残照
一ヶ月前、事故で妻が死んだ。
雨の中、近くに住むスタッフのところまで、歩いて仕事の原稿を届ける途中だったらしい。近道をしようとして横断した道で、角を曲がってきた車にはねられた。
即死だった。遺品として届けられた傘は、それでもきれいなままだった。
ごく普通に恋をして、ごく普通に告白して、そしてごく普通に結婚した。それなりにドラマチックな恋だ、と思っていたが、世間にはそんな恋愛はゴロゴロ転がっている。
俺達は、そんな中の平凡な一組のカップルだった。
「父さん。僕、学校から帰ったら、うちの手伝いもちゃんとするね」
ランドセルを背負った息子が妹の背を押しながら玄関で靴を履いていた。靴が小さくなってしまったのか、なかなか上手く履けない。トントンと敷石を爪先で叩きながら、何度もかかとを入れなおしている。ピョンピョンと跳ぶようにするので、だんだん前に進んで行ってしまう。何回目かで彼は下駄箱に行く手を阻まれ、膝をしたたかに打ったようだ。ガツンと大きな音を立てて器用に下駄箱に貼りつくと、息子は情けなさそうな顔で俺を見上げる。
「靴、買っておいてやるな」
バツが悪そうな息子が何故だかとても愛おしくて、俺は階段の壁に肩をもたせかけたまま、彼に微笑みかけた。
「父さん、やっと笑った」
ホッとしたような面持ちで、息子が見上げる。
そんなに俺は笑っていなかったのだろうか。確かに、まだ育ち盛りの子供を二人残したまま妻に先立たれて、呆然としていたことは事実だ。
「そうか」
短く言って、俺はもう一度子供達にしっかりとした意思をもって微笑みかけた。
事後の処理などもあり、会社の方は一ヶ月休みをもらった。その間にやらねばならない事はたくさん有り過ぎて、よく考えれば、子供達をゆっくり送り出してやったのは今日が初めてだった。
「行って来まぁす」
来年は中学生になる息子は、いつの間にか大きくなった背に小さなランドセルをちょこんと乗せて妹の手を引いて走っていった。後には壁にもたれたままの俺一人が残された。
昨日までで、あらかたの処理を終えた。明日からは会社に出勤する。多分、同僚は気を使って、俺にお悔やみの言葉をくれるのだろう。言う方は一回だが、俺の方は会う人会う人、皆に言葉を返さなければならない。そしてその度に失った物を思い起こすのだ。
壁に張り付いたままの肩をのろのろと引き剥がしながらそんな事をふと考え、少しばかり気が重くなった。
俺は妻の仕事部屋に入った。妻は在宅でコンピューターの仕事をしていた。俺達は、夫婦それぞれがパソコンを持っていた。俺は俺の仕事のために、そして妻は妻の仕事のために。以前はクライアントのプライバシーに関わるから、と、原稿や書類が山積みの仕事部屋には決して入れてもらえなかった。だが妻の死後は、何度かこの主を失った部屋に入った。入力しかけのデータを会社に返したり、たまった納品書を提出して給料を受け取ったりといった細々とした処理をするために。
パソコンの前の壁に掛けられたカレンダーには、たくさんの書き込みがされている。日付を囲むようにしてつけられた丸印は、今日が最後だ。明日の日付以降、書き込みも丸印もない。最終で受けた仕事の納期は、今日だったらしい。
『ピ……』
何気なく、パソコンの電源を入れる。画面にお待ちくださいというロゴが出たあと、妻が自分で設定した壁紙が現れる。どこかのサイトでダウンロードした絵らしい。ほの暗く、どこか中世的なイメージの絵で、中央に剣の刺さった丸い盾が描かれていた。妻の会社にデータを返す際、見た画面だ。
――そう言えば、よく仕事の空き時間にネットしているのを見たな――
俺は唐突にそんな事を思い出した。妻に用事があってこの部屋の入り口から声をかけると、仕事で疲れた目元をしぱしぱとしばたたかせながら振り向く彼女越しに、俺もよく見知った検索サイトの画面を垣間見ることがあった。
windowsの『お気に入り』には、たくさんのURLが登録されている。俺はそれを適当にクリックしていった。妻が生きていたなら、「そんなことしないでよ」と怒られるところだろうが、今となってはそれも無い。妻はこの世から消えてしまったのだから。
ネット通販、オークション、検索サイト、個人サイト……。様々なジャンルのURLがきちんと整理されて並んでいた。妻は整理するのが好きだったな、と、ふと思い出した。いつだったか、俺のお気に入りだった裾の擦り切れたトレーナーを処分する、しないで喧嘩になった事があったっけ。
『ちゃんと整理していかないと、その内にパパの引き出し、パンクしちゃうわよ』
着られもしない擦り切れたトレーナーなんてさっさと捨てて、今着られる物をたんすの引き出しにしまうのだ、と妻は言った。俺はトレーナーに染み付いた想い出まで捨ててしまうみたいで嫌だと思ったが、渋々妻の意見に従ったのだったと思い出し、苦笑した。確かに妻の意見はいつも正論だった。
俺の指は『お気に入り』の中から適当に選んでランダムにクリックしていく。あるサイトのインデックス・ページが開いた時、俺の手は止まった。
何故気になったのか判らない。ただ、サイトの基本カラーが、妻がこの間買った新しいシャツの色だった。
――迷宮――
サイトの名がロゴで作られて、貼られていた。その下に続く、いざないの文字。
――迷宮へようこそ。言葉の迷宮であなたも時を忘れてみませんか?――
妻の蔵書の中に、htmlという文字を見た事があるのを思い出した。確かあれは、ホームページを作る際の言語だと何かの本で読んだ。
言葉の迷宮。そう言えば、妻は小説をよく読んでいた。
「ひょっとして……」
小説の一読者であった彼女が、自分でも書いてみたいと思い立ったとしても不思議はない。妻は文章を書くのが得意だった。俺が徹夜で仕上げた書類も、妻に校正してもらえば、大抵は上司の気に入る物に仕上がった。
メニューには、小説・日記・BBS……。ありふれたコンテンツが並んでいる。その中の小説をクリックしてみる。長編や短編。題名の下に、あらすじが書かれていた。ありふれた風景を切り取った恋愛話や、ドラマチックな運命を背負った主人公が様々な困難を乗り越える話。妻の好みそうな話ばかりだ。
日記のコンテンツをクリックした。日々の愚痴・発見・家族間のエピソード。その中に、自分にも覚えのある話が出て来て、これが妻の作ったサイトであると確信する。
BBSに飛ぶ。いろいろな人との交流がそこに有った。
『hanaさん、こんにちは。hanaさんの小説、読みました……』
妻はhanaというハンドルネームを使っていたのか。過去ログをたどり、いろいろな人との交流の記録を読んだ。突然、妻が返した、何気ないレスの一行が目に飛び込んでくる。
『あの小説は、私の主人への気持ちがこもっています。彼の寝顔を眺めていたら、昔はちゃんと主人に恋していたんだなと思い出し、あの小説が出来上がりました。あれが完結した時、ちょっと主人に優しくなっちゃったんですよ』
もう一度、小説のコンテンツに戻って読み返す。俺が妻に贈った物の名や、デートで使った店の名がそこかしこに溢れていた。そう言えば、話の中のエピソードも、誇張されてはいるが、どれも俺達の間で起こった出来事。その中で主人公の女性は、いつも前向きに微笑み、恋をしていた。
もう一度BBSに飛ぶ。最後の方は、更新が無い事への読者からの心配する書き込み。何件も続いている。そしてそれらのどの書き込みにも、妻のレスは無かった。
妻の死後も、何も無かったように妻の作ったホームページは残っている。
「は……」
俺は何だか可笑しくなって、短く笑った。
本人はもういないのに、その作品だけがこうしてネットの海で漂っている。プロバイダとの契約を切らなければ、この先もずっとそこに存在するのだろう。
妻の想い。妻の喜び、悲しみ、怒り……。
そして昇華された俺との想い出。
全てを包み込んで、ただそこにある。
俺はパソコンのスイッチを切った。何故だか涙が出てきた。病院に遺体を確認に行った時も、葬式の最中でも、不思議と涙は出てこなかった。だが今、妻の見えない手でそっと頬を撫でられたような気がして……俺は涙を止められなかった。
想い出を捨てる事は、俺にはできない。そう、俺は整理するのが苦手だから。
「プロバイダとの契約は切らない事にするよ」
誰に向かってでもなく、俺はつぶやいた。
――そろそろ結婚しようか
――そんな、片付け仕事みたいに言わないで
わざと素っ気無くプロポーズした俺を、微笑みながら睨みつけた妻の顔が……暗転した画面に浮かんで、そして消えていった。