別れの景色



『バタン』
 真夜中だというのに派手な音をさせてドアを閉じる。若菜は酔って帰って来た。二人で暮らすこの部屋に。
――今までどんな奴と一緒だったんだ――
 ベッドで寝転ぶ俺は、そう叫びだしたい衝動をぐっと抑えた。
 言わなくてもわかっている。同じ会社の男だろう。休日になると時々、あいつの携帯に電話をかけて来る奴だ。
「ごめん。出かけて来るわね」
 いつだって若菜は悪びれもせず、そして俺の許可を取るでもなく、自分で勝手に決めてそそくさと出掛けて行く。
 残された俺は、あいつに腹を立て、そしてあいつを強く引き止められなかった自分に腹を立て、せいぜい壁に向かってベッドの上のクッションを投げつけるのが関の山だった。


「寝ちゃったのぉ? 拓人ぉ」
 鼻にかかった甘ったるい声で俺を呼ぶ。ベッドに腰掛けると、俺の顔を覗き込むようにして酒臭い息で続ける。
「んもう、つまんないんだから。優しいだけでホントにつまんない人」
 その言葉に俺の中の何かが音をたてて崩れるのを感じた。
 理性? 倫理観? それとも罪の意識?
「きゃっ、何すんのよぉ」
 気が付くと俺はあいつの上に馬乗りになっていた。手首を掴み、無理やりベッドに押し付けるとブラウスの胸元に手をかけ、ボタンが飛ぶのも構わずに引きちぎった。
「いや! やめてってば! 拓人って最低!」
 若菜は酔いの回った目を、それでもキッと見開いて俺を睨みつけた。俺の中にどす黒い嫌な感情が生まれる。
――社会的に抹殺されようと、目の前の女だけは許せない――
 俺はあいつの首に手を掛けた。ぐっと力を入れる。あいつの顔が苦しげにしかめられた。


 わかっている。二人はもう、二人ではいられない。年月は人の心を変えていく。あいつの心に他の奴が住み着いたって、それは仕方の無いことかも知れない。人は皆が皆、同じようには変わっていけないのだから……。
 若菜の顔がみるみる内に鬱血していく。それでもあいつは俺の目を見つめたまま抵抗しない。
 なぜだ――?
 若菜の唇がかすかに動いた。
『い・い・の・よ』
 そしてあいつの身体の力がふっと抜けたのを感じた。


「若菜! 若菜っ!」
 我に返った俺はあいつの身体を揺する。間もなく若菜はゴホゴホと咳き込み、目を開けた。
「……ど……うして……殺さなかったの……」
 ベッドの上に起き上がり、まだ荒い息をしてあいつは言った。
「どうしてなのか……俺にもわからない」
 ブラウスの胸元を合わせるあいつをぼんやり見つめながら俺は小さな声で答えた。さっきまでのどす黒い感情は、熱が引くように俺の中から消えていた。変わりに虚脱感が俺を支配する。
「あなたは優しいのよ。そんなあなたが私は好きだった」
「好きだった……か。過去形なんだな」
 俺は小さく息を吐いた。
「ずっと拓人を好きでいられたら良かったのに。そうしたらこんなに苦しまなくても良かった」
 勝手な理屈だ、と俺は思った。でも納得している自分がいた。そうなんだ。俺も感じていたから。心の奥底で、変わっていく二人を。
「もう一緒には暮らせないわ。そうでしょう?」
 しばらくの沈黙。俺は答えなかった。
「……私出て行くわ。いいわね?」
 こんな時だけ俺の許可を求めるのか。
「は……」
 乾いた笑いが漏れた。
「勝手にしろ」
 そしてあいつに背を向けた。
 若菜は手近な荷物をバッグに詰め込み始めた。俺はその音を背中で聞いていた。
「残りの荷物は、近いうちに取りに来るわ。あなたのいない時間に。その方がいいでしょう?」
 俺は何も答えなかった。あいつはそれを肯定の意ととったのか……しばらくして玄関のドアが開き、そして静かに閉まった。


 殺したいほど好きな女。でもそれは手の中から逃げていった。同じように変わっていけなかったせいで。
――嫌いになったわけじゃない。変わってしまっただけなんだ。お互いに――
 俺は玄関に背を向けたまま、いつまでもベッドに座っていた。
 夜はまだ明けそうに無い。