轢かれることぐらい我慢しなくちゃ、と思った。
 お母さんは、晴れた日には鼻うさぎを洗濯してくれた。
 ミキちゃんが耳をかじったりするので、汚れたままじゃいけないと思ったからだ。
 ネットに入れられて、洗濯機の中でぐるぐる回される。洗う時は弱い水流で回してくれるから良かったけれど、脱水は目が回るのでちょっと苦手だった。
 洗濯が終わると、ベランダの物干しに洗濯ばさみで両腕を吊るされる。鼻うさぎのお腹に入っているのは化繊の綿だったので、太陽がちょっと元気なら、すぐに乾いた。
 おかげでいつも鼻うさぎはいい匂いがしていた。


 その日もお母さんは、幼稚園にトオルくんを送った後、ベビーカーにミキちゃんと鼻うさぎを乗せて買い物に出かけた。近くのショッピングセンターが半期に一度の大安売りをするのだ。
 大根やにんじん、卵なんかをたくさん買って、お母さんはそれを全部ベビーカーの荷物入れに上手に押し込んだ。
 ミキちゃんはいつものように鼻うさぎをひっくり返したり、耳をかじったりしてご機嫌だった。
 でもミキちゃんは、ふとしたはずみで鼻うさぎを手から落としてしまった。
 いつもならそこでミキちゃんが泣くのでお母さんも気が付く。
 それなのに今日は、ミキちゃんは誰かが飛ばしてしまった宣伝用の真っ赤な風船に気を取られ、空を見上げたままだった。
 お母さんも、「きれいだね」なんてミキちゃんに話しかけながら気付かずに行ってしまった。


 幼い姉妹が通りかかった。妹が鼻うさぎを見つけ、拾い上げた。しばらく歩いてから、姉がそれを見つけた。
「ダメだよ。落ちてるもの拾っちゃ。お母さんに返して来なさいって言われるよ」
 姉に言われ、妹は仕方なく鼻うさぎを近くの家のブロック塀の上に置いた。でもうまく座らせることができずに、姉妹が行ってしまった後で鼻うさぎは塀の上から落ちてしまった。
 お母さんは家に帰ってからやっと、鼻うさぎがいないのに気が付いた。
 ミキちゃんもお昼寝の時間なのに、泣いてしまってなかなか寝付かない。お父さんが帰ってからミキちゃんとトオルくんのお守を頼んで一人で探しに出かけたけれど、鼻うさぎはどこにもいなかった。


 鼻うさぎは、道の端っこにうつ伏せで落ちていた。
 結構車の通る道で、排気ガスや車の巻き上げた砂ぼこりがすごかった。
 その日の夕方には、砂ぼこりで鼻うさぎの体は薄汚れてしまっていた。
 夜になって、雨が降ってきた。砂ぼこりは泥になって、鼻うさぎの体はいっそう汚れてしまった。
『もうミキちゃんとは会えないのかな』
 そう思うと、鼻うさぎは悲しかった。
 冷たい雨に打たれながら、暖かだった花村さんの家を思い出していた。
 うつ伏せになったまま、泥が体の中にしみ込んでいくのを、ただ黙って我慢していた。
 ベビーカーの車輪に轢かれるのも、正直言えば悲しかった。でもすぐに拾い上げてもらえたし、何よりお母さんが「ごめんね」と言ってくれて、洗濯をしてくれた。
 でも今は、拾い上げてくれる温かい手も無いし、ごめんねと言ってくれる優しい声も無い。
 同じ格好でじっとうつ伏せになったまま、鼻うさぎは悲しくて泣いたのかも知れない。
 雨が降っていた。
 だから、鼻うさぎの涙を誰も見なかった。


 翌日、鼻うさぎの落ちている所に、おばさんが通りかかった。
 おばさんは会社に行く途中だった。
 いつもなら自転車で行くのだけれど、今日はその自転車が壊れてしまって、仕方なく歩いて行くところだったのだ。
 帰ったら自転車屋さんに行こうかしら、なんて考えながら歩いていると、道端に小さなぬいぐるみが落ちているのに気付いた。
 どうしてなのかわからなかったけれど、おばさんは立ち止まってそれを拾い上げた。
「汚れちゃってるわねぇ。でも洗ったらきれいになりそうね」
 バッグの中に手を入れると、ちょうど良さそうなビニール袋が見つかった。その中に鼻うさぎを放り込むと、おばさんは急ぎ足で会社へと向かった。


 会社から帰るとおばさんは、まず鼻うさぎをブラシではたいて泥を落とし、ネットに入れて洗濯機に放り込み、柔軟仕上げ材をたっぷり使ってフワフワに仕上げてくれた。
 鼻うさぎは、もとのビロードのような毛並みを取り戻した。
 おばさんは、いい匂いになった鼻うさぎを玄関に持って行き、きれいに飾った花の横にちょこんと座らせた。
 でもやっぱり、鼻うさぎはクタッと背中を丸め、頭を重そうに少し垂らして座っていた。


 ピンポーン
 おばさんの家のチャイムが鳴った。
「ハイハーイ、今行きますよ、ハイハイ」
 遠くから何度もハイハイと返事をしながら、おばさんは台所から手を拭きながら走ってくると、勢い良く玄関を開けた。
「こんにちは、先生」
 相手が軽く頭を下げた。
「さあ、どうぞ、上がって下さい。他の生徒さんもいらっしゃってますよ。あら……今日はお子さんも一緒なんですね。あらまー、かわいい」
「すみません。いつも預かってくれる義母が、急な用事ができてしまって……お邪魔になるようでしたら、材料のお花だけ頂いて帰ります」
「いえいえ、大丈夫ですよ。今までも小さいお子さんを連れた方が何人もみえてましたから。フラワーアレンジメントは、お子さんを遊ばせながらでもできますからね。えーと、何ちゃんだったかしらね」
「ミキです。はい、ミキちゃん、よろしくお願いします、って」
「あぶー」
「まあ、おりこうさんね。さ、寒いから早く上がって。風邪ひかせたら大変だから」
「お邪魔します」
 お母さんは玄関先でミキちゃんを抱き上げると、ベビーカーを畳んだ。
「ベビーカーは、そこに置いておいて結構よ」
 一足早く奥に引っ込んだおばさんは、玄関に向かってそう言った。
「いい匂いねー。ほらミキちゃん、見てごらん。きれいなお花ね」
 お母さんがきれいに飾られた花の方にミキちゃんの顔を近づけた。
「あぶー!」
 急にミキちゃんが花に向かって手を伸ばした。お母さんは慌ててその手を引っ込めさせようとしたけれど、ミキちゃんはとうとう泣きだしてしまった。
「あら、どうしたの? 葉っぱでも目に入ったんじゃないの?」
 おばさんが奥から慌てて飛び出してきた。
「いえ、そうじゃないと思うんですけど……あっ!」
 お母さんは、花の横に座っている鼻うさぎを見つけ、小さな叫び声を上げた。
「これ、どうしたんですか? この子のぬいぐるみも同じものだったんです。でもこの間、うっかり落としてしまって……。これを見つけてこの子、泣きだしたんだわ」
 鼻うさぎに向かって手を伸ばしながら泣くミキちゃんをなだめながら、お母さんは言った。
「まあ。じゃあこのぬいぐるみ、ミキちゃんのかも知れないわよ。私もこの間の火曜日に拾ったばかりだもの」
 おばさんは目を丸くした。
「えっ? この子がぬいぐるみを無くしたのは、月曜日なんです。じゃあ、本当にこれがこの子の物かも知れないですね」
 驚くお母さんに向かって、おばさんはニッコリと微笑んだ。
 そして、ミキちゃんの小さな手に、鼻うさぎを持たせてやった。


 こうして、鼻うさぎは花村さんの家に戻って来た。
 やっぱりミキちゃんに耳をかじられたり、乱暴に投げられたりしながらも、鼻うさぎは嬉しかった。
 ビロードの体は少しずつ毛がよれて、所々毛玉のようになってしまったけれど。
 一度耳が取れてしまって、お母さんに付け直してもらったけれど。
 暖かい部屋で、自分を好きでいてくれるミキちゃんの側で転がっていられる事が、とても嬉しかった。
 ミキちゃんはさっきから、遊び疲れて電気カーペットの上で寝てしまっている。
 遊んだままほったらかしにされた鼻うさぎは、うつ伏せのまま、カーペットの暖かさが体にしみ込んでいくのを幸せに思っていた。
 同じ格好でじっとうつ伏せになったまま、鼻うさぎは嬉しくて笑ったのかも知れない。
 部屋の中にいるのは、ミキちゃんと鼻うさぎだけ。
 だから、鼻うさぎの笑顔を誰も見なかった。