セント・バレンタイン
「くっそー! あんのヤロ」
何かに当たり散らしたい気分になって『バン!』と壁を蹴る。何が『くっそー』なのか。アタシは失恋したのだ。
そう、失恋。告白して見事フラれた。ここまでなら普通の青春のひとコマ。違うのは……。
「言いふらすか? 普通」
思い出したくないのに、反芻される嫌な記憶。
憧れていた同じ部活の一つ上の先輩。先輩に惹かれて、先輩に認めてもらいたくて、アタシは部活を頑張っていた。
もうすぐ先輩たちは卒業してしまう。その前に自分の気持ちを伝えたかった。
そして、思い切って伝えたんだ。ちょっと早めのバレンタインのチョコと共に。それなのにさ。
「乙女の告白を、友達同士の話のネタにするか!?」
チョコは受け取ってもらえた。その場では。でも話によると、そのチョコの行方は先輩んチの犬の胃袋の中。犬がそんなモン食べちゃいけないような気もするけど、この際それは置いといて。
先輩はアタシに告白された事を友達同士の話のネタにした挙句、「困るんだよねー」と鼻先で笑っていたそうだ。どこをどう伝わったのか、一部のウワサになっているらしい。
そんなヤツだったのか。先輩って。そんなヤツに二年間も恋していたのか、アタシは。
先輩にも腹が立ったが、そんなヤツだと見抜けなかった自分にもめちゃくちゃ腹が立っていた。
思いっきり落ち込んだアタシの行く手を、何者かが遮った。
「何、荒れてんの? 藤崎」
顔を上げると、そこには同じクラスの男子、水越の笑顔があった。
「ずいぶん機嫌悪そうだね。可哀相に、壁」
彼が向けた視線の先。その壁には、くっきりとアタシのスリッパの痕跡がついていた。
「やば……」
足跡からアシがつくとは思わないけど、とりあえず拭いておかなきゃ。生活指導の先生に見つかったらネチネチとお説教だ。近くの手洗い場に干してあったバケツをひっくり返し、雑巾を一枚放り込むと水を汲む。
『ザー……』
蛇口から勢いよく落ちて、空気の泡を巻き込みながら増えていくバケツの水を眺めながら、アタシはこの二年間の恋を後悔していた。
「考え事?」
横から水越の手が伸びてきて、蛇口をひねる。いつの間にかバケツは一杯になって水があふれていた。水越はそのままバケツを持って、スタスタと足跡のついている壁の前に行ってしまった。
「え? あ。いいって、水越ぃ。自分でやるからさー!」
あわててアタシも雑巾を持って後を追う。水越はギュッと雑巾を絞ると壁を拭き始めた。アタシもその下でゴシゴシ足跡の痕跡をなぞる。
「あのさー」
水越がふいに手を止めた。
「あんなウワサ、気にすんなよ」
げ。アタシの手も止まる。
「う……うん。知ってるんだ、水越も」
まさか面と向かってそんな事を言われるとは思っていなかったので、アタシは思わず聞き返してしまった。そうしてから、自分で自分の傷口を広げるような事をしたと反省したけど、もう遅い。ホントはそっとしておきたかったのに、アタシってばホントに馬鹿。
「言いふらすなんて最低だよな。そいつはそれだけの人間だったって事だ」
また水越の手がゴシゴシと壁をこすり始める。
「ウワサになっちまったりして、恥ずかしいとか思ってるだろ。でも藤崎に悪い所はないんだから堂々としてろよ」
アタシは水越を見上げた。ちょっとクセのある前髪の間からのぞく目が、とても優しそうに笑っていた。
「……うん」
その目に見つめられて、アタシはなぜだか気恥ずかしくなって下を向いてしまった。
「さ、できたっと」
水越の雑巾がバケツに放り込まれる。
足跡は綺麗に消えていた。さっきまでのアタシのウツウツとした気分も、いくらか晴れていた。
「ちょっと綺麗になり過ぎたかもね」
水越が、ぺろっと舌を出す。ちょっと離れた所から見てみると、足跡のあった所だけ不自然に綺麗だ。それを眺めている内に、アタシはおかしくなって笑い出してしまった。
「ほーんと、不自然」
「かえって目立つよな」
「綺麗になってるんだから、先生も文句言えないでしょ」
アタシ達は顔を見合わせて爆笑した。さっきまでの腹立たしさやイヤな気分なんて、 微塵も残ってはいなかった。ピカピカになった壁と同じように。
「さて。ひとつ頼みがあるんだけどな」
ひとしきり笑った後、水越が言った。
「オレ、藤崎のこと好きなんだけど、バレンタインにチョコくれない?」
「はぁ!?」
アタシは次の言葉がみつからなかった。口を馬鹿みたいにポカンと開けたまま、つっ立っていた。
「ショックだったんだぜ。藤崎が告白したってのも、フラれたってのも」
水越は真顔になった。
「好きな女が幸せになるならともかく、他の男にイヤな思いさせられたなんてさ」
不思議とアタシの心は痛まなかった。そう言えばアタシは、さっきまで先輩にフラれた事で落ち込んでたんだっけ。そんな事も忘れてたよ。壁につけた足跡と一緒に、水越が消してくれたんだね、きっと。
「……いいよ」
アタシは小さくつぶやいた。
「え? 何て言った?」
水越が覗き込む真似をする。
「いいよっ。チョコあげるって言ったんだよっ!」
わざと水越の耳元で大きな声で言ってやった。水越は……しばらく大げさに耳を押さえていたけど、顔をあげて『くっくっ……』と笑い出した。
「聞こえてたよ、ちゃんとね」
そしてまた、ぺろっと舌を出した。
「こんの……やなヤツ!」
アタシはくるりと後を向いた。でも、怒ってるわけじゃない。
今度のバレンタインには水越にチョコをあげよう。食べきれない位のチョコを。虫歯になったって知るもんか。水越がアタシにくれた思いやりと、同じだけの重さのチョコをあげるんだ。
振り返って、意地の悪い笑顔を作るとアタシは言った。
「アンタが言い出したんだからさ。覚悟しておいてよね」
きょとんとしている水越の顔を眺めながら、アタシはすごく楽しい気分になっていた。